Sunday, January 31, 2010

Ovechkin

勉強の息抜きがてら、Capitols(DCのアイスホッケーチーム)の今日の試合のダイジェストを観戦。

Capitolsのエース、Alex Ovechkin(露)の動きがキレキレ。試合を決めたシュート(上のビデオの6:20)もスゴイが、4:20辺りに出てくる、パスをもらってからのドリブル、シュートも相当スゴイ。他の選手に比べて、動きの速さが一段違うし、パックのスティックへの吸いつき度合いがヤバいと思う。Minor Leagueの試合を観た直後だからかもしれないけれど。

もうすぐ始まるオリンピック。非国民と言われようが何と言われようが、フィギュアにはほとんど興味なしなので(爆)、Oveちゃん率いるアイスホッケー・ロシア代表でも応援しようかと。
Maxwell School, Syracuse, Jan 31, 18:31

Impacts of Large Amounts of Wind Power

Independent Study論文の最初のpartのdraft提出期限――というほど、厳密なものではないのだが、いちおう、「この日くらいに持ってきます」と担当教官に伝えておいた期日――が週明け月曜に迫っているので、そろそろ書き始めないとマズいのだが、なかなか書く内容を絞り込めずに苦しんでいる。

論文全体のテーマは、「再生可能エネルギー発電源を大規模に導入する際に必要となる送電網(transmission)関連の設備投資」について。最初のdraftは、「再生可能エネルギー発電源を大規模に導入することによって生じる送電システムへの影響」についてのみ書くことにしているのだが、数ある「影響」のうち、どの部分に焦点を当てるかで、その後の論文の方向性が少なからず定まってくるので、これがなかなか悩ましい。

今日、読んだ日本語の論文(*1)の中に、こんな一節があった。(下線はblog筆者)
風力発電の導入について各国で共通していることは,風力発電を始めとする再生可能エネルギーの既存の電力系統への大量導入は,技術的には可能であるが経済的な追加負担が必ず発生し,それを誰がどう負担するかというスキームの構築が重要だということであろう。
僕が今回の論文の中で明らかにしたいのは、まさにこの点なのだが、これをするためには、当然ながら、まずは経済学的検討の土台となる工学的知識を把握しなければならない。問題は、工学の領域にどこまで深く踏み込むか、ということである。

ここでいう「深さ」には、二つの意味合いがある。一つは、論文の中でどこまで言及するかという意味での「深さ」。もう一つは、論文の中では触れないながらも、背景知識としてどこまで知っておくべきかという意味での「深さ」である。当然ながら、後者の方が前者よりも「深い」。

今は、(最終的にどこまで言及するかはともかくとして)とりあえず、関連する論文を読み漁りながら、背景知識を深めていっている段階なのだが、やろうと思えば、どこまででも深めていけるテーマなだけに、どこでストップをかけるかが難しい。限られた時間を(この論文の主眼ではない)工学的知識の吸収に必要以上に割いてしまっては効率的じゃないし、かと言って、十分な背景知識なしに経済学的考察を行おうとしても、意味のある考察結果は得られないし…。

「経済的に実現可能な風力発電の普及」を促進するために行われたIEAの研究プロジェクト“Task 25”のfinal report summary paper(*2)によると、風力発電の大規模導入が送電システム全体に与える影響(the system wide impacts)は、①Balancing、②Adequacy of power、③Gridの3つの分野に大別できると言う。

①は、本質的にintermittent(断続的)な――人の手で、出力を完全にはcontrolできない――電力源である風力発電機からの電力供給と、市場からの電力需要とを、どのようにバランスさせるかという問題。ちなみに、電力という財は、常時、需要量と供給量を一致させておく必要があるので、通常の財では見られないほどの厳密さで、たえず供給量管理(=システム全体での出力調整)を行わなければならない。

②は、導入される風量発電容量のうちの何%が、「安定した(firmな)」capacityとしてカウントできるか――言い換えれば、どれだけの旧来型発電機を風力発電で置き換えられるか――という問題。このパーセンテージが低いと、見かけ上は大規模に風力発電が導入されているように見えても、実際には、旧来型発電機を代替することが出来ていない、ということになる。

③は、主に、congestion(混雑)の問題。電力の大消費地と発電地域の間に、十分な容量の送電線が敷設されていないと、せっかく発電をしても、その電力をスムーズに大消費地に運べないといった問題が生じる。これは、風力発電に限ったことではなく、旧来型の発電機でも起こりうる問題なのだが、風力発電の適地は、大消費地から離れた送電網の過疎地域であるケースが多いので、congestionが問題になりやすい。

これら三つの分野は、当然ながら、互いに関連し合っているのだが、その技術的な対応方法は、必ずしも同じではない。そのため、3つまとめて一つの仕組みでaddressする、という持って行き方は、ちょっと難しそうな(或いは無理が出そうな)予感。となると、この論文の中で、これら3つの問題をどのように扱うかが思案のしどころとなってくる。あくまで、何らかの形で3つすべてを包含する「仕組み」を模索するのか、それぞれ、別々の問題として考えるのか。後者の場合、3つの問題すべてを検討の対象とするのか、どれか一つ又は二つにfocusするのか。Focusする場合、その選定基準や如何――この辺りの問に、ある程度の答えを出さないことには、最初のpartのdraftも書き始められないなぁと悩んでいる次第であります。
*1 伊藤学 “海外における風力発電の動向について ―主に電力系統への影響評価事例を中心に―,” 季報 エネルギー総合工学, Vol.30 No.2, July 2007
*2 Holttinen et al. Impacts of Large Amounts of Wind Power on Design and Operation of Power Systems, Results of IEA Collaboration, October 2009
my room, Syracuse, Jan 30, 27:15

Saturday, January 30, 2010

web 2.0 literacy

留学も残り5か月を切りつつある。というわけで、「この二年間の留学の総括」的な記事も、折をみて、挿しこんでいこうかと思う。「英語」とか「経済学」みたいな大きなテーマについては、改めて時間をとってちゃんと書こうと思うので、さしあたり、もう少し細かなポイントから。

留学してみて良かったと思えることの一つは、こうして、blogを書く機会を得られたことである。もちろん、東京でblogを書くことも物理的には可能だったわけだが、時間的制約とか、東京での自分自身の立場なんかを考えると、東京であのまま普通に生活していて、いつかのタイミングで思い立ったようにblogを書き始めていたとは考えにくい。

「思考の整理/深化のサポート」という意味でのblogの効用については、昨年11月のこちらの記事に書いた。今日のエントリーで強調したいのは、blogの効用のもう一つの側面――state-of-the-artな情報コミュニケーション・ツールに(ある程度)慣れ親しめた、ということである。

もともと、この分野に強い方ではない。blog自体、アメリカに来る前は、書くのはおろか、人の書いたものを読むことすらほとんどしたことがなかった。今でもそんなに強い方ではないし、好きかどうかもわからない。twitterも始めてはみたのはいいが、結局、使ったり使わなかったり使わなかったり使わなかったりで、しばらーーくほったらかしたままになっている。

とはいえ、―― いろんなマイナス面もあるにせよ ―― twitterなるものが大きな力を秘めていて、世の中の形をいくらかなりとも変える可能性があるということは、なんとなく想像がつくし、好き嫌いの問題でなしに、ある程度、関心を払っておかないといけないんだろうなぁとも思う。blogをつけ始める前の僕だったら、ここまで思えたかどうかさえ怪しい。twitterに限らず、kindleやiPadも含め、ソフト/ハードの情報ツール全般に関して言えることである。

ややメタ的に言えば、情報コミュニケーション関係の物事は、誰かの書いた評論を読むだけでなく、実際に自分の手を動かして使ってみないと良いも悪いもわからない、ということではないかと思う。

blogにしても、自分で書き始めてみるまでは、「なんでわざわざ、世間様に日記を公開する必要があるのか」と思っていた。しかし、いざ使い始めてみると、blogには、blogにしかない長所(もちろん短所も)があるということが見えてくる。公開性、即時性、日記としての機能、メモとしての機能、意見交換のフィールド、ネットワーキングのための道具、etc., etc. そのどれ一つを取ってみても、「blog」にしかないoriginalな機能・性質ではないが、その絶妙のブレンドが、blogをblogたらしめている。(まだまともに使ったことはないが)twitterがあれだけブレイクしている理由も、きっとそういうところにあるのだろう。

基本的な機能自体は、ほぼ出尽くした感があるので、ハードにせよ、ソフトにせよ、これからのメディアの勝ち負けは、そうした「ブレンドの妙」と、その産物としての「パッケージとしての使い勝手の良さ」で決まってくるのだろう。で、その「ブレンド」の善し悪しは――外から見て一発で優劣を見分けられるような性質のものではない以上――、結局のところ、自分で使ってみないとわからない、ということになるんじゃないかと思う。

まだまだ、「IT通」と自称するには程遠いし(というか、この言葉自体、死語??)、今後も、そういうふうになることはないだろうと思うが、曲がりなりにも、上に書いたような意識をこのタイミングで持てたことは、ラッキーだったと思うし、僕にとっては、留学の大きな効用の一つだったように思う。
my room, Syracuse, Jan 30, 14:26

Ice Level

学期が始まって、ほぼ一か月。そろそろ息抜きもしたくなってきたので、アイスホッケーを観に行ってきました。昨シーズンに続いて、二回目のSyracuse Crunch観戦。今回は、ちょっと奮発して(といっても、$20ですが)、“Ice Level”、いわば「砂被り」の席に座ってきました。
こちら(↑)、「砂被り」席からの眺め。目の前の壁に選手がゴンゴンぶつかっていく迫力もさることながら、ゴール前の攻防をつぶさに見られるのが、最高。ただし、――座ってから気付いたのですが――向こう側のゴール付近は、ガラス板とかぶってほとんど見えません。まぁ、何事にも、良い面と悪い面があります(笑)


観客席をうろちょろするマスコットも、「砂被り」からだと、仰ぎ見るかたちに。可愛いさのかけらもないのは、下から見ても、同じです。

肝心の試合の方はというと、先制されて、追いついて、逆転して、追いつかれ、延長戦に進むも決着つかず、最終的に、shoot out(サッカーで言うところのPK戦)でCrunchの勝利!という、まぁ、何というか、至れり尽くせりの展開。5-3のpower playなるものも初めて生で見られました。攻め手の数が多すぎて、逆に攻めにくそうでしたけど。

というわけで、マイナーリーグとはいえ、アイスホッケーはやっぱり面白いなと。NHLの試合に比べれば、どうしてもパスミスが多く、目で追い切れないような華麗な高速パス回しは、あまり観られませんでしたが、「砂被り」で観戦できたのは、そんな不満を補って余りある喜び。シーズンが終わるまでに、もうあと一、二回は観に行きたいなぁなんて。。

ちなみに、昨日のエントリーで皆さまのご期待を乞わせていただきました「一晩でどれだけ積もるか」企画の方は、残念ながら、なんとも中途半端な結果に。次回、大雪が降りそうな日に理トライしますので、その折は、再度、お付き合いくださいまし。
my room, Syracuse, Jan 29, 25:18

Thursday, January 28, 2010

The State of the City

10日ほど続いたJanuary thawが終了し、Syracuseらしい真冬の天候が戻ってきた。ただ今の気温、華氏10度(摂氏マイナス12度)。気温の低さもさることながら、いわゆる“lake-effect”が炸裂していて、今日一日で、白銀の世界に逆戻り。こんど、青空を拝めるのはいつのことやら…。

そんな悪天候の中ではあったが、今日の夕方は、Syracuse市の“State of the City”演説(State of the Unionの市政版)を、liveで聴きに行ってきた。
 (from The Post-Standard

Miner市長と言えば、就任式の際にも酷寒の天候に見舞われた強運(??)の持ち主。政治家としては、こんな偶然をネタにしない手はないわけで、「私のイベントのときには、いつも天候が荒れる」と言って聴衆の笑いを誘いつつ、「でもその度に、皆さんの暖かいハートを感じられます」と上手に持ち上げおられた。

liveではもちろん、テレビでもほとんど見たことがなかったので(正直、日本にいてても市長なんてそんなに見ないでしょ?)、今日、初めてまともに、そのお姿を拝見してきたわけだが、市議会議員を8年間お勤めされていたというだけあって、既に勝手知ったる様子で、変なういういしさを漂わせることもなく、カツカツと話されていたのは非常に好印象。

演説の中身の方だが、テーマ的には「まぁそうなりますよね」といったラインナップで、economic development、教育、住宅と来て、最後に苦しい台所事情について説明。中でも一番長く時間が割かれていたのは教育のくだりで、「誰でも、最低、大学(community college)を出られるように金銭的支援をします」という趣旨の“Say Yes to Education program”の拡充案について、かなり丁寧な説明をなさっていた。予備知識がないだけに、詳しいところまではfollowしきれず。。

昨日、State of the UnionをTV中継で見たところだったので、「演説中は、立ったり座ったりしないといけないのかな」とか、「applauseすべきかどうか迷うような話題が来たらどうしよう」とか、しょうもない心配をしていたのだが、立ち上がっての拍手は、市長の入場と退場のときだけ。ほっとしたような、ちょっとだけ、期待はずれなような。。(笑)

帰り道は、視界20mの世界で、冷や冷やの低速運転。で、停車した直後の愛車がこちら。ひと晩で、どれだけ雪が積もることやら、こうご期待。
my room, Syracuse, Jan 28, 22:06

Wednesday, January 27, 2010

"We don’t quit, I don’t quit"


Obamaにとって初となるState of the Union address(日本語で言うところ「一般教書演説」)が終了。詳しい解説記事は今晩以降の新聞・blogにおいおい掲載されると思うので、僕なりの感想を手短に。

個人的な印象としては、悪くなかったのではないかと思う。既にこれだけの苦境に追い込まれている中でのState of the Unionなので、これ一本で起死回生♪なんてことはあり得ないと思うが、演説そのものは悪くなかったのではないかと。大統領選挙中の爽やかさを前面に押し出した演説に比べれば、自虐的なネタでRepublicanサイドからの乾いた笑いを誘うなど、良い意味での円熟味、老獪さが出てきたように思った。まぁ、この状況下でただただ爽やか~に演説してたら、それこそ、「アホか」と言われて終わりだけど(笑)

事前の観測記事で囁かれていた通り、特に力点が置かれていたのは、雇用、教育、health care、財政健全化(向こう三年間の予算凍結)、security & defenseといった辺り。雇用については、“Job is the number one focus of 2010”とも。具体的な雇用創出策としては、中小企業支援施策と、クリーンエナジー促進政策が挙げられていた。その他、tax cut、financial reform、export促進、政治資金の透明化など。

クリーンエナジーのくだりでは、nuclear、offshore drilling、bio-fuel、 clean-coalの推進を立て続けに訴え、Republicanサイドを盛り上げた後に、「だからこそ、energy/climate法案が必要なんだ」と繋げて微妙な空気を醸し出す展開も。そこまではまぁ良かったのだが、その後更に、「気候変動の科学的信ぴょう性については、怪しく思っている人もいるのは知っているけれど、もし仮にそうだったとしても、クリーンエナジーを推進していくことは、アメリカにとっていいことだよね」的な展開に持っていったのは、ちょっと…だったんじゃないかと思う。(まぁ、どっちみち、気候変動法案の上院審議の大勢に影響しないと思うけど)

心配されていたpopulismへの傾倒は、そこまでひどくなかったように思う。bailoutについて“I hate it. You hate it.”と言ってみせるなど、Wall St.をやり玉に挙げる展開は演説の途中に何度か見られたが、まぁ、いちおう、想定された範囲内ではなかったかと。

演説の全般を通して、しばしば使われていたように思うのが、“decency”という言葉。日本語にすれば、品位、品格といったところか。演説の最後では、次世代への“American value”の継承を主張。いま、我々がこうして暮らしていられるのは、2世紀以上に亘って、この国の先人達がAmerican valueを守り伝えてきてくれたからこそ。我々も、次世代のために、decencyを持って、この価値を守り伝えていかなければならない――そんな感じのトーンだったように思う。

最後の言葉(もちろん、最後の最後は、「God bless America、なんちゃらかんちゃら…」なので、その一つ前)は“We don’t quit, I don’t quit.” 「僕ちん、結構追い込まれてます」ということを、一旦、素直に認めた上で、なんとか次に向かっていこうとする、この演説のトーンが凝縮された一言ではなかったかと。

はたして、メディア・世論の反応や如何に。
my room, Syracuse, Jan 27, 23:27

追記(Jan 27, 23:34): Gristが、さっそく、climate & energy関連部分のscriptをアップしている。以下、転載。
Next, we need to encourage American innovation.  Last year, we made the largest investment in basic research funding in history – an investment that could lead to the world’s cheapest solar cells or treatment that kills cancer cells but leaves healthy ones untouched.  And no area is more ripe for such innovation than energy.  You can see the results of last year’s investment in clean energy – in the North Carolina company that will create 1200 jobs nationwide helping to make advanced batteries; or in the California business that will put 1,000 people to work making solar panels.
But to create more of these clean energy jobs, we need more production, more efficiency, more incentives.  That means building a new generation of safe, clean nuclear power plants in this country.  It means making tough decisions about opening new offshore areas for oil and gas development. It means continued investment in advanced biofuels and clean coal technologies.  And yes, it means passing a comprehensive energy and climate bill with incentives that will finally make clean energy the profitable kind of energy in America.
I am grateful to the House for passing such a bill last year.  This year, I am eager to help advance the bipartisan effort in the Senate.  I know there have been questions about whether we can afford such changes in a tough economy; and I know that there are those who disagree with the overwhelming scientific evidence on climate change.  But even if you doubt the evidence, providing incentives for energy efficiency and clean energy are the right thing to do for our future – because the nation that leads the clean energy economy will be the nation that leads the global economy.  And America must be that nation.

Foreign Policy Analysis

Margaret Hermann先生の“Comparative Foreign Policy”二回目。今日の授業は、今後一学期間、このコースで学んでいくことになる“Foreign Policy Analysis (FPA)”とはそもそも何ぞや、ということについて。

曰く、FPAとは、International Relations(IR)なる学問分野(一年前、このblogでも、だいぶブーたれてました。。)の一領域との由。一般的なIRが、文字通り、国(state)と国との関係(relationship)に焦点を当て、「state」という単位で以て構成されるシステム(international system)の分析を目的としているのに対して、FPAは、各stateの内部にまで降りて行き、各stateの意思決定がどのようになされたかを考察していくアプローチ。“unitarity”(各stateは単一の意思決定主体であると仮定)と“rationality”(各stateは自国のinterestを実現するために常に合理的に行動すると仮定)という、IRの(controversialな)二つの大前提も、FPAでは解除される。

その他、FPA内部の対立する考え方・アプローチとして、Holism vs Individualism、Objectivism vs Interpretivism、Parsimony vs Complexityの紹介と説明。これらについては、来週までに要復習。抽象的な概念の説明を、音だけで聞いて理解できるまでには、英語力が追いついていない。。

先週のエントリーで触れた、「一学期間かけて分析していく」外交eventは、「ロシアの京都議定書批准(2004年)に先立つロシア-EU間の交渉」か、「2001年のアメリカ京都議定書離脱宣言とその前後のEUの反応」のどちらかにしようかと。ネタ的には、前者の方が面白そうなのだが(いちおう、成功した事例だし)、どこまで情報を集められるかと考えると、後者の方が適当かなぁと思ってみたり。レポートのテーマとして、ベタといえばベタなのだが、あの時、Bush政権内で、実際、どういう判断がなされていたのかをつぶさに見てみるのは、面白いかも知れない。

思い返してみれば、技術経済政策のクラスで風力発電の普及策(の失敗)について書き、Aflican DevelopmentのクラスでガーナにおけるCDMの実態について書き、金融のクラスでcap-and-tradeについて書いて、貿易のクラスで“border carbon adjustment(温暖化未規制国からの輸入品への関税措置)”について書く、といった具合に、留学中盤以降は、環境orientedではないクラスをとって、(勝手に)term paperで環境ネタを扱う、という戦略が定番化してきた。この戦略、個人的には、なかなか良かったんじゃないかという気がしている。弊社後輩の皆さま、ご参考まで。
Maxwell School, Syracuse, Jan 27, 17:27

Energy lessons from the Carter years

Carter政権で、財務省国内エネルギー政策局(Office of Domestic Energy Policy at the US Treasury)のdirectorを務めたPhilip K. Verlegerという人が、「Carter政権の教訓に学ぶと…」という内容の記事(“Energy lessons for Obama’s administration from the Carter years”)を、FTのblogにアップしている。

「教訓」を伝える記事なので、本来であれば、Carterの治世に何が起こったのかをまず押さえないと意味がないのだが、それを訳している時間はないので、その部分は、直接、Verleger氏の記事を読んでいただくとして、結論部分だけ抜粋させていただくと、
After my experience as a member of the Carter administration, I have to conclude that Obama’s emissions bill will not pass the current Congress or before 2012 unless circumstances change. It is not climate change sceptics that will block it. Rather, history teaches us it is the “special interests” that have such power.
(拙訳) Carter政権の一員であった私の経験に照らして考えると、Obama政権の排出権取引法案は、今次の国会中(※ 今秋の中間選挙前まで)はもちろん 、2012年(※ 次の大統領選)までにも、―状況の変化でも生じない限り― 成立し得ないだろうと結論付けざるを得ない。気候変動に対する懐疑論が、法案の成立を妨害しているわけではない。歴史の教えるところによれば、「特殊利益」こそが妨害しているのだ。
との由。この教訓から学ぶよう、何か月にも亘って、法案関係者の説得に当たってきたが、その努力も実らなかった(“For months, I have tried to get those involved in the energy debate-both observers and those writing on the subject - to pay attention to the lessons of history. I failed.”) と嘆いておられる。

同記事によると、Carterチーム卒業生のコンセンサスは、以下の三点とのこと(with 拙訳)。
  1. None of the people putting the Obama energy policy forward understood the problems they would face in Congress. (Obama政権におけるエネルギー政策推進役の人たちは、誰も、自分たちが議会で直面するであろう問題を理解していない。)

  2. The bill’s supporters (“greens”) are less aware of history than we were in the 1970s, if that is possible. (排出量取引の支持者(いわゆる「環境派」)は、1970年代の我々以上に、歴史にから学ぶ意識が希薄である。)

  3. The legislation’s passage is unlikely absent an outside precipitating event. (外的要因による突発的な出来事でも起こらない限り、排出量取引法案は成立しそうにない。)
歴史に学ばないなんてのは、政策を生業とする人間にとって、ほとんど論外のことだと思うが、Obama政権の環境/エネルギーチームは、本当にここまでヒドいのだろうか…。Verlegerさんが彼らに対して、相当のルサンチマンを貯めておられることだけは確かなようである。。
Maxwell School, Syracuse, Jan 27, 16:36

Transmission Congestion Contracts

1999年以降、NY州内のtransmission(送電網)のoperationは、New York Independent System Operator (NYISO)が一元的に管轄しているという話は、一昨日のエントリーで書いた。今日は、そのtransmissionの利用に関するお話。

transmissionを利用するplayer(発電事業者(generators)、transmission owners自身、電力小売事業者(distributors))は、transmissionの使用のたびに、NYISOに使用料を支払うこととされている。そうして集められたお金が、各transmission ownersに分配されて彼らの稼ぎとなる、というのが、基本的な構造。「使用料」は、①Transmission Access Charges、②Congestion Charges、③Loss Compensationの3パートで構成されている。[Rothwell & Gomez (2003) p.146]

①のTransmission Access Chargesは、transmission ownersの資本投資を回収するための料金で、transmission使用料の基本部分を構成するもの、また、③は送電中のロスを補填するためのものである。ここで、問題になってくるのが、②のCongestion Charges(“混雑料金”)。これは、送電元と送電先の二地点間にtransmissionのボトルネックがある場合に発生するものだが、電力の需要・供給の流れは、時々刻々変化するため、非常にvolatileであり、transmission利用者にとって、大きなfinancial riskとなりうる。[Adamson & Englander (2005) p.2]

そこで考案されたのが、Transmission Congestion Contracts (TCCs) (NYでの名称はTCCsだが、より一般的には、Financial Transmission Rights (FTRs) と呼ばれている模様)。これは言わば、transmission資産の「証券化」商品で、これを持っていれば、その区間のtransmission使用料の一部が入ってくるという仕組み。transmission利用者が、実際に利用するのと同じ区間のTCCsを購入すれば、Congestion Chargesの変動に伴うfinancial riskをhedgeできる。また、TCCsを市場取引に晒すことで、追加的な設備投資が必要なボトルネック箇所の特定にもつながると期待された。

2000年の運用開始以降、この制度の有効性について、少なくとも二度の検証[Batholomew et al. (2003) 及び Adamson & Englander (2005)] が行われている。しかし、残念ながら、いずれの結果も、significantlyに「有効ではない」というもの。つまり、TCCs購入者は、――risk aversionのためのプレミアムを考慮に入れたとしても――リスクをhedgeするのに十分なだけのrentを回収できておらず、構造的に損を掴まされている状態にある、ということ。また、そうした「歪み」が発生しているため、「ボトルネックの特定」も正確には行えていないということになる。

てな具合いに、電力のお勉強は非常に面白いのだが、自分自身の統計学知識の薄らぎを痛感しつつある今日この頃。去年のStatsの講義ノートでも読み直してみようかしらん…。
my room, Syracuse, Jan 26, 25:13

Tuesday, January 26, 2010

"Should Bernanke Stay at the Fed?"

こんなことを書いたら、自分自身の、マクロ経済理解不足と、日頃の世事への無関心を露呈するに等しいのだが、最近のニュースを見ていて、「バーナンキ再選に反対している人たちの反対理由がようわからんなぁ」と感じる。WSJが、本件に関するエコノミストの反応のまとめ記事をアップし(こちら)、その翻訳をhimaginaryさんがアップされているので(こちら)、上から下まで読ませていただいたのだが、それでもやっぱりようわからん。というわけで、ぐだぐだなエントリーになるであろうことを予めお断りしつつ、僕の拙い理解で書けるだけのことを書いておこうかと。

WSJのまとめ記事(のhimaginaryさん訳)を概観するに、反対理由は、以下の二つに集約されるのかなと思う。
  1. Wall Streetに対して甘すぎる。(Main Street擁護派からの批判)
  2. インフレに対する警戒が甘すぎる。(いわゆる“インフレタカ派”からの批判) 
なお、2.については、クルーグマンのように、バーナンキはむしろ「失業に十分な注意を払わず、インフレに注意を払いすぎ」ていると考えている人もいる模様(クルーグマン自身は、それでも、他のFRB政策決定理事に較べればマシとして、バーナンキを消極的に支持している)。

本件に関しては、党派性はそこまで強く現れていないようだが(ということは、逆に言えば、与党議員からもそれなりの反対票が投じられそうということだが)、上の二つの「反対理由」を見るに、1.は主にリベラルサイドから、2.は主に保守派サイドから主張されそうなものであり、その二つが同時に示されているということは、ある意味、バーナンキの施政は、そこそこバランスが取れているということなんじゃないかと思ってみたり…。(激しく荒い議論でスイマセン)

結局のところ、反対票を投じようとしている各議員には、そもそも合理的な反対理由なんてものはなくて、冴えない経済状況の責任をおっかぶせ(て、自分のところの有権者のイライラを多少なりとも宥め)るためのスケープゴートを必要としているだけなんじゃないかという気もする。そういう意味では、Washington Postのこのコメントが、一番、核心を衝いているんじゃないか、とも(下線は当blog筆者)。
The issue now is much bigger than whether Mr. Bernanke gets another term. By threatening his tenure for no apparent reason other than political panic and pandering, his new opponents have turned this confirmation process into a test of central bank independence, which is an indispensable element of modern economic management. If a stampede of spooked senators were to trample Mr. Bernanke’s confirmation, the message to markets would be that the value of the U.S. dollar is hostage to short-term politics. That would deliver a huge, possibly lasting, blow to the economy.
皆さんのご意見、お聞かせいただければ幸いです。
Maxwell School, Syracuse, Jan 26, 18:38

Monday, January 25, 2010

Top All-Time Donors

政治資金関連の情報公開に特化したNPOであるCenter for Responsive Politics(CRP)が、1989年以降20年間の政治献金総額ランキングトップ100を発表している。(ここここ経由)

その表を見ると、労働組合からの献金(当然ながら、そのほとんどはDemocratsへ)の多さに改めて気付かされる。上位20団体に占める労組系団体の数は12。100位まで見ていっても(きちんと数えたわけではないが)結構な割合で、労組が含まれていそうな感じである。

各団体からの寄付が、どのくらいの比率でそれぞれの政党に納めらているかを見ていくのも面白い。こちらのblogにも書かれている通り、戦略的に言えば、両方にbetしておくのが賢いやり方。そうすれば、どちらが勝っても一定の発言権を確保できるし、どちらかに「ゾッコン」の団体よりも、――寄付金額or割合を交渉条件に使うことで――かえって、要求を呑ませやすい、といったこともあるだろう。

さすがに労働組合の場合はそういうわけにもいかないらしく、Democratsに(ほぼ)一点張りのところが多いが、それ以外を見ていくと、「中立」(“On the fence”)か、「やや傾ぎ」(“Leans Dem/Repub”(60-69%))くらいの団体が多い。

ということは、Republicanに偏って寄付している団体は、あんまり多くないということだが、その数少ない、「Republicanに70%以上」の17団体(「Democratsに70%以上」は32団体)を見ていくと、たばこ会社(AltriaReynolsUST)、ライフル協会、石油会社(ChevronExxon MobilBP)などが並び、なるほどなぁといった感じ。何気に、薬品会社がいくつか名を連ねていたりもする(GlaxoSmithKlineEli Lilly & CoBristol-Myers Squibb)。ちなみに、米国医師連(American Medical Assn)は、もともとRepublican支持だったが、08年以降、Democratsに乗換え中との由。

上位100団体中、「Democratsに90%以上」の団体は21あるが(3つのadvocacy団体と、弁護士連名を除き、後はすべて労働組合)、「Republicanに90%以上」は一団体だけ。「へー、ここがそうなんだ…」みたいな。。(笑)

詳しく見始めたら幾らでも時間使ってしまいそうなので、そろそろこの辺で。
my room Syracuse, Jan 25, 21:49

Sunday, January 24, 2010

NYISO

この週末は、論文執筆の関係で、アメリカの電力産業制度について勉強をしている。まだまだ勉強途中なので、怪しいところも多々あるのだが、途中経過のメモを少々。

日本で「アメリカの電力産業」といえば、2000年及び2001年の加州電力危機、2003年のNY大停電といった、超ネガティブな記憶とともに、良くも悪くも「自由化が進んでいる」と言われることが多い。しかし、ここで言う「自由化」が具体的に何を指すのかと訊かれて、曲がりなりにも答えられる人は、意外に少ないのではないだろうか。

斯く言う僕自身、ようやくまともに勉強し始めたところで、まだまだ万全の自信を持って断言できるわけではないのだが、察するに、“unbundling”、即ち、「電力会社の垂直分離」こそが、その核心にあったのではないかと思う。発電事業者の参入自由化や、それに伴う電力卸売市場の立上げ、はたまた小売契約の自由化といった競争的改革も同時に行われたのは事実だが、電力産業全体に与えたインパクトの大きさで言えば、unbundlingが一番大きかったように思うし、また、他の競争的政策の基盤を確立する意味もあったのではないかと思う。

とは言え、連邦政府が「やる」と決めても、全国一律に話が進まないのは連邦国家アメリカの面白い(或いは、面倒くさい)ところで、電力自由化に関して連邦政府の示した目標の達成度合いは、州によって大きく異なっている(“One of the fundamental premises of deregulation was the introduction of competition through the unbundling of generation assets from transmission and distribution. However, states varied widely in their approach towards meeting this goal.”*)らしい。というわけで、制度及びその成果が、具体的にどうなっているかを知りたければ、連邦レベルではなく、州レベルに降りて行って、いろいろ調べないといけない。皆さん御存知の通り、一応、僕も“New Yorker”の端くれなので(自分で言ってて寂しい。。)、ここはとりあえず、NY州について見てみることに。

NY州には元々、New York State Electric & Gas Co.、Niagara Mohawk Power Co.など、8つの垂直統合型電力会社(英語で言うところのutility companies)があったが、90年代に、法的強制力を伴ったunbundlingが進められた(州によっては、義務的ではない「推奨」に留めたところや、それさえ行わなかったところもあり、NYはかなり強力にunbundlingを進めた州のうちの一つ。)。その際、transmission(送電事業)については、全市場参加者への開放(third party access)を確保するため、各utility会社に所有権(ownership)を残したまま、運用権(operation)だけを切り離して、New York Independent System Operator (NYISO) の下に集め、同社(いちおう非営利企業という形態をとっている)が一元的に運用を行うことになった(1997年設立。運用開始は1999年)。ちなみにこのISO(参照)という機関は、連邦政府の電力規制委員会(Federal Energy Regulatory Commission (FERC))の後押しを受けて設立されてものであるが、先に書いた事情から、全国一律に設立されているわけではなく、下の地図からも見てとれるように、非導入地域もかなりたくさん残されている。

(出典:NYISO 2007 Annual Report

NYISOのサイトによると、同社のmissionは以下の4つ。
  1. RELIABILITY — 電力系統の信頼性確保。
  2. MARKETS — NY電力卸売市場の監督・管理。
  3. PLANNING — 州内電力リソース及び電力需要の長期査定、事業計画の評価、政策決定権者への情報提供。
  4. TECHNOLOGY — 最新技術のdeveloping(開発)及びdeploying(普及)
一般的には、1.の業務がSystem Operator(SO: the entity responsible for transmission system operation and reliability.)、2.の業務がMarket Operator(MO: An organization that arranges wholesale transactions that affect the flows of electricity in the transmission system.)と呼ばれ、ISO事業の中核とされている。

てな具合いに、今学期は、電力(それもtransmission)の世界にどっぷり浸かる予定です。

* Sanyal, P. 2007 The effect of deregulation on environmental research by electric utilities
Maxwell School, Syracuse, Jan 24, 18:21

Will you answer a call from your boy/girl-friend?

日本人の彼氏と遠距離恋愛中の韓国人のクラスメイトDが、韓国と日本の恋愛習慣の違いについて、面白い話をしていた。

友達(或いは職場の同僚)と会食をしているときにあなたの携帯電話が鳴る。それがあなたの彼氏or彼女からの電話だったとしたら、あなたはどう対応するか?

オトナの日本人の模範解答は、「その場では取らずに(取ったとしても手短かに済ませ)、後ほど、同席の人たちから離れた所でかけ直す」といった感じだろう。実際、僕ならそうするし、Dの彼氏もそうするらしい。

ところが、D曰く、韓国ではその場で電話に出るのが当たり前であり、余所でかけ直していたりすると、むしろ、「あの人は、我々に何か隠し事をしているのではないか」と、要らぬ嫌疑をかけられかねないらしい。

アメリカやヨーロッパとの対比ならいざ知らず、非常に近しい文化的背景を持つ韓国との間でも、こういった“真逆”の習慣が見られるのは興味深い。更に言えば、“修身斉家治国平天下”の儒教的発想に立って考えれば、「公」のことよりも、まずは自分の「家」を優先する韓国スタイルの方が、むしろ、素直なんじゃないかという気もしてくる。言うまでもなく、欧米のスタイルは「家」優先なわけで、日本のそれは、欧化の結果ということでもないだろう。と考えると、日本のこの習慣がどこから来ているのか、不思議と言えば不思議である。

たまたま今読んでいる仲正昌樹先生の本によると、やまと言葉の「おおやけ」の起こりは「おお+やけ」=「大きなやけ」であり(「やけ」とは、農業生産の単位としての村落共同体のこと)、“いくつかの小さい「やけ」が集まって、大きな集落が構成されているような場合、後者が前者に対して「おおやけ」と呼ばれる”らしい。また、“「おおやけ」全体に関わることは、個々の「やけ」の事情に優先される”とも。

なぜ、古代日本で、「おおやけ」が「やけ」よりも優先されるようになったのかまでは示されていないのだが、少なくとも、日本においては、「家」或いは「家族」が特別の地位を与えられているわけではなく、多層的な「やけ/おおやけ」関係の一部(最下層)を構成するものに過ぎない、ということだけは、この記述から読み取れそうである。

だから何なんだと言われれば何とも答えようは無いのだが、日韓の文化の違いに、少しく好奇心をくすぐられた次第。ある二国の文化の違いを知りたければ、その両国出身の国際恋愛/結婚カップルに聴いてみるのが一番手っ取り早いのかも知れない(笑)
my room, Syracuse, Jan 24, 6:31

Saturday, January 23, 2010

Freedom in a "live house"

いま住んでいるWestcott St.沿いの家から5分ほど歩いて行った所に、Westcottの商店街がある。他に適当な日本語が見当たらないので、便宜的に「商店街」という言葉を当ててみたが、正直、普通の日本人が「商店街」という言葉から普通に想像するものよりは、はるかにショボい。片道一車線ずつのごくありふれた道路の両側に、裏寂れたピザ屋とか、児童労働の嫌疑のかかる中華料理屋とか(何気に結構おいしい)、ハロウィンのときだけ繁盛する洋品店とか、ろくなものを置いていないグロッサリーとかが、ポツポツ並んでいるだけ。家から近いのはありがたいが、取り立てて行きたい店もないので、普段は、ほとんど近寄ることもない。。

そんな「場末」を絵にかいたような商店街の中にも、一軒のライブハウスがあって、潰れることなく営業し続けているところは、良い意味でアメリカ的と言えるのかも知れない。今朝、ひょんなことから、その存在を知り、善は急げというわけで、さっそく今晩、御近所のくもすけさんと一緒にライブを聴きに行くことに。

今夜のライブは、Jimkataという人たち。もちろん、知っていたわけはないのだが、youtubeで予習してみたら、まぁまぁ悪くない感じ。素直なフォーピースバンドといったところか。8時半会場、9時開演だったので、くもすけさんとは、8時半に会場前で待ち合わせる。

いざ会場に入ってみると予想外のガラ空き。人影もまばらな中、9時過ぎから前座バンドの演奏が始まる。特段盛り上がるでもなく、まるで耳に入っていないかのように雑談を続ける人々。バンドの側も、特に客と絡む意思はないらしく、黙々と自分たちの世界にのめり込む。

そうこうしているうちに、謎の「フラフープ娘」登場。フラフープらしきものを携えて女の人が入ってきたので、何するんだろうと思って見ていたら、何のことはなく、普通に、腰やら首やらで回し始めた。店の回し者とかではなく(ある意味、「回し」者なんだけど…)、自らの趣味として、勝手に楽しまれているご様子。そんなフラフープ娘は、一人じゃなく、他にも二人が登場。うち一人は、七色に点滅する電飾入り特製フラフープを持参。二つ同時に回してみせるなど、腕前も相当のものであった。てか、なんでライブ会場でフラフープ??

フラフープ娘を除いては、皆、まったくやる気を見せないもんで、「おいおい、みんなもうちょっとノってやれよ」くらいの勢いで、僕とくもすけさんは、率先して身体を揺すっていたのだが、いつ終わるとも知れない前座の演奏に、おじさん二人の顔には、疲労の色が増してきた。終いには、誰あろう、このワタクシめが、立ちながら居眠りするという、おっさん丸出しの暴挙にまで出てしまう始末。。。結局、前座三組目のうにょうにょうにょ~という音楽を聴きながら、Jimkataさんにはお目にかかることなく名誉ある撤退を敢行することに…。とはいえ、振り返って見れば、開演からは既に3時間。その間立ちっぱなしなんだから、正直、十分だよなと思う。。

結論。アメリカのライブハウスは、聴く側も演奏する側も、とことん自由。来るもの拒まず去るものを追わず。好きな時に入って、好きな時に帰るべし。演奏中も、演奏者に気を使って、無理やり盛り上がる必要はなし。演奏者も自分の世界に籠りたいだけで、別に客の反応なんて気にしてない。フラフープやりたけりゃ、腰ででも首ででも、ところ構わず好きなだけ回すべし!!

ちなみに、今日一緒に昼飯を食べたネイティブの同級生によると、「ライブハウス」なる英語は存在しないんだそうで。「じゃ、なんて言うのさ?」と聞いたら、「普通に『ライブの音楽を聴きに行く』って言うかな」と可愛くないことを言っていました。
my room, Syracuse, Jan 22, 24:37

Friday, January 22, 2010

Stop! Big Government

21日付のThe Economistの記事“Big government: Stop!”には、ある種、鬼気迫るものがある。正直、英語のニュアンスを完全に理解できているわけではないのだが、察するに、鬼気迫っちゃってる感じではなかろうかと。同記事の中心部分を抜粋させていただく。
In these circumstances, hard rules make little sense. But prejudices are still useful—and this newspaper’s prejudice is to look for ways to make the state smaller. That is partly for philosophical reasons: we prefer to give power to individuals, rather than to governments. But pragmatism also comes into it: there is so much pressure on the state to grow (bureaucrats building empires, politicians buying votes, public-sector workers voting for governments that promise bigger budgets for the public sector) that merely limiting the state to its current size means finding cuts.
(拙訳) 現下の状況にあって、厳格な規範を持つことに意味があるとは思わない。しかし、指針――我々の指針は政府を小さくする方法を模索することであるが――を持つことは、今尚有効であると考える。このことは、ある意味においては、哲学的――権力を、政府にではなく、個人に与えることを好む、という我々の哲学――な理由に依る。しかし、それと同時に、現実主義に基づく考えでもある。官僚による巨大官僚機構の建設、政治家による買票的活動、公務員による財政拡大促進的な投票行動などなど、政府を拡大の方向に走らせるプレッシャーはいくらでもある。したがって、政府を現状のサイズに留めることだけでも、財政規模の削減の端緒を見出すことになるのだ。
日本に比べれば、各メディアの立ち位置がはっきりしていると言われる英米メディアの中にあっても、特にその傾向が強いとされるThe Economist誌ではあるが、ここまで明示的に自紙のスタンスを打ち出している記事には、初めてお目にかかった。

政府肥大化の原因として挙げている項目のチョイスには、聊か、安直さを感じないでもないが、ここまではっきりとスタンスを打ち出していく姿勢には感服。
my room Syracuse, Jan 22, 12:10

Wednesday, January 20, 2010

"Greenness" Variable

水曜日はHerman先生の“Comparative Foreign Policy”。今日は、イントロだけさっくり、といった感じだったが、第一印象としては悪くない。各自、実際に起こった二国間の外交issueを一つ、ピックアップし、一学期間かけて、それを分析していくとのこと。何か、掘り下げてみて面白そうな事件ってありますかね?条件は、①「W.W.I以降2007以前」に起こった事件であり、②自分の国が当事者ではないこと。

ぼちぼちだが、授業と並行して、independence studyの方も進行中。今日は、Popp先生から勧められた、Paroma Sanyalという人の“The effect of deregulation on environmental research by electric utilities”という2007年のペーパーを読んでみた。

端的に言うと、
  • utilityに対する規制緩和は、utility会社による“environmental R&D”を、大幅に減らした。
  • ついでに言うと、(発電所からのSO2及びNOx排出に対する規制を強化した)1990年のClean Air Act改正も、utility会社による“environmental R&D”を縮小させた。
という内容。なお、ここでの“environmental R&D”は、温暖化対策等、「より公共性の高い」R&Dのみを指しており、改正CAAに対応するためのプラント改良などは含まれていない。結論だけ読めば、「まぁそうだろうね」と言っておしまいの論文なのだが、論文執筆初心者の僕からすれば、全体の構成、データの処理方法、論の進め方なんかが非常に参考になる。

independent variableとしては、「規制緩和の進み度合い」や「改正CAAの影響を受けたプラントの数」の他にも、いろんなfactorが盛り込まれているが(dependent variableは「各utility会社の年間environmental R&D支出額」)、その中の一つに、当該電力会社が位置する州の“greenness”というものもある。そんな数値、どうやって出すのかと思ったら、League of Conservation Voters(LCV)という環境保護advocacy団体が公表している、各国会議員の投票行動の評点――pro-environmentかどうか――を用い、州ごとに上院議員の評点を足し合わせて、その州の“greenness”を示す指標をつくっているらしい。

Popp先生によると、各州の性格をこの手の指標で捉えるやり方は、環境以外の分野でも、アメリカでは一般的に用いられているとのこと。プロな皆さんの間では、常識に属する事柄なのかも知れない。

国会におけるすべての決議に党議拘束がかけられてしまう日本では、この手のアプローチは機能しないだろうななんて思ってみたり。。
my room, Syracuse, Jan 20, 23:55

"Massachusetts election kills cap-and-trade”

昨日のMassachusetts補選の結果を受け、Reutersのコラムニスト、John Kempが、上記題名の記事をアップしている。

この人の見立てがどこまで正確かはわからないが、曰く、今後、Obama政権がcap-and-trade法案についてとりうる選択肢は以下の3つのどれかだろう、との由。
  1. 中間選挙後に排出規制の議論を再開することを約束しつつ、とりあえず、cap-and-trade以外の部分(グリーンテクノロジーの促進政策等)だけを切り離して通過させる。(ただし、その場合、残されたcap-and-trade部分が次の国会で通過する可能性は一層低くなる、とも。)

  2. 原子力発電の推進を前面に押し出した上で、Clean Air Act (CAA)に依拠したregulation―“法案cap-and-trade”と同様のregulation―の策定を試みる。(Kemp氏はその実現性に極めて懐疑的。)

  3. 中間選挙が終わった時点で(※ “once the elections are out of the way”というのはそういう意味だと思うのだが)、今のcap-and-trade法案を廃案にし、よりシンプルで透明性の高い炭素税法案を提示する。
alternativeの3つ目は、面白いというか、やや新しい視点だなぁと思う。Kemp氏は、最近の世論調査などを引きつつ、アメリカ世論の好みが、「複雑で、理解し難く、政府が何かと操作できそう」なcap-and-tradeから、その真逆(シンプル、わかりやすい、透明性高い)の特徴を持つ炭素税の方に向かっているのではないかと考えているようだ。

もちろん、当たっているのかも知れないが、個人的には、なんとなくそういう問題でもないような気がする。いまは、cap-and-tradeが政権のタマとして具体的に提示されているので、それに対する批判が高まっているが、いざ政権が「税だ」と言い始めたら、今度は、税に対する批判が始まるだけじゃないだろうかと…。Mankiw先生、Nordhaus御大始め、economistの皆さんは、経済学的な見地から、真面目に税の方が良いとおっしゃっておられると思うけれど。
Maxwell School, Syracuse, Jan 20, 15:20

Voters turn anger on Democrats

health-care法案に対する一般的アメリカ人のperceptionというのは、アメリカに住んでいても、分かるようでいて、分からない。まぁもっとも、分かろうとしてないからだと言われてしまえばそれまでなのだが。

周りのアメリカ人から聞かされていたのは、「強硬に反対している人たちが目立っているが、あれは一部のエキセントリックな人たち。大半のアメリカ人は、どちらかと言えばhealth-care法案に賛成している」というもの。僕もなんとなく、そんなものかなぁと思っていたが、今日のMassachusetts補選の結果を見るに、事態はそうも言っていられないところまで来ているらしい。

昨年11月にVirginiaとNJの知事選で敗北した際、Democratsは、「敗因はローカルな要因にあり、国政の状況とは関係ない」と抗弁した。しかし、今回の敗北は言い訳の仕様がない。DemocratsがMassachusettsの上院議席を失うのは、1972年以来、初めてのことであり、この選挙前まで(厳密に言えばTed Kennedyの死去前まで)、12あるMassachusettsの国会議席(上院:2 + 下院:10)は、すべてDemocratsによって占められていた。そのMassachusettsで、Ted Kennedyが46年間守り続けてきた議席を失ったのである。もはや、「ローカルな要因」との言い訳は繰り返せないだろう。

今回の選挙には、単なる一議席以上の意味があった。GOP候補が当選すれば、上院でのGOPの議席が41/100となり、Democratsは、最低60票が必要な“filibuster封じ”を使えなくなる。Postの記事によると、実際、GOPのBrown候補は、選挙活動中、「health-care法案を必ず止める」(“his vow to block the president's proposal for health-care reform”)と訴えてきたらしい。その候補が、全米でもっともリベラルな州の一つで勝利を収めたのだから、失業問題等、その他の要因もあるとは言え、health-care法案に対するこの国の人たちの反感は、かなりのところまで来ていると見るのが自然ではないだろうか。

環境屋的視点で言えば、これでまた、Kerry-Boxer法案の本格審議が遠のいたということか。ごく普通に考えれば――というのは、ObamaとDemocratsが余程の奇策に打って出なければ、ということだが――、今秋の中間選挙以前にClimate Change法案が成立する可能性は、ゼロとは言わないまでも、かなり低くなっているのではないかと思う。
my room, Syracuse, Jan 19, 26:10

Tuesday, January 19, 2010

German solar industry faces subsidy cut

世界最大の太陽電池市場であるドイツが、太陽光発電への補助金(発電機器の購入に対する補助金と思われる)を最大で17%削減するとの由。19日付Gristより。

こういうニュース、いつも、断片的に聞いては「へー」と思って終わってしまうのだが、せめて太陽光と風力については、世界の発電機市場がどうなっているのか、一度、体系的に把握しておかないとなと思う。

今日から春学期開始。Colares先生の“International Trade & Law”はなかなか良い感じ。「法律の授業だが、法律だけの話をするわけではない。法律の外側にある実社会の話もバンバンする。むしろ、法律と、実社会の諸現象が衝突したときに何が起こるかを見ていくのが一番面白い」といった話をされていた。

非常にagree。僕はどちらかというと、「法律の外側にある実社会」の側の人間だと自認しているが(そういうことにしといてください)、法律というのは、確かに社会を映す鏡のようなもので――ちょっと歪んだ鏡ではあるけれど――、それを覗くことで、実社会についての理解が深まるといったことがあるように思う。

このあと7時から、Black先生の“Environmental Impact Analysis”(@SUNY-ESF)を受講予定。こちらをauditするかはまだ迷い中。
Maxwell School, Syracuse, Jan 19, 16:49

追記: 今日の授業に出てみた結果、“Environmental Impact Analysis”はauditしないことに決定。

Monday, January 18, 2010

January thaw

お昼を食べに階下に降りたら、大家氏が、サンルームでパソコン仕事をしていた。

「サンルーム」と言っても、ほとんど、地面に板を敷いて、周りをガラスで囲っただけの空間で、確かに風は遮れるものの、気温自体は外気とあんまり変わらない。引っ越してきたその日に、当の大家氏が「ここは春まで使えないんだよ。あはは」と言ってたdead space。なのにおじさん、なしてそんなところで仕事してるの??

おじさん曰く、「この束の間の暖かさを満喫しないとね」との由。

確かに、今日の気温は華氏34度(摂氏1度)で、先週に比べれば格段の暖かさ。とはいえ…。

続けておじさん曰く、この時期に一時的に気温が上がる現象は、ほぼ毎年観られるものらしく、ここらでは、“January thaw”(thawは、「解けること」「融解」)と呼ばれているらしい。wikipediaにも小さい記事が出ていて、“The January thaw is an observed but unexplained temperature rise in mid-winter found in mid-latitude North America.”、また、“During this "thaw" period, usually lasting for about a week, temperatures are generally about 10 °F (6 °C) above normal.”との由。

こういう何気ない日常英語を知れるのも、nativeと暮らす特権だなぁと思う今日この頃。まぁ、そのうちのいくつを覚えて帰れるかは別にして…。

うどんをつくってTV観ながら食べていたら、「やっぱ寒いわ」とかなんとか言いながら、パソコン持って大家氏がリビングに引っ越してきた。この人、いい年して、なかなかのお茶目さんである。
my room, Syracuse, January 18, 14:31

Understanding Pie Charts

eagereyesというweb siteのこちらのページがよくまとまっている。題して“Understanding Pie Charts”。いわばpie charts(円グラフ)のトリセツ。

いろいろ書かれているので、ここで要約するより、本文を読んでいただく方が早いのだが、「まとめ」に当たる部分だけ、引っ張っておくと、
  1. Do the parts make up a meaningful whole? 
  2. Are the parts mutually exclusive? 
  3. Do you want to compare the parts to each other or the parts to the whole? 
  4. How many parts do you have?
との由。各パーツを足しあわせても何かの全体(100%)にならないときや、各パーツが“mutually exclusive”じゃないとき、はたまた、「全体に占める各パーツの割合」よりも各パーツ間の大小を比較したいときや、パーツの数が多すぎるときは、pie charts使うより、他のグラフ使ったほうがいいですよとおっしゃっている。

早い話、pie chartsというのは、世間一般にはびこっている割には(アメリカでも普通に見かけます)、案外使い勝手が悪くて、限られた状況を除いては、visualizeの方法としてベストなものではないんでないの、というお話。読んでみて非常に納得。

全体と各パーツの関係を見せたいのであれば、“square pie”或いは“waffle chart”と呼ばれるグラフ(下図)の方がいいですよ、とも。ご親切なことに、簡単にwaffle chartをつくれるテンプレートへのリンクも付けてくれている。

my room, Syracuse, Jan 18, 11:01

Sunday, January 17, 2010

Reliable ace was underhand

小林繁氏急死の報に驚いた。

78年生まれの僕にとっての、最初の野球の記憶は、85年の阪神優勝であり、したがって、83年に現役を引退した小林繁氏の現役時代は、僕の記憶にはない――はずである。

しかし、両親ともに(ついでに言うと祖母も)阪神ファンという典型的な関西の家庭に育った僕にとって、いわゆる「空白の一日」は、折に触れて聞かされた、忘れまじき「悲劇」であり、その「悲劇の主人公」である小林繁は、伝聞を通してではあるが、はっきりと僕の「記憶」に残る選手であった。関西ローカル局制作の昔を懐かしむ系の番組で、明石家さんまの大阪ガスのCM(さんま氏が、小林氏の形態模写をしていた。放映当時、関西では、かなりの人気CMだった、らしい)を、子供のころからたびたび観ていたことも一因なのかも知れない。

デイリーのこちらの記事によると、小林氏と江川氏が事件以来初めて言葉を交わしたのは、「事件から28年後の2007年に酒造メーカー「黄桜」のCMで共演」したときとのこと。また、「その後は一度も会うことはなかった」とも。つまり、この記事が正確ならば、事件以降、両氏が言葉を交わしたのは、後にも先にも、「黄桜」のCM撮影のとき一回だけ、ということになる。両氏にとっては、それだけ因縁の深い一件だったということなのだろう。

しかし皮肉にもというかなんというか、この一件(と、その主人公たる小林繁)は、サッカーも大リーグもなく、バブルもそれに続く不況もなくて、プロ野球(とりわけ阪神-巨人戦)こそが、名実ともに庶民の生活の中心にあった、古き良き時代の象徴であり、ドラマであり、その悲劇性ゆえに「花」でさえあったんだろうなぁと思う。 

小林さんの若すぎる死を心からお悔やみ申し上げたい。
Starbucks, Marshall St., Syracuse, Jan 17, 17:01

"How to think like a game theorist"


川西諭著『ゲーム理論の思考法』を読む。

第一線のゲーム理論研究者による、一種のゲーム理論解説本。思っていた以上に、入門書・ビジネス書的色彩が強く、個人的には、もう少し専門的な内容を期待していただけに、若干、肩透かしを食らった感がなくもない。

とは言え、非常に読みやすく、ささーっと一瞬で読んでしまえるので、ゲーム理論の基礎的な考え方をさっくり理解する(あるいは「再確認する」)には悪くない。最後の章では、一昨年あたりから盛り上がっている「行動経済学」的な考え方についても平易に解説されている。

筆者曰く、ゲーム理論の目的は、
  1. ゲームの構造(問題の全体像)を把握する。
  2. 起こりうる未来を予測する。
  3. 適切な解決策を見つける。
の三つ。非常にシンプルだが、この三段階アプローチは、あらゆる問題に対処する際の基本的な姿勢として、頭にたたき込んでおいて損はないと思う。

と同時に思うのは、パブリックな仕事の醍醐味は、結局のところ、「ゲームの構造を把握する」――それを踏まえて適切な行動をとることも含めて――ところにあり、そのせいか、この業界には、「如何にすれば現状をよりパレート最適に近づけられるか」というところに妙味を見出す人が多いんじゃないかということ。

逆に言うと、いわゆる「チキンレース」的な、相手を負かすか、さもなくば自分が負けるか、みたいなゲーム設定には弱い人が多いんじゃないかと思う。弱いというか、そもそも、あんまり興味が湧かない→執着できない→戦えない。。。もちろん、自分も含めて、という話である。

そういった場合、相手との共通の利益を探れるような形に、ゲームのルールを変更する(或いは、それを模索する)というのも、一つの方策であるが、いつもいつもその手が機能するとは限らない。どう頑張っても、「チキンレース」に挑まざるを得ない状況というのは世の中にいくらでもある。自分の弱みを認識した上で、いざ勝負というときには打って出られるだけの訓練――主にマインド面での――を積んでおくのも大事なんだろうなと、この本を読みながら考えていた。(別に、この本にそう書いてあるわけではない。念のため。)
my room, Syracuse, Jan 17, 14:20

My voice was totally broken...

二日半ぶりにSyracuse帰還。

昨晩は、久方ぶりに(アメリカに来てからはたぶん初めて)呑み明かし(或いは「歌い明かし」)、今朝のAmtrakでは5時間半の爆睡。検札にも反応できなかったらしく、机の上に置いておいた切符は、気付いたときには、もぎられて三分の一のサイズになっていた(笑)

Brooklyn Bridgeを歩いて渡ったことを除けばまったく観光せずに、ひたすら人と会っていたが、「現地のホテルで何時間寝たっけ?」というくらい、充実した2日半だった。留学先で日本人ネットワークを広げられるのも留学の隠れたメリットの一つ、と言われる理由を実感。片道5時間半かけて、NYCまで出ていくだけの価値はある。(ホントは、もうちょっと近かったら、もっと嬉しいんだけど…。苦笑)
my room, Syracuse, Jan 17, 13:48

Saturday, January 16, 2010

"The" Bronx

“borough”と呼ばれるNYCの区の数は5つ。Manhattan、 Brooklyn、 Queens、Staten Island、そして、The Bronx――“The”?なんでBronxだけ“The”が付くの?? と、地下鉄の地図を見ていてら、やたら気になり始めてしまいました。

(地図の左上、川を挟んでManhattan島の北側が“The Bronx”)

ホテルの部屋に戻り、さっそくWikipediaで調べてみる。

それによると、“The Bronx”の歴史は――もちろん、西洋人にとっての歴史は、という意味だが――、1639年、オランダ西インド会社のスウェーデン人雇われ船長Jonas Bronckさんによる入植に遡る。その土地が、定冠詞付きで“The Bronx”と呼ばれるようになった由来としては、
  1. 地域名としての“The Bronx”が定着する前に、この地区を貫流する川が、Bronckさんの名にちなんで、“Bronx River”と呼ばれるようになった。その後、この地区が“Bronx川の区”を意味する“Borough of the Bronx”と呼ばれるようになったため。(英語では、慣用的に、“the + 固有名詞”で川の名前を表す。)
  2. 「Bronck家の所有(地)」を意味する“The Broncks'”に由来。(“the + 姓 + s”で「○○家」。それの所有格。)
の二説があるらしい。なるほど…。

今日の昼間は、そのthe BronxならぬBrooklynへ。とある人のお宅を訪問した後、Manhattan Bridgeをてくてく歩いて帰ってきました。

Manhattan, NYC, Jan 16, 17:43

Frozing River

朝一のAmtrakに乗って、NY Cityへ。爆睡して、“Friends”観て、本読んでと、大満足のうちに5時間半が過ぎる。面倒くさい乗り換えなしに一発で都心まで連れてってくれるし、鉄道ってやっぱ素敵。

途中、ほぼ完全に氷結しているHudson川の風景を堪能。こんな大きな川が凍っているのなんて、初めて見た。Upstate、恐るべしである。

NYCには、二泊滞在予定。今日と明日で、ミーティング、呑み会、etc.を三件はしごする。とりあえず一件目終了。いつもながら楽しい会でした。明日は、Brooklynに初潜入予定。
Manhattan, NYC, Jan 15, 27:21

Thursday, January 14, 2010

Spring Semester

来週から始まる春学期は、IR(International Relationsの略。あんまり自覚ないですが、いちおう、MPAとIRのdual-degree生であります。)の必修科目であるHerman先生の“Comparative Foreign Policy”と、Independent Studyを受講予定。Independent Studyというのは、「授業を受ける代わりに、指導教官の下で論文を書けば単位をもらえる」という制度で、指導は、去年の春学期に“Economics of Science and Technology”を教えてもらった、Popp先生にお願いする。この二講座と、今日終了したCrane先生の“Public Administration & Law”(春学期科目としてカウント)を併せ、全部で9単位が今期の受講講座。正直、週間スケジュールはスカスカである(笑)

論文でそれなりの時間がとられるとはいえ、あまりスカスカなのももったいないので、一つか二つ、面白そうな講座を聴講しようかと考えている。第一候補は、Law Schoolの授業で、Colares先生の“International Trade & Law”。先学期も貿易関係の講座を一つ取っていたのだが、イマイチ体系的な理解が得られず、中途半端なところで終わった気がするので、もう一度、きっちり勉強し直してみようという魂胆。

今朝、PA&Lawの授業の前に、Colares先生にお会いしてきたのだが、わりと押しの強そうなタイプで、一つ、質問すれば、その20倍くらいの量の答えが返ってくる感じ。そいえば、Crane先生にもそんな節があったような…。(Lawの先生ってみんなこうなのか??) とはいえ、悪い人ではなさそうだし、自分の教え方には相当の自信を持っていそうなので、その点は良いかな、と。この講座については、僕の中では、auditする方向でほぼ固まっているのだが、今日、もらってきたシラバスに目を通して最終判断をしようと思う。

もう一つの候補は、我がSyracuse Univに隣接するSUNY-ESF(NY州立大環境科学・林学スクール)の“Environmental Impact Analysis”という授業。今学期開講の新しい講座らしく、数日前、MPAのメーリングリストでぴろっと案内が送られてきた。教えるのは、このおじさん。たぶん、左下ではなくて、右上の写真の人と思われる。というか、そうであって欲しい。

Environmental Impact Analysis(=環境影響評価、環境アセスメント)と言えば、ここアメリカが本場。日本でも、84年~99年は閣議、99年以降はに基づくアセスが行われてきたが、もともと、法体系の相当異なる国の制度を移植してきたものなので、イマイチ座りが悪いというか、日本の社会に溶け込み切れていないような気がする(←あくまで私見)。そこで、本場アメリカでは、EIAがどのように運用されているのかを覗いてみたいというのが、auditの動機。ただし、二科目も聴講すると、さすがに時間的に厳しいかなぁという気がするのと、先生and/or受講生がやたらエコエコしてたらどうしようという心配がある。まぁ、後者については「お前が言うな」と突っ込まれるかもしれないが。tree-hugerにも右から左までいろんな宗派があるのであります、はい(笑) というわけで、こっちについてはとりあえず様子見。来週火曜日の一回目の授業に出席してみて決めようかと思っている。

今日は、PA&Lawの授業終了後、Popp先生との一回目の面談に臨んできた。一枚紙を持参してって、論文のoutlineと執筆計画について説明したところ、「うん、うんうん、こんな感じで、す、すごく良いと思うよ、うんうん」(←誰にもわかってもらえないけど微妙にモノマネしてます)てな具合に、さらっと◎を頂く。すんなり行き過ぎて、若干不安ではあるものの、“so far, so good”ということで…(ホンマか!?)

執筆計画では、論文全体を4つのパートに区切り、パート1~パート3を、それぞれ二週間ずつで、書き起こしていく感じ。そこまでを二月中に終え、メインとなるパート4の執筆と全体の清書を3月、4月で行おうという計画。とりあえず、Popp先生との次回面談は、二週間後、パート1のドラフトを書き終えた時点でということに。

ちなみに、Herman先生の“Comparative Foreign Policy”も、(Maxwellの講座ながら)別スクールの校舎で行われるので、auditを入れても、今学期、Maxwell Schoolの校舎(Maxwell Hall/Eggers Hall)で受講する講座はゼロということに。賢そうなふりして、しれっとLaw Schoolの図書館に入り浸るのも悪くないかと考え中。。
my room, Syracuse, Jan 14, 23:55

"long-term effort" to help Haiti

Haitiの地震に対する米国政府の対応には非常に素早いものがある。発生からほぼ24時間で支援部隊の第一陣が現地に到着。クリントン国務長官も、アジア・太平洋歴訪を中断し、今朝までにはワシントンに戻った。

未だ全貌を掴むことさえ出来ていない程の、未曾有の被害の大きさが、アメリカを、迅速かつ本格的な対応へと駆り立てているのは疑う余地もないが、米政府がここまで本気になっている理由はそれだけでもないように思う。

Tyler Cowen(エコノミスト。著名経済blog“Marginal Revolution”の管理人)は、今朝のエントリーで、
In other words, it's not just a matter of offering extra food aid for two or three years. Very rapidly, President Obama needs to come to terms with the idea that the country of Haiti, as we knew it, probably does not exist any more.
(拙訳:言い換えれば、2、3年分の追加的な食糧支援を行えば済むというような問題ではないということだ。今すぐに、Obama大統領は、我々がかつて知っていたような形でのハイチという国は、おそらく、もはや存在しないという認識を受け入れる必要がある。)
と述べ、アメリカが、ハイチに対して、当面の「援助」だけでなく、実態的な「統治」を提供する必要に迫られるであろうことを示唆している。

このCowenのエントリー自体は、彼が自論を開陳しただけのもので、何か具体的な裏取りがなされているわけではないが、ロジカルに考えれば、確かにそういうことになってくるのだろう。アメリカにしてみれば、自国領土の目と鼻の先に、無政府状態の国が出来るなんて、とてもじゃないが座視できることではない。元々展開していた国連ミッションにどのくらいの被害が出ているのかはわからないが、その状態如何によっては、今回派遣される米軍が、「復興支援」を行った後、そのまま、実質的な「統治」に乗り出すつもりなのではないだろうか。そこの対応を誤っては、ほぼ即座に、米国本土への影響が発生するだけに、クリントン長官以下、連邦政府を挙げて、超本気モードで対応しているのではないかと思う。

実際、今朝のReutersの記事によれば、クリントン長官は、
Clinton said a 7,000-strong U.N. peacekeeping force was helping to maintain order and would receive help controlling looting and other violence from the U.S. Army's 82nd Airborne Division later on Thursday. "The peacekeeping force ... is out on the streets, they're clearing streets, they're bringing law and order,"
と述べたとのことである。また、同記事は、米軍が既に空母一隻と揚陸艦三隻を派遣した(“The Pentagon was sending an aircraft carrier, which she said would arrive soon, and three amphibious ships, including one that can carry up to 2,000 Marines.”)とも報じている。

更に、CBSの今朝のニュースショーに出演したクリントン長官は、ハイチへの支援が、「数日から数週間」単位のものではなく、「数カ月から数年(“months and years”)に亘るものになるだろう」と断言、国民の理解を促している。
my room, Syracuse, Jan 14, 21:28

Wrap-up PA&Law

PA&Lawの全日程終了。来週火曜日提出のwriting exerciseが残っているが、とりあえず、ほっと一息。

今週は、話がより具体的になって、アメリカ固有のテーマが増えたせいか、Crane先生のご専門である安全保障関連の話が増えたせいか、はたまた、Craneおじさんのハイテンションな話し方に若干の飽きが来たせいか――単純に僕のモチベーションの問題という説もある――最初の5日間に比べると、授業への入れ込み度合いが幾分下がっていた気がする。とはいえ、全体を通して見れば、2週間という短期間で、アメリカの法制度を一応一通り学ぶことができたわけで、大変効果的かつ効率的なコースだったと言える。

一通り受講し終えてみて思うのは、アメリカの政策というのは、「連邦-州」間、「立法-行政-司法」間で繰り広げられる、本気のpower gameの中で生み出されてきたものだということ。「本気」というのがポイントで、そこには、「予定調和」も「落とし所」もへったくれもない。

各主体は、自らの“power”の確保を第一目標に掲げて行動しているだけで、必ずしも全体の利益を考えて動いているわけではないが、“power”と“power”の相克が絶えざる緊張関係を生み出し、結果的に見れば、特定の方向への政策の「行き過ぎ」を、(中長期的には)回避できるシステムになっている。

逆に言えば、短期的には、ときに極めて非効率にしか機能しえないシステムだとも言える。Hurricane Katrinaへの対応なんかは、その最たる例だろう。言うまでもなく、すべての物事には良い面と悪い面があるわけで、問題は、何を選んで何を捨てるかということだ。瞬発的な効率性を犠牲にしてでも、「一個の人間」、「一個の主体」に、過度の期待を寄せることを避け、相互監視・権力分散を徹底するやり方は、ある意味、すごくアメリカらしいなと思う。繰り返すが、それが「良い」か「悪い」かではなく、単純に、「アメリカらしい」な、と。

同じく良いか悪いかは別にして、日本の権力構造は、アメリカのそれに比べれば圧倒的に、「中央政府の行政府」に寄っかかっている。昨今、「政対官」の話題は絶えないが、その文脈で言われるところの「政」は、普通、行政府に入った「政治家」のことを言っているのであって、所詮は行政府内部の話である。「行政府vs立法府」という話をしているわけではない(と少なくとも僕は理解している)。日本の場合、省庁間の権限争いが、ある意味での「緊張状態」を生みだし、政策の「行き過ぎ」を防ぐ機能を担ってきたのではないかという気さえする。

アメリカほど強力なものではないにしても、権力構造のどこかに、本気の「緊張関係」をbuilt-inしておくことは、政策の「行き過ぎ」を防ぐ上で極めて重要。この先の日本では、どことどことの対立軸が、その役割を果たしていくことになるのだろうか…。
Starbucks, Fayetteville, NY, Jan 14, 17:05

Boone Pickens, Again

久々登場、Boone Pickens

ちょうど僕がアメリカに来た2008年の夏頃、大々的な風力発電建設計画“Pickens' Plan”を打って、プチ“時代の寵児”になっていたオクラホマの大富豪。当時は、CNNのLarry King Liveにも呼ばれたりもしていた(Kingとのやりとりのscriptはこちら)。

NYTのweb記事によると、最近また、新しいTVCMを作って流しているらしい。ケーブルTVだけで流しているのか、うちのTVでは、まだ観たことがないが。2008年当時は、風力発電を前面に打ち出していたPickensだが、新しいCMでは、天然ガスのアピールに特化して、風力発電を完全に封印。単にPickensが現実的になったと見るべきか、アメリカの新エネ熱が後退したと見るべきか…。


Starbucks, Fayetteville, NY, Jan 14, 15:57

Wednesday, January 13, 2010

Rule of Equity

昨日のエントリーの最後に触れた“equity”が、今日の授業のメインテーマの一つ。この概念、正直、完全には理解できなかった…。授業後に残る得も言われぬ、このもやもや感。。。

授業で聞いた内容とWikipedia(英語版)の記事から推察するに、“equity”(或いは“rule of equity”)というのは、
  • 英国流common lawの世界で用いられる法概念であり、
  • 民事司法システムでのみ用いられ、
  • “rule of law”と並立的(或いは補完的)に存在し、
  • 法に照らして判断するのではなく、「equity(公正さ)が確保されているかどうか」を拠り所にして裁判官が判断するもの
ということらしい。そもそも、昔は、lawとequityで扱う裁判所が違っていたのを、近代化の過程で、一つの裁判所で両方をカバーできるよう制度が改変されてきたんだとか。その名残で、今でもアメリカの多くの州では、lawを扱う裁判ではjury(陪審員)が判決に加わるが、equityの裁判では裁判官だけが判断する、といった具合に手続き上の違いが残っているらしい。

今日の授業のreading assignmentによると、80年代以降、アメリカでは、刑務所の環境改善を求める連邦訴訟が急増。federal courtは、これに対して、「“equity”の法理」と「憲法(主に修正第8条)に基づく囚人の権利」を理由に、原告(囚人)側の主張を幅広に認め、改善命令を出しまくったため、多くの州政府が、多額の出費を迫られることに。この結果、federal courtの裁量権(discretion)を制限すべしという機運が高まり、1996年、Prison Litigation Reform Act(PLRA)が成立。同法の目玉である“Automatic Stay”規定は、裁判所の救済命令(relief)に対して異議申立て(filing)がなされた場合、当該申立てに対する裁判所の判断を待つことなく、申立てから30日が経過した時点で、自動的に、その救済命令が停止(stay)する、というものである。(その後、Miller v. French (2000)で、“Automatic Stay”の合憲性が争われたが、最高裁は、5-4で「合憲」と判断。)

“equity”なるモノにまったく馴染みのない国から来た人間からすると、何らの明文化されたメルクマールにも依らず、「公正か否か」という極めて抽象的な基準だけで判断する権限を裁判所に与えていれば、当然、こういう混乱も起こってくるわなぁという気がする。ここまでの僕の理解が間違っていなければ(その可能性は50/50くらいだと思うが…)、“rule of equity”の下にアメリカの裁判所が保持している権限は、日本の場合、立法・行政・司法の三権が、分掌しているのではないだろうか。立法府が憲法第14条(法の下の平等)を具現化する法令を制定し、行政がそれを執行、裁判所がそれらを憲法の規定に照らして十分か否か判断する、といった具合に。
  
直観的には、日本のシステムの方が機能的であるように思うのだが、今日のエントリーの冒頭に書いたとおり、僕自身、この“equity”という概念の理解にイマイチ自信を持てていないので、あまり断定的なことは言わないようにしておきます。
my room, Syracuse, Jan 13, 21:03

polysemic words

日本語に比べればまだまだマシだとは思うが、英語(米語?)にもいわゆる「多義語」はいくつかある。

慣れるまで、僕がかなり苦しめられたのは、“state”という言葉。「状態」「状況」という意味でももちろん使われるが、ややこしいのは、「州/国/邦」系の意味。

「ニューヨーク州」、「カリフォルニア州」というときの「州」は、言うまでもなく“state”。“State of New York”, “State of California”である。しかし、国際的な文脈になると、“state”は、「国」(=sovereign state)を表す言葉に変身する。アメリカのメディアによく出てくる「破綻国家」は“failed state”だし、“nation state”(国民国家)というときの“state”は、言うまでもなく「国(家)」。

まぁ、アメリカの「州」については、日本人が勝手に「州」と呼んでいるだけで、もともとは文字通りの“sovereign state”だったわけだから、言葉が一致するのは当然と言えなくもない。というわけで、「州」と「国」の混用は、何とか許してあげるにしても、“state”の浮気性はそれだけに止まらない。

“The States”と言えば、「アメリカ合衆国」の意味。定冠詞がついて、大文字から始まるので、書き物を読んでいるときには容易に判別できるが、会話の中でこの言葉が出てくると、一瞬、混乱することもある。更に、Hillary Rodham Clintonを長官に頂くこの国の外交担当官庁は、なぜか「外務省」(Department of Foreign Affairs)ではなくて、「国務省」(Department of State)。日常会話の中では、“Department of”を略して、単に“State”と呼ばれたりもする。この辺になってくると、そろそろ、いい加減、勘弁してくれと言いたくなる。。。(泣)

同じく、多義語の代表格に僕が認定している(それだけ苦しめられているということ)のは“equity”という言葉。「公平」「公正」といった基本的な意味に始まって、「株式」、「所有権」、「自己資本」…etc.。全部、同じ意味から派生してったんだろうというのは、なんとなくわかるんだけど、会話の流れの中で、咄嗟に意味を掴むのは難しい。

今日の授業中、“equity law”という言葉が出てきた。「公正」「平等」と言った意味を当てはめてみたのだが、イマイチ、しっくりこない。仕方がないのでwikiってみたら、「英米法においてコモン・ローと対置される衡平法」との説明が…。知らんがな、そんなもん。。。(知っとけよって話すか??)
my room, Syracuse, Jan 13, 25:11

Tuesday, January 12, 2010

Japan’s decades of trouble

「lost decadeだ、lost decadeだ」と騒いでいるうちに、いつの間にやら“decade”の後ろに“s”を付けるようになってしまった昨今。英米の経済紙・経済雑誌で取り上げられる日本の記事と言えば、もっぱら、「反面教師に学べ」系のものになってしまっている。(政権交代直後はさすがに、新政権に関する記事も目にしたけれど。)

Financial TimesのコラムニストMartin Wolfは、12日付で、“What we can learn from Japan's decades of trouble”という記事を、同紙webにアップしている。完全に「反面教師」系(苦笑)。自分は、この記事の正否を論じるだけの能力を持ち合わせていないので、自分の勉強がてら、抄(拙)訳だけを作って、以下に載せておく;
  • 日本の根本的な構造問題は、catch-up成長が完了したことによって生じた、「企業の過剰貯蓄(内部留保)」と「投資機会の減少」とである。
  • 80年代は、借り入れコストをゼロにする金融政策を導入し、無駄な投資を持続させることによって、投資機会の減少に対応した。
  • 2000年代には、主に対中貿易によって促進された、輸出及び投資ブームにより、この難局に対応してきたが、今般の世界経済危機により、そのモデルも破綻した。
  • 日本がいま目指すべきは内需主導の経済成長であり、そのためのもっとも重要な要件は、企業貯蓄の大幅な縮減である。新政権は、そのような企業行動の変化を促す政策を導入すべきである。
  • 同時に、デフレを止めなければならない。そのために、日銀は、政府と協力して、行きすぎた円高を回避すべきである。
  • 日本の経験が強く示唆するところは、過剰設備とバランスシート上の超過債務に苦しむバブル後の経済――たとえば今のアメリカのような――では、継続的な財政出動、ゼロ金利政策、量的緩和といった政策を導入したところで、右肩上がりのインフレーションは実現しないということである。
my room, Syracuse, Jan 12, 22:11

Sunday, January 10, 2010

2010's first rice

引っ越しやら、旅行やら、冬学期やらで、なかなかお米を調達する機会がなく、しばらく米食から遠ざかっていたのだが、この土日で新居のセッティングも片付き、Asian groceryへの買い出しも済ませ、約3週間ぶりの白米にありついた。言うまでもないが、やっぱりお米は美味しい。

おかずは、青梗菜と油揚げの煮びたし。最近、「酒とみりんと薄口醤油」で味付けしたものは、だいたい何でもおいしく感じられるようになってきた。いまは亡き河島英五の歌声が聞こえてきそうである。味覚のおっさん化が進行中かもしれない。

ここのところ、朝晩の冷え込みがすさまじい。TVのニュースによると、今朝の最低気温は華氏0度を下回っていたんだとか。摂氏で言えばマイナス20度の世界。僕はもちろん、お布団の中でぬくぬくしていたが、今年のMPA同級生のくもすけさんは、何を発心されたか、マイナス22度の中、コインランドリーに出かけるという、千日回峰も顔負け(というのは明らかに言いすぎだが)の荒行に打って出られたらしい。その貴重な御経験の記録が、氏のblogに掲載されている。ツララ滴る家々の写真から、最近のSyracuseの極寒ぶりをお察しいただけるかと。
my room, Syracuse, Jan 10, 20:45

“Massachusetts v. EPA and its Aftermath”

水曜日のエントリーで触れた、Massachusetts v. EPAについてのBerkley Law Schoolの講義ビデオを見てみた。Payne教授のクラスなのだが、ゲストスピーカーがメインで喋っていて、このゲストスピーカーが誰なのかはよくわからない。もしかしたら、講義のどこかで自己紹介していたのを聞き逃しただけかも知れない。


Watch it on Academic Earth


講義の過半は、“standing”(原告適格)の議論に割かれている。過去の環境訴訟を振り返りながら、Massachusetts v. EPAにおいてMassachusetts州に原告適格が認められたのはどういう論拠であったのか探る議論。

僕としては、「Clean Air Actは、EPAに対し、温室効果ガス(GHG)の規制権限を与えているか否か」という点に、より興味があったのだが、この点については、講義の最終パート約10分(1:36以降)で比較的コンパクトに述べられている。

Clean Air Act(CAA)のSection 112(b)(3)(B)は、以下のように規定している。
The Administrator shall add a substance to the list upon a showing (※ 規制対象物質を列記した“LIST OF POLLUTANTS”のことを指している)by the petitioner or on the Administrator’s own determination that the substance is an air pollutant and that emissions, ambient concentrations, bioaccumulation or deposition of the substance are known to cause or may reasonably be anticipated to cause adverse effects to human health or adverse  environmental effects.
ざっとCAAを見渡してみたところ、“air pollutant”を直接的に定義している条項は見当たらなかったので(もし僕が見落としているようなら教えていただけると幸い)、この規定が、実質的な“air pollutant”の定義規定となっているものと思われる。

Supreme Courtのmajority(5-4)の判断は、「GHGはCAAの“air pollutant”の定義に該当する」、従って、「Section 202(a) (“The Administrator(=EPA長官) shall by regulation prescribe ... standards applicable to the emission of any air pollutant from any class or classes of new motor vehicles or new motor vehicle engines, which in his judgment cause, or contribute to, air pollution which may reasonably be anticipated to endanger public health or welfare. ...”)により、EPA長官は、新車に対するGHG排出規制を行う権限を有するのみならず、それを行使する義務を負う」というもの。ちなみに、この引用の後半部分(which in his judgment cause, or contribute to, air pollution which may reasonably be anticipated to endanger public health or welfare)が、先月のEndangerment Findingに繋がっていくわけである。

講義を見終わってもよくわからない点が二つあった。

一つは、「EPAにはCAAに基づくGHG規制権限(及び義務)がある」とされた場合、EPAは、必要とあらば、新たな規制スキームを構築することもできるのかという点。たとえば、水曜日のエントリーでも触れた、水俣病訴訟のケースの場合、国は、旧水質二法に基づき、「指定水域の指定,水質基準及び特定施設の定め」をするだけで、必要な規制権限を行使することができた。つまり、新たな規制スキームそのものを構築する必要はなく、規制対象項目を追加するだけで足りたわけである。しかし、今回のEPAの場合、GHGをSOxやNOxと同様のスキームで規制できるかというと、物質の性質からしてかなり無理があるように思われる。この場合、EPAは、新たな規制スキームを――日本で言うところの「省令」で以て――free handで描けるということなのだろうか。或いは、Supreme Courtは、無理やりにでも、既存スキームを用いてGHGを規制するよう、EPAに求めているということなのだろうか。
   
もう一つは、この判決(それ自体は、新車の排ガス規制のみを対象としたもの)が、どういうメカニズムで、固定発生源の規制にも波及するのか、という点。僕の理解が間違っていなければ、議会がcap-and-trade法案を通せなかった場合にEPAが制定するとしているregulationには、自動車のみならず、固定発生源の規制も含まれていたように思う。これはなぜ、このようになるのだろうか。
  
投げっぱなしのエントリーですいません。先週に引き続き、知見をお持ちの方からのアドバイスをお待ちしております。
my room, Syracuse, Jan 10, 13:12

Saturday, January 9, 2010

Inauguration

Inauguration(就任式)なんて一年前の話でしょ――と言うこと勿れ。今日、City of Syracuseの新市長Stephanie MinerのInaugurationが行われた。




一年前のObamaは、「合衆国憲法をsupportします」と――なぜか噛み噛みになりながら――宣誓していたが、今日のMiner市長は、「合衆国憲法、NY州憲法、Charter of the City of Syracuse」の三つをsupportすると宣誓した。なるほど、local governmentの長だと、こういうかたちになるわけか。ふむふむ。

Miner新市長は、Democratsで、Syracuseとしては初となる女性市長。lawyerで、undergraduateはSyracuse University卒らしい(by Wikipedia)。

それにしても、めちゃくちゃ寒そう…。おらが街の市長が宣誓しているさなか、僕はと言えば、ほぼ一日、家の中でぬくぬく過ごしてしまった(笑) ちなみにSyracuse、ただ今の気温、マイナス14度であります…。
my room, Syracuse, Jan 9, 23:08

The Hybrid


年末に読んだ本の感想をば。木野龍秀著『ハイブリッド』(文春新書 2009)

初代プリウスの開発ストーリー。各登場人物が生き生きと描かれていて、某公共放送の『プロジェクト○』を観ているような感覚でさらっと読める。

全編を通して強調されているのは、初代プリウスの開発が如何に「見切り発車」的で、「綱渡り」的であったかということ。プロジェクトの立ち上げから量産化の正式決定、販売開始に至る流れを時系列で整理すると、こんな感じになる。(肩書きはすべて当時のもの)
  • 93年9月…「トヨタが21世紀に向かって提案できるような、シンプルで高性能なクルマ」の開発を目標とする「G21プロジェクト」立ち上げ。
  • 94年7月…G21の開発コンセプトを「資源エネルギー・環境問題に答えを出すようなクルマ」とすることを役員が了承。(この時点では、量産化については何の決定もなし。あくまで「とりあえず」研究してみようという雰囲気。)
  • 94年夏…G21の量産に向けた開発の具体案が役員により了承。この時点では、ハイブリッドではない通常のガソリンエンジン搭載による燃費性能50%向上を想定。
  • 94年11月…和田技術担当副社長が内山田G21リーダーに、次回の“東京モーターショー用”として、ハイブリッド車の開発を指示。次回モーターショーは95年10月。
  • 「モーターショーの作業を始めてすぐ」…和田副社長が「G21のクルマの燃費を2倍(=100%向上=30km/ℓ)にしろ」と厳命。G21チームが「既存技術では50%が限界」である旨説明すると、和田氏はハイブリッド技術の導入を示唆。(※ モーターショー用はあくまで「コンセプトカー」。対するG21は、この時点で既に「量産化」が決まっているプロジェクト)
  • 95年5月…ハイブリッド車の量産化が正式決定。99年のオフライン(販売開始)を目指す。
  • 95年8月…奥田社長の指示により、オフライン、一年前倒し。(目標:98年12月)
  • 95年12月…豊田章一郎会長、奥田社長の指示により、更に一年前倒し。
  • 97年12月10日…初代プリウス発売。
この開発スケジュールが、如何に常識離れしたものであったかは、当時の開発担当者たちの弁を借りながら、本著の随所で示されている。

この流れを作るカギになったのは、94年の和田副社長による「(燃費を)倍にせいっ!」発言。なぜこのときに和田副社長が、このような、ある意味で「荒唐無稽」な“厳命”を下したのか(或いは「下せた」のか)。このことについて、本著は以下のような分析を示している。
  1. 和田氏は以前から、塩見技術総括部長に「ハイブリッドをやると燃費が上がる」と示唆されていて、ハイブリッド・システムの特性に関するレクチャーを何度も受けていた。
  2. 「信念と実績に裏打ちされた」和田氏一流の「カン」により、塩見氏の話を和田氏なりに咀嚼。
  3. 「ハイブリッドで燃料は倍になる」と判断。
つまり、塩見氏からハイブリッド技術についてのレクチャーを受けていたとはいえ、「二倍」という数字自体は、ほぼ完全な、和田氏の「カン」だったというわけである。あのプリウスの開発プロジェクトのトリガーが、こんな、ある意味「適当」な判断でなされていたというのは聊か驚きに値する。

しかし、イノベーションなんてものには、そもそも、完全な計算は伴い得ないわけで、こういったかたちでの、ある種の「賭け」或いは「決断」は不可欠なのかも知れない。初代プリウスのときのような、ある種、無理のある、見切り発車的な開発方法について、トヨタ社内で「ハイブリッドの父」と呼ばれた技術者八重樫氏は、「トップ役員がリスクを負うならアリ」と断言。同時に、「あれをやったから今のハイブリッドがあると自負しています」とも述べている。(p.170)

このことは、程度の差こそあれ、我々政策立案の業界にも妥当すると思う。ここで、「トップ役員」ならぬ、我々ペーペーに求められるのは、「上司を見る目」ではないかと思う。この人の「カン」を信じてついて行って大丈夫か――判断事項そのものの正確さは、客観的に判断しえない以上(今はそういう場合の話をしている)、最後は人を見て、obeyするか、反論するかを決めるしかない。と考えると、日頃から、上司の先見性・鑑識眼を値踏みしておくのは非常に大事なことだ。

もう一つ、一連の話の中で特に参考になると思うのは、技術者塩見氏の仕事の仕方。本著の中で、現副社長の瀧本氏は、塩見氏について、以下のように語っている。
「いつも、とんでもない先のことを言われていた。石油はなくなるんだから早く水素で動くクルマをつくれとか。遠い将来を見て、こんな芽を生やせと、種を探すというようなことをしていた」(p.69)
当の塩見氏曰く、
「あの頃にハイブリッドがどんなものかわかっていた人は、いないでしょうねえ」(p.70)
との由。更には、
「わかっていなかっただろうけれど、それに対して僕はなんの説明もしてないし、了解も得ていない。だから反対のしようもなかったんじゃないかな。ただ、僕の方ではとにかくモノをつくって『乗ってください』って、社長を含めて役員を乗せていたから、どの程度のものになったかはわかっているわけですよ。そうすると、『ああ、いいんじゃないの、なかなか』って言われる。そのうちに、『これはトヨタとしては当然、やるべきだ』っていう時流が、自然発生的に盛り上がっていったんです」(p.71)
とも。彼の、この「暗躍」が、先述の和田氏の「カン」に繋がっていくわけである。

この塩見氏の姿勢は、一組織人が、組織の中で、最大限に自由に泳ぎ回り、かつ、そのアウトプットを組織に還元するという意味で、一つのお手本のような事例だと思う。ここでポイントとなるのは、まだ、他の誰もが気付いていないような、「先の先」のことを取り扱うということ。「少し先」くらいのことだと、他の人も気付き始めていて、本来それをカバーすべき「正規軍」が、既に行動を起こしていたりする。「新しい」ということは、正規軍にとっても「目玉商品」になる可能性が高いわけで、彼らからしてみれば、横から茶々を入れられるのは面白くない。そんな中で何かを提案するとなると、正規軍との「調整」だけで疲弊してしまう。 

その点、「先の先」のことをやっていれば、誰かにバカにされることはあっても、本気で干渉を受けることは少ないだろう。大方の反応は、きっと、「あんたの趣味として、好きにやってれば」くらいのもんだ。その間に、コツコツ中身を詰めておいて、組織内トップ営業を仕掛ける――なかなか面白い戦略だと思う。そう、いつもいつも、ヒット商品を生み出せるとは限らないにしても。

塩見氏の話を見ていて、先月、このblogで紹介した、アメリカのAcid Rain Programの話を思い出した。SO2のcap-and-tradeという、非常に画期的な規制手法の法制化に成功した理由の一つとして、当時の担当者は、「国会議員の多くがcap-and-tradeを理解していなかったこと」を挙げておられた。別に、「騙し討ちにすればいい」というものではないが、他の人よりも、二歩以上、先を見て行動するというのは、何か大きな変革を組織にもたらす上で、一つの非常に有効な戦略なのではないかと思う。
my room, Syracuse, Jan 9, 22:20

“Saving while you spend”

留学開始後一年半にして初めて、アメリカで毎日TVを観れる環境が訪れた。(いちおう、ガーナ滞在時には、居候先のTVを観ていたが。)

TVを観るときには――日本にいるときからそうなのだが――番組そのものと同じくらい、CMを観るのが好きな僕。旅行で外国に行く時なんかは、むしろ番組観てるよりCM観てる方が楽しかったりする。外国人には理解できない「なんじゃそれ!!?」な代物に遭遇できる確率が、CMの方が高いので。

で、今日、インスタントラーメンをすすりながら、地元ニュースを観ていたら、“Saving while you spend”という、ほとんど意味不明なキャッチの付いたバンカメのCMに遭遇。な、なんやて??

この商品、正確には、Keep the Changeという商品名なのだが、指定のクレジットカードを使って買物をするたびに、支払額と、その直ぐ上のドルとの差額(たとえば、$3.43のコーヒーを買うときには、57¢(= $4.00 - $3.43))が自動的に、checking accountからsaving accountに移される仕組み。バンカメさんのweb site曰く、“every bag of groceries, every coffee and every tank of gas adds up to more savings for you.”だそうである。まぁギリギリ嘘にならない表現だとは思うが…(苦笑)。
  
新聞を読んでいる限りにおいては、この国、目下、空前の(!!)貯蓄ブームなんだそうであるが、――だからこそ、こんな商品が編み出されたりもするのだろう――果たして、こんな調子で、一般的アメリカ人家計の貯金計画は大丈夫なんだろうか…。まぁ、日本人なら誰でも貯金上手♪なんてことはもちろんないわけで、「お前みたいに貯金能力ゼロのヤツから突っ込まれたくないわい」という話かもしれない(笑)
my room, Syracuse, Jan 8, 28:57

"AVATAR"

James Cameronの“AVATAR”を観てきた。

“3D”だということと、いかにもな感じのそのタイトル(原題も日本版と同じ“AVATAR”)から、一旦は、僕のレーダーから完全に外れていたのだが、回りの人の評判が頗る良いので、騙されたと思って、とりあえず観に行くことに。とは言え、へんちくりんな“3D”メガネを手渡され、映画館の席についても、期待値の低さは変わらずのまま。
  
ところがどっこい(昭和ですか。)、これが案外、面白かった。というか、僕の中ではかなりのヒット。それも、映像がスゴいとか、3Dがスゴいとか、そういうことではなくて(いや、それはそれでもちろんスゴいんだけど)、ストーリーがすごく良かった。宮崎アニメ的な深さがある――なんてことを軽々しく言うと、筋金入りの宮崎ファンに怒られてしまいそうだけど、でも本当に、ナウシカとか、もののけ姫に通じるものがある、と思う。
  
アメリカ――それも、現に二つの戦争を遂行中の――が、こんな映画を作ってしまったということにも驚き。まぁ、ハリウッド流リベラリズムと言ってしまえば、それまでなのかも知れないけれど。アメリカ人はこれを観てどう思うんだろうか。直接彼らに聞いてみたい気もしたが、今日は一人で観に行ったので、その場では聞けず。見ず知らずの隣の観客に、いきなり質問するのもさすがにね(笑)。
   
“Friends”のファンの人以外にはどうでもいい話だが、結構重要な役どころで、Phoebeの弟役の役者さんが出ている。Giovanni Ribisiという人らしく、調べてみたらそれなりに有名な俳優さんだった。(スイマセン、外人俳優には、激しく疎いです…。) いつも観ている(はい、いつも観てます)“Friends”ではteenの役柄で出てくる俳優さんが、いいおっさんの役を演じているのには、少しウケた。「Phoebeの弟が大人になったらこうなりました」、「へー、結構出世したんだねー」みたいな…。はい、どうでもいい話ですね(笑)
my room, Syracuse, Jan 8, 27:45

Friday, January 8, 2010

”Federalism”

PA&Law、一週目終了。

今週最後の授業のテーマは、Hurricane Katrina。連邦、ルイジアナ州、ニューオリンズ市、それぞれの政府の対応ぶりを通して、連邦と州・地方政府の権限demarcationを見ていこうという流れ。授業では、PBS(Public Broadcasting System)の看板ドキュメント番組“FRONTLINE”のKatrinaの回を観たのだが(ここからDLできます)、当時の関係者のインタビューを中心に問題点を炙り出していく構成で、なかなか見応えがあった。

月曜日のエントリーにも書いとおり、合衆国憲法修正第10条は、憲法に明文規定のない残余権限は州及び人民に留保されると定めている。このため、連邦軍は元より、連邦政府に属するあらゆる機関の活動は、Katrinaのような緊急事態時であっても、(あらかじめ具体的に法で定められている場合を除き)何をするにも、州又は地方政府からの要請待ちというかたちになってしまう。

一方の州や市はといえば、緊急事態の真っ只中にあって、「とにかくなんでもいいから助けをくれ」という、半ばemotionalな状態。こんな状況の中、demarcationに関する複雑怪奇な法解釈の話をするなんて、ほぼ不可能というもの。結果、後日、両者の話を聞けば、聞こえてくるのは、責任の押し付け合いみたいなコメントばかり…。(子)Bush政権下で冷遇に甘んじていたFEMA(連邦緊急事態管理庁)が十分に機能しなかったということなど、他のいくつかの要因にも言及されてはいたものの、何と言っても、連邦制のもたらす非効率のインパクトは相当大きかったようだ。

阪神大震災のときに兵庫県の自衛隊派遣要請が遅れた件を持ち出すまでもなく、同様のことは、日本でも当然に起こりうる。しかし、憲法以上には自治権の根拠を遡れない日本のような「普通」の国と、もともと主権を有していた「State」が、その主権の一部(あくまで一部)を切り出す形で連邦憲法を制定したアメリカのような連邦国家とでは、中央政府(連邦)と地方政府(州)のdemarcationを巡る複雑さ・面倒臭さのレベルが全然違うんじゃないかという気がする。

そんな状況の中、連邦政府が、国レベルで何か大きなことをしようと考えたならば、結局のところ、その論拠づけを、「国全体の安全」(=National Security)か、「合衆国建国の本旨」(=justice、liberty)(或いはその両方)に落とし込むしかないのかも知れない。そう考えると、この国の人たちが、何かにつけて「自由だ」「正義だ」「安全だ」と叫ぶ理由も、少しだけわかってくるような気がする。つまり、この国の強烈なpatriotismは、ある意味で、州権が強いことの裏返しなのではないかと…。

ともあれ、一週目の授業はこれにて無事終了。今日の午後は少し休憩をば。隣町のDeWittで、洗車して、髪切って、買物して、映画観て、まったり過ごそうと思います。
DeWitt, NY, Jan 8, 14:41

Roll Playing

今日の授業では、連邦上院外交委員会のロールプレイングをば。

コロンビアで、米軍が関与していると思しきミサイル爆撃が発生。攻撃の対象は麻薬テロ組織の山荘だったのだが、爆撃の瞬間をたまたまCNNのカメラが押さえていた。その映像の中には、爆撃の直前、庭で遊ぶ子供たちの姿も。CNNがその絵を流したところ、さっそく米の国内世論が発火。これを受け、上院外交委員会は、DoS、DoD、三軍トップ、情報機関トップを呼んで、非公開のhearingを行うことに――という状況設定。

僕の役柄は、D-CAの上院議員。具体的な名前は指定されてなかったものの、要するに、この人。キンキンの奥さんではありません。

アメリカに留学中の人の話やblogを読んだり聞いたりしていると、この手の「議会モノ」ロールプレイングの話がよく出てくる。アメリカの公共政策系大学院では、わりと普通に行われるコンテンツらしい。

その人たちの話から、「アメリカ人の生徒たちは、どの議員がどういう政治的性向を持っているかを熟知していて、見事にそれを演じきる」というイメージを持っていたのだが、蓋を開けてみると、アメリカ人こそ、その辺まったく気にせず自由にやっちゃってる感じ。若干、肩透かしを喰らう(苦笑)

授業後、ジムでひと汗流して家に帰ってみたら、大家氏(見た目60くらいのおじちゃん)が、バナナケーキを焼いていた。好きに食べていいと言われているのだが、このバナナケーキ、困ったことに半端なくおいしい。せっかくのworkoutが帳消しになってしまうではないか。今日最後の一切れを食べて、小腹も満たされたので、そろそろ寝ます(←最悪パターン。) おやすみなさい。
my room, Syracuse, Jan 7, 26:25

Wednesday, January 6, 2010

The Mandate of Executive Branch

授業3日目のテーマはExecutive Branchの権限について。この分野ではお馴染み(なんだろうと、勝手に推測してみる)の、FDA v. Brown & Williamson Tobacco Corp.事件やGonzales v. Oregon事件が触れられる。

「行政機関はその権限の下でどこまでのregulationを制定できるのか」といった議論の中で、とあるアメリカ人のクラスメイトが「Clean Air Actで温室効果ガス(GHG)を規制する」という例の一件に言及。以前にも書いたが、この動きは、2007年の最高裁判決(Massachusetts v. EPA)に端を発するもの。このコースで、米国法の基本を一応一通り押さえた上で、同判決を見直してみるのも面白いかもしれない。以前のエントリーでリンクを張っておいたBerkley Law Schoolの授業の動画を今週末にでも見てみようかと思う。

更に言えば、「行政の規制権限の不行使」が問われた裁判という意味では、水俣病関西訴訟も、基本的な構造は、Massachusetts v. EPAとよく似ているのかもしれない。Massachusetts v. EPAと併せて、こちらの裁判の最高裁判決も、もう一度読み直してみようと思う。
my room, Syracuse, Jan 6, 21:04

Tuesday, January 5, 2010

Syracuse Univ. in the Snow

今朝の大学近辺の風景をば。

早い話が雪だらけであります。天気予報によると、向こう一週間は雪が降り続くらしく。金曜日には更なる寒波が到来し、「最高気温がマイナス8℃」なんてことにも。まぁ、もはや、一度か二度下がったところで、あんまり変わらない気がしますけどね(笑)

大家氏曰く、「去年の冬はまだマシだったけれど、今年は本格的な厳冬になるかも知れん」との由。去年、あれで、「マシ」でしたか…(苦笑) この街、やっぱり人の住むべきところじゃないような気がしてきました。
my room, Syracuse, Jan 5, 22:45

Is it really difficult?

アメリカで法案を通すのは非常に大変。

とは、アメリカ人からも日本人(のアメリカ通)からもよく聞かれるお話。今日のPA&Lawの授業でも、提出から成立に至る法案審議のプロセスをたどりながら、最後(=大統領による署名)まで到達するのが如何に大変かということが説明されていた。

実際、どのくらい大変なのか――。連邦議会図書館のサイトで調べてみると、第111回国会(2009年1月~)中に成立した法案は125本。第110回(2007年1月~2009年1月)、第109回(2005年1月~2007年1月)が、それぞれ460本、482本なので、2005~2009年の5年間を平均では、年間200本以上の法律が成立していることになる。この数字、実は日本のそれより多い。どころか、約二倍。あれれ???

この事実はどう理解すればいいんだろう。アメリカの国会の方が、日本なんかよりも、はるかにたくさんの「どうでもいい法案」を抱えていて、世間がヘルスケアや気候変動に注目している隙に、そういう「どうでもいい法案」たちがさくさく量産されていっているということなんだろうか…?

物知りな方(特に、Congressのお膝元でLaw Schoolに通っているそこのあたなとか)の御意見をお待ちしております。
my room, Syracuse, Jan 5, 21:45

Syracuse's Outdoor Clasicc

前回エントリーでNHLの“Winter Classic”について書いたところだが、今日、地元紙The Post-Standardのwebに、「Syracuse Crunch(NHL下部リーグの球団)が二月に屋外ゲームを主催する」との記事が出ていた。  

これはもう、ぜひとも観に行かねばなのだが、問題は――自明すぎて敢えて書くだけバカバカしいが――当日の寒さ。同記事によると、“The narrow track and grandstand create a bit of a wind tunnel effect. So, no matter how cold it is on Feb. 20, it will feel a lot colder sitting/standing at the game. Scrap together every bit of warm-weather clothes you have and layer yourself like a mummy before heading out.”(抄訳:建物の構造上、風が吹きやすいので、ただでさえ寒い時期だけど、体感温度がそれよりもっと寒くなるのは必至。ミイラみたくモコモコになるまで着れるだけ着こんで観に来てね)との由。

プレイする側でなく、観る側にも(というか、観る側こそ、か)相当の覚悟が求められそうな一戦である(笑)
my room, Syracuse, Jan 5, 21:01

Monday, January 4, 2010

Winter Classic

NHLは3年前から、元旦開催の試合の一カードを“Winter Classic”と称して屋外のスタジアムで行うことにしている。Buffalo、Chicagoに続く3回目の今年は、Bostonのホームゲームで、会場はかのFenway Park。試合自体は、やや荒れ模様だったようだが、FenwayでNHLの試合を観られるなんて、俄かアイスホッケー・ファンの僕からしても相当羨ましい。

最近始めたばかりのイベントを“Classic”と呼んでしまう辺りは如何にもアメリカ的だが、NHLファンの間では結構な人気で、アメリカの新たなお正月の風物詩になりつつあるようである。


my room, Syracuse, Jan 4, 23:28

Public Administration and Law

何事も最初が肝心。

というわけで、降り続く雪の中、朝から雪道をてくてく歩いて大学のジムへと向かう。何となくだが、とりあえず、冬学期の間くらいは続けられそうな予感。毎日、午前中はこれといって予定もないことだし。春学期が始まってジムに人混みが戻ってきても、萎えずに通い続けられるかが勝負の分かれ目。てか、頑張れよって話ですね。

午後からはCrane先生のPublic Administration and Lawのクラスに出席する。学部では法律の授業を一つも取らなかったので、何気にこれが人生初の法律の授業だったり。(ちなみに春学期には、Law Schoolのクラスを一つ、auditする予定。)

クラス全員の自己紹介が終わった後は、みっちり4時間、合衆国憲法についての講義。アメリカの憲法をまともに読むのなんて、もちろんこれが初めてだが、読んでみると、この国が「連邦制」であるということの意味が改めてよくわかってくる。

そもそも、第7条は、憲法が成立するためのratification(批准)要件を定めたもの。さながら、国際条約の様相を呈しているが、この憲法の成立経緯を考えれば、むべなるかなというもの。また、州-連邦間/州-州間の関係を定めた第4条で、「州間の犯罪者の引き渡し」や「州間の移動の自由」について規定しているのも“国際条約的”である。

州及び人民の留保権限(reserved power)について定めた修正第10条(“The powers not delegated to the United States by the Constitution, nor prohibited by it to the States, are reserved to the States respectively, or to the people.”)なんてのも、連邦政府vs州の権力闘争の歴史を露骨に体現していて面白い。英語版Wikipediaによると、一般的には、(憲法の他の部分から)“truism”(自明)と認識されているそうだが、それにしても。
    
この規定と日本国憲法第92条(地方自治の基本原則)(“地方公共団体の組織及び運営に関する事項は、地方自治の本旨に基いて、法律でこれを定める。”)なんかを二つ並べて較べてみると、「地方分権」云々以前の問題として、国の成立ちがそもそも全然違っているんだということがよくわかる。当然ながら、どちらにも良い面と悪い面があるわけだが、大事なのは「根本的に違っているんだ」ということをよく覚えておくことだろう。アメリカの良い面だけをとってきて、安易に日本に接ぎ木しようとするときっと間違いの素になる。
 
なんて風にまとめると、えらく普通のことになってしまうが、このコース、個人的には結構お気に入り。readingは多いが、ちゃんとこなせば、二週間でそれなりのことを学べそう。
my room, Syracuse, Jan 4, 22:52

Snow, cold and wind

タイトルに、なんとも寒々しい単語を三つ並べてみたが、これ、Syracuseの地元紙The Post-Standard昨晩のweb記事からの拝借。旅行から帰ってみたらエラいことになっていた(笑) シカゴから直帰していたらなんとも思わなかったかも知れないが、サンフランシスコの後だけに、若干、凹む…。

Dennis Nett / The Post-Standard

とは言え、この街の除雪capacityはやっぱり立派。ワシントンの惨状を見てきただけに、改めてそう実感する。The Post-Standardのその記事も「こんなひどい雪と限られた視界にも拘わらず大きな事故は一件も起きなかった」(“The 911 centers in the region reported no major problems all day, despite snow showers and squalls and blowing snow limiting visibility on area roads.”)と自慢げに報じている。

こんなsnow showerの中ではあったが、新居への入居も無事完了。今日(月曜日)の午後からは冬学期も始まる。時差ボケなのか旅の疲れか、はたまた元々そういうイキモノだからか、昨日の晩は気付いたらベッドの中だったので、目下、慌てて今日の授業の準備中。このクラスの中身についてはまたおいおい。
my room, Syracuse, Jan 4, 5:18, 2010

Saturday, January 2, 2010

Happy New Year from San Francisco

謹賀新年。MSJも足掛け三年目を迎えました。本年もどうぞよろしくお願いします。

年末年始は、短い休みを縫ってはるばるアメリカまで会いに来てくれた奥さんと一緒に、サンフランシスコとヨセミテを観光してきました。先ほど、空港で奥さんの帰国便を見送り、今は自分のフライトを待つ身。デトロイト経由の夜行便で帰ります。

たかだか5日間とは言え、パソコンから完全に離れて一日中リアルな会話に没入した後、しばらくぶりにインターネットに向かうと、なんだかちょっと不思議な気分がします。新鮮と言えば新鮮ですが、ただそれだけでもないような。何と言うか、毎日毎日、一生懸命パソコンに向かって、blogを書いたり読んだりしている自分の姿が少し滑稽に思えてきたりもします。こういう感覚を覚えておくことも大事ですね。 

ともあれ、今夜の夜行便でSyracuseに戻れば、その翌日からは冬学期が開講。8カ月ぶりのSyracuseでの日々が始まります。長かった留学期間も残り半年。ここまで学んできたことを如何に上手く形に残せるかと、帰国後の更なる進歩に向けた布石を如何にうまく打っておけるかが、この半年の勝負かなと思っています。あ、あと、帰るまでに多少なりとも体型を元に戻すという宿題も…。

というわけで、本年もMSJをよろしくお願いいたします。以下、YosemiteとSan Franciscoの写真を。


Yosemiteは、僕の中では「アメリカ版上高地」。Yellowstoneの雄大さはないですが、観光と自然保護のバランスを巧みに図っているなという印象を持ちました。国立公園にも(あるいは「国立公園にこそ」)「経営」のセンスが必要なんだと気付かせてくれる公園。前提条件がいろいろ異なるとは言え、日本の国立公園もそこから学ぶべきことがたくさんあるように思います。


サンフランシスコは夏に続いて二回目ですが、カメラ片手に街に出れば、いくらでも歩いていられる街という印象は変わらず。坂の一つ一つが各ストリートに違った表情を与え、角を折れるごとに、新たな発見を期待させてくれます。この街を歩いていると、なかなかカメラをカバンの中にしまえません。カリフォルニアの人たちの親しみやすさも印象的。街で見ず知らずの人からいきなり話しかけられるなんてこともしばしば(と、スタバで書いているしりから、となりのおじさんに「そのシャツ良いね。どこで買えるの?」と話しかけられた。笑)。東海岸とは随分違った空気が流れていることを実感します。
San Francisco, Jan 2, 16:57, 2010