Monday, June 28, 2010

8310 miles

二年間連れ添った愛車とお別れしてきました。

個人売買も一応画策してみたのですが、修理屋さんで見てもらったところ、何気に結構ガタが来ていて、いろいろ修繕が必要であることが判明。買い手候補だった人(ていうか、うちの大家なんですけど)はそれ聞いて、購入を断念したので、まぁまぁな値段をつけてくれていたこの地域一番の巨大ディーラーに引き取ってもらうことにしました。買った時もそこだったので、CR-Vにしてみれば、里帰りみたいなもん。

後ろの席のドアのカギが変とか、運転席側のドアにサビが浮いてるとか、年相応に、こまごました不調はいくつか出ているものの、パッと見、そんなに古そうでもないし、何より、足回りは全く問題なかったので、おめかしされた後、数週間後には新しいパートナーを見つけて旅立っていくことでしょう。こっちはこんなに悲しんでるというのに、ほんと、薄情なヤツです。

今日の売却時点で、この車の通算走行距離は108,739マイル。買ったときは101,429マイルだったので、二年間で8,310マイル(=約13,000km)走ったことになります。まぁ、二ヶ月間、ガーナに行ってたり、DCでは、ほとんど週末にしか乗らなかったりしたので、アメリカにしては圧倒的に少ない距離。でもまぁ人生で初めて買った車にしては、よく乗ったんじゃないかと思います。
  
最初の秋は、このblogでもCR-Vのこと、結構愚痴ってましたが、今思えば、よく走ってくれた良い車でした。(立場上、燃費がそんなに良くなかったことはヒミツです。)
my room, Syracuse, June 28, 17:36

Sunday, June 27, 2010

よしなしごと

舌の根も乾かぬうちに、今週末のよしなしごとを。
 
土曜日は、昨日のblogを書いた後、DCからわざわざ出てきてくれたアメリカ人の友人と二人でサッカー観戦。アメリカ対ガーナ戦。普段、自分の生活圏を見渡しながら、「アメリカでは、ワールドカップはそこまで盛り上がっていない」と思っていたが、「盛り上がっていない」んじゃなくて、単純に、自分の周りに人がいなかっただけだということに気付く。大都会NYCでは、ワールドカップは立派に盛り上がっていた。
 
East Villageの数あるバーはどこも満席。しばらく探し歩いた末に、フィリピン・バー(=フィリピン系アメリカ人によるフィリピン系アメリカ人のための健全なバー)に着陸。試合結果は御存知の通り、延長戦の末に2-1でガーナの勝利。僕の友人氏含め、アメリカ人の皆さん(というか、店内は全員そう。何系のアメリカ人かはともかく)、一様に落ち込んでいたものの、立ち直りは至って早い。結局のところ、アメリカ人にとってのサッカーというスポーツは、昼間っから呑む口実にはなっても、そこまで本気で入れ込む対象ではない。友人氏は正直に、「サッカーは4年に1回、(ワールドカップの時だけ)観戦するもの」と言っていました。
  
その後、市内をぶらぶらし、友人氏に夕食を御馳走になった後(ごちそうさまです)、もう一人の方も合流して男三人で、タイムズスクエアのマリオットの最上階にある、展望バーへ。このバー、初めて行った(というか、そんなものがあるなんて全然知らなかった)のだが、マンハッタンのど真ん中からの夜景は、なかなかのもの。それだけに、結構良いお値段するのかと思いきや、入ってみると、中の雰囲気は、どこの街にもあるタワーモノのそれに近く(=basically観光客向け)、それゆえ、値段もそこまで高くはない。席に着くまで、多少待たされはしたが、基本的に予約も不要。この先、NYCに行かれる方には是非お勧め。友人氏の粋な計らいで、NYC最後の夜に、良い思い出をつくることが出来た。
  
そのまま、タイムズスクエアの隣にあるPort Authorityからgreyhoundバスに乗り、明け方6時にSyracuse到着。多少呑んでいたこともあってか、車中では一度のinterruptionもなく眠り続ける。まだまだ夜行バスで動けるなと、いらん自信を新たにする。
  
今日は、夕方から、同級生さんたちと一緒に、Syracuse Jazz Festを聞きに。Onondaga County主催の無料のイベントなのだが、かなり気合いが入っていて、オオトリには、かのNatalie Coleまでが登場する。僕にとっては、「名前は知ってるけど、なんて曲を歌ってるのかは知らない」くらいの人だったのだが、生で聞いてみると、その迫力たるや半端ない。
  

二年の間に、多少は耳が英語に慣れたせいか(ホンマか!?)、英語の歌詞の響きが、留学前より幾分、ハートに直接響くようになったような気もした(救いようなく主観的な意見でスイマセン)。帰国したら、今度こそ真面目にjazzを聞いてみようかと思ってみたり。まぁ穏やかでありながら、みんなが心底楽しんでいる、あの雰囲気は、アメリカ(の田舎)ならではなんだろうなぁーとも思いつつ。日本のjazzコンサートでは、こうはなんないだろなぁ。適当に言ってますけど。
  
明日からは、二年間のMaxwell生活、いよいよ最後の一週間です。
my room, Syracuse, June 27, 23:54

Saturday, June 26, 2010

NYC滞在中

NYC滞在中。帰国前のNYC訪問はこれが最後。残念ながら絵画を愛でる感性をどこかに置き忘れてしまった僕としては、今さら美術館巡りに躍起になるわけでもなく、人に会う以外はスタバでのんびり過ごしています。「あれ、お前、TOEFL受けてるはずじゃ??」――はい、正しいツッコミ。でも人生には時折、TOEFLよりも大事なものがある、といわけで。それが「徹夜カラオケ」ってのは救いようないけど。

最近、ブログの更新頻度が下がっているのは、忙しいからというより、書きたい気持ちが下がっているからだと思います。「考える」のは、とりあえず、もうこんなもんでいいかなと。いや、もうちょっと正確に言うと、また違ったアングルから考えていたりもするんですが、それを赤裸々に書くと、ちょっとじめじめし過ぎてしまうのでいかがなもんかなと。かと言って、MSJで、日常生活のよしなしごとを書く気にもならず。帰国してから、新装開店するならともかく、このblogは、そういうのじゃないかな、と。何のこだわりやねん、こらっ(笑)

ちゅうわけで、この後、帰国までに、何回くらいblog書くかはわかりませんが、何はともあれ、Syracuse生活も残り一週間というわけで。月~木、4日間の授業と金曜日の卒業式でおしまい。
NYC, June 26, 11:00

Monday, June 21, 2010

新学期のきざし

午前中で授業が終わった後、手続きやら何やらでキャンパス内を歩いていると、明らかに新入生らしい人たちを多数見かける。5月後半~6月前半の一か月間は、アメリカの大学が一番静かになる時期で、特にundergradの学生なんてキャンパス内ではほとんど見かけなかったが、そろそろ、サマースクールを受講する生徒たちがキャンパスに戻り始めている様子。
   
銀行で、口座の閉じ方を確認していたら、隣のブースには、ガチガチに緊張した面持ちで窓口の女性と向き合うアジア系の留学生が。それを見て、二年前は自分もあんなだったなぁと思い出す。いや、もっとひどかったかも。というか、あの英語力でよく銀行口座なんて作れたもんだと今振り返ってみて思う。とにかく、あの頃は、いろんなことが無茶苦茶だった(笑)
  
無茶苦茶で、毎日凹みまくっていたけれど、ここ十年くらいの中で、一番気持ちが晴々していたのもあの頃だった気がする。この先二年もあれば、何でも出来るんじゃないかという気持ちで日々過ごしていた。終わってみれば、もちろん、それは幻想で、二年で出来ることなんて限られているということを悟る。この感覚、ひょっとすると人生そのものにも通じるのかもなぁなんて思ってみる今日この頃。何日か前にも書いたけど、「何でもかんでも」欲しがるのではなく、与えられた予算制約の下で最大のことをするにはどうすればいいかと考える時期が来ている気がする。
  
超人でもないわが身。英語も、勉強も、旅行も、インターンも、パーティも、GAも…は出来ないですからね。留学と同じで、人生も、何を選んで何を捨てるか、そろそろちゃんと考えないとな。
my room, Syracuse, June 21, 16:02

思い出づくり

二年前に買ったまま、これまで一度も使う機会のなかった“Hiking New York”なる本を活用するべく、突然思い立って、ハイキングを企画してみた。行き先は、Syracuseから二時間ほど北東に走ったところにある、ちょっとしたトレイル。こんな「藪から棒」企画にお付き合いくださったのは、MPA/IRの二年目組アメリカ人の皆さんと、日本人MPA生の皆さん。ありがとうございます(って、ここで書いても前者の人たちには届かんな)。心配された雨に遭うこともなく、終日、気持ちいい快晴の下、いつになく健康的な一日を過ごしてきました。

ハイキングコースに向かう道すがら、wind firmの真っ只中を通過。規模がメチャクチャ大きかったので、これはもしやと思って帰って調べてみたら、やはり、NY州内最大のwind firmであることが判明。このwind firm、僕の書いた論文に、ダメな風力発電の例として登場するもの。建ても建てたり、195基の風車を建てたはいいが、作った電気を送りだす送電網容量が不足していて、ピーク時には電気を100%送り出せないというのが現状らしい(参考)。せっかく電気作ったのにね、残念…。
二年間連れ添った愛車、CR-Vとの遠乗りも今日のハイキングがたぶん最後。思いがけず、トレイルヘッドに繋がる最後の数mileが未舗装のダート道だったので、わざと水たまりのあるとこを選んで走ったりしながら、最初で最後の“RVらしい”走りを満喫してみました。そういう意味でも良い思い出を作れた一日。
my home, Syracuse, June 20, 25:37

Sunday, June 20, 2010

デカいにもほどがある。

同級生M君とのドライブ旅行第二弾。第一弾の報告、まだ書いてなかった気がするけど、まぁなんしか第二弾。

今日の行き先は、感覚的にはお隣(?)大学のCornellさん。農学、ホテル学、開発学etc.で世界にその名を轟かす名門中の名門。我がSyracuse大学とは、upstateの雄の座を二分する関係にある(と思っているのは、たぶんうちだけ。)
  
Cornell大学は相当な田舎に位置している。Syracuse在住の分際で何を抜かすか!と突っ込まれそうだが、はっきり言って、うちの比ではない。何せ、Cornell生にとっては、このSyracuseに「出て」来て買物するのがイベントになるというくらいだから、その田舎ぶりが察せようというもの。

そんなわけで、都会人bayaとしては、「いつかそのうち行ってやろう」「行けなかったらそれはそれでOK」くらいに思っているうち、いつしかその存在すら忘れかけていた。このたび、M君からの貴重なるお誘いを受け、ついに訪問する機会を得たわけだが、いざキャンパスに足を運んでみて、実物をこの目で見るなり、直観。

ワタクシ、見くびっておりました。

何はともあれ敷地がデカい。うちとCornellを同縮尺で比べると、うちの大学がかなり貧相に見えてしまう。
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実際、キャンパス内を歩いてみて、その広さと風格に圧倒されてしまったワタクシ(とM君)。学び舎の風格という意味では、これまで見てきたどの大学(Harvard、MIT、Columbia、NYU、Chicago U、Naval Academy、UC Berkley、GWU、AU)よりもCornellの方が上に感じられました。広いといっても、ただだだっ広いだけでなく、アイビーリーグの名にふさわしい気品を漂わせているところがこれまた素敵(←完全にやられちゃってる人)

ただ、問題は、結局元に戻るが、「田舎すぎる」ということだと思う。Syracuseもたいがいだが、Cornellで車がないと、移動の自由が本当になくて難儀すると思う。Ithacaの街からは完全に隔絶されているので、歩いてキャンパス外に出るのは事実上不可能だし、キャンパス内の移動にしても、車がないとかなりきつそう。学期中になれば、バスが頻繁に運行されはするんだろうけど。まぁそうやって荒さがしをしながら、Syracuse大の相対的な優位点を必死に探していた、というのが本当のところなのかも知れません…。
キャンパスの中を貫く渓谷の壮観
my room, Syracuse, June 19, 26:00

Friday, June 18, 2010

"No more war"

午前中に授業が終わった後、同級生たちと一緒に、paintballなるゲームをしに行ってきた。この競技、「○○ボール」と名乗って如何にも「球技ですよー」みたいな雰囲気を醸し出そうとしているが、なんてことはない、ただの銃撃戦ゴッコ。いや、「ただの」というわけでもなく、結構本格的な空気銃を使った撃ち合いを有無を言わせずやらされる。弾は、当たると弾けて塗料が飛び出すグミみたいな物体で、これに当たると結構痛い。

もちろん、フットボールやベースボールの類でないということは重々承知の上で参加したので、まったく文句は言えないのだが、「やっぱこの人たちとは何かが違うよね…」と改めて痛感する結果に。どこでそんなワザ覚えるんだよみたいな戦争映画顔負けの普段の文民生活ではまったく必要とされない動きを普通にやってのけたり、やたら統制の利いた作戦で有機的な攻撃をしかけてきたりするアメリカ軍(こっちは、非米連合)。要するに、「おいアメ公、お前ら、どんだけこの競技やりこんでんだよ!!」と言いたくなるわけ。

と思っていたら、僕らと入れ替わりで、お父さん(と思しきデブっちょなおじさん)に率いられた子供たち4、5人がpaintballを開始。年の頃なら小学生~中学生くらい。そして納得。彼らはこうして子どもの頃から訓練されてきたのかと(苦笑)

一応、断わっておくと、クラスのアメリカ人のみんながみんな、この遊びに興じているわけではない。むしろ、今日来ていたメンツは、どっちか言うと、普段の呑み会やらで見かけないメンツがわりあい多かった気もする。アメリカ人全員が撃ち合いゴッコに興じているわけではない、と。かといって、極レアってわけでもないみたいだけど(笑)

連戦に次ぐ連戦で、疲れ果てた日本人同級生の口から洩れた一言――“No more war!!” その言葉の重みが一段と身に沁みる一日でございました。まぁでも、一つの「アメリカ体験」という意味では、これもまた面白かったかな。
my home, Syracuse, June 17, 28:29

Thursday, June 17, 2010

考えつづければ答えは出るか?

たぶん育ってきた環境と、大人になってから出会った人の影響が大きいと思うんだけど、僕は、何か困ったことや不満なことがあると、その原因は何なんだろうかとひたすら考える習慣がある。まぁ、そんなことは、今さら本人が書かなくても、このblogをお読みの皆さんなら、お察しの通りかも知れません。

というか、そうすることしか能がないとも言えるし、そうしていればとりあえず安心できるみたいなところもある。特に、時間をふんだんに使えた留学期間中はそうだった。でも、それって、ある種の“信仰”なのかもなぁ…と、思い始めた今日この頃。「考えよ、さらば答えが与えられん」――ホンマか、と。

考えることが無益ではないこと、いろんなことをクソ真面目に考える姿勢が今の自分を形成してきたこと、その自分にある面では自信を持っていること――これらは全て本当だと思える。ただ、「考える」ことの“限界便益”も、他の財と同じようにきっと逓減していくはずで、だとすると、「とにかくひたすら考える」という姿勢は、有限なる資源の分配方法として賢い選択ではないはず。

ましてや、自分の“予算制約線”は、特に大きいわけでもない。「この人の才能には敵わんな」という人は、これまでの人生の中で何人も見てきた。それでも、これまでは、無理繰り、“予算制約線”を広げる方向で努力していたように思う。頑張っていればそのうち広がるんじゃないかと、自分のポテンシャルに過信していた部分もあったように思う。けど、やっぱり、この年にもなれば、そんなものは、そうそう大きく変わらない。むしろ、自分の“予算制約線”の大きさ(小ささ)を受け入れ、その中での利潤最大化を考える方が、現状と比べて得られるものは大きいような気がしてきた。

そう考えると(また考えてますが。笑)、「考える」ことに割く時間や労力はもっと減らした方が良いということになる。まぁ、何をするにももちろん何かは「考え」るんだろうけども、抽象的なテーマや、「理想」に近いような遠い遠い目標について考えるよりも、日々の仕事を如何に上手く捌くか、日々の生活を如何に楽しむかということの方に、もう少し意識を振り向けるべきなんじゃないかと。

同級生M君との会話や、Executive Leadershipの授業の中で感じたことです。
my home, Syracuse, June 16, 24:20

Wednesday, June 16, 2010

PC復活とExecutive Leadership

まず、何はともあれPC復活。祝!! こんなに荷物の到着を待ちわびたのは久しぶり。

というわけで、さっそく、あんなこととか、こんなこととか、blogに書きましょと思っていたのだが、晩飯から帰ってきて、風邪薬を飲むなり妙な頭痛に襲われて、昨晩はそのままダウン。たまたまそういうタイミングだったのかも知れないけれど、普段あんまり経験しないタイプの頭痛だっただけに、副作用が疑われる…。まぁ、blogを書くこと以外、特にやんないといけないこともなかったので、まぁいいっちゃぁいいんだけど(風邪自体はいちおう良くなってる気もするし)。

Executive Leadershipの方は昨日で二日目終了。周囲の評判は頗るよろしくないが、個人的には、「予想してたのよりは良いんじゃない?」という気がしている。もともとの期待値は僕の中でもそんなに高くなかったわけだが、大して役に立ちそうにない授業というのは、これまでにもいろいろあったわけで、それに比べてこのコースが特にひどいということではない気がする。

ただ、日本人/アメリカ人に関わらず、ここまで周囲の評判が悪いとなると、オレの価値観ズレてるのかなと逆に心配になってみたりもする。まぁ、多少ズレてるんだろうな。

ともあれ、教室の内外で、ここ最近、感じたことについてはまたおいおい。
my home, Syracuse, June 16, 7:57

Monday, June 14, 2010

PC Charger was Broken

久しぶりの投稿です。

何日か前に、PCが壊れたかも的な記事を書きました。

結局、PCは壊れてなかったんですが、ACアダプタが壊れていることが判明(人からお借りした同じモデルのアダプタだと普通に立ち上がった)。で、早速T○SHIBA USAさんに新しいアダプタを注文するも、日本のクレジットカードは使えないとかなんとか(まぁ、それだけなんですが)でトラぶり、ここ数日間、PCなしの生活を強いられております。大学のPCでも日本語使えるんですが(現にいま使ってますが)、なんとなく、心理的ハードルが高いようです。ブログは、自前PCで書く、というのが染み付いているらしい。。

とりあえず、明日には新アダプタが届くらしいので、ぼちぼちブログライフも再開。ここ数日はというと、週末は遊びに明け暮れ、今日からは、Executive Ledearshipなるコースが始まり、気持ち的には、留学終了のカウントダウンが始まった感じ。家では箱詰め作業進行中で、部屋の中が想像以上にひっくり返ってます。思ってたよりモノ多いかも・・・汗。
Maxwell School, Syracuse, June 14, 21:21

Thursday, June 10, 2010

distant goal

capstoneのプレゼンが午前中に終わった後、軽く放心気味に午後の半日を過ごす。今の自分にできることは一応出し切れたんじゃないかと思う反面、それでやれたことがこれだけかと思うと些か哀しくもある。

英語が出来ないなりの貢献の仕方・チームへの食い込み方を自分なりにあれこれ試してはみたが、何はともあれ、ネイティブどうしの会話をもう少しまともに聞き取れないことには、チームの流れについていけない。「一対一なら会話できますよ」というレベルでは、自ずから限界がある。ネイティブ並の会話力を身につけるのは端から無理にしても、もう少し、聞く力と話す力を改善しないことには、まともに英語で仕事をできることにはならないなと痛感。

この先はどうすればいいんだろうか?帰国後は――幸運(??)にでも恵まれなければ――仕事で英語を使う機会もほとんどなくなるわけで、ドラマでも見て勉強するしかないのかな…。仮に仕事で英語に触れることになったとしても、英語文献を読んだり、一対一で外人さんとお話したり、というレベルでは、現状維持には役立っても、改善までには繋がらないようにも思う…。
my home, Syracuse, June 10, 22:44

Wednesday, June 9, 2010

almost there

capstone大詰め。今日は担当教授を前にしての模擬プレゼン。いくつかご指摘はあったものの、“総じて言えばvery good”との評価をいただく。自分で言うのもなんだが、確かに上々の仕上がりだと思う。僕自身、どれだけ貢献できたかはさておき(苦笑)
 
個人的には、反省すべきことがいろいろあるが、何はともあれ、明日のプレゼンがうまくいってくれることを祈りつつ、数少ない自分のパートを練習。
Maxwell School, Syracuse, June 9, 21:20
  

PC Charger Emergency

電源に繋いでいるのに、PCの充電が出来ないという事態に振り回される。

コードがイカれちゃったかと思い、Erie Blvd.沿いのBest Buyに買いに行くも、「TOSHIBA用はないよ」と言われ、Carousel CenterのBest Buyに行っても同じことを言われ(ローカルな話でスイマセン)、一つ下の階のRadioShackに行って、ようやくuniversal対応のコードが見つかる。

良かったよかったと思ったのも束の間、その場でコードを試してみると、PCはまったく反応しない。RadioShackのオヤジ曰く、コードが断絶したときにPC側の受け手もやられちゃったんじゃないかとのこと。そんなことってあるのかなぁとは思いつつ(充電が切れるまでPCは動いていたので、PC本体が完全にやられちゃってるわけではない)、それ以外に納得のいく理由も思いつかないので、最悪の事態(!!)を受け入れる心の準備を始める。

同級生のM君に電話し、学校のPCで日本語を使う方法を伝授してもらいつつ、善後策について協議する。日本で買ったPCをアメリカで修理してもらえるものかどうか、買い直すとしたら、NotebookかNetbookのどっちがいいか…etc. 残り一カ月というタイミングが、また微妙。。

風邪気味の、いつもに以上に動きの悪いアタマで、どうしたもんかと考えながら学校に戻る。何も考えずに、何となく「もう一回だけ」と、コードを繋いで起動ボタンを押してみたら、何事もなかったかのように動き始めるPC。What!!? この数時間に起こったことはいったいなんだったのだ。全く以て納得のいく説明は得られないままだが、何はともあれ、自分のPCでこうしてblogを書けているのが現状。単に接触が悪かったということなのか…?(自宅で試してみても、学校で試してみても、RadioShackで試してみてもダメだったので、単純にそれだけとも思えないんだけど。)

IT関連にはそれほどこだわりはないので、手持ちの機器が最先端でないと厭だということはまったくないのだが、これだけPCを使って日々生活しているわけなのだから、本当は、一揃えのバックアップ(データの、という意味ではなく―それはもちろんなのだが―、装置そのものの、という意味で)を手元に置いておくべきなんだろうなと実感。
Maxwell School, Syracuse, June 9, 16:31

Tuesday, June 8, 2010

"Global Leader"

東京ベースのとある勉強会のメーリングリストで、このところ、“Global Leader”の話題が盛り上がっている。その言葉自体、英語として正しいかどうかはともかくとして、国際社会で活躍できるリーダーになるためにはどういう素養を身につけなければいけないか、といったお話。アメリカ人とのグループワーク漬けの日々を送っている時期なだけに、身につまされる話が多い。

一昔(いや、二昔?)前に流行った、“Globalization = Americanization”みたいな言説に乗っかるわけではないが、結局のところ、“Global Leader”になるための素養というのは、英語圏のビジネス流儀(もちろん英語を含む)を身につけることとほぼ同義なのではないかと思う。語学の壁は大きいし、何はともあれそれを越えないことにはどうにもならないのだが、本気で“リーダー”を張ろうと思ったら越えないといけない壁はそれだけではないはず。こちらのビジネス慣行――もっと分かりやすく言えば「常識」――みたいなものも習得しないといけない。所詮、学生のお遊びとは言え、グループワークで揉まれながら、そのことをつくづく感じる今日この頃(純粋な語学の部分でも、まだまだキツイわけですが。。)。

多国籍企業や、国際機関のHQで働いた経験はないので、実際に見てきたわけではないが、普通に考えれば、そういう“グローバル”な組織も、“グローバル”とは言いながら、結局、英語圏の流儀(せいぜい、その亜流)で回っているんだろうなと思う。仮に「亜流」だったとしても、英語圏出身の人間からしてみれば、外国人に多少「配慮」をすれば済むだけの話なので、こっちみたいに、一からコトバ覚えて、常識身につけて、云々カンヌンというのとは、根本的にワケが違う。羨ましいなぁと思うと同時に、そんな中で、帰国子女でもない日本人がリーダーを張っていくというのは、相当チャレンジングなことなんだろうなと今さらながらに実感する。自分を入れてたかだか7人の今のグループにしても、「明日からお前仕切れ」と言われて、仕切っていけるだけの自信は毛頭ない。それをするには、「議論について行ける」「それなりの貢献ができる」という、今のレベルとは、また一段違った英語力+αが必要だろう。

ホントは、この時期にそこまで辿り着いていないといけなかったんだろうなと思う。今さら言っても、仕方ないんだけど。次に目指すべき段階を、(ただただ「遠ーくの方」というのではなく)一応、具体的にイメージできるようになったということが、せめてもの救いか。
my home, Syracuse, June 7, 25:05

Sunday, June 6, 2010

Kabuto-mushi

International Trade Lawのクラスで一緒だったLaw Schoolの日系人A君に誘われて、Law School生グループのバーベキューに参加してきた。彼らLaw School生は一応既に卒業済みなのだが(そういう意味では、今日集まっていたメンツは、僕以外は全員“Dr.”)、卒業後も引き続き、bar examに向けた予備校の授業を受講中。その授業が月-土の週6日なんだそうで、今夜は束の間の息抜きを楽しんでいるようだった。

A君とゆっくり話をするのは実は今回が初めて。出身はワシントン州のオリンピアだが、小さい頃に、お父さんの仕事の関係で日本に住んでいたことがあるらしく、それがどこかと聞いてみれば、なんと京都の美山町。大学時代に何度か遊びに行ったことのある、僕の大好きな町の一つである。京都市内からはバスで約1時間半。茅葺民家が数多く残る、いわゆる「日本の原風景」みたいな土地だ。

「僕も行ったことがあるし、大好きな町の一つだ」という話をしたら、「美山を知っている日本人には初めて会った」と言って、彼の方がびっくりしていた(笑) 美山では、夏になれば、カブトムシやクワガタムシがそこらじゅうで簡単に捕まえられるらしく、少年時代のA君は、それらを捕まえてきては対決させて遊んでいたらしい。彼の“kabuto-mushi”の発音の流暢さから、如何に彼がその遊びに興じていたかが偲ばれた。
  
大阪の今里に住んでN○VAで働いてたヤツだとか、枚方に住んで淀屋橋のインターン先に通ってたヤツだとか、僕の周りの日本在住経験者は、妙に西に偏っている気がする。いわゆる“類友”ってやつだろうか??
my room, Syracuse, June 5, 25:35

Friday, June 4, 2010

renewed career goal

純粋だった23歳の頃に比べればいろんなことを知ってしまった一方で、何かを達観するにはまだまだ知らないことが多すぎる31歳の今日この頃、この先のcareer goalをどこに設ければいいんだろうかと、改めて考えてみた。というと、記事の内容に比べてちょっと大仰すぎる気もするが。

留学の二年間も含めれば、「環境」の世界で一応、9年間やってきたことになる。今の僕が、「どうしても生きる世界を変えたい」という欲求を持ち合わせていない以上、この先も「環境」という分野で仕事をしていくことには変わりはないだろう。

問題は、その中で何を追い求めていくかである。それを考える上で、温暖化問題に対する自分の立ち位置を認識することは、この時代に「環境」分野で生きていこうとする人間にとって、避けては通れないステップ。では実際、僕自身、どうかと言えば、温暖化問題を全て「陰謀論」で説明しようとする向きには与せないけれども、温暖化問題を巡る世界の動向に陰謀的な要素――温暖化問題を利用して、自国に有利な状況を作りだそうとする動き――が皆無だと決めてかかるのもナイーブに過ぎると考えている。世の中の凡そ全ての事柄がそうであるのと同様に、温暖化問題も、100%本当でもなければ、100%嘘でもない、リアルとフェイクの入り混じった灰色の世界と考えるのが健全であろうと思う。

一方で、二年の留学期間を経て、僕の中での「日本」或いは「国」というものに対する考え方が、それまでとは、少し違ったものになってきたのも事実。「腐っても鯛」ではないが、いくら20年来の停滞の中にあるとはいえ、日本は未だに歴とした大国だし、その国の国民であるという事実だけで、異国の地にあっても様々なbenefitを利用させてもらえるということを、初めて外国で暮らしてみて、つくづく実感した。と、同時に、この「鯛」ステイタスは、放っておいて維持できるものではないということも強く感じている。「鯛」になるための椅子が限られた数しか用意されていないのであれば、他を押しのけてでも、確保すべきものは確保しにいかなければならない、と。

ありがちな言い方で言えば、「国益」vs「地球益」みたいな話なのかも知れない。そこでどういう立ち位置をとるべきかだが、どちらか一方だけを追求するという答えがあり得ないのは言うに及ばず、単純に、「国益も地球益も両方とも大事」という答えもないなというふうに思う。というより、それはそもそも答えの体を成していないと。

両方ともを十全に追い求められるのであれば、そんな結構なことはないわけだが、それが出来ないからこそ、皆苦労しているのであって、単純に「両方とも」と言うだけでは、実質的に何も言っていないのに等しい。問われるべきは、両方を十全に満たす選択肢などそもそもあり得ないという前提の下、では、どのラインで折り合いをつけるのがもっとも適切かという問であろう。

advocateとしてならともかく、行政の立場で環境問題に携わる以上、なすべき仕事は、闇雲に環境の価値(上の話で言えば「地球益」)を唱えることではなく、もっとも適切な折り合いラインがどこにあるかを見極め、それを実現していくことではないかと思う。それこそが、「プロ」の仕事なのではないかと。

そういうことを、この先、一生かけてやっていけたらいいなと、このところ、考えています。“career goal”と呼べるほど、大したものかどうか、わかりませんが…。
my home, Syracuse, June 4, 22:48

Completion

Popp先生からメール到着。Independent Studyについての最終コメント。今週月曜日に提出したバージョンで受理していただけるとのこと。

その他、メールに書いてあったのは、“You have done a nice job bringing together both the economic and administrative hurdles that affect the development of new transmission lines.”とのこと。最後も、彼らしい、politeなコメントだったが、まぁ何はともあれ終局を見たということで、ホッと一息。これでようやく、卒業の目途もついた(実は、これまではついてなかった)。

いろいろと苦労したindependent study。書いたことの中身そのものよりも、「プロジェクトを如何に進めるか」という一般論の部分で、学んだことが多かった気がする。どれだけ未知の領域でも、「とりあえずあれこれ調べてみよう」とするのではなく、常にゴールへの道筋を意識しながら進むべきこと、斬る対象にばかり意識を捉われるのではなく、斬る道具についてもきちんと理解するよう努めるべきこと。Independent Studyから学んだ二つの教訓。
Maxwell School, Syracuse, June 4, 16:26

Wednesday, June 2, 2010

former Maxwell's star professor on TV

一昨年の秋学期――僕がここに来た最初の学期――まで、Syracuseで教鞭を取り、その後、ワシントンの保守系シンクタンクAmerican Enterprise Instituteに、Presidentとして栄転していったArthur Brooksというおじさんが、昨日のDaily Showに出演していた。


ただ、彼の授業は一度も受講しなかったので――いま思えば、もったいないことをしたもんだと思う――個人的な思い入れはこれといってないのだが。とりあえず、カッチョ良い英語を話す人だなと思って、インタビューに聴き惚れてみた。

インタビューの中身自体は、大したことなし。まぁ、尺はもともと8分だし、番組の性質上、ところどころで笑いをはさまないといけないから、議論を深めるにも自ずと限界がある。

むしろ、インタビューを観終わった後に、彼に関するWiki記事を読んで、今さらながら、彼の本を読んでみようかと思った。こんなことを卒業間近に書いてる時点で、「もぐり」の烙印を押されちゃいそうだけど。
my home, Syracuse, June 2, 23:50

Monday, May 31, 2010

First step does not have to be perfect.

先学期は、Comparative Foreign Policyなる授業(と、そのdiscipline)に対する不平不満を何度か書いたが、学期も終わり、その授業をもう受けなくなってから、若干、自分の考えを改めてみた。

当時、僕のフラストレーションの中心にあったのは、元来chaoticなはずのこの世の中を、いくつかのパターンでMECE(mutually exclusive and collectively exhaustive)に説明できると言うかのような、CFPのその姿勢。そこに、いかにも「象牙の塔」的な空気を感じ、なかなか好きになれなかった。こんなものは、実践の役には立たないと。

しかし、最近になってから、choticなものを(無理やりにでも)パターン化する(或いは、カテゴライズする)ことの実践的意味がなんとなくわかるようになってきた気がする。完璧には説明し切れなくとも――もっと言えば、完璧からは程遠くても――、とにかく、何らかの視点で対象物を斬ってみれば、多少なりとも理解が進み、ただただchaosなままに眺めているときより格段に速いスピードで、多くを学べるようになる。うまく斬れなかったとしても、それはそれでOK。その経験自体から、何かを学ぶことができるはず。とにかく、まずは斬ってみることが大事。ただ素朴に眺めているのではなく。

今さらながらだが、CFPの授業からは、少なくともこのことを学ばせてもらったように思う。
my home, Syracuse, May 31, 18:22

Good Bye, Kiyamachi

読者のみなさんの中に、そのお店の名前を知っている方がどのくらいいるのか定かでないが(じゃぁ最初から書くな、という気もする)、京都・木屋町のカレーうどん屋、味々香さんが、木屋町の店を閉じ、川を越えて八坂さんの方に移転されるらしい。

大学時代、木屋町で呑んだ時には、だいたいいつも、明け方近くに寄っていたお店。「〆にカレーうどん」というと、皆さん「えっ」とおっしゃるが、ここのカレーうどんは、良い具合に和風の出汁が聞いていて、荒んだ胃を潤すのに最適だった。一次会→二次会→ラーメン→カラオケ→味々香(→チャリで帰宅)というのが、王道パターン。このサイクルのどこかに、「三条河原ではしゃぐ」という、京都の学生の必須行事が挟まれば、もう完ぺきだった。

卒業後も、二、三度、お邪魔したことがあるのだが、それも全部、呑んだ後――さすがに、二次会+カラオケ後、ではなかったけど――だったと記憶している。夜の街から、ある意味、「京都の顔」とも言える八坂さんのお膝元に移られるということは、店の雰囲気もだいぶ変わるのかなと思ってみたり。祇園から、どのくらい近いかにもよるんだろうけど。星条旗たなびくMemorial Dayのアメリカで、京都のことを思い出してみました。
Maxwell School, Syracuse, May 31, 11:17

Sunday, May 30, 2010

"Dirty Dancing"

昨日のblogでは、「Thousand Islandsは“超”が付くくらいの金持ちたちの保養地」みたいなイメージで描いたが――実際、戦前まではそうだったと思うのだが――今では、もうちょっと庶民的なリゾートホテルが建っていたりもする。そんなホテルの脇をクルマで通過するとき、アメリカ人の同級生が、「“Dirty Dancing”みたいなセカイだね」と言った。「それ、なんね?」と聞くと、「アメリカ文化を知る上で欠かせない一作。今すぐ観ろ」と言うので、今日、さっそく、その『Dirty Dancing』(米・1987)とやらを鑑賞してみる。もう一人のアメリカ人は、「その前にIron Manを観た方がいいよ」と言っていたが、まぁ、順当と思われる判断により、とりあえず却下(笑)

NYC郊外のリゾートホテルで、長期の夏休みを過ごす医師一家。そこの次女である、高校出たてのinnocentなお嬢様が、ホテルで働くダンス・インストラクターと恋に落ち、父親の制止に抗いながら、大人の階段を上っていく、というストーリー。真っ先に浮かぶ感想は「お父さん、かわいそう…」てなもんだが、ここでは、むしろ、ストーリーより文化的背景の方に注目。

作中、NY郊外のリゾート地に家族単位でマイカーで集まってくる人たちは、長期(二、三週間?)の夏休みの間、ゴルフをしたり、湖水浴を楽しんだりしながら、ホテルでまったりと過ごす。客層は、中の上~上の下くらいの人たち。それこそSt. Lawrence川の島の上に別荘を建ててしまえるような、滅茶苦茶な金持ち層ではない。ある意味では、「普通」の人たち。

そんなわけで、ホテルは、Social School的なサービスも提供している。ダンス・スクールは、その中でも一番人気と見え、ホテルは、主人公(男の方)を含む住み込みのインストラクターたちを多数雇っている。リゾートシーズンの終わりには、宿泊客、従業員が参加してのパーティを開催。そこでは、従業員だけでなく、宿泊客の有志も一緒になって歌や踊りを披露。ある種、「大人の学芸会」な様相。その場面は、この映画のクライマックスにもなっている。

作中で、ホテルの支配人が、「世の中も変わった。このビジネスモデルもそろそろ限界かな…」とこぼすシーンがある。その言葉からして、この映画が公開された87年の時点では、こういったスタイルのリゾートは、既に過去のものになっていたということが分かる。今から言えば二世代近くも前の話だ。ただ、この「学芸会」文化、social party文化的なものは、今でもアメリカに息づいているように思う。あくまで、一定の所得層以上、ということではあろうけれど。この辺りは、単純に言葉だけでは割り切れない、文化的な「違い」の部分。そういうところに頑張って入り込んでいかないと、アメリカ人との本当の意味での人間関係はなかなか築けないものなのかなと思ってみたりもする。

アメリカの現代文化(というか、単純に言えば「ノリ」みたいなもの)を知る上で、この手のクラシック映画を観るのはなかなか便利な方法。と言いつつ、僕はこれまでほとんど観て来なかったので、これから留学される方には、早めにいろいろ観られることをお勧めします。
my home, Syracuse, May 30, 19:00

1000 Islands

この地に来てから初めて知った話だが、ドレッシングのThousand Islandsは、Syracuseからほど近い“Thousand Islands”地域に由来している…らしい。「伝説」の真偽はよくわからないが(Wiki参照)、ともあれ、今日は、二年目組の友人たちと一緒に、そのThousand Islands Regionに日帰り旅行に行ってきた。

五大湖の中で一番東(=下流)に位置するOntario湖から、St. Lawrence川がちょうど流れ出した辺りがThousand Islandsと呼ばれる地域。大型船舶も余裕で通れる幅広い河川の中に無数の島々が点在している。“Thousand Islands”なる地名の付け方は、長崎の九十九島や、ラオスのSi Phan Do(「4000の島」の意)とまったく同じ発想。観光ボートのガイドさんの話によると、実際には、この地域の島の数は、大小合わせて2000を下らないらしい。  

View Larger Map  
(Syracuseからだと、ほぼ真北にI-81を北上すること1時間半。)

この地域は、19世紀後半から20世紀初頭にかけて開発された伝統的なリゾート地。American Dream全盛の時代、NYで一旗あげた富豪たちが築いたという別荘が、島々に残されている。もちろん、現役の建物も多いのだが、中には、使われることなく長年放置されてきたという曰くつきの建物も。
その一つが、アメリカ側の港町、Alexandria Bayからほど近いHeart Islandに残るBoldt Castle。プロイセンから渡米し、下積みの末に、ホテル事業で成功を収めたGeorge Boldtなる人物が、自分の夢を叶えるためにと建設に着手したのがこの“Castle”。しかし、愛妻の突然の死で、「夢」を追う理由を失ったBoldtは、電報で以て城の建設の即刻中止を命令。完成を目前に控えていた城と、それに付随する建造物群は、以降70年に亘り、誰に使われることもなく、ただただ放置され、風雪に晒されてきた。1970年代に入り、この地域の道路を管理する公的機関が島全体を買収。その後、少しずつ復旧を進めながら、今は観光地としても公開されている。

実際、島に渡ってみて、城の中を見学してきたのだが、そのセンスの良さは圧巻。贅を尽くしたメインの邸宅の他、出島に作られた古城風の発電所、島の反対側には、同じく古城を模した見張り塔と、まさにやりたい放題なのだが、「いかにも成金」といった嫌らしさがあまり感じられず、全体として、非常にきれいにまとまっているから不思議である。銀閣寺と同じで、完成を迎えなかったことが結果的に良い方向に働いたのかな…なんても思ってみたり。まぁ、Boldtさん自身にとってみれば、悲劇以外の何物でもなかったわけだけれども。
建物の中には、凍結した冬のSt. Lawrence川でアイスホッケーを楽しむ人たちの写真や、別荘の主と思しき紳士淑女たちが、キレイに着飾って並んで立っている写真も。気持ちいい初夏の日差しの下、古き良き時代のアメリカに、少し触れることのできた一日だった。
my home, Syracuse, May 29, 25:45

Thursday, May 27, 2010

Conference Call

Capstoneのプロジェクトは、粛々と進行中。うん、「粛々」という言葉がピッタリくる。

そもそも、クライアントからの注文の内容が比較的はっきりしているので、プロジェクト管理さえしっかりやっておけば、そうそう大爆発は起こらない内容。そこに持ってきて、メンバーの過半(僕は含みません)が優秀なので、プロジェクト管理もほぼ問題なし。もちろん、この先の不安要素がゼロではないが、これまでのところ、文字通り「粛々」と進んでいる。班員は非常にビジネスライクな人たちで、その点が若干不満なのだが、まぁそれも、順調に進んでいるからこそ言えるゼイタクというものか。

他の班の様子を聞いていると、クライアントからの発注の曖昧さゆえに苦戦しているところが多そう。学生の「模擬店」的コンサルティングなのでなおのこと、というところはあるが、曖昧な(或いは、scopeの大きすぎる)発注ではコンサルタントが動きにくいというのは、現実世界にも当てはまる事実だろう。多くを狙いすぎてはダメ。基本的には世の中なんて、漸進的にしか変えられない。大きいけれど具体性の乏しい絵を描くより、分相応にscopeを区切り、その中で、より現実的な行動をとることが重要なのではないかと思う今日この頃。capstoneの話から、飛躍しすぎ?

今日からは、各州立法府事務局への電話インタビューが始まる。インタビュー第一弾はTexas。メモ取り要員(2号)として、最大限の貢献を期すも、Texasオヤジの、こちらの「質問リスト」を屁とも思わない勝手気ままなfree talkの前に、敢え無く惨敗。テーマが分からない議論を追うのは未だにキツイ。しかもそれが電話でとなるとなおさら…。明日は朝からMinnesota州。今日ほどの「自由」さは、Texanに特有のものと願いたい。。

夕食は、僕と同じ二年目組で、元N○VA講師のN君と一緒にMarshall St.のピザハウスへ。それぞれのcapstone projectの話に始まって、旅行のこと、仕事のこと、互いの奥さんのことと、二人でひとしきり盛り上がる。彼がルーマニア系移民の二世だという話を初めて聞いた。確かに珍しいfamily nameではあるが、珍しいfamily nameなんて、この国では、そんなに珍しくないので、これまで気にしたこともなかったし、たぶん、周りの人(アメリカ人含む)も全然気にしていないと思う。Europeanとそれ以外という差は、やはりあるとは思うが、それにしても、二世にして、これほど自然に“アメリカ人”になれてしまうところが、この国の凄さであり、強さの源泉なんだろうなと思う。
my home, Syracuse, May 27, 23:42

Wednesday, May 26, 2010

Recap: "Smart Grid" entries

最近、仲間内のメールで、Smart Gridが話題に上っていた。良い機会なので、関連エントリをまとめておく。既に古くなっている情報もあるが、何かの参考になれば幸いです。
2年前の夏に、勢いで、毎回のタイトルを英語にして以来、その伝統(?)が続いてしまっているが、こうして昔の自分のエントリを見なおすときには、なかなかこっぱずかしいものである。まぁ、あともうちょっとなので、このまま行かせていただきます(笑)
Maxwell School, Syracuse, May 26, 11:29

Monday, May 24, 2010

Cyber-shot

デジタル一眼故障中につき、小さい方のカメラ(某S社製Cyber-shot。伏せ字にする意味が自分でもよくわからない)にて撮影。慣れればこれはこれで楽しいかも。一眼レフとは完全に別物としてだけど。

最近のキャンパスは本当に人影がまばら。これなら、相当恥ずかしい体勢で写真撮ってても(って、変な意味ではなくて、たとえば、芝生に寝そべってキノコを接写するとか)バレない気がする。今日はやんなかったけど。

帰国前に、半日くらい、写真を撮るためだけに、Syracuse界隈で過ごす時間を持ちたいというのが、このところの密かな野望。そのときはもちろん、一眼レフの方で。
my room, Syracuse, May 23, 25:26

Sunday, May 23, 2010

reboot is not easy

ここ一週間以上、論文のことは、blogでまったく書いてこなかったので、(リアルやメールで)話していると、終わったものだと思われている方も多いのだが ―― という話題が出るくらいに関心を持っていただけているだけでも幸甚 ――、実はまだ完全には終わっていなくて、一週間半ほど前に、「ほぼ完成版」を先生に提出したところで、一旦、小休止状態になっていた。

先週金曜日、Popp先生から「ほぼ完成版見終わったよ」とのメールが届く。というわけで、論文モードを再起動しないといけないのだが、capstone(!!)やらpotluck(!?)やらで、実際に時間的に忙しかったのと、気分的になかなかそちらに向かえないのとで、ほぼ丸二日間、放置を決め込んでしまった(お礼のメールだけはいちおうすぐに出しましだけど)。capstoneの方も、週末にやるべき仕事はほぼし終え、言い訳もなくなってきたので、そろそろ再起動するしかない(と言いつつ、blog書いてる)。学期中に比べて、学校も一気に静かになったせいか、最近、エンジンのかかりが遅い。いかんなぁ…。

まったく関係ないが、isologue by 磯崎哲也事務所 のこのエントリ(『既に始まっている電子出版ービジネスマンのための書籍スキャン入門』)に唸る。IT系の話は、好きか嫌いかと言われれば、正直、あんまり好きではないが、情報を効率的に吸収するための技術は、好き嫌いに関わらず、アップデートし続けないとと思う(既に若干遅れ気味…!?)。その意味で、この記事はけっこう衝撃的。とりあえず、キンドルであれ、iPad(as電子書籍)であれ、電子書籍って何が出来て何が出来ないのか、ちゃんと知らないとなぁと思う今日この頃。誰か実際に使ってる人、いないかなぁ…。
Maxwell School, Syracuse, may 23, 17:47

what's the coolest job for MPA alumni?

Capstoneのチームメイトの一人が主催するpotluck partyに参加してきた。メンツはほぼ全員アメリカ人&一年目組で、親しい友人はほぼゼロ。なかなか厳しい環境ではあったが、日本人パーティ隊長(?)Sさんのサポートにより、終始孤立することなく(目標が低くてスイマセン…)楽しませていただいてきた。capstoneのチームメイトがたくさん参加(自分を入れると7人中5人)していたのも僕的にはlucky。皆、普段は、ミーティングが終わるとちゃっちゃと散って行ってしまうので、これまで、ゆっくりおしゃべりする機会がほとんどなかったのが、今日は、プロジェクトの話だけでなく、パーソナルなことについてもいろいろ話すことができた。彼ら的にも、一週間前にいきなり現れたアジア人のパーソナリティが、多少は掴めたと思うし、今週以降のcapstoneは、もう少し議論の輪に入りやすくなるんじゃないかと思う(願望交じり)。

時期が時期なので、自然と、卒業後の進路のことが頻繁に話題に上る。例の“頭が良いと評判”のC君と、もう一人のチームメイトM君(彼もそれなりに優秀。バランス良くまとまっている印象)は、それぞれ、政策系の民間コンサル会社に就職が決まっているらしい。去年卒業組の動向を見る限り、なんだかんだいって連邦政府は、今も人気の就職先のようだが、日本に比べてアメリカの方が、政策に関連した仕事の選択肢の幅が広い分、「公務員」というオプションが相対化されているのは確実。C君やM君が、どういう動機でコンサルという就職先を選んだのか ―― 逆に言えば、なぜ公務員を選ばなかったのか ―― もう少し詳しく聞いてみたい気がする。日本も、今のような政治環境が続けば、どのくらいの速度でかはともかくとして、趨勢としては、公務員の在り方が、アメリカのそれに近付いていってもおかしくないように思う。それが良いことか悪いことかはともかくとして。であるならば、将来像をイメージする意味でも、アメリカの実情を知っておいて損はない。
my room, Syracuse, May 22, 26:12

Saturday, May 22, 2010

more once or twice ...

コースは違うが、今学期、いろいろとお話をさせていただいた、ある日本人の方がSyracuseを去られるというわけで、空港までの足を御提供する。

別に感傷的になるわけではないが、この空港に来るのも、あと一、二回かなぁ…なんてふうにも思ってみたり。Syracuseのようなアメリカの田舎町に住んでいると、どこに行くにも飛行機が便利なので、この二年間は、日本にいたときと比べ物にならないくらい頻繁に空港を利用した。留学期間の途中からは、どこかからこの空港に帰ってくるたび、(愛憎入り混じる思いで)「帰ってきたなぁ」と感じるようになったものだが、この空港に「帰ってくる」のも、あと、一回、あるかないか。

かといって、別に感傷的になっているわけではないのだが(なってる??)残り一月ちょっと、悔いのないように過ごそうと、改めて思ってみた次第。以下、Syracuseに初めて降り立った日の空港の写真を(やっぱり、感傷的になってる!?)
my home, Syracuse, May 22, 6:07

Mashup?

このプロジェクトは、当初 ―― 少なくとも僕が ――思っていたのより、幾分テクニカルな方向に向かい始めている。正確に言うと、“頭が良いと評判”のC君が、昨日あたりから、『依頼者の関心の中心は、単なる情報公開より、テクニカルな方にあるんじゃないの?』と言い始め、僕を含む他の面子が、一日遅れて今日あたりから『確かにCの言うとおりかも知れんなぁ…』と気付き始めたというわけ。てなわけで、今日の午後は、テクニカルな知識のお勉強に費やす。具体的には、Mashup、Web Service、API、etc.

これまでの僕の理解によると ―― と言っても、C君作成“まとめペーパー”に助けられている部分が非常に大きいのだが…(汗) ――、Web Serviceというのは、あるデータ又はアプリケーションの作成者が、自分以外の者の管理・運営するwebsite上でも、そのデータ/アプリケーションが利用できるよう、一定のルールに沿った様式で、データ/アプリを公開すること。あるいは、公開されたその情報のこと。たとえば、このblogでも、たまに、Flickrのスライドショーを埋め込んでいるが(たとえばこの回)、Flickrのああいう機能は、Web Serviceの一例に数えて良いんだと思う。API(Application Programming Interface )は、その中でも特にデータに関するもののよう(厳密に、どこまでを含むのかはよくわからない)。Widgetのように、具体的な形状は持たないが、あるデータのデータベースを外部サイトに提供するようなサービスがこれに当たるんだと思う。

で、それらをどこかから集めてきて、一体のweb siteとして見えるように組み合わせたものがMashup。いろいろ見てみた中で、その特徴が分かりやすく出ているなと思った例がこちら。Scorecard.orgという環境汚染に関するサイトで、住所を入れれば、その地域の汚染に関する情報がアウトプットとして返されるように出来ている。一見、普通の情報提供サイトなのだが、実は、この団体自体は、この機能のベースとなるデータベースを所有していない。政府や他の団体の提供している400以上のデータベースから情報を引っ張ってきて、それらを機械が自動的に処理し、検索結果として表示されるようにシステムが組まれているらしい。もちろん、なぜそんなことができるのかという具体的な話は聞かないでいただきたい(笑)

少し気になっているのは、文献を調べていて検索に引っかかる情報が、だいたいいつも2006~2007年のものだということ。いわゆるWeb2.0ブームの頃に一旦点火しかけながらも、(地図情報APIを除いては)結局、あんまり普及せず消えていった技術なのではあるまいかという気がしてきた。つまり、僕らのクライアントは、やや時代遅れな技術を追おうとしているのではないかと…(CRSがどうかは知らないけれど、一般論として、public sectorにはありがちな話)。まぁ、仮にそうだったとしても、僕らとしては、依頼された通り、調べ続けるしかないわけなんですけど。
my room, Syracuse, May 22, 25:35

Friday, May 21, 2010

Project gets complicated

Capstone5日目。僕らの班のプロジェクトは、①全米50州立法府のWeb開示情報に関するインベントリ作り と②それらの中での先進事例のケーススタディ の二本立て。まずは、来週前半までに①を済ませようということで、今週は、インベントリの項目を決めた上で、各人7~8州ずつを調べ、今日、その結果を持ち寄って「摺り合わせ」を行うというふうに一週間が過ぎてきた。

インベントリの質問項目は、たとえば、「法案を委員会ごとに検索できるか」「発案者ごとに検索できるか」といった、情報開示に関する基本的なものから、「掲載されている法案はauthenticationのなされたものか。yesの場合、その方式如何?」「Web Serviceがprovideされているか?」といった、より技術的な範疇に属するものまで。質問項目を決めていた前回までは、あまり細かい話に立ち入らず、それゆえ、議論は比較的スムーズに進んでいたのだが、いざ、実際の事例をインベントリにインプットしていく段になり、いろんな難問が噴出。限界事例が報告されたり、そもそも、班員の間での理解の不一致が顕在化したり…。てなわけで、今日のミーティングはややギクシャク。

そんな中、何となく班員各人の個性も見えてくる。頭が良いと評判のチームメイトは、決して、議論の次元を誤らない。その点、そうでもないかな(失礼)と感じてしまうチームメイトは、我慢しきれないのか何なのか、班としての今後の進め方を議論している最中に、突然、ひどく具体的なポイントについてのclarificationをtableしたりする。もっとも、そういう場面で、「次元」の不一致を英語で指摘するのは僕にはまだまだ難しい。日本語で「今はそういう次元の話をしていないよね」というべきようなとき、それを、嫌味にならないように英語で伝えるにはどう言えばいいのか…。難しく考えすぎなのかもしれないが、何と言っていいのかよくわからなかったので、とりあえず、竿はささずに場の流れに任せてみた。。。

斯く言う僕も、技術的な知識については、やや出遅れ気味。APIとかWeb ServiceとかBulk Downloadとか言われても、イマイチ、正確に理解できている気がしない。来週以降のケーススタディに備える意味でも、今週末は、その辺りのお勉強に充てようかと。
Maxwell School, Syracuse, May 21, 15:00

Energy Star faces scrutiny

少し気になる記事が出ていたのでご紹介(Sustainable Industries 5/18)。言わば、Energy Starの「偽装」疑惑。

疑惑を告発したGAO(無理繰り言えば、日本の会計検査院に当たる役所。ただし、検査の対象は会計面に止まらない。立法府に所属。)によると(これがGAOの出した紙。別途、30ページモノのレポートもあり)、Energy Starを所管するDOE及びEPAは、これまで、製造業者の“self-certifications”に基づいて、この制度を運用してきていたとのこと(両庁とも、その事実は認めている)。また、GAOがフェイクの製品でEnergy Star登録を申請したら、そのうちのいくつかが見事に通ってしまったらしい。その中には、“Gas-Powered Alarm Clock”なるトンデモ商品まで含まれていたんだとか…。

Energy Starは、クリントン政権下で始まった米国連邦政府のプログラムで、一定の省エネ基準を満たした商品に、ラベル認定を行っている。認定されなければ売ってはいけない、といった強制力をもつ制度ではないが、連邦政府の調達の際に効いてくるなど、実際のインパクトは相当のものらしい。

ちなみに、同ラベルは、経済産業省に申請を行うことで、日本でも取得が可能である(参照)。日本でラベルを取得すれば、同じ商品を米国で売る際にも、そのラベルを使えるという形式になっている。
my room, Syracuse, 5/21, 26:30

Thursday, May 20, 2010

to have atmosphere on my side

グループの中で意見を通すには、その場の空気を味方に着ける必要がある。もちろん、アメリカに限った話ではない。正しい内容をわかりやすく伝えることは、当然、重要なのだが、愚直にそれをしているだけで意見が通りやすくなると考えるのは甘すぎる。

そもそも、質問であれ、意見であれ、何か発言をするときには、その場の多数派意見と自分の考えとの間に、何らかのギャップがあるケースが多い。でなければ、敢えて口を開いて発言する必要はないからだ。それまでの議論の中で出ていなかった(或いは、それまでの議論の流れに反する)考えを聞かされれば、誰だって最初は、「はぬ?」と思う。一旦「はぬ?」と思われつつも、最終的には「あぁ、なるほど。こいつの言っていることは正しいかも知れんな」と思わせるところに、発言を敢行する価値がある。

ここで思うのは、「はぬ?」の直後にどういう空気が漂うかが、発言の内容そのものと同じくらいに、クリティカルだということだ。「こいつ、また訳のわからんことを言いよってからに」と思われるのと、「こいつはいつも良いポイントを衝いてくるから、今回も丁寧に聴いておこう」と思われるのとでは、その後の展開が全然違ったものになる。どれだけ良いことを言おうとも、端から「あしらい」モードで対応されるか、多少言葉に詰まろうとも、続きの言葉を待ってもらえるか。誰に対してもniceに振る舞えるだけのsophisticationを備えた人なら、とりあえずこちらの意見を聞いてはくれるが、そのことと、その場の空気がpositiveかどうかは、また別の問題。コンスタントに自論をねじ込んでいきたいのなら、相手のniceな反応に期待するのではなく、相手がこちらの意見を自発的に「聴きたい」と思えるような空気を勝ち取る必要がある。

というようなことを意識しながらcapstoneに参加しているのだが、3日目終了時点での空気は、まだまだaway。こちらの発言(の中身)は、そんなに間違っていないと思うし、彼らの議論のレベルが、そこまで高いとも思わないのだが、結果的には、まだ信頼を勝ち取るレベルに至っていない。

こっちの考えていることが、齟齬なく相手に伝わるよう、英語の表現方法を改善する必要があるのは確か。それ自体、難題なのだが、それに加えて、難儀だなと思うのは、どこまでの細かさ・正確さを追求すべきかという点。細か過ぎるところに立ち入ると、「確かにお前の言うとおりだが、今はそこまで詰める必要ないだろ」といった反応が返ってくる。それ自体は日本でも同じなのだが、じゃぁどの辺りに、「細かさ」に関しての米国式最適点があるのかが、未だによくわからない。今日、「細かすぎるかな」とは思いながらも、自分の気持ちに正直になって(笑)、3つ、4つ、質問/意見を投げてみたら、総じて、あんまり感じ良くない反応が返ってきた。その発言も、空気が良ければ、聞き入れられたのかも知れず、鶏が先か卵が先かみたいなところはあるのだが。

あとは、自分の存在価値をどこに求めるかということだろう。少なくとも、「この角度からの意見は俺に任せろ」的な領域を持てるといいのだが、今のところ、そういった「角度」はまだ確立できていない。次回ミーティングは、一日空けて、金曜日の正午から。
my room, Syracuse, May 20, 25:07

Wednesday, May 19, 2010

Capstone program starts

今週月曜日から、新学期が始まっている。卒業前、最後となる今学期は、capstone(4週間)とLeadershipナンチャラ(「ナンチャラ」部分が何回聞いても覚えられない)(3週間)の二本立て。7週間後の金曜日には、晴れて卒業式を迎えることになる(はず)。

capstoneは、7~8人のグループに分かれ、グループごとにclientを持ってその要望にお応えするという企画。期間中、他の授業はまったくない。僕のグループは、米国会図書館付属のシンクタンクであるCRS(Congressional Resource Service)からの要望で、米国各州議会のweb上での情報公開の内容(何を開示しているかと、どう開示しているかの両面)を調べる。月曜日には、DCから遠路はるばるCRSの職員の方がお二人お見えになり、このプロジェクトの趣旨を説明して行かれた。ちなみに言うまでもないが、お二人は空路にて来訪。この国で鉄道を使うなんてアホのすること(笑)

中身についてはまたおいおい書こうと思うが、とにもかくにも、この期間中、出来る限りのことをして、チームに食い込んでいきたいと思っている。そう思うのは、この反省を踏まえ、この言葉に感化されてのもの。二年の留学期間中、アメリカ人との交流に、終始、及び腰だったことは否めない。今さら意識を変えたところで、多くを取り戻すことは出来ないかも知れないが、留学中最後のチャンスとなるこのプロジェクトで、とにもかくにも、今自分にできる最大限のことをやってみて、自分の能力の外縁を少しでも広げたいと思っている。最後の悪あがきであれ、なんであれ。

チームメイトは、アメリカ人の男6名。全員一年目の生徒で、二年目組の僕と面識のあった人はゼロ。ただ、日本人一年目組の人たちから事前に聞いていた通り、なかなか優秀なメンツが揃っていて、最後の悪あがきをするには申し分のない環境。これまで二日間のミーティングでも、しょうもないやり取りはほとんどなく、サブ・ロジ両面で、非常に合理的な議論が交わされている。このグループに入れたのは非常にラッキーだったと思う。

その中で、自分が如何に付加価値を示し、同僚として認められるかとともに、プロジェクトの中身を離れたプライベートの領域でも、彼らとの間で、どれだけ実質的な親交を築けるかが、この先一か月間の勝負。英語力が足りていないのは重々承知だが、英語力だけでなく、これまでの自分の経験を総動員して挑んでみようと思う。
my room, Syracuse, May 19, 8:46

Monday, May 17, 2010

Precious experience??

Syracuse到着予定時刻まで1時間を切った正午過ぎ、前掲のエントリを準備していたら、突然、大きな「ガタン」という音とともに、車輛両側の窓が粉塵に包まれる。「さすがに運転荒すぎだろう」と思っていたら、慣性力を使いきったところで列車は停車。と同時に、石油の臭いが車内に発ちこめはじめた。

「え?事故??」なんて思っていると、「車両後方に移動せよ」との車内アナウンスが。小さい方の鞄だけ引っ掴んで人の流れに乗る。車両後方の出口から地面に降りたところで待機命令…。というわけで、見事に鉄道事故に見舞われたのでありました。

現場では、事故原因についての説明はなかったが、この記事によると、隣に停まっていた貨車の破片を拾ったのが直接の原因だったらしい。その破片が、ディーゼル機関車の燃料系統を破損。線路の上にディーゼル燃料を撒き散らすとともに、機関車は自走能力を損亡。一瞬、火の手があがったとの話もあったが、その辺のところはよくわからない。とにもかくにも、幸い、けが人は一人も出なかった模様。
(とりあえず追い出されてみた人たち。)

線路の脇で2時間ほど待たされた後、地元消防署のバスに分乗して、最寄りのUtica駅に移動する。後続の列車が同駅に到着したところで、僕ら先行列車の乗客が乗り込む。それが3時半ごろ。事故現場の安全確認が出来次第、出発するという話だったが、それが結局8時ごろまでかかり、日が暮れかかった頃になってようやく出発。途中、事故現場で一旦停車し、事故列車から運び出された乗客の荷物をピックアップした上で、残りの旅程に向かった。幸い、僕の荷物は問題なし。

それにしても、こういう場面でのアメリカ人のおおらかさには驚かされる。日本で同じことが起これば、乗客の詰問の嵐の中で右往左往する乗務員の姿が容易に想像できるが、そういった局面は、最初から最後まで、一度も訪れなかったといっていい。「荷物はどうなるの?」との質問が出ても、乗務員が「消防署の現場検証が終わるまではまったく手出しが出来ないし、それが何時に終わるかも我々Amtrak側にはわからない」とだけ言ってしまえば、乗客の側はあっさり納得する。日本での様子を見慣れている側からすると、そのやり取りは、まるで魔法か何かのよう。線路で待たされている間もガタピシ文句は言わず、知らない者どうし、自然と会話を初めて適当に盛り上がるのみ。Utica駅への送迎に来た消防バスの運転手が「このバスは無料ですよ」なんて場違いなギャグを飛ばしたところで、「不謹慎だろう」的な反応はなく、皆、手を叩いて喜ぶ(それも、いわゆる「乾いた笑い」でなく、ホントの笑い)。というか、そのギャグを「場違い」だと感じたこと自体、そのバスの中では僕だけだったのかも知れない。

昔から思っていることだが、こういう局面で、なぜアメリカ人が「大人」な反応をとれるのかはよくわからない。一方の日本人が、ヒステリックに反応し過ぎなだけという気がしないでもないが、ただアメリカ人とて、あらゆる場面で「大人」なわけでは決してなく、むしろ子供っぽい性向の強い人たちでもあるわけで、なぜ事故や災害で交通機関が遅れたときの反応がこんなにおおらかなのかは、僕的に非常にナゾなまま。今日の事故で、そのことを改めて感じた。

そもそも、公共交通機関に対する期待値が低いということもあるのだろう。サービスに対する期待値が一般に低いということなのかも知れない。レストランのウェイター/ウェイトレスのサービスの悪さには、今でもたまに腹が立つことがあるが、アメリカ人のお客さんが、苛立っているような様子は見たことがない。

ただ一方で、苦境の時ほど力を発揮する、彼ら一流のユーモアの精神も功を奏しているのかなとは思う。この点に関しては、日本人も大いに学んで欲しい気がする。まぁアメリカ人にはそれと同じかそれ以上の勢いで、東アジア的勤勉さを学んでいただきたいですけど…(笑)
で、結局Syracuse到着は夜の10時。DCを3:15に出て以来、都合19時間の長旅でした。へとっ。
my home, Syracuse, May 16, 25:48

Precious friends, precious words

前回のエントリをアップして以降は、NYとDCで密度の濃い36時間を過ごす。金曜午後、NYで勉強会(+ 懇親会)に参加した後、土曜朝一のバスでDCに移動。お昼前に到着後、DC時代の友人宅でのお好み焼きパーティにお呼ばれ。夕方からは、来月アメリカを発つ予定の、とある後輩のフェアウェルパーティに出席。三次会まで盛り上がった後、日曜早朝3:15amのAmtrakでワシントンを発。朝、NYで乗り継ぎ、Syracuseに向かう列車の中でこのエントリを執筆中。

DCでの僕の交友関係は、昨秋の、その後輩君との出会いをきっかけに、何倍にも広がった。そんな彼の送別会には、実にたくさんの人たちが集まり、彼の交友関係の広さと、人望の厚さとを物語っていた。彼との親交は、留学終了後も、末長く維持し続けていきたい交友関係の一つ。また、彼のおかげで知りあうことができ、昨日、数か月ぶりにお会いできたDC在住日本人の方の中にも、同じように連絡を取り続けたいと思える方がたくさんいらっしゃる。こうした出会いの機会を得られたことは本当にラッキーだったと思う。
    
その前夜、NYでは、こちらでお仕事をされてそれぞれ20年、30年になる在米邦人のお二人から、いろんなことを教えていただく機会を得る。お二人曰く、数としては、在米日本人はそれなりにいるけれども、「お客さん」ポジションを脱し、他のアメリカ人と変わらぬ扱いで、米国社会の中核に食い込めている日本人は、本当に少ないんだとか。加えて、日本本国の側が、そのことの重要性を認識できていないとも。むしろ、そういった方々の存在を「見なかったこと」にしようとする心理が働きがちだともおっしゃっておられた。
 
一方で、日本人(或いは非欧州系米人)がどうあがいても越えられない、ある種、本能的な「壁」が存在する可能性についても言及しておられた。それは、僕らが、自身の拙い英語力の故に感じるコミュニケーションの壁とはまったく異質のものなのだろう。何不自由なく英語を使いこなし、組織や社会に何ら遜色のない貢献を果たしていても、越えられない「壁」。それは、この国(の主流派)の人たちの、ある種本能的な反応であり、彼らが非常事態に見舞われ、理性が限定的にしか働かなくなったときに、顕在化するものなのかも知れない。
   
いずれにせよ、日本人が、この国の中でどのあたりまで食い込めて、どのあたりで「壁」を感じるのか、そこの微妙な感覚は、彼らのように、何十年もかけてこの国で苦労を重ねながらキャリアを積んでこられた方々にしか把握しきれないものなのだろうと思う。こういった、本ではとても勉強できないようなお話をうかがえたことも、留学の非常に大きな成果だと思う。
Amtrack車中にて May 16, 12:00 

Friday, May 14, 2010

The experts know best

昨晩からNYCに滞在中。昨晩と今朝のそれぞれ、こちら在住の日本人の方とお話しをさせていただく。昨日は初めてお会いした方。今朝は二回目にお会いした方。

お二人とも、まったく分野は違うが、それぞれの道のプロとして、この街で活躍しておられる。別に「NYだから」というわけではないが、プロの方の話を聞くと、毎度、かなわないなと思わされる。そんなの当たり前なんだけど。餅は餅屋。

仕事として、ある分野、ある業務を扱っていれば、否が応でも、毎日、それに触れなくてはいけない。その日々の蓄積たるやすさまじく、門外漢が、多少、興味を持って勉強したくらいでかなうわけはない。という当たり前だけど、ともすれば忘れがちな ―― 忘れないまでも、過小に評価してしまいがちな ―― ことを、重々わきまえたうえで、賢く動かないといけないんだろうなと思う。ジェネラリストとしてやっていくためには。

今朝聞いた、欧州化学物質規制の話は非常に面白かった。ただ、「面白かった→近々もう少し勉強しよう」では、99.9%、お蔵入りして終わる。最低でも、①勉強した結果を自分の仕事にどうつなげるか、②具体的にどういう手段で勉強するか(特に、継続的な情報のupdateをどう行うか)の二点を明確にしておかないと、忙しい日々の中では確実に埋没してしまう。

そして話は戻るが、本当にその分野を深く勉強しようと思ったら、どうにかして、仕事で関わるしかないのだろう。

午後はとある勉強会で、例の(出来の悪い)修士論文について発表(←ニホン語)してきます。
NYC, May 14, 12:16

Wednesday, May 12, 2010

Driving Habits vs Gas Prices

This looks interesting (via Chart Porn
my home, Syracuse, May 12, 13:03

"Economics" @ Wikipedia

英語版Wikipediaの“Economics”の項(小見出しとしては“Criticisms of economics”の下)に、気になる記述があった。Wikiから直接引くのは禁じ手かなぁとも思いつつ、手元に残しておきたい一節なので、引用させていただくことにする。
Economics per se, as a social science, is independent of the political acts of any government or other decision-making organization, however, many policymakers or individuals holding highly ranked positions that can influence other people's lives are known for arbitrarily using a plethora of economic concepts and rhetoric as vehicles to legitimize agendas and value systems, and do not limit their remarks to matters relevant to their responsibilities. The close relation of economic theory and practice with politics is a focus of contention that may shade or distort the most unpretentious original tenets of economics, and is often confused with specific social agendas and value systems. Notwithstanding, economics legitimately has a role in informing government policy. It is, indeed, in some ways an outgrowth of the older field of political economy. Some academic economic journals are currently focusing increased efforts on gauging the consensus of economists regarding certain policy issues in hopes of effecting a more informed political environment.
具体的にどういう方法で以て…というような正確な理解をすっ飛ばした、非常にざっくりとした感覚として、僕の頭の中には、social scienceとしてのeconomicsが、practicalなpolitical actsに、直接貢献できるかのようなイメージ/幻想があった。上の一節(の前半部分)は、その点を明確に示してくれていて(“Economics per se, as a social science, is independent of the political acts of any government or other decision-making organization”)、個人的には頭の整理に役立った。

昨日の話の続きで言えば、経済学という“道具”で調理できる“食材”の幅は、一般に、policymakerサイドで信じられているのよりも狭いと思う。MoFさんなりBoJさんならともかく、うちのような組織だと、経済学という道具に慣れていない分、ますますその傾向が強いかも知れない(例によって、自分のことはヨイショと棚に上げておく)。

そういう状況の中で、自分はどういう立ち位置を目指すべきかと考える。具体的にどういう貢献が出来るかというところから、逆算して考えていく必要があるのだろう。
my home, Syracuse, May 12, 10:35

What can you cook with your soup pan?

Independent Studyのダメだった点を改めて考えてみた。基本は、この日に書いたのと同じことだが、もう少し落ち着いて、冷静なアタマで分析してみる。

まず、前回の「反省文」を書いた時点でも、まだクリアには自覚していなかった点。論文を書き始める前に、経済学論文の“基本パターン”を押さえていなかったのは、(こんなところで書くのも恥ずかしいが)我ながら、恐るべき蛮行だったとと思う。

思うに、「論文を書く」という行為には、三つの要素が絡む。料理にたとえるならば、“食材”と“道具”と、料理人の“技量”。論文で扱う問題が“食材”ならば、それを分析するツール/方法論が“道具”、執筆者の能力が“技量”という具合いである(←あくまで僕オリジナルの発想であって、特に根拠があるわけではない)。

“道具”としては、economicsなりpolitical scienceなりengineeringなりといった方法論があるわけだが、料理に用いる道具と同様、方法論には、それぞれ、得意・不得意な“食材”がある。「炊飯器」という道具で「米」という食材は調理できても、「かぼちゃ」を調理するのは難しい(実際、試したことはないが、たぶん難しいと思う)。その点、経済学/economicsなる道具は、非常に多機能・多用途で、それ一つあれば何かと調理できるのは事実 ―― ソースパンくらいのイメージか。だが、そうは言っても、ソースパンとて、この世の全ての食材を調理できるわけではない。また、どの程度、幅広い食材を捌けるかは、料理人の“技量”にもかかっている。料理に自信がないのなら、スープパンで米を炊くのは止した方がいい。残念な結果に終わるのはだいたい目に見えている。

この例で言えば、僕は、食材を観察することばかりに気を取られ、手持ちの道具がどんな食材の調理に向いているのか、まともに勉強したことも、気にしたことすらなかったおっちょこちょい、ということになるのだろう。自分の技量を踏まえるならばなおさら、トリッキーな食材ではなく、ソースパンにお似合いのオーソドックスな食材の中からテーマを選ぶべきだったと思う。

この反省から今後の教訓を得るならば、「もっと“道具”に気を使うべき」ということだろう。短絡的に“食材”に目が向きがちなのは ―― 少なくとも僕の場合 ―― 論文執筆に限ったことではない。普段の仕事でも、手持ちの道具で何が出来るかを考える前に、単純に、問題の全貌解明に走ってしまったことがあった。

時間が無限にあるのなら(あるいは、全貌解明したところでたいして時間がかからないのなら)それでもいいかも知れないが、限られた時間の中で最大限のアウトプットを出すには、手持ちの道具の特性を常に意識しつつ、それを実際に使うためにはどういう情報が必要かという視点で、濃淡をつけて問題を理解していく方が効率的。

もういい加減大人なんだから、そういう仕事の仕方も覚えていかないとなぁ。我ながら、レベルの低いことを言っているような気もするが、ともあれ、それに気づかせてもらえたのは、論文を書いたことの、少なくとものメリットだった。
my room, Syracuse, May 11, 26:17

Monday, May 10, 2010

Uncomfortable Zone

少し前のことになるが、Lilacさんの5月3日のエントリには、正直、身につまされるものがあった。

MBAに行く意味を高めるためにはどうすればいいかというお題のエントリで、その一発目に書かれてあるのが、「『今の自分を根本的に変える』ような破壊的な自己革新目標」を持てというもの。エントリを読み進めていくと、ご丁寧にも、「割と年いってからMBAに行く人」向けの注意事項まで書かれてある。抜粋させていただくと、
特に30代とか、割と年いってからMBAに行く人は、このことは明確に心に留めておいたほうがいい。年をとると、どんな環境でも、自分が快適と思える逃げ場を作るのがうまくなる。それをやっていたら、破壊的な成長は出来ない。
との由。また、「破壊的な自己革新」を遂げるためには、“常に自分をUncomfortable Zone(つらいと思う状況)に置”かなければダメだとも、同じエントリの中に書かれてある。

どれもこれも耳が痛いお話。というのは、取りも直さず、非常に的を射た指摘だということなのだろう。

振り返ってみるに、僕の留学二年間というのは、ここで言う「破壊的」自己革新とは、ある意味で、対極に位置するものだったように思う。別に、遊んでいたというわけではない。その点だけは、いちおう自信を持って言える。ただ、その努力の仕方が、「破壊的」なものではなく、極めて「連続的」というか、要するに、自分を大きく変える方向にではなく、留学前からの自分の強みをコツコツと延ばしていく方向にだけ向かっていたように思うのだ。

このblogは、良くも悪くも、その最たる例だった。英語でのコミュニケーションがままならない中で、日本語という慣れ親しんだ言語で以て自分の思いを自由に走らせられるこの空間は、僕にとって、“Uncomfortable Zone”ならぬ“Comfortable Zone”の極み。期せずして、こういう空間を持てたおかげで、日々の執筆作業を通し、自分なりに思考を深めて来られたのは事実であるが、その反面、自分の中でのフラストレーションを「上手に」コントロールする術を覚えてしまい、自分の出来ないことに対して真正面からぶつかっていくモチベーションを少なからず宥める効果も持ってしまっていたように思う。まさに、Lilacさんのおっしゃる通り、『年をとると、どんな環境でも、自分が快適と思える逃げ場を作るのがうまくなる』ということの典型例だったのかも知れない。

せめて一年前にこの記事を読んでいたらと思う反面、一年前だったらここまで真剣には受け止めていなかっただろうなという気もする。結局、根底にあるのは、三十云年の時間の中で培われ、固定化されてきた、僕という人間のattitudeだ。本人を御存知の方なら重々ご承知の通り、いろんな物事(自分の中のフラストレーションも含めて)と折り合いをつけることには、それなりに長けているが、内面から湧き出るが如き情熱で以て、riskをどんどんtakeしていくような人間では決してない。そういう人間が、このLilacさんの記事を読んで、何らの言い訳をせずに、素直に反省できるのは、結局、留学期間も終わろうとしているこの時期だからこそなのかも知れない。

このエントリをどう閉じればいいのか、よく分からなくなってきた。たぶん、日を改めて、この先に言うべきこと――たぶん、自分に対して――を見つけ出して、blogにアップするんじゃないかと思う。
Maxwell School, Syracuse, May 10, 18:40

Sunday, May 9, 2010

Second Straight Win

シカゴから無事帰還。シカゴの空港でのチェックイン時に、「目的地のお天気:1℃/Snow」と表示されているのを見たときは、正直、我が目を疑ったが、幸い、僕が到着したときには雪は降りやんだ後だった。もっとも、お昼間には、かなり本格的な雪が降っていたらしい。卒業式間近だからと言って、天気の神様もそこまで本格的に演出を施す必要はないと思うのだが…(って、アメリカ人の頭の中に、“卒業式=寒いモノ”なんてイメージはそもそもないのか)。

シカゴでは、このブログでも予告(??)していた通り、数年ぶりに会う後輩と何をするでもなくぶらぶらと過ごす。お互い、是が非でも観光地を巡らねばというタイプではないので、非常に気がラク。街をぶらぶら歩いたり、ホテルの部屋でTVを観るともなく観たりしながら、近況報告に華を咲かせる。
    
二カ月の短期間とはいえ、こちらにいる間、アメリカ人の部下を従えて仕事をしているという彼の話は、なかなか面白い。英語自体もさることながら、労働習慣という意味でも、日米の違いに日々接しながら、次々と押し寄せる壁を乗り越え(たり乗り越えられなかったりし)ているのだろう。そう考えると、自分も、去年の秋インターン中、もっともっと積極的にアメリカ人ワーカーたちと絡むべきだったなぁと反省。。

ゼミの同期や先輩/後輩の近況話になると、ややしんみりした気持ちにもなる。卒業から10年近くも経てば、当たり前だが、結婚していたりしていなかったり、東京にいてたり地元に戻っていたりと、各人各様の人生を歩んでいる。互いに比べてみたところで何の意味もないのだが、数年前には、みな、だいたい同じ地点に立っていたのが、今や、「てんでバラバラ」とまでは言わないまでも、人それぞれに違った方向を目指して進んでいっていることを思うと、彼らもそうだが、自分自身も、戻りようのない数年間を送ってきたんだなという事実に気付かされる。必ずしも、いまの仕事を一生続ける必要はないにしても、これまでの経験をチャラにして新しいことを始めるのには遅すぎる年齢に達しているのもまた事実。良きにつけ悪しきにつけ、これまでの蓄積を土台にして、その上にキャリアを積み上げていくしかない。蓄積なくして大きな仕事はできないので、むしろ、積極的に評価すべきことなのかもしれないが、自分の取りうる選択肢が狭まりつつあることに、寂しさや、一抹の不安を覚えるのは、それはそれで、人間のサガというものだろう。

なんてことを書いてはみたものの、シカゴ滞在中は、完全に弛緩しきったモードで過ごす。一昨晩に続き、連夜の野球観戦となったWhite Sox vs Toronto戦では、途中、野球を観るより、周りの人間の人間観察に忙しくなる一幕もあったが(突っ込みどころ満載な人多すぎ!!)、気が付けばWhite Soxが勝利を収めていて、前夜のSyracuse Chiefsに続き、僕の中では二連勝。試合後には、予想だにしていなかった勝利の花火大会までオマケで付いてきた。

唯一問題だったのは、5月ともあろうに非常に肌寒く、街行く人たちがコートを羽織っている中、我々二人は、シャツにセーターという薄手の出で立ちでChicagoに乗り込んでしまった点。後輩君は結構寒さにまいってしまって、ホテル帰宅後には、寒さからくる腹痛に苦しめられていたほど。非常に申し訳ないことをしてしまったのだが、僕はというと、なんだかんだでまぁまぁやり過ごしてしまい、二年間のSyracuse生活の成果を改めて確認する結果に(←そこで!?)

ともあれ、特にこれといって派手なことはしなかったものの、後々、良い思い出として記憶に残りそうな、たいへん良い感じの週末Chicago旅行でした。以下、いつも通り写真を(なぜか表示順がランダムなので、時系列順に見たい方はflickrサイトをどうぞ)。

Maxwell School, Syracuse, May 9, 22:09

Saturday, May 8, 2010

ready-to-use knowledge

帰国の日が近付くにつれ、「すぐに役立つ」知識に対する欲求が高まってきている気がする。何が「すぐに役立つ」知識かは、与えられる仕事次第で違ってくるので、最終的には、東京に戻ってみないとその範囲は特定できないが、よほど特殊な部署に配属されでもしない限り、理論的な経済学が、そのままの形で「すぐに役立つ」知識になり得ないことは明らか。政策づくりを理論的に支える縁の下の力持ちとして重要な役割を果たすにしても、文化包丁的にそれ一本で何から何まで料理してしまおうとするには無理がある。

その点、「すぐに役立つ」知識として、もっともその目的に適っているのは、何と言っても、過去のケースからの教訓であろう。成功例であれ、失敗例であれ、過去の同様の取組事例を知っていれば、それだけでも政策立案の際には「すぐに役に立つ」し、そういった事例をいくつか集めて、そこから共通する傾向を引き出せれば更に有効な情報となり得る。経営学の世界では、大々的に行われている研究手法である。

なまじっか抽象化された理論(経済学、政治学、etc.)の方が高度に発展し過ぎてしまっているせいか、政策の世界では、経営の世界ほどにはケースタディ的研究手法が発展していないように思う。あるいは、この世界では、ケーススタディが、正統派の学術研究よりも一段低いものと見なされている結果――まぁ、それ自体は別にそれでもいいんだけど――、国をまたいでの知見の収集・体系化がそれほど進んでいないということなのかなぁとも思う。

もっとも、政策の世界でも例外はあって、金融政策や、military operationも含めた防衛政策の世界では、理論的な研究と併せて、ケーススタディ的な議論も盛んに行われているように思う。一方で、例えば僕の専門領域である環境政策について言えば、他国の事例を横断的に学ぼうとしたときには、いったいどこにアクセスすればいいのか、といったところからして迷ってしまう。僕の勉強が足りていないだけなのかもしれないけれど。
たとえば、環境を学部名に冠したスクールなどでにいけば、そういったケーススタディを横断的・体系的に教えていたりもするのだろうか。 この辺りにアクセスすれば、それなりの情報が取れる、といったところがあるのであれば、押さえておきたいようにも思う。
Chicago, May 8, 11:07 CT

Friday, May 7, 2010

weekend trip

最近、更新が滞りがちですが、基本、元気に過ごしてます。引き続き、二本のペーパー(Independent Studyのthesisと、もうひとつ、他の授業のterm paper)と格闘中。いちおう、ゴールに近付いている…とは思いたい。まぁ、たぶん近付いてるんでしょう。そうであっていただきたい(笑)

先ほど、今学期最後のプレゼンを終えたところで、今晩からは、二泊三日のChicago旅行に行ってきます。主たる目的は、大学時代の後輩との再会。日本にいたときから長らく会っていなかったので、彼と会うのは、二年どころじゃなく、何年ぶりか。そんなわけで、観光をするというよりは、彼とゆっくり話をするのがメインになりそう。といいつつ、明日のランチは、彼がChicagoに到着する前に一人で済ませることになりそうなので、メキシコ料理チェーン店、Chipotleの在処をGoogle mapで打ち出しておく。どんだけ好きなんだよ!? と突っ込まれそうだが、この気持ちは、いつでもChipotleに行けてしまう都会の人にはわかるまい(笑)

今晩は9:41発の夜行列車に乗車。それまでは、同級生たちと一緒に、地元AAA球団、Syracuse Chiefsのナイターを観てきます。誘ってくれた日本人のN君(元高校球児)によると、今夜の試合は、昨年全米ドラフト一位の剛速球ピッチャー、ナントカ君(←名前忘れた)のAAAデビュー試合なんだとか。うまくいけば、二、三年後に、「オレは、ナントカが一軍デビューする前からずっと追っかけてたんだぞ!!」と自慢できるようになるかも(←若干、脚色気味)。そんな期待を込めつつ、今宵のナイター、楽しんできます。

ちなみに、球場と駅があるのは、ともに、市内から車で15分程かかる中途半端に不便なところ。ただ、その二つは隣り合っているので、ナイターを見終わった後に夜行列車に乗る人(←そんな人、僕以外にいるか??)にとっては非常に便利。二年間、この街に住んでいて、初めて「Syracuse駅って便利なところにあるな」と感じた瞬間。
Maxwell School, Syracuse, May 7, 17:41

Wednesday, May 5, 2010

‘shrimp-turtle’ in US

NYT blog reports that "About 35 endangered sea turtles have washed up dead on beaches along the Gulf of Mexico." Regardless of where I'm working for, personally, I do love sea turtles (honestly, much more than other wild animals), and therefore this news was tragically sad for me...

According to the article, those suspected of killing the turtles are not BP's oil, but shrimpers. Shrimpers? Shrimpers and turtles?? That sounds familiar...

Yes, 'shrimp-turtle'is a classic WTO law case, in which US claimed the legitimacy of its import ban of shrimps that were "harvested with technology that may adversely affect certain sea turtles." Simply put, US's measure was ruled as legitimate under GATT Article 20 (Exceptions) unless it is applied in a discriminating way between WTO members.

But, I believe that WTO Appellate Body's rule premised successful enforcement of US domestic Endangered Species Act, which requires US shrimpers to use “turtle excluder devices” (TEDs) when fishing in areas where there is a significant likelihood of encountering sea turtles. Now, this premise looks somehow questionable, "the real culprit" has not yet been clear, though.

If this premise had gone, how would it affect the conclusion of 'shrimp-turtle' case? I think this point has not been discussed so much.
Maxwell School, Syracuse, May 5, 19:22

Another advantage of MPA school

去年組のお二人(日本人のYさんと、スウェーデン人のくNくん)が、時を同じくしてSyracuseを再訪中。昨日は、Syracuseに居残っている去年組数名で、二人を囲んでのささやかな昼食会を開催した(@パンダ某)。

スウェーデン外務省に二年契約で勤務中と言うNくんが、一年ぶりのセサミチキンに感嘆の声を上げる(まぁ、普段からよく叫ぶ男だという話もある)。彼によると、ストックホルムの中華料理屋は、セサミチキンをやっていないらしい。言われてみれば日本の中華料理屋にもそんなメニューはあんまりなかった気がするが、ないと困るというシロモノでもなかろうにと思ってしまう僕。個人的には、いわゆる普通の「からあげ」が、この国の中華料理屋にないことの方が大いに不満。甘辛ソースとか、ピリ辛ソースとか、そういうわけのわからんもんがかかっていない、純粋無垢な(?)からあげを食べたいだけなのに…。王将との再会が今から待ち遠しい。

そんな話はどうでもよくて、言いたかったのは、先週、DCで開催されたN君を囲む会に、Class of 2009のメンツが20人も集まったらしいというお話。N君の人望の厚さは言うに及ばずとしても、それ以前に、同級生が20人もDCに住んでいるという事実に驚く。聞けば、大半は、federalの機関で働いているんだとか。毎年、このくらいのペースで卒業生を“inside the Beltway”送りこめば、確かに、それなりのネットワークになるのだろう(実際、インターン先の上司は、うちのalumniだったし)。難しいことは抜きにしても、たまに会っては、学生のノリに戻ってバカ騒ぎできるメンツが近くにそれなりにいるというだけでも、若い間は十分楽しいだろうなと思う。

先日、公共政策スクールの価値とは何ぞや?みたいなことを云々書いたが、アメリカ人にしてみれば、こうした卒業後の人的ネットワークも、公共政策スクールの一つの大きな(もしかすると最大の??)アドバンテージであることは間違いない。
Maxwell School, Syracuse, May 5, 14:37

Tuesday, May 4, 2010

playing on others' grounds

After a long study on renewable energy, I finally got to the cost allocation issue about public infrastructures, which is somehow similar to the one concerning telecommunication industry's universal service.
  
Apparently, I'm in a place where I never expected to be, when I was started this research last December. Before recognizing it as the core of my answer, so long time already had passed; and not so much time was left, when I noticed it. But, if I knew this before I started my research, I'm not sure whether I still picked up this topic as my Independent Study's, because I'm not a guy highly concerned with infrastructure cost allocation issue. Simply saying, my area of concern is environment.

I think such phenomena should be common not only in the academic research field, but in the practical world. Even though quested value is environment, required policy tools to achieve it do not necessarily fall within the environmental policy field. Besides, such tendency has to grow as the environmental policy challenges are becoming increasingly complex.

Knowing this fact, I'm asking now what should I study? how should I collaborate with others? and in short, what should I do after coming back to my place? I have no clear answer.
Maxwell School, Syracuse, May 4, 22:06

Summary History of KGL bill 

Movement of immigration? Offshore drilling? What was the bill about??

But anyway, here is the good overview of what's been going on so far about Kerry-Graham-Lieberman's climate bill. (from New York Times, May 4, 2010)  

Independent Study goes on...

Although I went to school this morning with firm determination to finish the 1st draft of my thesis before the end of the day, in the evening I got an email from my professor loaded with his comments, which just didn't seem to be able to be digested in a matter of hours. That should be appreciated, and actually I do (really I do!!); but at the same time, I felt certain that I have to keep on being involved in this thesis more couple of days.

My Independent Study goes on ...

my room, Syracuse, May 3, 26:07

Monday, May 3, 2010

Deepwater Hrizon

This figure would be helpful to understand the structure of the collapsed oil rig, and what measures are under consideration to stop the continuing oil leak. (via: Legal Planet
Maxwell School, Syracuse, May 3, 17:13

Saturday, May 1, 2010

Prom at Zoo

昨晩は、Maxwell生徒会主催による、いわゆる“prom”が行われ、いちおう僕もこれに出席。

会場はなぜか動物園。といっても、動物たちに見守られながら踊り狂うわけでも、動物の檻の中でパーティをするわけでもなく、あくまで、動物園のイベントスペースを借りきってのパーティ、ということなのだが。

いくらSyracuseといえども、パーティスペースならほかにもあるはずで、なぜ運営チームの皆さんがそこを選んだのかはナゾ。まぁ別にいいんですけど。

今年組の人たちには、正直、あんまり(全然!?)友達がいないので、僕と同じ去年組のクラスメイトや、僕以外にもう一人参加していた日本人のK君たちとしゃべりながら過ごす。あとは、適当に踊ったり、適当にお酒飲んだり、適当にチョコレートフォンデュ(こんなの)で遊んでみたり。

二年目組のアメリカ人たちも、わりと彼女たちだけで固まっているのを見て、「この変則二年制システムの下で、新たに友達作るのは、アメリカ人にとってもやっぱ容易じゃないんだね」と、変な納得をして帰ってくる(笑)。

近所のバーで、男三人で小一時間ほど呑み直したあと、AM2:00に解散。今朝は例のごとくの二日酔い。いちおう、寝る前に“予防措置”は講じてみたんだけどなぁ…。最近、あまりにも弱すぎます。
Maxwell School, Syracuse, May 1, 15:04

Friday, April 30, 2010

Double Down

日本でも少し話題になっているみたいだったが、ここ、アメリカのKFCでは、“Double Down Sandwich”なる新商品が販売されている。この“Double Down”、「パンの代わりにフライドチキンを使ってハンバーガーを作ってみました」というシロモノ。「そりゃなんてったって、ケンタッキー“フライドチキン”だもんね。これまで、そんな商品がなかったのがおかしいくらいだよ」――なんて話にはなるはずもなく、ここアメリカでも、「アレ作った人は、どう考えてもアホやな」というコンセンサスが出来上がりつつある。
(KFCのweb siteから。「どーーーーんっ」て効果音を付けたくなります)

今日は、奥さんがGW旅行中で、このblogを見てないはずなのを良いことに(というわけでもないんですが)、そんな、アホ丸出しの“Double Down”に、手を出してしまいました。実物のアップ写真が、こちら。
(改めてこうして見てみると、自分のしでかしたことの重大さに気付かされます…)

感想としては、「パンの代わりにフライドチキンで作ったハンバーガー」というよりも、「(なぜか)ベーコンとチーズが間に挟まってしまった二つのフライドチキン」と言ったほうが適当かと。普通、ハンバーガーを食べるときって、パンとパンの間に挟まってるものが勝負なのであって、上下のパンの味は二の次(というか、フレッシュネスに行きでもしない限り、普通、あんまり気にしない)と思うのだが、“Double Down”の場合は、はっきり言って、味覚の95%まではチキンの味で占められる。残りの5%で、「ん?なんかニュルッとしたもの(=チーズ)とギトッとしたもの(=ベーコン)があったな」と感じる程度。ま、そんなこと、かじるまでもなく、写真見れば一目瞭然だろ、という話なのだが…。

実は今日は、この他にも息抜き企画を開催。クラスメイトと一緒に、“How to Train Your Dragon”なるDream Worksの映画を観てきた。最初から最後まで、水戸黄門ばりに予想通りのストーリーが展開されていくのだが、最後のところで、不覚にもうるっときそうになってしまった辺り、capitalismにしてやられたみたいでなんだか悔しい。まぁ、そのあとKFCに行ってアホなサンドイッチを頬張ってる時点で完敗なんだけど…。資本主義バンザイ!! ということで。。 
Maxwell School, Syracuse, Apr 29, 26:00

Thursday, April 29, 2010

EPA's modeling of Climate Bill

昨日のLA Timesの記事によると、Kerry-Graham-Lieberman climate bill(いわゆる“KGL Bill”)が、正式な公表を前に、EPAに送られたとのこと。EPAに送って何をするかと言えば、EPAがモデルを回して、同法案の効果を予測するらしく、記事によれば、
a modeling process that will take an estimated four to six weeks, after which the EPA will report how much the bill is likely to reduce greenhouse gas emissions, boost renewable energy and, most importantly, cost the average consumer. Many key senators have said they won't commit to the bill until they see those results.
との由。

immigration法案との絡みで揺れる、KGL Bill提出の政治情勢については正直そこまで興味はないが(というか、そこまで追いかけていたら切りがない)、こういった、法案の審議プロセスを見ておくのは興味深い。

「完全に公平」なんてことは、この世の中にあり得ないが、アメリカの政治プロセスを見ていると、少なくとも、「公平性を担保するための努力はしましたよ」と言えるだけの工夫は、随所に織り込まれていることに気づく。

“four to six weeks”後にまとめられるという、EPAのモデリング結果が公表されたとき、世間がそれをどう受け止めるのか――単なる“pretend”だと見るのか、信頼のおける客観的考察だと受け止めるのか。その点の興味深いし、時間があれば、モデルの中身も少しくらいは覗いておきたい。
Maxwell School, Syracuse, Apr 29, 13:43

Cause of defeat

論文執筆が失敗に終わった原因は何だったんだろうかと考えてみる。

まぁ、まだ完全に失敗と決まったわけではないし、それにそもそも、失敗であろうがなかろうが、もうしばらく書き続けないといけないことには変わりはない。たとえ「失敗作」であったとしても、いちおうは完成させなければIndependent Study分の単位が降って来ず、単位が降って来なければ、卒業させてももらえない。というわけで、否が応でも、もうしばらく(たぶんあと一週間くらい)は書き続けないといけないわけだが、いろいろと自分自身に対するフラストレーションが溜まっている今だからこそ、思いのたけを書いておけば、あとあと何かの役に立つかなと思ってみた次第。negativeな空気を排出しちゃってゴメンなさい(ある種の外部不経済ですね)。

敗因を一言で言えば、「経済学という道具は、どういうふうに使えば、上手にモノを斬れるのかをよくわかっていなかった」、約めて言えば「経済学をよくわかっていなかった」ということかと。情けないけど認めます。

経済学であれ何であれ、あるディシプリンの基本様式を十分習得し切らないうちに、応用編に走りだしてしまうのは、昔からの悪い癖。学部時代の卒論も、おかげでぐだぐだ~な仕上がりになってしまった。

こういうタイプは、環境をやっている人間(特に文系)に多い気がする。僕自身、学部時代の反省を踏まえ、自分の周囲の環境屋さんたちの、そういう生半可な姿勢を批判してきたものだが、蓋を開けてみれば、結局、自分も改心し切れていなかったということか。残念なことこの上ない…。

いまは、econometricsだとか、マクロ経済モデルだとか、そういう、ちゃんとした経済学を、もう少しきちんとした形で勉強しておきたかったなぁという思いが強い。まぁ、それをテーマに論文を書いていたらいたで、「もっとプラクティカルなことをやりたかった」と今頃愚痴っていたのかも知れないが(というか、その可能性は非常に高いに決まっている)。

こう、ついつい、「王道」をよけて、変な道から押し通ろうとしてしまう辺り、自分自身、要領が良いんだか悪いんだか、よくわからんなぁとときどき感じる。寄り道せずに、一発でシュパッと王道を見つけだし、シュルシュルッとその道を突き進んでいく人を見ると、非常に羨ましく思う。要するに、何をするにも、我流で乗り切ろうとするのではなく、もう少し謙虚になって、先人から学ぶ姿勢を大事にしなさい、ということなのかも知れない。天才でもなければ、「守」にかける時間をケチって「破」や「離」の境地に向かったところでロクなことはない。(そしてもちろん、天才ではない。)

そもそも、mandatoryでもないIndependent Studyを受講し、莫大な時間を費やして論文を書いてきたのは正解だったのだろうか、という疑問もある。確かに、電力の分野にそれなりに詳しくなりはしたけれども、それ以外の勉強――たとえば、上に書いたような、正統的な経済学の勉強――をしたり、nativeの人たちと積極的に絡んで、language skillを磨いたりする時間を犠牲にするという意味での、相応の機会費用を払ってきたのも事実。ただまぁ、こればかりは、しばらく年数が経ってからでないと、良いも悪いも評価は下せないのかな…。そんな気もする。

そんなことを言いだすと、論文に限らず、二年間の留学全体の過ごし方はどうだったんだ、という話に繋がってくる。しかし、それを議論し始めると、また随分と時間がかかってしまいそうなので、とりあえず今日はこの辺で。ぼちぼち、おうちに帰ります。
Maxwell School, Syracuse, Apr 28, 25:10

Tuesday, April 27, 2010

Lisa P. Jackson @ "The Daily Show With Jon Stewart"

昨日の“The Daily Show With Jon Stewart”にUS-EPA(環境保護庁)長官のLisa P. Jacksonが登場。

中身的には、間もなく提出か(????????)と言われている、上院energy/climate法案(“Kerry-Graham-Lieberman Bill”)の話と、EPAによる温室効果ガス排出規制(regulation)の話がおよそ半々。もちろん、どこまでがlegislationの話で、どこからがregulationの話かなんて厳密には分けられないが。

序盤で“Massachusetts v. EPA” (2007) の話が出たり、後半では、economy wideのcap-and-tradeと産業別規制のどっちがいいか的な質問が投げられたりと、それなりにちゃんとした内容。現役閣僚を呼んでいるんだから、当たり前と言えば当たり前かもしれないが、climategate云々といったしょうもない話もなく、プロから見ても(いちおう、プロです。いちおうね)、まぁそれなりにまともな内容だったかなと。視聴者にリベラル層が多い番組だから、ということもあるのかも知れない。

「economy-wide or 産業別」に関する質問への、Lisa Jacksonの回答は、「下院案はeconomy-wideで通ったが、今はもう少し柔軟に考えています」的な感じ。KGM法案については、「EPAとして、発案者からの質問には答えているが、中身については全く知らない」とのこと。
The Daily Show With Jon StewartMon - Thurs 11p / 10c
Lisa P. Jackson
www.thedailyshow.com
Daily Show Full EpisodesPolitical HumorTea Party
Maxwell School, Syracuse, Apr 27, 21:33

Law vs Politics

Int’l Trade Lawの最終講義(除、review session)は、LawとPoliticsとの接点について。

米国国内法(Trade Agreements Act of 1979)は、貿易に関する国際法又はそれに基づく措置が、何らかの米国内法に抵触する場合の、自動執行を禁じている(19 U.S.C. § 2504(a))。つまり、米国のある措置が、WTOの紛争解決機関(DSB)によって、WTO法上「クロ」と判定されたとしても、争点となったその措置が米国内法上「合法」のものである限り、DSBの判定は、自動的には履行されないということ。当然ながら、履行しなければ、米国は、国際法上の違法状態に陥るわけで、また、、国内法の規定を盾に国際法違反を正当化することは、ウィーン条約(Vienna Convention on the Law of Treaties)で明確に禁じられている( Article 27: “A party may not invoke the provisions of its internal law as justification for its failure to perform a treaty.”)。

ではどうするかだが、米国内法は、米国政府機関に対し、WTO-DSBの裁可に従うための措置を講じるに際しての、議会(Congress)との協議を求めている(19 U.S.C. § 3533(g), 3538(a), 3538(b))。これはつまり、本来、“legalかつmultilateral”なはずの貿易紛争を、“politicalかつbilateral”なものにすり替えるための仕組みである、というのが教授の解説。

実際、以前にこのblogでも紹介した、米-ブラジル間の貿易紛争(アメリカの国内綿花農家に対する補助金のWTO違反が確定しているにもかかわらず、米国が具体的な改善措置を採らなかったため、ブラジルがWTO協定に準拠する形での報復関税の適用に訴えようとしたもの)はちょうど先週、米国が、問題の補助金を多少引き下げる(と言っても、WTO協定上の違法状態が完全に解消されるわけではない)のに加え、軍事協力の提供という、貿易とは全く関係のない便宜供与をブラジルに申し出ることでdealが成立したらしい。

言うまでもないことだが、こうしたdealは、WTO協定に則った純legalな交渉からは、間違っても生まれない。“Politicalかつbilateral”な交渉によってのみ到達可能な解だろう。経済学的には、Pareto基準ベースでガチガチ喧嘩しないといけない純legalの世界から、貿易以外の何かでの“補償”を議論に絡めて来られるKaldor-Hicks基準の世界に移行することで、双方にとっての交渉の幅が広がった、というふうにも言えるかもしれない。もちろん、アメリカという国にしてみれば、そうした客観的メリットに加え、「一対一の交渉に持ち込んだ方が自分にとって有利」という、世界一の国力を笠に着れる立場であるが故の特殊事情もあるのだろう(というか、その方が大きいけどね、絶対)。

この話を、僕自身の関心分野にひきつけて言えば、たとえば、昨秋、このblogでも何度か(こことかこことかで)取り上げたcarbon tariffについて考えるとき、それが、WTO上、シロかクロかというところで思考を止めてしまうのではなく、(「シロ」と判定されるに越したことはないが)仮に「クロ」であったとしても、その後に、どういう展開・交渉が可能かと考えること――さらに言えば、最初から、そこまでの見通しを織り込んだ上で、プランを練ること――が大事なんだろうと思う。

何はともあれ、ことほど左様に、非常に良い勉強になった良いクラスだったと思う。このクラスの先生とは、卒業後も、ぜひとも関係をkeepしておきたいところ。
Maxwell School, Syracuse, Apr 27, 18:07

Monday, April 26, 2010

How to educate in Public Policy Schools

久しぶりに徹夜をしてみたら、朝からまるでアタマが働かない。歳をとったものだと思う。

とりわけ英語がアタマに入らないので(と言う訳でもないんですが)、しばらく前に頂いたままになっていた、outernationjpさんからのコメントについて、考えてみる。

“行政系大学院は、…「公共セクターの担い手あるいは行政府の職員はこうあるべきだ」という理念が先にあってそれに併せてプログラムをくみ上げてる側面もある”とのご指摘は、まさにおっしゃる通りかと思います。要するに、supply-pushではなく、demand-pullで教える内容が決まってくる世界なんだろうなと。

ただ、そうだとすると、その“pull”は誰がしているのか、つまりその、誰がどういった形で、行政官の「あるべき像」を発信しているのか、というところが次に気になってくる。

僕自身、「行政官たるもの、こうあるべきだ」的な像は(本人が実行できているかどうかは別にして)いちおう持っているし、そのイメージを、後輩に求める(そしてウザがられる)こともある。ただ、そういった像/イメージを、組織としてのものに昇華し、ワンボイスで外部に発信できるかというと、正直、なかなか難しいし、私的所有ならざる公的機関が、そういった「職員のあるべき像の一元化」を図ることが好ましいことなのかどうかも良く分からない。

では、artificialな「取りまとめ」をしないにしても、採用の機会などを通し、自然な形で、需要側(=行政機構)の集合的意思が、供給側(=大学)にフィードバックされる、といったことは起こっているのだろうか。少なくとも日本での経験で言えば、これは非常に怪しい(起こっていたとしても、非常に弱い)と思う。部署ごとの裁量で人を採る傾向の強いアメリカでは、そういったフィードバックが働く可能性はより低いのではないだろうか。

議論が堂々巡りループに入ってきつつある気がするので、そろそろ閉じようと思うが、「あるべき像」を容易に特定できないのが行政官という職業の特徴だとしたら、逆に、一定の多様性をプールしておくのが賢い戦略。となれば、その職業の反射である公共政策大学院も、特定の「色」や「行動様式」を持つ卒業生をマスに輩出するのではなく、生徒に相当程度の自由を与えた上で、好きなように勉強させるというのが、一見、非効率なように見えて、実は、その社会的使命に見合ったスタイルなのかも知れない。

そもそも、この議論に意味があるんだかないんだか、自分でもだんだんよく分からなくなってきている(笑) でもおかげで、いちおう頭が冴えてきたので、そろそろ(って、もう夕方だよ!!)論文執筆の続きに取り掛かります。
Maxwell School, Syracuse, Apr 26, 17:33

追記: 夜に読み直してみて思ったこと。アメリカの方が、日本に比べて「一元採用」の度合いが弱く、多元的な採用活動が行われており、より「(労働)市場」と呼ぶにふさわしいものがそこに存在しているからこそ、需要サイドの集合的意思は、逆にフィードバックされやすいのかも知れない。

Friday, April 23, 2010

How does differ "discussing" from "reporting"?

論文執筆に没入しはじめて今日で4日目。予定では、昨日までに書きあげているはずだった分量のうちの半分くらいを、昨日までに書きあげた。ほぼ予定通り(!?)

先日いただいた「“論文”と“報告書”は違う」とのご指摘を踏まえ、構成を編み直してみる。正直、最初はピンとこなかったのだが、やっているうちに、その違いが何となく見えてきた気がする。

僕的には、“論じる”ことと“報告する”こと、というふうに両方とも動詞形にた上で比較する方が、何となくしっくり来るのだが――もちろん、言わんとしていることは同じ――、“論じる”の方が「説得する」に近いイメージなのに対して、“報告する”の方は(やや極端に言えば)見聞きしてきたことを「並べる」「開陳する」に近いイメージなのかなと。

いちおう、単なるアホではないので――そうだと思いたい…――、何の脈略もなく、知っていることをただただ「並べる」なんてことは、元々していなかったはずで、曲がりなりにもテーマを設定し、それに関するストーリーを描いた上で、それに沿わせた形で“収集物”を並べる、くらいのことはしていたように思う。

ただ、「テーマ」という言葉で表わされるsomething ambiguousをpaperの礎石に据えるのと、「paperの目的=○○というquestionに答えを与えること(だけ)」という意味での“research question”を明確にidentifyした上でpaperを書き進めるのとでは、やはり明らかに質的な違いがあるなと。それによって、要る部分/要らない部分がはっきりと見えてくるようになるし、また、「知ってはいるが自分のものにし切れていない理論・考え」というのも如実に浮き上がってくる。そういったものは、引用という形で単に「並べる」ことはできても、自分の頭で理解し切れていなければ、読者を「説得」するための材料としては使えないので。

このことは、おそらく、「paperを書く」という行為に限らず、一般化可能ではないかと思う。何か物事を見るときに、ただ漫然と眺めている――本人的には手を抜いている、サボっているといった意識はなくても――のと、何らかの問題意識を持ってそのperspectiveから分析的に眺めるのとでは、理解の深さが全然違ってくる、という意味で。たとえばスポーツを観るとき、ある選手、あるポジションの視点から試合を観るようにすれば、何となく全体(或いはボールの周辺だけ)を見ているだけより、ゲームの流れをより深く理解できるようになる、というのもその一例。

去年の同級生の方(そう、あなたです。笑)が、よく「この問題をどう斬るか」「この論者のこの斬り方が面白い」といった文脈で「斬る」という動詞を使っていた。今思うと、彼の言う「斬る」のイメージも、これに近いものだったのかなぁ…なんて思ってみたり。「全然違いますよ。分かってないなぁ~」なんて怒りのコメントが早速入るかも知れませんが…(笑)
Maxwell School, Syracuse, Apr 23, 11:48

Thursday, April 22, 2010

Half of the Administrator's Skill 

outernationjpさん、いつもながら含蓄溢れるコメントありがとうございます。じっくり咀嚼させていただいた上で、改めて返信させていただきます。

さて、そのouternationjpさんがコメントを付けてくださった、前回エントリの続編を。続編とは言ってみたものの、spin-offと言うべきか、はたまた単に“思考の残滓”とでも言うべきか、その辺は書いてる本人もよくわからない。

昨日のエントリにも書いたとおり、ざっくり言って、行政官の仕事の半分は「弾を作る」(=政策案を考える)ことで、残りの半分は「弾を撃つ」(=考えたことを組織の内外で通す)ことだと思う。これも昨日のエントリに書いたことだが、いわゆる公共政策系の大学院で教えてもらえるのは、基本的に前者(=弾作り)の方。後者(=弾撃ち)っぽい授業も、一応、ないわけではなくて、うちのスクールで言えば、MPA必修の“Public Organization & Management”なんてのは、まさしく、弾の「撃ち方」を教える講座なんだろうが、実際に5年も6年も職場で働いてきた人間からしてみれば、瞠目に値するような「撃ち方」メソッドはそれほど教えてもらえなかったように思う。毎回の授業自体はそれなりに楽しんでいた気がするが、振り返ってみて、「その講座で何を得たのか?」と聞かれれば、やや答えに窮するかなと。まぁ、最初の学期に受講したので、こちらの英語力が拙すぎて聞き取れていなかっただけ、という可能性は否定できない。

留学中、日々、「弾作り」のことばかりを考えて暮らしていると、「弾撃ち」の方もしないといけない日常に戻るのが、正直、億劫にも思えてくる。前者が、理論的に物事を整理し、本来ありうべき方向性を予測・提示する領域だとすれば、後者は、せっかく前者がきれいにまとめた「方向性」を、いじくりまわした挙句に骨抜きにしてしまう、おそろしーぃ魑魅魍魎の世界――そんなイメージが1mmもないかと言われれば嘘になる。

しかし、そんなふうに、「理屈で論じられる世界」と「それ以外」とか、「本筋」と「ノイズ」みたいなかたちで、「弾作り」と「弾撃ち」を捉えてしまうのではなくて、両方とも、「行政官に絶対必要なスキル」として、同列に並べた上で、「たまたまアカデミズムに馴染んだ方」と「たまたま馴染まなかった方」というふうに捉え直せば、見え方が違ってくるのではないか。後者については、大学(院)で学べないとは言え、行政官にとって必要であるという点では、前者となんらかわりはないのだから、“それ以外”という形で消極的に捉えるのをやめ、(ディシプリンとまでは言えないまでも)一つの「スキル群」として捉えたうえで それを有自覚的に、また、体系的かつ科学的に、習得しようと試みれば、職業人としての成長効率を高めることができるのではないか。

そんなことを、Comparative Foreign Policyの授業を(聞くともなく)聞きながら、考えていた次第。我ながら、『あなたを変えるナントカ力』的なビジネス書に出てきそうなメッセージみたいで、若干気持ち悪いんですけど…。
Maxwell School, Syracuse, Apr 22, 27:10

Tuesday, April 20, 2010

The Limits of Public Administration School

今日のInt'l Trade Lawのクラスは、いつにも増して秀逸だった。と、同時に、これと同じだけ「役に立つ」授業を公共政策系のスクールでするのは、構造的に無理なんじゃないかと思ってしまった。

要は、その職業で使うメインのスキルが、教室で教えられるような類のものであるかどうか、ということだ。実際にやったことはないので本当のところ、どうなっているのかはわからないが、おそらく、法律家が法律家として生きていく上で必要なスキルの大半は、文字通り、「法律」に関するものなのではないかと思う。相手を攻撃したり、自分(のクライアント)を守ったりする上で、いかに巧みに法律を使えるか、その出来不出来で、法律家としての資質の大半が決まってくると言っても過言ではないのではないかと。

行政官という職業に、それに対応するようなmajorなスキルがあるかというと、たぶんない。人付き合いの良さだとか、チームワークの能力だとか、そういう「社会人基礎力」と呼ぶべきなような基礎的スキルはさて置いても――こういったスキルなら、法律家にしても必要だろう――、法律学、経済学、政治学に始まって、関連する自然科学諸分野から、果ては“経験・勘・度胸”の世界に至るまで、必要とされるスキルは極めて広範囲に散らばっている。この時点で既に、一つの「スクール」という形態で以て、その道のプロを養おうというのには、些か無理があるように思えてくる。

糅てて加えて、実際の業務の中で使うスキルは、多かれ少なかれ“経験・勘・度胸”の方に偏っている。“経験・勘・度胸”なんてものは、あんまり教室で教えるような性質のものではないし、ケースを使って教えられなくもないとはいえ、こんどは教える側の人間の問題として、そういうアカデミズムに馴染みにくい世界を、敢えて自分の専門にしようという人はたぶんそんなに多くはないはず。結果、経済学なり、統計学なり、政治学なり…といったところが、カリキュラムの核になってくるわけだが、それらは本当は、あくまで「経済学」であり、「統計学」であり、「政治学」なのであって、直接的に行政官が日常的に用いるスキルを習得・鍛練するための講座ではない。この意味において、公共政策系スクールの授業は、どう頑張っても、法律家の卵たちにとってのlaw schoolの授業ほどには、職業訓練として「役に立つ」ように提供することは不可能なんじゃないかと思う。別にMaxwellが悪いということではなく、行政官という職業の構造上、どうにもならない問題なのではないかと。

と、なんだか悲観的なことを書いてしまったが、その上で、公共政策系スクールは、生徒に何をどう教えるべきなのか、また、そこに通う生徒たちは、そこで何を学ぶべきなのかを考えることが大事なんだろうなと思った次第。一つ確実に言えることは、公共政策系スクールで何を教え、何を学ぶべきかは、law schoolのそれらに比べてはるかに曖昧で、定式化されておらず、それだけに、学ぶ側にしてみれば、どういう戦略で臨むかによって得られる効果が大きく違ってくる、ということではないかと思う――問題は、その「効果」を計る尺度からして、非常に曖昧だということなのだが…。
Maxwell School, Syracuse, Apr 20, 16:42

Icelish??

しばらく投稿が滞りました。

4月もあと10日となり、いい加減、論文を仕上げにかからないといけないだろうというわけで、お尻に火が点いてきた今週。時間的にもそうですが、精神的にも、余裕が若干なくなってきつつあるようです。とりあえず論文の方は、4月中には終わらせたいなと思っていて、そんなわけで、ここ10日ほどは、blogの方は、若干、御無沙汰気味になるかも知れません。

なんて言いながら、くだらないことを考えていたりもするんですが、最近の疑問は、
  • England → English
  • Poland → Polish
  • Scotland → Scottish
  • Ireland → Irish
なのに、なぜ、Icelandの形容詞形は、“Icelish”や“Icish”じゃなくて、“Icelandic”なのか?? というもの。

他の4つは、「○○族の土地」という意味なのに対して、Icelandはそうじゃないから、ってなことかなぁとは思うんですが…。まぁ、そんなことより、とっとと論文仕上げろって話ですね。
my home, Syracuse, Apr 19, 24:46

Sunday, April 18, 2010

NHL Playoff

今日はシラキュースブログ界の御意見番、くもすけさんと連れだって、アイスホッケー観戦に行ってきました。
先週のAlbany二往復から続く、“NY-upstate横断の旅”後半戦(というには無理がある…)。今回は、30+のおっさん二人、片道三時間かけての観戦旅行でしたが、残念ながら、我がBuffalo Sabersは逆転負け。全米代表goalie Ryan Miller君を擁するSabersですが、今日の試合では、時間を追うごとにチーム全体の動きが悪くなり、序盤二点の先制リードを守りきれませんでした。

これまで散々、アイスホッケーのことを記事にしておきながら、今さらこんなことを言うのも何ですが、この競技、生で観るにはあまりに展開が速すぎる気が。一つ前に起こったプレイの「意味」を理解しようとしている間に、次のプレイ、その次のプレイとどんどん進んでいき、すぐにわけがわからなく(或いは、どうでもよく)なってしまいます。この感覚は、英語のヒアリングにちょっと似ているな…と、試合を観ながらぼんやり考えているあいだに、いつの間にやら(というのは言いすぎですが)、見事に逆転されていたのでありました。。今日、負けたの、僕のせい??


試合前には、くもすけさんと連れだって、Buffalo市内の散策も。NY州第二の都市というだけあって、見どころ満載!! と言いたいところですが、“Main Street”という名前のメインストリートには、朝早すぎたせいか(といっても11:00am)、休日だったせいか(ていうか、むしろ稼ぎ時だろ!!)、はたまた、もともとそういうものだからなのか(この可能性が一番高い)、営業中のお店がほとんどなく、僕ら以外には歩いている人も極めてまばら。地域最大の都市でもこんなもんかと、upstateの限界を改めて認識させられる結果になりました。

ただ、“Buffalo”というだけあって、街中のいたるところに、buffaloのレリーフを見つけられることだけは、Syracuseにはない楽しさかと。とは言え、プロ野球(AAA)のチーム名を“Buffalo Bisons”としてしまうのはやり過ぎだと思いますね。どっちが都市名で、どっちがチーム名だか、ややこしくて仕方ありません(もはやどっちでもいいのではないかという気もしてきます)。

試合後は、Buffalo wingの発祥の地(だと一応言われている)Anchor Barさんで、本家本元のBuffalo wingを堪能。くもすけさんも書いておられる通り、思っていたより控えめな味付けで、飽きが回ることもなく、一人10本のノルマをペロリと平らげてまいりました。
食後、くもすけさんと僕との間で辿り着いた結論は、「Anchor BarとDinosaur BBQ(@Syracuse)の両方を食した我々は、upstateのグルメを制覇したと言っても過言ではない」というもの。端から端まで車で片道6時間と面積的には広大なのですが、広くて狭い、upstateなのでありました(たぶん、「広くて狭い」の使い方を微妙に間違っている…)。
my home, Syracuse, Apr 17, 25:25

Saturday, April 17, 2010

comments on thesis draft #1

先日来の長文垂れ流しエントリ(汗)に、丁寧なコメントをいただき、ありがとうございます。いただいたコメントを元に、目下、アタマをひねっているところです。

おいおい、エントリなりコメント欄なりで、お返事を書かせていただこうと思っていますが、取り急ぎ、knj君からもらった二つのコメントについて、いろいろと考えてみました。一昨日の時点では見えていなかったところが見えてきたりもして、非常にいい勉強になりました。以下、その考察の結果です。また改めて、コメントいただければ幸いです。

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1.「水平部分の価格=MC」と言えるか?
  
No。この点、明示的には書かなかったものの、僕自身も「水平部分の価格=MC」というイメージを持っていたのですが、よく考えてみれば、この部分にも何らかのprice regulationが適用されているはずで、であれば、「水平部分の価格>MC」となっている可能性が高いのではないかと。ちなみに以下、「水平部分の価格」を、Pw/o-c(Price without-congestion)と表記します。
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2.「“Pw/o-cと価格の差”=“congestion charge”」と言えるかどうかかはともかくとして、「“Pw/o-cと価格の差”=“quasi-rent”」と言えるか?
 
Yes/No。まず、1.を踏まえ、MCをPw/o-cに置き換えています。その上で、「“Pw/o-cと価格の差”=“quasi-rent”」と言えるかどうかですが、
  • イ) Pw/o-cにquasi-rentが含まれていなければ「言える」
  • ロ) Pw/o-cにquasi-rentが含まれていれば「言えない」 ⇒ この場合、
    “Pw/o-cと価格の差”=全quasi-rent-(全quasi-rent中、Pw/o-cに含まれている額
ということになるのではないかと。また、ロ)で、かつcongestionの発生していない場合が、knj君の言う『効率的な市場でも(Externalityがなくても)』quasi-rentが発生している状態に当たるのではないかと思います。

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3.Quasi-rentが発生しているのに追加投資が起きないのは異常であると言えるか
 
これはNoではないかと思います。というのは、価格pについて、「AVC<p<AC」という関係が成立していれば、定義上、「quasi-rentは発生しているが、新たな参入を正当化できるだけの利潤を生み出せるほどには価格は高くない」という状態になるはずで、(非常にtheoreticalな議論ですが)現状のNY州送電サービス市場がこの状態にあると想定すれば、追加投資が起きない状態が「異常」だと言うことはできないのではないかと考えます。

詰まる所、「“Pw/o-cと価格の差”=“quasi-rent”」とのknj君の指摘(※ 同じく、MCをPw/o-cに置き換えました)自体は、基本的に(=2.のイの状態を仮定する限りにおいては)その通りだと思うのですが、この価格差の“quasi-rent性”に着目するapproachでは、「なぜ追加投資が起きないか」という問の答えに近付くことは出来ないのではないかと。

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4.「“Pw/o-cと価格の差”=“congestion charge”」と言えるかどうか?

2.で一旦「ともかく」とした問に戻りますが、これについては、少なくとも業界用語としては、Yesではないかと思います。たとえば、American Public Power Association(APPA)という団体の出した2008年の文書の中に、以下のような記述があります(強調付加):
The mechanism that most RTOs use to manage congestion on their transmission systems (where demand for transmission service in a specific direction exceeds the capacity of the needed lines) is to charge a premium, known as a “congestion charge” to transmission customers using those lines. When congestion prevents generation from being delivered to customers in a “constrained zone,” more expensive generation located within the zone may be provided to meet those customers’ demand. The customers’ price reflects the offer submitted by this higher cost generator, even if there are generators offering lower prices in the RTO, but that cannot deliver their power because of the constraints. The difference between the lowest price in the RTO and that charged in the constrained zone is referred to as the “congestion charge.”
この定義は、これまで読んできた、NY州の電力業界に関する論文・著作の中で用いられている“congestion charge”の意味とも合致します。少なくともこの定義に照らせば、先のモデルにおける“Pw/o-cと価格の差”は、まさに“congestion charge”と呼ぶべきものなのではないかと思います。

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5.“Pw/o-cと価格の差”は、経済学的な意味でも“congestion charge”と言えるか?

英語版Wikipediaの“Congestion pricing”の項にある説明を「経済学的な意味での“congestion charge”の定義」とみなして議論しますが、この問も実は、基本的にはYesなのではないかという気がしています。

Wiki同項の記述に見ると(強調付加)、
Congestion pricing is a concept from market economics regarding the use of pricing mechanisms to charge the users of public goods for the negative externalities generated by the peak demand in excess of available supply. Its economic rationale is that, at a price of zero, demand exceeds supply, causing a shortage, and that the shortage should be corrected by charging the equilibrium price rather than shifting it down by increasing the supply.
とあります。ここで、“public goods”=送電サービス、“negative externalities”=transmissionのcongestion、“available supply”=transmissionのcapacityと見れば、上に引用したAPPAの定義で言うところの“congestion charge”と、ここでいうところの“congestion pricing”は矛盾しないのではないかと。

ただ、違いを指摘するとすれば、いわゆる“congestion pricing”の考え方の背景に、
  • 需要家の行動次第で、需要の量は削減可能であり、かつ、
  • 需要を野放しにしたまま、供給の量を増やすことによってcongestionを解消する戦略は、何らかの理由(環境への負荷の増大、公的支出の増大、etc.)により好ましくない
という前提があるのに対して、transmissionの問題については、いずれの前提も完全には成り立たない、という点があるかと。

これらの前提も、“congestion pricing”という考え方に包含されているのだとすれば――たぶんそうだろうと思いますが――業界で使われている“congestion charge”というwordingには、ややミスリーディングな面があるなぁと思います。
my home, Syracuse, Apr 17, 26:38

Friday, April 16, 2010

America's Great Outdoors

最近巷で話題(?)のWashington Post紙の報じているところによると、16日、Obamaクンが、“America's Great Outdoors initiative”と称する自然保護政策の再編計画(ただし今回は荒々のビジョンだけ)を発表したとのこと。

この手の政策に、大統領自らが、わざわざ記者会見を開いてまで、コミットメントを表明するというのは、僕ら日本人からすると、些か違和感のある話なのだが、実際には、Obama自身が会見の中でTheodore Rooseveltに触れていた通り、この国の歴史の中では、国立公園政策が、しばしば大統領肝煎りの案件として登場してくる。そうした実績を持つ大統領としては、TRの他にもFDRやアイゼンハワーなどがいる。

それほど詳しく歴史を調べたわけではないが、この国における“国立公園”制度には、日本のそれにはない、独特のテイストが込められているように思う。

米国版国立公園制度(というか、それが“本家”ですが)の、そもそもの目的は、手付かずの自然の残る未開拓の土地を、国(=連邦政府)有化することによって、アメリカ国民全員の「公園」として保護すべしというものである。その根底には、この国特有のfrontier spirit――当然それは、この国一流のpatriotismにも繋がる――が横たわっていて、少し大げさに言えば、YellowstoneやYosemiteは、(どこの州、どこの地域の出身かに関わらず)この国の人たち全員が共有する“自分たち”の歴史の、重要な構成要素になっているんじゃないかという気がする。言うなれば、日本人にとっての京都や奈良のように。   

というわけで、そもそもの出発点からして、国立公園政策に懸ける国民の“気合い”が全然違うと思うのだが、それに加えて――これも、その“気合い”によるところが大きいのであるが――、園内の土地を基本的に全て「国有化」してしまったという点も、非常に大きな違いであるように思う。その結果、国立公園地域を単なる「保護エリア」「規制エリア」として管轄するのではなく、文字通りの「公園」として、政府自らが、観光業も含めた「経営」に乗り出すことができるし、それによって、それなりにたくさんの雇用を生み出すこともできる(cost/benefitが良いかどうかは別問題。この点、確か、Milton Friedmanが、『資本主義と自由』の中で論じていた気がする。未読。)。

実際、DC近郊のShenandoah国立公園は、FDR肝煎りのjob creation programであるCivilian Conservation Corps (CCC) の一環として整備されたものであるし、今回のObamaイニシアチブにもそのような性格が込められていることは言うまでもない。こういった政策は、国立公園内の土地が必ずしも国有化されているわけではない日本のような国では、なかなか難しい(やったとしても、ちょろっとしか効果が出ない)のではないかと思う。

というわけで、アメリカの国立公園が素晴らしいのは言うまでもないし、その分野の仕事に携わる人であれば、誰しもが憧れを抱きたくなるのは非常によく理解できるのだが、同じ「国立公園=national park」を名乗っていても、日本のとアメリカのとでは、そもそもからして、成立ちや性格が大きく違うし、そのように違った性格を持つに至った背景には、両国の発展プロセス(=“歴史”)の違いが大きく関係しているので(→ 要するに、政策レベルでどうこうできる問題ではない)、ここは潔く、「別物」と捉えて、日本は日本なりのやり方を探す方が現実的なのではないかという気がする。実際、それを模索してらっしゃる方も多いと思うんですけど。

そういう意味では、むしろ、ヨーロッパ各国がどうしているかを勉強する方が、プラクティカルなんじゃないかとも思うのだが、寡聞にして、欧州の国立公園政策事情などというものについては、これまでのところ、何の知識も持ち合わせていない。どなたか詳しい方がいらっしゃれば、教えていただければ幸いです。
Maxwell School, Syracuse, Apr 16, 16:58

Thursday, April 15, 2010

thesis draft #3

祝、Sabers、playoff初戦勝利。というわけで、心おきなく第3periodです。

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RPS制度とtransmissionの増設に関する同様の問題に対し、具体的な対策を講じている事例をテキサス州に見ることができる。テキサスは、RPS制度によって、これまでにもっとも大量の再生可能エネルギー(RE)発電(capacity base)を導入してきた州であり、NY州と同様、その大半は、風力発電によって賄われている。

テキサス州とNY州は、風力発電の適地と電力の消費地との間に地域的偏りがあり(テキサスの場合、風力適地は州西部、電力消費地は州東部)、両地域を結ぶtransmissionのcapacityが限られているという点で、非常に良く似た地理的条件を備えている。RPSによるRE発電の導入でNYに先んじたテキサスでは、transmissionのcongestion問題にも、NYより数年早くに直面していた。この問題に対処するため、同州議会は、2005年、以下の事項を主な内容とする “Senate Bill 20”を制定した;
  1. Public Utility Commission of Texas(PUCT)が「高いRE発電の開発可能性を有する地域(“areas with high renewable energy resource potential”)」を “Competitive Renewable Energy Zones (CREZ)”に指定する。指定に当たっては、各地域におけるRE発電事業候補者のfinancial commitmentの程度も勘案する(実際には5つのCREZsを指定)。 
  2. PUCTが、CREZsと電力消費地とを結ぶtransmission網の建設シナリオを複数策定する(実際には4つのシナリオを策定)。 
  3. ERCOT (Electric Reliability Council of Texas) が各シナリオの建設コストを試算する。 
  4. ERCOTの試算に基づきPUCTがtransmission網の拡張計画を決定する。 
  5. 同計画に含まれる各transmissionの事業主を、一定の基準を満たす事業者の中からPUCTが選定する。 
  6. 選定を受けたtransmission事業者は、transmission拡張計画の詳細を固め、PUCTからの最終承認を受ける(“シナリオ”の時点では、建設計画の詳細まで完全に固められているわけではない)。 
  7. このプログラムによるtransmissionの増設コストは、sub-areaに関係なく、ERCOT管轄地域全域のratepayerによって、一律に負担される。 
なお、ここで出てくるPUCT及びERCOTは、それぞれ、NY州におけるPublic Service Commission (PSC)、New York Independent System Operator (NYISO)に相当する。

2010年4月現在では、transmission事業者の選定(上記5.)までしか進んでいないため、同政策の成否を今の時点で評価するのは時期尚早である。非常に大胆な政府介入政策であるため、今後、何らかの“government failure”的非効率が発生する可能性はもちろん否定できず、プラス・マイナス両面を加味した最終的な評価を下すには、さらに数年、結果を見守る必要がある。

しかし、この政策が、――“government failure”という副作用をどの程度伴うかはともかくとして――先に挙げた送電サービス市場の、諸market failure要因を克服する手立てとなっているということは少なくとも言えるだろう。そういった意味において、RE発電の導入増に伴うtransmission不足に対処する政策としては、(少なくとも米国内で)もっとも先進的な取組であるということもできる。

では、今後、ますます増加する(と予想される)遠隔地RE発電施設からの電力供給により、transmissionのcapacity不足の深刻化が懸念されるNY州に、このCREZ政策を導入しようとした場合、どのような点が課題となるであろうか。導入に当たり、大きなchallengeとなりそうな二点を、以下、指摘しておきたい。

一点目は、この政策によって発生するtransmission建設コストの費用負担の問題である。先にも述べたとおり、NY州では、transmission建設コストの負担に関して、伝統的に、“beneficiary pays approach”の考え方が取られてきた。一方、テキサスのCREZ政策の肝は、transmission建設の費用負担を「域内一律」とした点にある。それによって、(上流-下流の費用負担論争に左右されることなく)純粋に効率性の観点から敷設シナリオを検討できる環境を確保できたという実務的メリットに加え、RE発電普及による利益(温室効果ガス排出の削減、energy securityの強化、etc.)は、特定の地域(発電地域and/or電力消費地域)にのみ帰属するものではなく、域内のratepayerに一様に帰属するものであるという根本的な問題構造の面から見ても、この費用回収方法は、理にかなっていると言える。

そもそも(RPSとの関連以前の問題として)、transmissionについては、競争的な電力市場を“可能にするもの(enabler)”と捉え、それ自体は競争政策の埒外に置くべき(したがって、政府が、その供給に積極的に関与するべき)とする考え方と、NY州のように、transmission自体も発電施設の競合財と捉え、競争政策の中で同列に扱うべしとする考え方とがある。それら二つの考え方の優劣を巡る議論はこの論文の射程を越えているが、双方の考え方に長所・短所があるということ、また、それらのうちどちらを選ぶかは、電力政策上、RE導入促進に関わる問題よりも、より高次に位置づけられるべき政策判断であるということが言える。

したがって、ここでNY州の“beneficiary pays approach”を非難する意図はまったくないし、また、RE導入促進との相性が悪いという事実だけを以て、NY州が、そのapproachを根本的に見直さなければならない必然性もない。ただ、“beneficiary pays approach”の方針を全く曲げずにCREZ政策を単純に「接ぎ木」することはできないというのもまた事実であろう。このため、NY州にCREZ政策を導入するとならば、費用負担に関する考え方の違いから生まれる「矛盾」をどのように解消するかが一つの大きな課題となると考えられる。

もう一つの課題は、組織の構造と意思決定に関するものである。

NY州内の電力系統の運用を統括するNYISOは、電力の安定供給と経済運用のみをミッションとする機関であり、RE発電の導入促進に自発的に協力しなければならない立場にはない。それどころか、現行のルールの下で、NYISOが、RE発電施設に有利なようにtransmissionを敷設する計画を支援したとすれば、そのことは、彼ら本来のミッションである経済運用との間で支障を来しかねない。

一方、RPSプログラムの執行に責任を負うNYSERDAの方は、RPSプログラムとの関連においては、制度の執行にのみ責任を負う機関であるため――別途、研究機関としての役割も担っているが――、送電網の敷設という(少なくとも現行制度の下では)RPS制度の完全に外側にある事柄に対して、何らかの積極的働きかけを行いうる立場にはない。

これら二機関を管轄下に置き、“order”という形でルールを制定する権限を有しているのは州政府の一セクションであるPSCである。彼らは、RE発電の導入促進とtransmissionの拡張という、両方の課題を同時に視野に入れられる立場にあるわけだが、RPSの目標値の引き上げを決めた“Order Establishing New RPS Goal and Resolving Main Tier Issues”(2009年決定)の中では、RPSの今後にまつわるいくつかの懸念事項が論じられているものの、transmissionのcongestion問題については、一切の言及がなく、そもそも、彼らがこの件に問題意識を持てているのかどうかさえ定かではない。

このように、関連三機関の立場・言動を見渡してみると、“RE発電の導入促進に伴うtransmissionの不足”という形で、統合的にこの問題を捉えられている機関が、NY州政府内には今のところ存在しない可能性がある。テキサス同様、最終的には、立法府による行動が必要だとしても、日々の執行を司る――それゆえ、問題発見に一番近い場所にいるはずの――担当者の間でさえ、十分な問題把握・問題理解が醸成されていないとならば、元来、専門家以外の者による理解が難しいこの問題が、世間や州議会議員の耳目を集める可能性は、非常に低いのではないかと察せられる。このことから、NY州における、現在の関連組織間の責任分担構造が、CREZ政策をNY州に導入しようとするならば、二つ目の大きなチャレンジになるのではないかと考えられる。
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この後に、多少、implication的なものをくっ付けてconcludeしようかというのが、とりあえず今の時点での全体構想。実際書いてみて、最後の方が、定性的というか説明的というか、要するにグダグダだということがよくわかりました…sigh

テキサスの事例を引き合いに出してくるところまでは良いとして、そのあと、どういう方向に持っていくか。今の案のまま、頑張ってロジックを詰めるか、あきらめて別の展開を用意するか。。。
Maxwell school, Syracuse, Apr 15, 22:24

thesis draft #2

今日開幕のNHL Playoffをちら見してリフレッシュ。こんな話、どうでもいいと思いますが、今日あった東地区の二試合は、二戦とも、下位シードのチームが上位シードのチームを食う結果に。この流れが、明日のSabersの試合(Sabers=第3シード。第6シードのボストンと対戦)に乗り移らないことを祈るばかり。。

さて、リフレッシュも終えたところでthesis draft後半戦。

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こういった不都合の原因となりうる送電サービス供給量の硬直性は、同市場に見られる諸々の“market failure”要因によって説明できる。

まず何より、transmission事業は、「初期投資(capital cost)が莫大で、規模の経済(economies of scale)が働きやすい」という、自然独占(natural monopoly)の典型的条件を兼ね備えている。このため、新規参入が難しく、NY州においては、電力自由化以前からの“legacy transmission owners” 8社による、事実上の寡占状態となっている。これらの既存transmission事業者にとっては、transmission capacityの不足によってgrid内の二地点間で電力単価(Locational Based Marginal Price (LBMP))の開きが生じていたとしても――congestionが一切なければ、送電ロスのrecovery費用を除いた電力単価はgrid内全域で等しくなるはず――、その差をcongestion chargeとして徴収できるので、送電サービスの供給不足が、transmissionの積極的な増設を促すことにはならない。

公共財(public goods)的性質を色濃く持つが故の、費用負担の問題も深刻。NY州では、「transmissionの建設コストは当該transmissionの新設によって恩恵を受ける者=beneficiariesによって負担さるべき」とする“beneficiary pays approach”が取られているが、そもそも、beneficiariesの特定が非常に困難。遠隔地の電力を安く使えるようになるとは言え、transmission建設コストの全額負担は割に合わないと考えるdownstateと、自分たちが恩恵を受けるわけではないのに(一部とはいえ)transmission建設コストを負担させられるのは嫌だと主張するupstateの対立に、その中間地域におけるsiting(立地)問題が絡み、その必要性自体は広く認識されていても、具体的なプロジェクトとなると、なかなか話がまとまらないといった状況がNY州では長らく続いている。

Enforcement costsの問題もある。Transmission ownerにしてみれば、発電事業者が約束通りに新規発電所の建設及び送電サービスの利用を行ってくれなければ、新規transmissionの建設コストを回収できず、一方、発電事業者にしてみれば、transmission ownerが約束通りにtransmissionを建設してくれなければ、プラン通りの発電事業を行えないといった状況が想定されうる。このような場合、互いに相手方の約束履行の確証が得られなければ、双方ともに事業の実施に踏み切ることはできず、結局、事業の実施が見送られる事態に陥りがちである。

規制が送電サービスの供給を妨げている可能性もある。NY州においては、安定供給の面からその必要性が認められる場合を除き、新規transmissionの建設の認可を受けるためには、①“strict cost-benefit tests”をクリアするとともに、②州内load serving entities(LSEs・配電事業者)の80%以上からの賛同を得なければならないことになっている。この仕組みは、理論的には、ratepayerがtransmissionの過剰投資に伴うコストを負担させられる事態を防ぐために設けられているものであるが、LSEsの多くがlegacy transmission ownersの子会社であるという現実を考えると、既存transmission事業者を過度に利するかたちで機能している可能性がある。

以上は、RPS制度の導入如何にかかわらず、NY州の送電サービス市場が本来的に抱えている“market failure”であるが、これに加え、RPSとの関連では、externality(外部不経済)の問題も指摘されうる。そもそも、RPS制度は、既存の電力市場が「温室効果ガスの排出」や「国外産エネルギーへの依存に伴う安全保障の脆弱化」といった「外部不経済」を適切に評価しきれていないという反省に立ち、それらを内部化(internalize)するために導入されている制度であるが、transmission建設認可の際の、上記“strict cost-benefit tests”では、そういった外部性がまったく考慮されず、explicitlyに示されるbenefitのみが勘案の対象とされる。このため、ある地域へのtransmissionの延長が、新規RE発電施設の導入を促すと予想されるとしても、それに伴う社会的価値は考慮の対象とはならないので、そういったtransmission建設案が“strict cost-benefit tests”に耐えられる可能性は低いままとなる。(to be continued.)
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「後半」のつもりでしたが、この先、もうしばらくかかりそうなので、第3ピリオドは、また稿を改めて。
Maxwell School, Syracuse, Apr 14, 24:29