Friday, April 16, 2010

America's Great Outdoors

最近巷で話題(?)のWashington Post紙の報じているところによると、16日、Obamaクンが、“America's Great Outdoors initiative”と称する自然保護政策の再編計画(ただし今回は荒々のビジョンだけ)を発表したとのこと。

この手の政策に、大統領自らが、わざわざ記者会見を開いてまで、コミットメントを表明するというのは、僕ら日本人からすると、些か違和感のある話なのだが、実際には、Obama自身が会見の中でTheodore Rooseveltに触れていた通り、この国の歴史の中では、国立公園政策が、しばしば大統領肝煎りの案件として登場してくる。そうした実績を持つ大統領としては、TRの他にもFDRやアイゼンハワーなどがいる。

それほど詳しく歴史を調べたわけではないが、この国における“国立公園”制度には、日本のそれにはない、独特のテイストが込められているように思う。

米国版国立公園制度(というか、それが“本家”ですが)の、そもそもの目的は、手付かずの自然の残る未開拓の土地を、国(=連邦政府)有化することによって、アメリカ国民全員の「公園」として保護すべしというものである。その根底には、この国特有のfrontier spirit――当然それは、この国一流のpatriotismにも繋がる――が横たわっていて、少し大げさに言えば、YellowstoneやYosemiteは、(どこの州、どこの地域の出身かに関わらず)この国の人たち全員が共有する“自分たち”の歴史の、重要な構成要素になっているんじゃないかという気がする。言うなれば、日本人にとっての京都や奈良のように。   

というわけで、そもそもの出発点からして、国立公園政策に懸ける国民の“気合い”が全然違うと思うのだが、それに加えて――これも、その“気合い”によるところが大きいのであるが――、園内の土地を基本的に全て「国有化」してしまったという点も、非常に大きな違いであるように思う。その結果、国立公園地域を単なる「保護エリア」「規制エリア」として管轄するのではなく、文字通りの「公園」として、政府自らが、観光業も含めた「経営」に乗り出すことができるし、それによって、それなりにたくさんの雇用を生み出すこともできる(cost/benefitが良いかどうかは別問題。この点、確か、Milton Friedmanが、『資本主義と自由』の中で論じていた気がする。未読。)。

実際、DC近郊のShenandoah国立公園は、FDR肝煎りのjob creation programであるCivilian Conservation Corps (CCC) の一環として整備されたものであるし、今回のObamaイニシアチブにもそのような性格が込められていることは言うまでもない。こういった政策は、国立公園内の土地が必ずしも国有化されているわけではない日本のような国では、なかなか難しい(やったとしても、ちょろっとしか効果が出ない)のではないかと思う。

というわけで、アメリカの国立公園が素晴らしいのは言うまでもないし、その分野の仕事に携わる人であれば、誰しもが憧れを抱きたくなるのは非常によく理解できるのだが、同じ「国立公園=national park」を名乗っていても、日本のとアメリカのとでは、そもそもからして、成立ちや性格が大きく違うし、そのように違った性格を持つに至った背景には、両国の発展プロセス(=“歴史”)の違いが大きく関係しているので(→ 要するに、政策レベルでどうこうできる問題ではない)、ここは潔く、「別物」と捉えて、日本は日本なりのやり方を探す方が現実的なのではないかという気がする。実際、それを模索してらっしゃる方も多いと思うんですけど。

そういう意味では、むしろ、ヨーロッパ各国がどうしているかを勉強する方が、プラクティカルなんじゃないかとも思うのだが、寡聞にして、欧州の国立公園政策事情などというものについては、これまでのところ、何の知識も持ち合わせていない。どなたか詳しい方がいらっしゃれば、教えていただければ幸いです。
Maxwell School, Syracuse, Apr 16, 16:58

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