そもそも、質問であれ、意見であれ、何か発言をするときには、その場の多数派意見と自分の考えとの間に、何らかのギャップがあるケースが多い。でなければ、敢えて口を開いて発言する必要はないからだ。それまでの議論の中で出ていなかった(或いは、それまでの議論の流れに反する)考えを聞かされれば、誰だって最初は、「はぬ?」と思う。一旦「はぬ?」と思われつつも、最終的には「あぁ、なるほど。こいつの言っていることは正しいかも知れんな」と思わせるところに、発言を敢行する価値がある。
ここで思うのは、「はぬ?」の直後にどういう空気が漂うかが、発言の内容そのものと同じくらいに、クリティカルだということだ。「こいつ、また訳のわからんことを言いよってからに」と思われるのと、「こいつはいつも良いポイントを衝いてくるから、今回も丁寧に聴いておこう」と思われるのとでは、その後の展開が全然違ったものになる。どれだけ良いことを言おうとも、端から「あしらい」モードで対応されるか、多少言葉に詰まろうとも、続きの言葉を待ってもらえるか。誰に対してもniceに振る舞えるだけのsophisticationを備えた人なら、とりあえずこちらの意見を聞いてはくれるが、そのことと、その場の空気がpositiveかどうかは、また別の問題。コンスタントに自論をねじ込んでいきたいのなら、相手のniceな反応に期待するのではなく、相手がこちらの意見を自発的に「聴きたい」と思えるような空気を勝ち取る必要がある。
というようなことを意識しながらcapstoneに参加しているのだが、3日目終了時点での空気は、まだまだaway。こちらの発言(の中身)は、そんなに間違っていないと思うし、彼らの議論のレベルが、そこまで高いとも思わないのだが、結果的には、まだ信頼を勝ち取るレベルに至っていない。
こっちの考えていることが、齟齬なく相手に伝わるよう、英語の表現方法を改善する必要があるのは確か。それ自体、難題なのだが、それに加えて、難儀だなと思うのは、どこまでの細かさ・正確さを追求すべきかという点。細か過ぎるところに立ち入ると、「確かにお前の言うとおりだが、今はそこまで詰める必要ないだろ」といった反応が返ってくる。それ自体は日本でも同じなのだが、じゃぁどの辺りに、「細かさ」に関しての米国式最適点があるのかが、未だによくわからない。今日、「細かすぎるかな」とは思いながらも、自分の気持ちに正直になって(笑)、3つ、4つ、質問/意見を投げてみたら、総じて、あんまり感じ良くない反応が返ってきた。その発言も、空気が良ければ、聞き入れられたのかも知れず、鶏が先か卵が先かみたいなところはあるのだが。
あとは、自分の存在価値をどこに求めるかということだろう。少なくとも、「この角度からの意見は俺に任せろ」的な領域を持てるといいのだが、今のところ、そういった「角度」はまだ確立できていない。次回ミーティングは、一日空けて、金曜日の正午から。
my room, Syracuse, May 20, 25:07
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