Monday, April 26, 2010

How to educate in Public Policy Schools

久しぶりに徹夜をしてみたら、朝からまるでアタマが働かない。歳をとったものだと思う。

とりわけ英語がアタマに入らないので(と言う訳でもないんですが)、しばらく前に頂いたままになっていた、outernationjpさんからのコメントについて、考えてみる。

“行政系大学院は、…「公共セクターの担い手あるいは行政府の職員はこうあるべきだ」という理念が先にあってそれに併せてプログラムをくみ上げてる側面もある”とのご指摘は、まさにおっしゃる通りかと思います。要するに、supply-pushではなく、demand-pullで教える内容が決まってくる世界なんだろうなと。

ただ、そうだとすると、その“pull”は誰がしているのか、つまりその、誰がどういった形で、行政官の「あるべき像」を発信しているのか、というところが次に気になってくる。

僕自身、「行政官たるもの、こうあるべきだ」的な像は(本人が実行できているかどうかは別にして)いちおう持っているし、そのイメージを、後輩に求める(そしてウザがられる)こともある。ただ、そういった像/イメージを、組織としてのものに昇華し、ワンボイスで外部に発信できるかというと、正直、なかなか難しいし、私的所有ならざる公的機関が、そういった「職員のあるべき像の一元化」を図ることが好ましいことなのかどうかも良く分からない。

では、artificialな「取りまとめ」をしないにしても、採用の機会などを通し、自然な形で、需要側(=行政機構)の集合的意思が、供給側(=大学)にフィードバックされる、といったことは起こっているのだろうか。少なくとも日本での経験で言えば、これは非常に怪しい(起こっていたとしても、非常に弱い)と思う。部署ごとの裁量で人を採る傾向の強いアメリカでは、そういったフィードバックが働く可能性はより低いのではないだろうか。

議論が堂々巡りループに入ってきつつある気がするので、そろそろ閉じようと思うが、「あるべき像」を容易に特定できないのが行政官という職業の特徴だとしたら、逆に、一定の多様性をプールしておくのが賢い戦略。となれば、その職業の反射である公共政策大学院も、特定の「色」や「行動様式」を持つ卒業生をマスに輩出するのではなく、生徒に相当程度の自由を与えた上で、好きなように勉強させるというのが、一見、非効率なように見えて、実は、その社会的使命に見合ったスタイルなのかも知れない。

そもそも、この議論に意味があるんだかないんだか、自分でもだんだんよく分からなくなってきている(笑) でもおかげで、いちおう頭が冴えてきたので、そろそろ(って、もう夕方だよ!!)論文執筆の続きに取り掛かります。
Maxwell School, Syracuse, Apr 26, 17:33

追記: 夜に読み直してみて思ったこと。アメリカの方が、日本に比べて「一元採用」の度合いが弱く、多元的な採用活動が行われており、より「(労働)市場」と呼ぶにふさわしいものがそこに存在しているからこそ、需要サイドの集合的意思は、逆にフィードバックされやすいのかも知れない。

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