まず、前回の「反省文」を書いた時点でも、まだクリアには自覚していなかった点。論文を書き始める前に、経済学論文の“基本パターン”を押さえていなかったのは、(こんなところで書くのも恥ずかしいが)我ながら、恐るべき蛮行だったとと思う。
思うに、「論文を書く」という行為には、三つの要素が絡む。料理にたとえるならば、“食材”と“道具”と、料理人の“技量”。論文で扱う問題が“食材”ならば、それを分析するツール/方法論が“道具”、執筆者の能力が“技量”という具合いである(←あくまで僕オリジナルの発想であって、特に根拠があるわけではない)。
“道具”としては、economicsなりpolitical scienceなりengineeringなりといった方法論があるわけだが、料理に用いる道具と同様、方法論には、それぞれ、得意・不得意な“食材”がある。「炊飯器」という道具で「米」という食材は調理できても、「かぼちゃ」を調理するのは難しい(実際、試したことはないが、たぶん難しいと思う)。その点、経済学/economicsなる道具は、非常に多機能・多用途で、それ一つあれば何かと調理できるのは事実 ―― ソースパンくらいのイメージか。だが、そうは言っても、ソースパンとて、この世の全ての食材を調理できるわけではない。また、どの程度、幅広い食材を捌けるかは、料理人の“技量”にもかかっている。料理に自信がないのなら、スープパンで米を炊くのは止した方がいい。残念な結果に終わるのはだいたい目に見えている。
この例で言えば、僕は、食材を観察することばかりに気を取られ、手持ちの道具がどんな食材の調理に向いているのか、まともに勉強したことも、気にしたことすらなかったおっちょこちょい、ということになるのだろう。自分の技量を踏まえるならばなおさら、トリッキーな食材ではなく、ソースパンにお似合いのオーソドックスな食材の中からテーマを選ぶべきだったと思う。
この反省から今後の教訓を得るならば、「もっと“道具”に気を使うべき」ということだろう。短絡的に“食材”に目が向きがちなのは ―― 少なくとも僕の場合 ―― 論文執筆に限ったことではない。普段の仕事でも、手持ちの道具で何が出来るかを考える前に、単純に、問題の全貌解明に走ってしまったことがあった。
時間が無限にあるのなら(あるいは、全貌解明したところでたいして時間がかからないのなら)それでもいいかも知れないが、限られた時間の中で最大限のアウトプットを出すには、手持ちの道具の特性を常に意識しつつ、それを実際に使うためにはどういう情報が必要かという視点で、濃淡をつけて問題を理解していく方が効率的。
もういい加減大人なんだから、そういう仕事の仕方も覚えていかないとなぁ。我ながら、レベルの低いことを言っているような気もするが、ともあれ、それに気づかせてもらえたのは、論文を書いたことの、少なくとものメリットだった。
my room, Syracuse, May 11, 26:17
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