Monday, November 30, 2009

Galápagosisation

だいぶ前にkinokumiya Bookwebの通販で買いながら、本棚(今の部屋に本棚はないので、正確に言うと地べた)に積んだままになっていた宮崎智彦著『ガラパゴス化する日本の製造業』をこの連休中に読んでみた。

本著を貫くメッセージは、日本の製造業の、いわゆる「ガラパゴス化」に対する警鐘である。本著「刊行にあたって」の言葉を借りると、『国内独自企画の超ハイエンド市場とBRICsを中心とする世界市場で市場特性が大きく異なるダブルスタンダード化が進行』した(or している)結果、『日本市場が世界市場から孤立し、個性はあるが独自の生態系を持った閉鎖的な島に閉じてしまっている』状態が“ガラパゴス化”。

このメッセージ自体は大変分かりやすいし、納得感もあるのだが、いざ、もう一段階、深く理解しようとすると、途端に個別技術の世界(半導体、液晶パネル、携帯電話、太陽電池 etc.)に入り込んでしまい、文系出身かつ背景知識ほぼゼロの僕には、いささか、perspectiveを掴みにくかったというのが偽らざるところ。まぁ、「技術」というのは、そもそもそういうものなのかもしれない。

世の中、何について考えるときでも、一方の極には「具体」的なアプローチがあり、他方の極には「抽象」的なアプローチがある。「抽象」化を究極まで進めていくと、行きつく先は「自明」の領域であろう。「未解決な問題は、解決困難だからこそ未解決なのだ」なんて言ってみたところで、そんなテーゼは「自明」以外のなにものでもなく、実践的には何の意味も持たない。あらゆる事象に適用できそうな(それだけ「抽象」的な)テーゼではあるが、ただそれだけのことである。

これはやや極端すぎるアホな例かも知れないが、ともあれ、ここから言えることは、ジェネラリストといえども、まともにモノを考えるためには、ある程度の深みまで、「具体」の世界に続く階段を下りていく必要があるということ。「技術」というものに関して言えば、この「具体」へ続く階段が、下り始めてすぐのところで、非連続的にいきなり深くっているように思う。「自明」とは言わないまでも、実践の用に供するには抽象的すぎるテーゼ(ex. 「これからの時代、環境技術はますます重要になる」)から、もう一段踏み込もうとすると、いきなり深くなってしまう(=その分、具体的な事柄について勉強しないと、次のステップまで踏み込めない)、といった性質があるように思う。これがたとえば「経済」や「法」だと、もう少し小刻みにステップが用意されているように思うのだが。

そういった性質をもつ「技術」というものに、ジェネラリストたる自分(※)は、どうやって向き合っていけばいいのだろうか――そんなふうに考えた(或いは、ぼんやりとそう思った)というのが、本著を読んでみての率直な感想。今のところ答えはない。日本に帰るまでに何がしか指針的なものを掴めればいいなぁと思う。

※ ある人間がジェネラリストであるか、スペシャリストであるかは、きわめて相対的な問題であるが、世の中全体の中での自分の立ち位置というものを考えれば、まぁ、ジェネラリストと自称すべき領域に属しているのではないかと思う。
my room, Washington DC, Nov 29, 23:59

1 comment:

knj said...

環境問題(特に気候変動問題)は、技術的な解決策がかなり多くの部分を占めるので、避けては通れないと思います。

僕も、どういうふうに技術と向き合っていくかは常に考えています。行政の仕事って、専門家の知見をとりまとめてリードすることだなと、最近特に思うので、そういう意味では、ジェネラリストであることは確かだと思います。

とはいいつつ、専門家の知識を咀嚼して大きな絵を描くことができなければ、それは行政官失格なわけで、
・ 専門家の意見を大枠理解できる能力
・ 専門家の本音の意見を常に得られる人的ネットワーク
が最低限必要ではないでしょうか。特に、組織として蓄積された組織知(Institutional Knowledge)をなんとか高められないかなと考えているところです。