Sunday, November 22, 2009

SHUHARI

といっても、カフェの方の話ではない。本来の意味での「守破離」のお話。(というか、「カフェの方」のSHUHARIなんて、関西人にしかわからんですよね…)
  
深夜のマンハッタンを、カニアレルギー(容疑者)のY君と一緒に歩いていた。ある交差点に着いたところで分かれるはずだったのだが、二人とも、軽くアルコールが入っていたせいもあってか、ついつい話が盛り上がり、折からの寒さも気にせず(←某雪国で一年間過ごした結果、そもそも寒さの気にならない体質に変わってしまったという説もある)、交差点の隅っこで立ち話を開始。とはいえ、最初はものの2、3分で済ませるつもりだったのだが(たぶんY君もそうだったんじゃないかと思われる)、あれやこれやと話し始めると止まらなくなってしまい、気づいたら1時間くらいその場でしゃべり続けていた。
  
温暖化のこと、技術政策のこと、「陰謀論」のこと、云々。いろいろと思いのたけを話させていただいたのだが、結局のところ、僕の話は経済学関連のところに収斂する。一つの指針(或いは原則)として経済学という軸を自分の中に持っておくことが如何に有効であるか、経済学の原理を現実に適用していくためにはどういった心がけが必要であるか――そういった話を、(僕自身、まだ答えの出せていない悩みの開陳も交えながら)率直に話させていただいたように思う。
  
それを聞いていたY君が、「それは要するに、日本の芸事の『守破離』のようなものだね」という趣旨のことを言った。その一言を聞いて、「あぁ、なるほどな」と、自分の頭の中が一気に整理されたような気がした。
   
まずは原理原則を押さえる。それを徹底的にやる。しかし、それだけでは対応しきれない事態というのがそのうち必ず出てくる。そのときに初めて原則を「破」り、自分なりの対応の仕方を試してみる。そういった試行錯誤を繰り返して行った先に、最終段階として、ようやく、原理原則を「離」れ、自分なりの流派=考え方というものを構築する段階に至る――これぞまさに、「守破離」の訓えそのものである。
   
思うに、今の日本には、「経済通」を騙りながら、「守」を疎かにしているやからが大変多いのではないだろうか。最初から、「破」や「離」に手を染めていながら(それは、厳密にいえば、「守」を経ていないという点で、本来の意味での「破」や「離」でさえない)、経済学をわかったような気になっている人間が多すぎるのではないだろうか。
 
「お前はどれだけ経済学の基礎理論を忠実に習得しているのだ」と言われれば、正直、怪しいところはある。というか、多々ある。その点、自戒半分のエントリーではある。しかしながら、「なんだかんだと言っても、教科書通りのセオリーは、すべての議論の出発点とされるべきものである」、「まともな説明もないままにそのセオリーをスキップするなんてのは、恣意的判断以外の何物でもない」くらいの信念は持っているつもりである。
  
というわけで、NYの寒空の下、素敵な「気づき」を与えてくれたY君に感謝。お礼に今度ごちそうするので、カニでも食べに行きませんか??
my room, Washington DC, Nov 22, 15:28

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