具体的な技術について詳しく知ることは、我々文系の人間にとっては、ただ難しいというだけでなく、心理的に非常に億劫なことでもある。結果、技術関連のあれやこれやを、すべてまとめてblack boxに放り込み、「技術(開発)は重要である」とのお念仏を唱えることに専念する人が続出することになる。
人間、ある程度の歳を過ぎると――特に、頭が良い人ほど――、何をするにも近道を探す癖が顕著に現れるようになる。もちろん、最小の時間で最大の成果を残すという意味での「要領の良さ」も、それはそれで非常に大事なので、近道を探すことが一概に悪いというわけではないのだが。
「近道を探す」というのは、要するに「法則性を見出す」ということだ。「法則」さえ掴んでしまえば、いちいち個別の事象を勉強する手間を省くことができる。しかし、技術というのは、「法則」の通用しにくい世界である。もちろん、法則めいたものが全くないなんてことはないが、「技術」(或いは、僕らの世界で言えば「環境技術」)なんていう、極めて抽象的な概念(或いは領域)全体を覆う法則なんてものは、あまりないのではないだろうか。あったとしても、ほとんど自明のようなものしかないのではないだろうか。
つまり、技術のことをわかろうと思えば、ショートカットに頼らず、具体の世界に降りていかねばならないということだ。そのことに薄々気づいているからこそ、普段からショートカットに慣れ親しんでいる「利口な」人たちは、敢えて具体の森に分け入るなんていう「愚行」に走ることなく、森を丸ごとblack boxに放り込むオプションの方を選択するのではないだろうか。
しかし、逆に言えば、法則のない(少ない)世界であるからこそ、具体を知らないことには、実質的なことは何も言えない、わからない――そういうことなのではないかと思う。したがって、技術の中身のわかっていない人から聞く技術の話には、まるで迫力がないわけだ。
一方、技術の世界はどこまで行っても行き当たりばったりで、何らの法則性や教訓も導き出せない世界かというと、もちろんそんなことはない。その世界全体を一刀両断できるような、そんな便利な道具はあまりないとは思うけれど、その部分、部分の特質を鋭く言い当てる法則(ある種、専門家の「勘」みたいなもの)は、かえって多々見受けられる世界なのではないかと思う。
受験勉強的に手っ取り早く抽象的な法則を一通り身につけてしまおうという姿勢ではなく、丁寧に一つ一つの技術を勉強しようという姿勢で臨んでこられた方、そして、そうやって身に付けた具体的な知識の山の中から、自ら何らかの法則性を発見されてきた方の言葉には、非常な説得力がある。
最近、「技術」というものについて考えているのは、そんなところである。
my room, Washington DC, Nov 23, 25:58
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