Saturday, August 29, 2009

When carbon is priced, who ultimately pays?

UC Santa BarbaraのCharles Kolstadという、IPCCのlead authorを務められた先生と、そのお弟子さん(?)が、「(アメリカの)気候変動法案が通ったら、結局、誰が負担することになんだっけ?」という議論をwebに載せている。彼らの結論を先に書くと「法案に対する反対は、本当は、分配の問題への懸念から発しているんじゃなくて、イデオロギーの問題に過ぎない」(Strong opposition to the legislation will probably be based more on ideological grounds than distributional concerns.)というもの。

彼らの整理によると、法案に対する反対論のコアには以下の3つの理由がある、と。
  1. アメリカの国内産業が国際競争力を失う。
  2. 逆進的な効果を持つ
  3. 発電に占める石炭火力の割合の高い州の住民が大きな負担を強いられる。
これに対する彼らの反論をかいつまんで言うと、一つ目については、「実質的なインパクトを被る業種は限られている(トン当たりの炭素価格を$ 15とした場合に、コストが5%以上増えるのは、分析対象の500業種中、5業種のみ)」、二つ目については、「裸でcap-and-tradeを導入すれば、逆進的になりうるが、下院案に既に盛り込まれている(低所得者向けの)負担相殺措置を盛り込めば、逆進性がオフセットされることが、CBOの分析で明らかになっている」というもの。3つ目については、特段の言及なし。(強いて言えば以下の一文のみ。“Virtually all of the regressivity has been neutralised, though regional differences may still persist, an issue addressed by Hassett, Mathur, and Metcalf (2009).”)

で、結論がこのエントリーの最初に書いたとおり。もちろん、きちんとしたpaperではなく、さらっとwebで発表した記事とはいえ、さすがにちょっと荒すぎませんか?という気がする。逆進性の問題は解消されるとの意見を受け入れるにしても、いくつかの産業といくつかの州が割を食う、という問題には答えが示されていないわけで。

加えて言えば、そういう問題を「イデオロギー」という言葉で片付けるのもどうかと。特殊利益の問題であることは確かだが、それらの産業・州の関係者にしてみれば、直接的な経済的不利益を被るのはほぼ確かなわけで、それを「イデオロギーのせいだ」と言っている間は、建設的な議論にはならないのではないかと思う。

というわけで、奥さんの飛行機が到着したみたいです。
Jackson Hole Airport, Aug 29, 17:33 MST

Bay Area

Wyoming州のJackson Holeという空港にいます。アメリカでは唯一、国立公園の中にある空港なんだそうで。雄大なTeton山脈(この一帯はGrand Teton国立公園)が空港のターミナルからも一望できます。

まったく、blogなんて書いてへんでとっとと遊びに行けば、という話なんですが、奥さんの乗ってくるはずの飛行機がエアコン故障で遅れたらしく、ただいまコーヒー飲みながら待ち呆け中。ぼけーっ。まぁちょうどいいので、昨日・おとといの日記をまとめておきます。

◆ 27日(金) ◆
お昼過ぎにSan Franciscoに到着。半日、市内をぶらぶら歩いた後、かの有名なFisherman's Wharfでknj君夫妻と合流。これまた有名なGolden Gate Bridgeを渡り、瀟洒な海岸の町、Sausalitoで夕食。強いて日本に喩えれば葉山といった感じか。落ち着いた空気が流れ、ややシニアな皆さんがゆっくりと夕食を楽しむ姿が目立つ。海の向こうに臨むSan Francisoの灯りが美しい。食後、San Francisco湾の北側をぐるっと回り、Berkleyへ。knj君邸に泊めていただく。

◆ 28日(土) ◆
午前中、knj君の案内でUC Berkleyのキャンパス内を散策した後、大学のゼミの後輩I君(現在、UC Berkleyの博士課程に在籍中)と3人で昼食。カリフォルニアの暖かな日差しの下、芝生の上でピザをほうばる。午後は、僕のリクエストで、knj君に足を延ばしていただき、州都Sacramentoへ。DCのCapitol(国会議事堂)にそっくりのCapitol(こっちは州議会議事堂)を見学した後、バカでっかい加州環境保護庁(EPA)を、二人して、指をくわえながら眺める。Berkleyに戻り、knj君奥さん、ゼミ後輩I君を交え、4人でお寿司屋さんへ。本当に話が尽きなくて、いつまででもしゃべっていられそうな楽しい会だったが、それぞれの成長と活躍を約しつつ、10時頃に解散。

<二日間の足取り>

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というわけで、knj君夫妻の全面的なご協力の下(ほんと、ありがとうございますm(_ _)m)、二日間のBay Area滞在を満喫してきました。海あり山ありの非常にきれいなところで、住環境という意味では、某S市との差は歴然(汗) 地元の人のキャラも、東海岸とは少し違っていたような気がします。まぁ非常にfriendlyで、やたらと話しかけてきてくれます(笑) ナニジンなのかはわかりませんが、とにかく東アジア人が多いのも印象的でした。街を走っていて、ひらがな表記を見かけることも普通。この辺は、やっぱり西と東でだいぶ違いますね。

ほんの少し東に車を走らせるだけで、目に見えて気温が上がるのにもビックリ。緯度的に言えば、このあたりは、もともと非常に熱く、乾燥した土地のようです。沖合を流れる寒流(なんて名前でしたっけ??)のおかげで太平洋岸は涼しく(というか寒いくらい)、霧なんかも多いようですが、Bayから離れていくと、一気にステップのような気候に変わり、Sacramentoに着く頃には、knj君と二人して、脱水症状寸前(!?)に陥っておりました。

Jackson Hole Airport, Wyoming, Augast 29, 16:02 MST

Thursday, August 27, 2009

Dawn in an Airport

というわけで、ただいまDulles国際空港。これからSalt Lake City経由でSan Franciscoに飛びます。

思い起こせば4年前、アメリカを初めて訪れたときに降り立ったのがこの空港でした。ターミナルの建物を眺めながら、「そういえばこんな感じだったなぁ…」と4年前のことを思い出せるはずもなく、「こんな感じだったのか」と思いながら、夜明け間近の空港でハンバーガーをほうばったのでありました。

旅先でもチャンスを見つけて更新しようと思っています。ではでは行ってきます。
IAD, Virginia, Aug 27, 7:05

Accounting

明日の朝(といっても数時間後ですが)から一週間ほど、旅行に行ってきます。というわけで、今月の総括を手短に。

月の頭には、まだガーナにいたんだということが、自分ではほとんど信じられないくらい、遠い昔の出来事のように思えてしまうわけでありますが、今月は、5日に帰米した後、SyracuseからDCに移動。その後は、DCにて新生活の立ち上げをしつつ、本を読んだり、ペーパーを書いたりしながら過ごしてきました。正直、もうちょっといろいろやっておくつもりだったんですが、なんだかんだでセットアップに時間をとられてしまい(というのも言い訳ですが)、秋学期に向けた「貯金」を作るまでには至らず。旅行から戻ってきたら、そろそろ本気で、通常学期中モードに戻さねばなぁ…と思う今日この頃であります。

そんな8月でしたが、いちおう、事前にやろうと思っていたうちの一つは、今日、なんとか終えることができました。それというのは、グロービスのアカウンティングの本を読むこと。会計(財務会計、管理会計、両方とも)については、日本にいたときから、いつかちゃんと勉強せにゃぁなぁと思っていたわけでありますが、今月、多少まとまった時間がとれたこともあり、何人かの方からお勧めいただいたこの本で勉強をしてみました。が、正直、これだけでは、アカウンティングが身についたとはとても言えんなぁ…というのが今の実感です。この本自体は、よくまとまっていて、悪い本ではないんでしょうけどね。

本気で、多少なりともアカウンティングを習得しようと思うのなら、本を読むだけでなく、自分で手を動かして、慣れていくしかないんだろうと思います。問題は、限られた時間の中、アカウンティングにどれだけの時間を投入するかということかと。とは言いつつ、何となく、消化不良で気持悪いんだよなぁ…。あぁ、うぅ。。
my room, Washington, D.C., Aug 26, 26:55

Tuesday, August 25, 2009

The History of the End of Samurai Period

『昭和史』で有名(らしい。実際、読んだことはない)な、半藤一利さんの『幕末史』を読んでみた。「そういうの良くないよなぁ…」と常々思いつつも、幕末に関する知識と言えば、いわゆる「司馬史観」一辺倒でこれまで来てしまった僕にとっては、なかなか新鮮な話も多く、非常に面白くて(かつ、講義録をもとに書かれているので、話口調で読みやすい)、大部ながら一気に二日で読み切ってしまった。
  
この本の中で、著者半藤さんが一番力を入れて書かれているのは、1865年に条約勅許が降りて以降のゴタゴタは、主義主張の争いを離れた単なる権力争いに過ぎず、やらずもがなの内乱であった、という点。たとえば、
要するに慶応元年(※ 1865年)のこの時(※ 1858年の調印以来、朝廷としては容認できないとしてきた通商条約に対する勅許が正式におりたとき)、日本の国策は一つになったんです。ですから本来ならここで倒幕などといって国内戦争なんかせず、同じ方向に向いて動くべきだったのです。(p.209)
と。また、
国策が開国と一致したのに、あえて戦争に持ち込んで国を混乱させ、多くの人の命を奪い、権力を奪取したのです。「維新」とカッコよく呼ばれていますが、革命であることは間違いないところです。将軍を倒し、廃藩置県によって自分の属している藩の殿様を乗り超え、下級武士であるものが一斉に頂点に立つ。では、つぎにどんな国を建設するのか、という青写真も設計図もビジョンもほとんどなく、なんです。(p.461)
とも。もちろん歴史なので、いろんな見方ができるのだろうが、この説はこの説で、言われてみればなるほどな、の思いがあった。

また、改めて幕末の歴史を詳しく追ってみると、幕府、朝廷、薩摩、長州、会津、…といった、諸組織間の争いが行われていただけでなく、各組織の内部でも、内ゲバ続きで、意見がブレまくっていたことがよくわかる。井伊直弼を輩出したゴリゴリ佐幕というイメージのある彦根藩も、桜田門外の変で彼が暗殺されて以降、尊皇に転じていたとのことが本著のどこかに書かれてあったし、また、(この点は本著ではあまり詳しく述べられていないが)逆に「勤王思想の総本山」ともいうべき水戸藩も、天狗党の乱(1864年)で尊王攘夷過激派が殲滅されて以降、保守佐幕に転じた時期があったとのこと(戊辰戦争勃発時に天狗党残党が復権)。
  
また、ブレという意味では、なんといっても朝廷のそれがもっともひどく、長州を頼みに「攘夷、攘夷」と叫んでいたのが、「長州の極端なやり方を好まなくなり」(p.158)となるや、八月十八日の政変(1863年。会津・薩摩両藩による対長州クーデタ)を経て、開国的な島津久光に乗り換える、なんてブレを乱発しまくる。その長州にしてもそうで、長井雅楽の下、「開国+公武合体」を藩論としていたのが、一気にひっくり返されて、ゴリゴリの尊皇攘夷となるのが1862年。その攘夷論で以て、一旦朝廷に取り入るも、八月十八日の政変、池田屋事件、蛤御門の変を経て第一次長州征伐を受け、佐幕保守派に藩政の主導権が移るのが1864年。高杉晋作らによる「革命」が成り、再び「倒幕」(ただしこのときは、「倒幕」+「開国」)が藩論となるのが1865年、といった具合に。

行き過ぎれば逆ブレする、ある勢力がこければ対抗勢力が力を持つ――落ち着いて考えれば当たり前の力学なのだが、ついつい我々は、組織ごとに一つの「色」で見てしまいがちである。これは何も歴史を見るときに限らず、現在進行中のことについても言えること。気をつけねばと思う。
  
各勢力(特にのちに「官軍」と呼ばれる薩長を中心とする西軍)による権力闘争を終始批判的に論じている筆者であるが、一人、勝海舟については、ベタ褒めしている。「幕末にはずいぶんいろんな人が出てきますが、自分の藩がどうのといった意識や利害損得を超越して、日本国ということを大局的に見据えてきちんと事にあたったのは勝一人だったと私は思っています」(p.289)といった具合に。やや贔屓目が入っているのでは…、なんて気がしないでもないが(笑)、もちろん、彼が大挙を成し遂げた大人物であったという点については、僕もまったく異論がない。

日本への、勝の最大の貢献が江戸無血開城の成就にある、という点については、ほぼ異論のないところであろうと思うが、その際、「戦争はしたくないけれど、やるとなればやるということを、会見に先立ってはっきりと西郷さんに書き送ってい」(p.318)たそうであり、「いよいよの時には江戸市中に官軍を全て入れ、まわりから火をつけ江戸を火の海にして、彼らを焼き殺す」(p.315)手筈も整えていたんだとか。これに関して勝は、後日、
この議(焦土戦術)ついに画餅となる。この際、費用夥多(多くの者に沢山の金を配った)、我大いに困窮す。人ひそかに知る者、我が愚なるを笑う。我もまたその愚拙を知る。然りといえども、もしかくの如きならざれば(あれだけの覚悟を固めなければ)、十四、十五の談(西郷との談判のとき)、我が精神をして活潑ならしめず、また貫徹せざるものあり(p.343)

と書き遺しているとのこと。ギリギリの交渉、ギリギリの大仕事というのは、こういった相当の準備と覚悟があってこそ、初めて成るものなのだろう。

最後に、引用が少し長くなるが、本著の中で非常に印象的だった一節を。

ところで、「攘夷」「攘夷」と言っていますが、では下級武士や浪人たちはいったいどのような理論構成のもとに攘夷を唱えていたのか、当然問題になるわけです。が、正直申しまして、攘夷がきちんとした理論でもって唱えられたことはほとんどなく、ただ熱狂的な空気、情熱が先走っていた、とそう申し上げるほかない。時の勢いというやつです。そこがおっかないところで、理路整然たる一つの思想があって皆がそれを学び、信奉し、行動に出るなら話はわかるのですが、それがほとんどなく、どんどん動いていく時代の空気が先導し、熱狂が人を人殺しへと走らせ、結果的にテロによって次の時代を強引につくっていく。テロの恐怖をテコに作詞が画策し、良識や理性が沈黙させられてしまうのです。むしろ思想など後からついてくればいいという状態だったのではないでしょうか。いつの時代でもそうですが、これが一番危機的な状況であると思います。

my room, Washington, D.C., Aug 25, 10:55

Monday, August 24, 2009

smart way to write an English paper

ここのところ、脱力系のエントリーが続いていますが、たぶん今日もそんな感じになります。

今日は一日、昨日の続きのレポートを執筆。もうちょっと早めに終わらせる予定だったんですが、予定通り、予定外に時間がかかってしまい、たった今、本文を書き終えたところ。これから見直しをして、conclusionを書けばいちおう完了ということになります。1.5行改行(←single spaceとdouble spaceの中間)で10ページくらいになったので、まぁまぁ頑張ったかな、と。それにしても、時間かかり過ぎですけどね。

「とにかく意味が伝わりさえすればOK」という文章であれば(たとえば、emailとか)、ざくざくっと英語でそのまま打てるようになったわけですが、いちおうそれなりに内容もあって、格式も求められる文章(大学のpaperとか)を書くとなると、未だに、日本語で下書き → 英語翻訳 という作業方法をとっており、どうしても時間がかかります。

英訳作業の時には、このサイトなんかを使って、どういう言い回しが適切か、一フレーズずつ選んでいくわけなんですが、使うサイトがこれから上のに変わっただけで、なんか東京にいたときと同じような作業してるなぁ…と思ってみたりもします(苦笑) 東京のときの経験で言うと、ある時期から、いちいち一語一語検索しなくても、「こういうときはこういう言い方すんだよね」とだいたいの目星がつくようになったわけですが、英語もそのうちそんな風になるのでしょうか…? なんか賢い英語論文の書き方があれば、ぜひこっそり教えてください。(なんでこっそり?)
my room, Washington, D.C., Aug 23, 24:27

Sunday, August 23, 2009

Slugfest

今日は日中、大学へのインターン報告書をしこしこ執筆した後(残念ながらまだ終わってませんが…)、夕方から、Syracuse時代の同級生の皆さんと一緒に、MLB Washington Nationalsの試合を観に行ってきました。

この球団、もともとカナダのモントリオールにあったExposが、2005年に越してきて、Nationalsに改名したものなんですが、とにかく弱小で、今シーズンのここまでの成績は、43勝79敗の勝率.352。当然ながら最下位で、ひとつ上のチームからは14ゲームも離されています。阪神がどん底にあった時代('87年)の勝率が.331ですから、それとかなりいい勝負しているわけですね。そういう意味では、非常に親近感が湧いてきます。

ただ、2008年に落成したばかりの新球場Nationals Parkは、天然芝のとてもきれいな球場で、首都ワシントンの球場らしく、レフトスタンドからは、国会議事堂のドームも見えたりします。「球場だけは立派」というところも、どこかの球団と似てますね。

今日は午後から雨が降り続いていて、試合の開催も危ぶまれたのですが、1時間半ほど遅れはしたものの、午後8時半に、無事、試合開始。試合が始まるや否や、期待通り(??)の猛攻を食らい、あっさり7点を献上。この時点(2回表)で席を立つ人もちらほら(さすがに早すぎでしょ。笑)。その後、満塁ホームランを含む奇跡(?)の猛攻で8-8の同点に追いつくも、最後は結局引き離されて、9-11で負けてしまいました。とはいえ、なかなか派手な乱打戦(英語では“Slugfest”と言うそうです。“slug(強打)”の“fest(お祭り)”)を見れて、$14の元は十分取れたかと。

アメリカに帰ってきてからというもの、日本人の方とお食事に行くか、そうでなければ、一人で過ごすことが多かったので、ここしばらく、英語で会話をする機会から遠ざかっていたのですが、今日は久しぶりにたっぷり英語で会話できたのも良かったです。昔、NO○A講師として来日し、大阪の今里に住んでいたアメリカ人N君に、昨今の日本の政治情勢を説明しながら、二人して、「バラマキってやだよねぇ」なんて話で盛り上がること、しきり。(←ちなみにN君は自称 libertarian) 野球観戦をしつつも、ついついこんな話になってしまうところが、いかにも、Maxwell生なわけで。。

今日行ってきたNationals Stadiumもそうですが、アメリカの球場というのは、概して内野(特にバックネット裏)の席数が多く、外野席は比較的少ないつくりになっているように思います。つまり日本の球場の逆パターンなわけですが、野球というスポーツでは、やりとりのほとんどが内野で発生するわけで、考えてもみれば、「アメリカ型」の方が合理的なつくりのような気もします。まぁ、日本で外野席に陣取っている人たちは、「野球を観に来ている」というよりも、どちらかというと、「応援をしに来ている」人たちなので、あれはあれで良いのかも知れませんが。それぞれの国のファン事情に合わせ、球場も、それぞれ独自の進化を遂げてきた結果、と理解しておきます。

my room, Washington, D.C., Aug 22, 25:41

Friday, August 21, 2009

Vehicle Inspection

突然ですがクイズです。これはいったいどこでしょう?高速道路の料金所のようにも見えますが…。

正解は、DCの車検場でした。下の写真の左側の青い小屋に車が吸い込まれていき、小屋の反対から出てくるときには車検が終了している、というおめでたい仕組み。

ここまで読んで、「お前、こないだSyracuseで車検してきたとこやがな~」と思われた方、お目が高い!! てっきり、NY州で車検を済ませていけば、DCでも有効だろうと高をくくってたんですが、これが甘かった。いざ調べてみると、DCで自動車登録を行うには、有無を言わせずDCでの車検が必要とのこと。つまり、「この車はDCでの車検に通りました」という紙をDMVに持っていかないと、ナンバープレートをもらえないというわけ。面倒くさいことしよるなぁと思うわけですが、そもそも、アメリカは連邦国家ですから、各州(あるいはDC)政府に言わせれば、「よその州のルールなんか知らん」というわけで、まぁこの辺は、しゃぁないのかなぁと思います。

ルールを事前にきちんと読んでいなかった自分も悪かったわけで、この点については、そんなに愚痴愚痴言うつもりはないんですが、愚痴愚痴言いたくもなるのは、この車検場の効率の悪さっ!! そもそも、DCの車検は、DMV直営の車検場でしか受けられません。その時点からして、「何でやねん」と言いたくなるわけですが、あろうことにと言いますか、予想通りにと言いますか、この車検場(←しかも一つしかない)の作業効率が頗る悪い。

予約制だというので、onlineで予約してから行ったのに、行ってみたら、何のことはない、“first come, first served”制。受付みたいなところがあるのかと思っていたら(普通、思いますよね。予約してるわけだし・・・)、街中に突如、一枚目の写真のゲートが現われて、わけもわからず行列に加わらせられるという仕組み。

で、当然の如く、待たされます。しかも、少しずつ前進するもんだから、車を離れて休んでいるわけにもいかず、約一時間、車の中に缶詰め。一応、暇つぶしのエンタテイメント(??)が用意されていて、交通整理係のお兄ちゃん(←DMVのロゴの入ったジャケットを着てなかったら、そこらへんの単なるラッパーにしか見えない)が、ふらふら近寄ってきて、「お前、ラップとロックとR&B、どれが一番好き?」とか聞いてきます。どれでもええから早よしてくれ。

しかも、これだけ並んでいるというのに、使っているゲートは8つあるうちの4つだけ。これが民間だったら、もっと効率よく捌いてくれるお店に、みんなとっとと逃げていくでしょうが、最初にも書いたとおり、車検はここでしか受けられないので、並ぶしかない。独占って怖いなぁ…と思います。

よくこれで、みんな文句言わないなぁと思うわけですが、このblogでもときどき書いているように(読み返してみたら、一年前の8月29日には、すでにこんな記事を書いてました)、提供主体が官か民かにかかわらず、サービスに対する期待度は、日米でだいぶ違っているんだと思います。アメリカの消費者がひどいサービスに慣れさせられているというべきか、日本の消費者が過剰サービスにスポイルされているというべきか…。まぁそんなのは相対的な問題なので答えがないというか、どっちでもいいわけですが、日本のサービス業が世界的な競争力を持つためには、その世界最高水準の(過剰??)サービスで、アメリカ始め、他国の消費者さんたちをとりこにして(≒スポイルして)しまわないとダメなんでしょうね。車とか電化製品とか、モノであれば、それができたわけですが、サービスとなると、やっぱり語学の壁がなぁ…。

my room, Washington, D.C., Aug 21, 22:00

"Keynes was Really a Conservative"

書きかけのまま、一週間ほど放置していた投稿を書きあげようと思う。  
  
ちょうど一週間前、法学を専門とする友人と飯を食いながら、政策について議論する機会があった(暑い最中に暑苦しいことでスイマセン)。そこで改めて感じたのは、基本的な論点を素朴に衝かれると、答えるのはすごく難しい」という、当たり前だが忘れがちな事実。普段、同じような学問的背景(僕の場合は経済学)を持った人たちとだけ話をしていると、そういう論点に目を向ける機会は少なく(というか、面倒臭く)、十分に検討することを怠ってしまいがちである。自分とは異なる「フレーム」で世の中を見ている人との会話は、フレーミングを共有する人との会話に比べ、確かに滑らかではないし、frastrativeになることも多いが、ときどき、こういった「異種格闘技」をするのも大切だなぁと思わされた夜であった。

その夜の議論の中心課題の一つだったのが財政政策の有効性。このblogでもときどき仄めかしている(笑)通り、僕は、乗数効果といったものには、正直言って非常に懐疑的で、その夜も、そちらサイドで論陣を張らせていただいたのだが、じゃぁ、「いま各国が行っているstimulusは、全部やらなかった方が良かったのだ」と断言できるかというと、そこまでではない。つまり、純粋な意味での“stimulus”(景気刺激)以外の部分で、なんらかの価値を認めている、ということなんだろう。しかし、それが何なのか、具体的に説明してみろと言われても、すぐには言葉が出てこなかった。理解が中途半端だなぁと反省…。    

落ち着いて考えてみると、「質」の面では、財政支出を、民間企業の収益性が高まるような方途に振り向けることで、潜在成長率を高め、支出の効果を長期的なものにする、という正当化が可能であろう。その意味では、アメリカのいわゆる“green stimulus”は、非常に良く練られていると思う。(参照:MSJ(2/10)城繁幸さんのblog(8/18)

一方、「量」の面で、どこまでの財政支出が正当化できるかという議論はなかなかクリアに言葉にするのが難しい(と僕は思う)のだが、Bruce Bartlettという、先のBush政権で財務省のエコノミストを務めたおじさんが、8/14付のForbes.comの記事(“Keynes Was Really A Conservative”)で、それなりに分かりやすくまとめてくれている。曰く、

In Keynes' view, it was sufficient for government intervention to be limited to the macroeconomy--that is, to use monetary and fiscal policy to maintain total spending (effective demand), which would both sustain growth and eliminate political pressure for radical actions to reduce unemployment.

One of Keynes' students, Arthur Plumptre, explained Keynes' philosophy this way. In his view, Hayek's "road to serfdom" could as easily come from a lack of overnment as from too much. If high unemployment was allowed to continue for too long, Keynes thought the inevitable result would be socialism--total government control--and the destruction of political freedom. This highly undesirable result had to be resisted and could only be held at bay if rigid adherence to laissez-faire gave way, but not too much. As Plumptre put it, Keynes "tried to devise the minimum government controls that would allow free enterprise to work."

つまり、財政支出政策の提唱者であるKeynes本人の考えによれば、政府の財政支出は、失業率の上昇に端を発する急進的な左傾化を回避し、健全な政治的・経済的自由を確保する、という目的の名において正当化されるのであり、また、その目的を逸脱しない範囲内にとどめるべきである、と。  

こういう記事を読むと、Keynesという人は、(多くの歴史上の人物がそうであるように)右からも左からも、大いに誤解されているような気がする。そして、今日のエントリーの書き出しに戻るが、「異種格闘技」を戦い抜いていくためには、最新の議論を追いかけることよりも(←こっちも、そんなに真面目にやっているわけではないが…)、Keynesのようなclassicalな経済学者の考え方を、原典に忠実に頭に入れておくことの方が大事なような気がしてきた。
my room, Washington, D.C., Aug 21, 13:43

Wednesday, August 19, 2009

367miles

長旅を走り終え、無事、DCの自宅に到着。途中、工事渋滞で一時間ほどロスを食ったが、大きなトラブルもなく、重い荷物を抱えながら、快調に走りきってくれた。まずは愛車CR-V(←今年で8歳)に感謝。
   
ちなみに今日の行程をググってみると、全長367マイル。メートル法でいうと約590km。この距離って東名でいうとどのくらいに当たるんだろう…と思って調べてみたら、なんと、東名・名神(東京~西宮間)の全長(535.9km)よりも長いことが発覚!!! 西宮ICから、阪神高速(神戸線)、第二神明、加古川バイパスを経由して加古川まで行くルートが58.5kmなので、東京-加古川間の距離とほぼ同じだけ走ったことになる。或いは、第二神明に乗らずに明石海峡大橋を渡れば、淡路島にだって行けてしまう。そう考えると、我ながら、よく頑張った◎ような気がしてきた。
  

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それにしても、DC近郊エリアまで戻ってくると、気持悪いくらいの車の多さに驚く。ちょうど帰宅ラッシュに重なったこともあり、Washington-Baltimore間の高速の下り車線は、5つある車線が自家用車でぎっしり。「おら東京さ行くだ」の世界から戻ってきた人間にしてみれば、この光景にはなかなかすさまじいものがあった。
  
昔、とある上司と満員の丸ノ内線に乗った時、その上司が、周りの人からギュウギュウに圧迫されながら、絞り出すような声で「日本の満員電車というのは、世界に冠たる高効率な移動手段なのだ」と言っているのを聞いて(それも、まったくシャレではなくマジで…)、「このおっさん、ちょっとヤバいかも」と思ったものだが、今日、目の当たりにしたような、車による「民族大移動」を、毎朝・毎晩、この街は行っているのかと考えると、これはこれで、ちょっと(だいぶ?)ヤバいような気もする。まぁ、そんなに燃費の良くない8歳児RVに家財道具を満載して370マイルを走ってきた人間に、言える資格はないわけですが(苦笑)
  
民族大移動と言えば(←強引過ぎです。)、陰謀論でお馴染み(!?)の田中宇先生が、直近の記事で、イスラム史の概説をやってくれています。もちろん、筆者の主観は記事の端々に織り込まれているので、これだけ読んで、イスラム史を分かった気になるのは非常に危険だが、高校世界史のおさらいという意味ではちょうどいい感じ。「イブン・バトゥータ」なんて名前が出てきたりもするので、そういうのがたまらない人には、お勧めの一品。イスラム史のはずが、何故か途中から、中国史にすり替わっていくのだが、それはまぁご愛嬌ということで。
my room, Washington, DC, Aug 19, 8:34

a summer day in Syracuse

Syracuse近郊の安宿(DeWittのKFCの隣)で朝を迎える。「インターネットを使える」という触れ込みだったのだが(実際、一泊目の途中までは遅いながらもなんとか使えていた)、こいつがまるで繋がらない。使えない。というわけで、朝からご近所のスタバ(←A.Y.さんのお気に入りだったターゲットの向かえにあるスタバです)でメールチェック中。
  
昨日はキャンパス内で一日ぶらぶら。午前中、留学生センターに行って秋インターンのVISA手続きを済ませる。これをしておかないと「不法就労」になってしまうので結構だいじ。その後、車の車検も済ませる予定だったのだが、お目当ての自動車修理屋さんの予約がいっぱいだったので、翌日(今日)の予約を入れ、あとは日がな一日、キャンパス内でぶらぶらして過ごす。お昼は、Marshall Streetでばったり出会った去年のクラスメイトとそのgirlfriend(←D君とAちゃん)とFeaguns(americanな感じのレストラン)に行き、夕食は、今年のクラスメイトの日本人の皆さんとChrong House(韓国料理)に。まぁ、こうやってのんびり過ごす日もあっていいかと。ちなみにD君は就活に難航しているらしく、心なしか元気なかったです。来週には実家に戻るとのこと。Aちゃんとも離れ離れですね…。以上、内輪ネタ。
    
夕方、図書館で本を読んでいると、雷鳴とともにバケツをひっくり返したような豪雨が。そうそう、この時期のSyracuseって、毎日、こんな夕立が降るんだったなぁ…なんて一年前のことを思い出す。わずか一年前のことだが、学生としての一サイクルを終えてみると、なんだかすごく昔のことのように感じる。
    
図書館で勉強したり、キャンパスを歩いたりしていると、中国・インドからの留学生(と思しき人たち)の多さに圧倒される。印象としては、両国の留学生を足し合わせれば、アメリカ人より多いんじゃないかというくらい。もちろん、アメリカ人の人たちは、学期が始まるギリギリになって戻ってくるので、まだキャンパスに到着していない、なんて事情があったりもするんだろうけど、それにしても多い。去年より増えたような気もする。もしかすると、こんなところにも、各国の経済事情が現われているのかもしれない。

このあと、車検を済ませ、愛車を連れて、一路、DCに向かいます。
E. Syracuse, NY, Aug 19, 7:53

Tuesday, August 18, 2009

HIGH LINE

2コ前のエントリーに続いて、プチ鉄道オタク(?)なネタをもうひとつ。

今回のNY滞在では、人に会う以外、特にこれといった用事もなかったので、結構な時間、カメラ片手にマンハッタンを歩きまわっていたのだが(その成果はこちらを)、そんな中、訪れてみたうちの一つが、West SideにあるHIGH LINEというところ。今年6月にオープンしたばかりの新しい公園だ。
  
この公園、ただの公園ではない。というのも、1980年まで実際に運行されていた高架鉄道の線路跡をほぼそのまま利用しているのだ。official siteによると、鉄道路線としての“the High Lline”は1934年に開通。陸上交通への影響を回避しながら食肉加工工場とその倉庫を結ぶ働きを果たしていたが、自動車流通の興隆に押され、1980年に廃線。その後、高架橋下の土地所有者らが線路の取り壊しを進めようとしたが、'80年代半ばには、「チェルシーの住民であり、活動家であり、一介の鉄道オタクであるPeter Obletz氏が取り壊し運動に対して訴訟を起こし、鉄道運行の再開を求めた」(“Peter Obletz, a Chelsea resident, activist, and railroad enthusiast, challenges demolition efforts in court and tries to re-establish rail service on the Line.”)らしい。そうこうしている間に、1999年には、High Lineの保存と、公共スペースとしての再利用を求めるNPO団体、Friends of the High Lineが結成され、市当局の協力を取り付けることに成功。デザイン案のコンペ、リノベーション工事を経て、今年6月、晴れて第一区画がオープンした、というわけだ。

(HIGH LINE、一期工事、二期工事区画のデザイン)

  
こういう話を知ると、やっぱり、結局は「人」だなぁと思う。それも、(さっきのエントリーではないが、)損得勘定を抜きにして、「ただ面白いから」とか、「ただ好きだから」というモチベーションで動ける人がどれだけいるかが勝負だと思う。訴訟を起こした鉄道オタクのおっさんやら、Friends of the High Lineやらがいなければ、今頃、この土地は、何の変哲もない、単なる街区の一部になっていたことだろう。しかし、そうはならず、HIGH LINEが残ってハイセンスな公園に生まれ変わったおかげで、この界隈の街としての魅力は、確実に上がってくるはずだ。それはきっと、周辺地域の地価にも反映されていくことだろう。
    
こういったセンスの良いプロジェクトは、行政主導ではなかなか難しいのではないかと思う。いずれかのタイミングでの、行政の関与、バックアップは必要であるにしても。ここで言う「センスの良さ」とは、「エッジが利いている」ということでもあり、それは、そもそも行政の目指すべき方向性ではないのではないかという気がする。行政は「ミニマム」に徹し、市井の才能がそのアイデアを競い合う状況こそが、活力ある社会の理想形ではないだろうか。
(摩天楼を背景にお花の水やり)  
少し話が逸れたが、このHIGH LINE、NYCの新しい観光スポットとして、僕的には非常にお勧めである。

High Line, NYC

Bird Library, SU, Syracuse, Aug 18, 15:00

Community of Practice

『コミュニティ・オブ・プラクティス ―ナレッジ社会の新たな知識形態の実践―』という本の邦訳版を読んでみた。 三人のアメリカ人コンサルタントの共著で、日本語版の初版は2002年に出ている。本著が扱っているのは、タイトルどおり、“community of practice(=実践コミュニティ)”。若干、冗長ではあるが、「うんうん」と唸らされるポイントがいくつもあり、傍らに置いておいて、ときどき読み返しみたいと思える一冊だった。

本著のベースには、「有用な知識とは、(中略)自己充足的な独立体として管理できる「もの」ではない」(p.38)という発想がある。もう少し解説的に言うと、「専門家の知識とは、経験――つまり彼らの行動や思考や会話のいわば「残留物」――が蓄積したものである。(中略)この種の知識は、静的な情報の集まりというよりは、むしろ生きているプロセスに近い」(p.39)ということ。そうした「生きた知識」の「レポジトリー(貯蔵庫)」(p.39)或いは「世話人」(原文では「「世話」をするための理想的な社会的枠組み」)(p.43)として、理想的な役割を果たす存在が「実践コミュニティ」である、というのが本著の主たる主張となっている。

本著中、「実践コミュニティ」は「あるテーマに関する関心や問題、熱意などを共有し、その分野の知能や技能を、持続的な相互交流を通じて深めていく人々の集団」(p.33)と定義され、以下の三要素から成るとされている。 (p.16)

  • 領域 = 実践コミュニティが熱意を持って取り組む、知識あるいは専門分野が何であるか
  • コミュニティ = 実際に相互交流している人たちの集団
  • 実践(プラクティス) = 知識を生み出す活動

つまり、「自主的な勉強会」や「自発的な組織改革グループ」などが「実践コミュニティ」に当たるわけだ。通常、実践コミュニティは、企業の組織図に乗るような「公式」の存在ではなく、自主的に寄り集まってきた人たちの、非公式の緩やかな連携(=コミュニティ)という体裁をとる。また、各実践コミュニティは、ひとつの組織(企業、官庁、etc.)に属する人々によって形成されるのが基本形だが、組織の壁を跨ぐ場合も少なくはない。あくまで「非公式」な存在なので、面白い(=上質のナレッジを提供してくれる)人がいれば、所属組織にかかわらずリクルートする、というわけだ。

「形式知」だけでなく「暗黙知」までをもカバーする、本当の意味での「ナレッジ・マネジメント」を行いたいのであれば、物体を扱うかの如く、単に知識や情報を物理的に集め、「データベース化」するだけでは不十分。生きた知識というものは、なんらかの知的活動を介した、人と人との相互交流の中でのみ、蓄えられ、育てられていく――といったことが、繰り返し、繰り返し、(若干しつこいくらいに)述べられている。

本著は、実践コミュニティを主導する、自発的なリーダーに向けて書かれた本であると同時に、実践コミュニティを、自社内に育て、その活動を本業に役立てようとする経営者に向けて書かれた本でもある。したがって、「組織」はその内部に実践コミュニティを育てるために何が出来るか、また、実践コミュニティを評価・管理するためにはどうすればいいか――つまりは、実践コミュニティと、公式な「組織」とは、どういった関係を築くべきか――と、いったことについても書かれている。

著者は、「組織」と「実践コミュニティ」の関係は、「二重編み」だという。一見、「マトリクス構造」にも似ているが、「マトリクス構造は、指揮命令関係を増やすことによって、権力を配分し、資源を調整することだけに焦点を当てている」のに対し、「コミュニティは知識に焦点を当てた、異なる構造を組織にもたらす」という意味で、根本的に異なるのだと(p.53)。 つまり、実践コミュニティを本業に活用すると言っても、単純にコミュニティを「公式化」してしまっては、それ本来の良さを殺してしまうだけである。そうではなく、高度の自主性を残したままで、「公式と非公式な要素の「舞い(ダンス)」」(p.311)を演出しないといけない、ということが強調されている。

本著を貫いている思想を、僕なりの言葉でまとめてみると、

  • 組織も人も、あくなき学習と成長が必要だ、
  • その際、学習の糧となる「知識」は物質としては扱いきれない客体であり、また、絶えず変わり続ける動的な存在だ、そして
  • そういった性格を持つ「知識」の体系を随時アップデートしていく営みは、自発的なコミュニティによってのみ可能となる

といったところだと思う。

ここまで明確に意識していたわけではないが、振り返ってみれば、「実践コミュニティ」に当たる活動を、僕はこれまで、なんやかんやとやってきた。また、それらを通してやりたかったことは――自分自身、あいまいにしか認識していなかったが――つまり、こういうことだったんだろうと思う。そういう意味では、いちおう、頭の中にあるにはあったが、もわもわとした雲のような状態でしかなかった発想を、キレイに言葉に整理して、「はい、どうぞ」と見せてくれた感じ。こういう経験は、目の前の霧が晴れたような感じがして、非常に気持ちがいい。

というわけで、やや必要以上に紙幅を消費している気がしないでもないが、それを補って余りある、かなりお勧めの一冊である。後半は、「経営者」目線が強くなるので、僕ら世代の方であれば、第3章まで(そこまでなら100ページ強)読むだけでも十分。特に、僕と同じ組織の方には、ぜひ読んでいただきたい。読んでいただければ、いろんな場面で話が早くなるんじゃないか…というサボり根性から言っているのでありますが(笑)

Marshall Street, Syracuse, Aug 18, 10:27

back to Upstate

昨晩、10日ぶりにSyracuseに帰還。あまりの「スカスカ」ぶりに、正直、ちょっと引いてしまった(笑) 10日前、ガーナから帰ってきたときには、「静かで、気温もちょうどよくて、本当にいいところだなぁと思います」なんて言っていたのに、我ながら、現金なものである。DC、NYCを見てしまうと、やっぱり見え方が違ってしまうということか。駅から大学まで、タクシーで移動した後は、大学のガレージで愛車を拾って、約3か月ぶりにクルマを運転。最初はちょっと緊張したが、いざ走り始めてみると、ぶつけようにも、「車がそれほど走ってない」。さながら吉幾三の世界である(←世代がバレる)。

NYCからSyracuseへの移動は、前回と同じく、Amtrackにて。所要時間:6時間強なので、バスよりは少しだけ長い。ただ、乗り心地で言うとAmtrackの方がはるかにbetterで、値段的にはどっこいどっこい。ルート的にも、NYC-Albany間は、Hudson川の左岸をひた走ってくれるので、車窓をかなり満喫することができる(西側の席がおススメ)。バスだと、もっと内陸側を通るI-81を走っていくわけだが、こちらの景色は、正直言って退屈。まぁ、緑の丘がきれいと言えばきれいだが、5時間も眺めていればそのうち飽きる。

Amtrackの弱点は、本数が少なく、予定をflexibleに組めないことだが、それでも、いちおう、一日四本くらいは走っているみたい。ちなみに今日、僕が乗ってきた列車は、NYC発、Chicago行きで、編成の後半部分にはsleeper(寝台車)も引っ張っていた。そろそろChicagoに着いた頃かもしれない。

というわけで、Syracuse在住の皆さんには、せめて一度、AmtrackでNYCから戻ってこられることをお勧めします。本当は、NYC在住の皆さんにもお勧めしたいんですが、そもそも、Syracuseに来られる用事を見つけるのが至難の業だと思うので、今回は、控えておきます(苦笑)

(車窓から見えた、ハドソン川にかかる橋)

DeWitt, NY, Aug 18, 8:24

Sunday, August 16, 2009

Up or Down

朝一のバスに乗って、NYCに到着。結構暑い。4時間分、北上したはずなのに、DCよりも暑い気がするのはナゼ??
  
SyracuseやAccraを卒業(?)し、ようやく正真正銘の都会暮らしの身になれたわけだが、いざ、NYCに着いてみると、やっぱりNYはかっこいいなぁと思う。
  
DCとNYCは、似ても似つかぬ街だ。DCの調和のとれた美しさもそれはそれで素晴らしいが、活気という意味では、NYには到底かなわない。NYCという街は、ただその中を歩いているだけで、こちらまで気分が高揚するような、力強い活気に溢れている街だと思う。
   
DCが“top-down”で出来た街だとすれば、NYCは紛れもなく“bottom-up”の街だろう。DCには調和があるが、この街にはない(と思う)。均衡―それも絶えず変わり続ける動的な均衡―があるだけ。誰かにデザインされたわけではなく、無数の「個」が強烈な自己主張を繰り返す中で、「神の見えざる手」によって誘われ、たどり着いた均衡点が、今僕の見ているマンハッタンなのだろう。それとて、かりそめのものでしかなく、新たな「個」たちの自己主張に突き動かされ、絶えず変わり続けていくわけだが。

DCとNYC、どちらもそれぞれに魅力的だし、どっちが良いかなんて比べても意味がないのかも知れないが、もしどちらかを選べと言われれば、今の僕はNYCを選ぶような気がする。
6th Ave-31st St, NYC, Aug 16, 14:17

Saturday, August 15, 2009

The last paper for the first year

アメリカ復帰後一本目のペーパーをほぼ書きあげる。と言っても、インターンに行くということで、締切を留保してもらっていたAfrican Development Seminarのterm paperなので、どちらかというと、貯まっていた負債をようやく返済した、といった感覚に近い。
  
この一年で、「読む」方は、だいぶまともにこなせるようになってきたが、「書く」方はまだまだ。書き続けるしかないんだろうとは思うのだが…。幸か不幸か、次なる執筆課題がstand-byしてくれている。夏のインターンの「まとめ」を、21日までにM教授に提出しないといけない、という宿題。内容的には、このblogで綴ってきた、GhanaにおけるCDM事情をほぼそのまま書こうと思っているので、基本的には、「タテのものをヨコになおすだけ」といえば、「だけ」なのだが。。
  
とりあえず明日から4日間、一旦、DCを離れます。NYC経由でSyracuseに行き、車検やら、インターンの手続きやらを済ませて、水曜日にCR-Vを連れて帰ってくる予定。ちゃんと動いてくれるか、若干心配ではあるんですが…(汗)
my room, Washington, D.C., Aug 15, 24:05

Friday, August 14, 2009

An Old Canal

日本大使館で必要書類を入手し、DMV(Department of Motor Vehicles)を再訪。今度は無事、免許証をいただけた。とはいえ、今日の係員の対応も、決して気持ちの良いものではなかった。こういうのを「無事に」と言っていいのかどうかはよくわからないが、ともかく、一件落着。

片道40~50分かけてGeorgetownまで行って、何もせずに帰ってくるのも癪なので、今日は、Georgetownの町を少し散歩して帰ってきた。

ワシントンという街は、一辺10マイル(=16km)の正方形を、きれいに45度傾けた形をしているが(ただし、南西側は欠落)、Georgetownは、その北西部に位置し、南側は、ポトマック川に面している。大西洋からチェサピーク湾を航行してきた外洋船舶がポトマック川を遡上できる最も奥まった地点という地の利を活かし、内陸と外洋を結ぶ中継港として、18世紀前半から栄えていたとのこと。1801年にDistrict of Columbia(DC)が成立する何十年も前の話である。DC成立後も、1871年に現在の形のWashington市が形成されるまで、Georgetown市としての市制を保ち(1871年までは、DCの中に、3つの市と2つの郡が置かれていた)、商業港としての独自の発展を遂げてきた歴史を持つ。(出典:Wikipedia ワシントンDCジョージタウン

そういった独自の歴史を持つせいか、Gerogetownの町並みは、DCの他の地区とは大きく異なる。DCのダウンタウンには、こぎれいだが、あまり味わい深いとは言えない没個性的なオフィスビルが立ち並び、ある種、丸の内のビル街にも似た雰囲気を醸し出しているが(商業施設の少なさ、という意味でもよく似ている)、Rock Creakを越えてGerogetownに入ると、町並みは一変し、かわいらしい赤レンガ造りの古い建物が立ち並ぶ、瀟洒なショッピングエリアとなる。アメリカでは数少ない、「歩いて楽しめる」町の一つに数えていいのではないだろうか。

町の中心であるM Streetから少し南に下れば、そこには、古い運河が流れている。
Chesapeake and Ohio Canal (通称C&O Canal)という名のその運河は、建設当初、文字通りChesapeake湾とOhio川を繋ぐことを企図されていたのだとか。実際には、建設途中に、鉄道建設ラッシュに追い抜かれてしまい、途中で断念することになったらしい。このC&O Canalの建設のきっかけが、Erie Canalであったというのが僕的には面白い。NY市と五大湖とを水運で結ぶErie Canalの竣工(1825)により、地盤沈下の危機を感じた南部の商人達が、独自の物流ルートを求めて、開拓に乗り出したのが、このC&O Canalだったんだとか。(出典:Wikipedia
Chesapeake and Ohio Canal) ちなみに、我がSyracuseを含むUpstate NYの四つ子都市(Buffalo、Rochester、Syracuse、Albany)は、すべて、Erie Canalの水運とともに発展し、Canalの衰退とともに、その勢いを失ってしまった可哀そうな街たちである(残念。。)。

C&O Canalは、国立歴史公園として整備され、緑あふれる、水辺の静かな散歩道となっている。

C&O Canal, Georgetown, Washington, DC

my room, Washington, D.C., Aug 14, 17:02

Thursday, August 13, 2009

Policy Industry

アメリカのシンクタンクについては、これまでにも何度か書いてきたが(1/172/63/276/4など)、折角DCに来たからには、もう少し詳しく調べてみようと思い、今日は、とあるシンクタンクに勤めておられる日本人の方をお訪ねしてきた。
  
年齢的には、僕とそんなに変わらない方なのだが、相当の風格を持っていらっしゃる。数年間、「どaway」と言っても過言ではない、DCの地で戦い抜いてこられた故の貫録とでも言うべきか。また、複雑な話を、整理してシンプルに話す術にも非常に長けていらっしゃる印象を受けた。この辺りは、まさしく、シンクタンク業界で生き抜いて来られたからこその能力なのだろう。この手の技能は、役人の非常に苦手とするところ(そもそもその自覚のない人も多い)。僕自身、正直、あまり自信がない。
    
二時間以上にわたり、非常に貴重なお話をいろいろ聞かせていただいたのだが、とりわけ印象的だったのは、「シンクタンクの役割は何か」という、ある種、非常にfundamentalな議論。曰く、まず以て、「政治」と「政策」は違う、と。その上で、「政治」が右に左に、揺れ動くのは致し方がない(そこの事情はアメリカも同じ)こととして、だからこそ、シンクタンクが必要なのだと。シンクタンクの役割は、政治のトレンドから一定の距離を置いて「政策」づくりに徹し、その道を究め、適時適切な情報を意思決定権者にinputしたり、ときには、複数の意思決定権者間での合意形成を支援したりするなどして、国の政策が、(短期的なブレはあっても)中長期的には一定の方向に進んでいくよう、縁の下からサポートすることにあるのだ、と。そのために、リサーチをし、提言をまとめ、時宜を捉えて政治家(実際にはその政策秘書)や官庁を(広い意味で)説得することがシンクタンクの本分である、といった趣旨のお話であったと理解している。
   
お話を伺いつつ、思ったのだが、「「政策」立案機能を担うのは霞が関だけで十分」という、未だ霞が関界隈で根強い発想は、役人の思い上がり又は不見識以外の何物でもないと思う。別にそれは、霞が関が怠惰だとか無能だとかいうことではなく(それもあるかも知れないが)、これだけ、世の中が複雑化し、変化のスピードが速くなった時代にあっては、霞が関だけでその機能を担い続けることは、土台、不可能なのではないか、ということだ。もはや、「熱意」や「経験、勘、度胸」だけでどうにかなる時代ではない。
  
思うに、シンクタンクには、少なくとも二つの、役所にはない機能が備わっている。一つは、専門的なトレーニングを受けた「リサーチのプロ」が、十分な時間をかけてリサーチを行える、という点。もう一つは、政府の「公式見解」など、何らかの主義・主張に縛られない自由な立場から、研究・発言をすることができる、という点である。ちなみに日本にも、一つ目の機能を有する「シンクタンク」はあると思うが、二つ目の機能を有しているところが、一つとしてあるかどうか――全部見て回ったわけではないが、個人的には、甚だ怪しいのではないかと思う。
    
これらの機能は、役所が役所である以上、本質的に担いきれないものである。(一つ目の機能を役所に付与することは物理的には可能だが、この機能は、二つ目の機能と合わさってこそ真価を発揮するのではないかと思う。) したがって、固有名詞としての「霞が関」の出来不出来には関係なく、「政策」という製品の製造工程が本質的に持つ特性からして、「分業」は必須であり、その意味で、日本には、時間と技術を投入して政策の仕込みを行えるプレイヤー(=本当の意味での「シンクタンク」)が欠けているように思う。デンソーやアイシン精機がなければ、トヨタだけでは良い車が作れないのと同じように…。(別に、霞が関がトヨタ並みだというつもりはサラサラない。)
  
このことは、「霞が関の役人に政策を理解する能力は不要だ」ということでは決してない。述べ来たったように、霞が関が果たすべき役割と、シンクタンクが果たすべき役割は、「違う」ものだとは思うが、それらは、引き続き、隣接しあった領域(工程で言えば「前後」の関係)であり、互いの領域に関するそれ相応の理解があってこそ、分業による成果は最大化されると思う。このことは、上記のトヨタの例からも明らかであろう。霞が関がなすべきは、政策に関する十分な理解を持った上で、自らのコンピテンシーを見極め、外部の機関とも協力しつつ、よりそれに特化できる体制を築くことではないかと思う。
  
一方で、いかなる勢力からも独立した、本当の意味での「シンクタンク」を早急に準備する必要があるわけだが、反面、いくら必要だと言っても、個々のシンクタンクを支える財政的基盤がなければ、そういったシンクタンクは成立し得ないわけで、「寄付」の文化の乏しい日本において、この点をどう克服するかは、非常に難しい問題であると思う。ただ、今日聞いてきたお話では、アメリカでも、今のような「政策産業」が、戦前から発達していたわけではなく、'60年代に目覚ましい発展を遂げたのだとのこと。これについては、少しヒントとなりそうなお話もいただいてきたので、自前でもう少し調べてみた上で、後日、改めて記事にしたいと思う。
my room, Washington, D.C., Aug 13, 18:53

Wednesday, August 12, 2009

Notorious DMV

DMV(Department of Motor Vehicles)というところは、「非効率なお役所組織」の代名詞として、アメリカ人の間では有名である。連邦ではなく、州政府(ワシントンでは、DC)の組織なのだが、その非効率ぶりは、全米共通のようで、今日、GeorgetownにあるDCのDMVに行ってみたら、SyracuseのDMVと同様の、淀んだ空気が充満していた。なんというか、アメリカのダメな部分を濃縮して一部屋に押し込めたような組織だと思う。
   
アメリカを丸ごと「ダメな国」だと評価するのは明らかな見誤りだが、この国のある部分に、どうしようもなく「ダメ」な要素が巣食っているのも事実。それが、どういった形での「ダメ」さかは、一度、DMVに行かれてみればよくわかる。DMVに比べれば、日本の運転免許試験場なんて、(愛想はないが、)はるかに優秀。それだけ、日本社会の「サービス」に対する要求水準が、一般に高いということなんだろう。残念ながら、そのことと、「日本のサービス産業が強い」ということとはイコールではないわけだが…。
   
少し話が逸れたが、そんなイケてないDMVに滞在すること4時間(←そのほとんどが待ち時間)。挙句の果てに、免許発行直前の段階で、書類の不備を指摘され、出直しを強いられることに。っていうか、それまでに同じ書類を見せた別の3人の人からは、まったく何も言われなかったんですけど!!!! あーめんどくさ。。。

気を取り直して、Maxwellの分校、Greenberg Houseへ。5月にAfrican Development Seminarを受講した際に一週間通った建物。秋も、ここで週に一コマか二コマ、授業を受けることになる。ここには、SUのdirectorが一人、常駐することになっているのだが、そのポストに異動があり、6月までIR officeに勤められていたRyanさんが7月から着任されている。今日は、そのRyanさんへの挨拶に。
  
一年前、IR officeでこの方と面談した際、あまりに英語が話せなくて、秋学期の英語クラスの受講を“strongly recommend”されてしまった経験がある。もちろん、善意でおっしゃっていただいたのはわかっているが、そのときはさすがに凹んだ。一年が経った今、その方と、一対一で、あれやこれやと普通にお話が出来ている自分に、少しだけ自己満足。ご褒美とばかりに、大好きなChipotleでburritosをいただいて帰ってきたのであった。

(Greenberg House外観。DCの街に、SUのオレンジの旗がたなびく。)

 my room, Washington, DC, Aug 12, 19:49
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little impatience

昨日は朝、秋からのインターン先に挨拶に行った後、Social Security Officeで「この人には、SS Numberを取得する資格がありません」というletter(←自動車免許の手続きに必要)をもらい、夜、日本人お二人とご飯を食べる。今日は午前中、免許の試験勉強をした後、午後は、秋に通うことになるSUのWashington分校への挨拶と、DMV(Department of Motor Vehicles)への免許取得手続きに行く予定。

今週は、いちおう、遊んでいるわけではない(と思う)のだが、ひとに会ったり、手続きをしたり、なんやかんやで、意外に忙しい。そろそろ勉強を本格的に再開せねばと思いつつ、焦りだけは感じているのだが…。
 
そんなわけで、ここ数日、軽めのエントリーが続いてます。いま読んでいる本がかなり面白いので、近々、感想を書こうとは思っているのですが。

ちなみに8月後半~9月初旬の予定はこんな感じになりました。

16日午前 DC → NYC (電車)、NYC泊
17日午後 NYC → Syracuse (電車)、Syracuse泊
18日終日 手続き、車検等、Syracuse泊
19日    Syracuse → DC (自動車)

27日午前 DC → San Francisco
29日    San Francisco → Yellowstone

9月5日   Yellowstone → DC
9月8日   インターン始業

アメリカ各地にお住まいの皆様、行く先々でお会いできれば幸いです。
my room, Washington, DC, Aug 12, 11:38

Monday, August 10, 2009

The big gap between now and last week

一週間前の今頃は、Tamaleのホテルで、消え入りそうなインターネット回線と格闘しながら、どうにかこうにかこのblogをupしていた。あれから一週間、僕は今、これまで自分が住んだ中でも一、二を争うほどに快適な環境の中で暮らしている。わずか一週間でのこのギャップは、自分史上最大と言っても間違いではないだろう。
  
アメリカに帰国した直後は、高速インターネットとスタバとの再会に感動したものだが、一旦、こちらの生活に落ち着いてみると、今度は、スーパーに買物に行くのがとても楽しく思えてくる。「その気になれば、ここにある食材を使って何でも作れる」という思いが、僕をワクワクさせてくれるのだ――実際には、そんなにたくさんの食材を使いこなせるほどの腕前は持ち合わせていないのだが。
  
「何でも作れる」なんて書くと、なんだかとても大層なことのようだが、先進国の(とりわけ都市部の)スーパーにしてみれば、これは極めて当たり前のことだ。僕も、そんな「当たり前」のスーパーから徒歩3分のところで育った。なので、これまでの人生、スーパーに感動を覚えたことなんて、ただの一度もなかったと思う。それだけに、いま感じているこの興奮は、自分自身にとっても、すごく新鮮というか、何というか…。
  
きっと、こういうことが、ひとつの「ゆたかさ」の現れなんだろうと思う。先進国の側だけから見ていると、そんなことには、普通、気づきようもないわけだが。

斯く言う僕も、これからの人生、いちいちスーパーに入る度に、「すげぇー」なんて感動しているわけにもいかないので、もうあと何回か近所のSAFEWAYに通えば、この感動も、次第に薄れていくのだろうと思う。けれども、たとえ一時期だけであっても、こうやって、「当たり前」だと思っていたスーパーなるものの「偉業」に、ささやかな感動を覚えたという事実だけは、忘れずに記憶にとっておきたいと思う。
my room, Washington、D.C., Aug 10, 21:39

Poll on Car

昨日は、Syracuse時代からお世話になっている日本人Yさんに車を出していただき、終日、買物に明け暮れた。おかげさまで、ひと通りの家具・雑貨の調達は一日で完了。あとは、極力モノを増やさずに、4ヶ月間過ごすことですな…(ついついモノを増やしてしまうのが悪い癖なもんで)。
  
Yさんは、留学二年目をDCの大学で過ごされるとのこと。如何せん、街そのものが大きいので、Syracuseの頃のように「目と鼻の先」というわけにはいかないが、そうは言っても、車で走れば30-40分の距離。またいろいろとお世話になると思いますが、引き続き、よろしくお願いしますm(_ _)m

以前、knj君のblogに「バークレー周辺には世界中のプリウスが集結しているんじゃないかと思うくらい、プリウスだらけである」と書かれていたが、この家の界隈も、プリウス遭遇率が異様に高い。アパートの前のConneticut Avenueを一分も歩いていれば、最低一台は、プリウスにお目にかかれる。たまたまかも知れないが、昨日は、日本でも珍しい初代インサイトを、立て続けに二台目撃したりもした。
  
そんなハイブリッド車率の高さに些か驚いていたのだが、昨日、買物でVirgina州(DCの南西側)の方に行ってみると、プリウスとの遭遇率はそこまで高くはない。Virginiaと言えば、公民権運動以来、共和党の強いお国柄。方や、バークレイやDCは、言わずと知れた圧倒的リベラルの地盤。と考えると、アメリカでは、走っている車の車種を見れば、だいたいその土地の政治的志向がうかがえる、と言うことなのかも知れない。

(なんて書き終わってお昼を食べに行ったら、またもや初代インサイトに遭遇)
my room, Washington, D.C., Aug 10, 13:05

Saturday, August 8, 2009

My neighborhood

ワシントン二日目。

午前中、約束どおりの時間にインターネット会社の人がやってきて、ブロードバンドのセットアップをしていってくれる。DCに来てからというもの、順調すぎるくらいに諸事順調。僕の知っているアメリカは、こんなところじゃなかった気がするのだが・・・。いやいや、まったく不満はありません。この調子でお願いします。

午後、ご近所のサロンで2か月ぶりに髪を切り、さっぱりした後(←若干、さっぱりし過ぎた)、地下鉄でDCの中心部に出て、ワシントン在住の、親元の同僚の皆さんと一緒にご飯を食べる。それぞれの留学話なんかに花が咲き、非常にリラックスさせてもらえたひと時だった。

昨日も少し書いたが、僕のアパートのある界隈は、非常に高級な住宅地。家から徒歩10分弱の地下鉄Friendship Heights駅に出れば、駅前には、高級そうなブティックの入ったこじゃれたショッピングモールがあり、高級そうな衣装をまとったマダム達が駅前を闊歩しておられる。さながら、二子玉川的な様相。なんて言えるほど、ニコタマを知ってるわけじゃないけど。(←一回か二回、立ち寄ったことがあるだけ。笑)ともあれ、たたでさえ住宅事情の厳しいDC近郊にあって、こんな素敵な地区でアパートに空きがあったのは、ほんとラッキーとしか言いようがない。この際、「お前にそんな高級住宅地は似合わない」とのご意見は、受け付けないこととさせていただきます(笑)

                              (↓ アパートから駅に向かう道すがら)
 
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                        my room, Washington DC, Aug 8, 22:46

The Road of Economics

昨日、SyracuseからDCに向かう道すがら、佐和隆光先生の『経済学への道』(岩波書店、2003)を読んでみた。佐和先生と聞いて僕が最初に思い出すのは岩波新書の『経済学とは何だろうか』(1982)。計量経済学者として既に世界的名声を得られていた著者が、完全な経済学素人向けの「入門書」として著されたこの本は、明快にして簡潔、それでいて深遠でさえあり、難解かつ意味不明瞭な(←失礼)『経済学Ⅰ』の講義に辟易しかけていた大学一年生の僕に、救いの手を差し伸べ、経済学の面白さに気づかせてくれた一冊であった。その佐和先生の自伝的著作を、留学二年目のスタートに読んでみようと思ったわけである。

幼少時代から執筆時点(2003年)に至るまでの文字どおりの「自伝」と、その間、著者が直接・間接に関係してこられた、その時代、時代の社会的出来事(大学紛争、高度成長、バブル経済、国立大学制度改革etc.)に関する記述・考察が本著の経糸をなし、そこに、経済学を中心とする諸事に関する著者の主張が、横糸として織り込まれていく。先週のエントリーでも書いたとおり、最近は、この手の、筆者自身の体験談をベースにした著作物が面白い。一般的に言って、功成り名遂げた人の書くこの手の著作物には、時折、鼻に付く表現が含まれるのが玉に瑕なのだが…(そして、この本も、その一般論から自由ではない。笑)

この本を通し、一貫して示されている著者のスタンスは、いわゆる経済学的「リベラル」。反面、「新古典派」に向けられる批判は非常に手厳しい。サッチャー、レーガン、小泉純一郎、竹中平蔵など、具体的な政治家の名前を挙げながら、断定的なトーンでなされていく「新古典派」批判は、読む人のスタンスによって、正直、好き嫌いがあるだろうと思う。誠に僭越ながら、僕からすると、ときに一面的、あるいは感情的にさえ思える記述がないでもなかった。ただ、著者の言う、「新興経済学を受容するべきか否かは、自己の思想にてらして決めることだ」(p.169)とのご意見には、僕自身、全く以て賛成であり、その意味では、「自己の思想」を貫いてお書きになられた、というだけのことなのかも知れない。

その他、個別の論点でも示唆に富む、面白い記述にあふれている。以下、その中からいくつか引用させていただこうと思う。

私たちは、集団就職した、かつての少年少女たちに心から感謝しなければならない。彼らが身を粉にして働いてくれたからこそ、日本経済は、驚異的な高度成長をとげることができたのだから。(中略)そもそも経済が成長するということは、働く人の数がふえ、働く人が勤勉であり労力を惜しまず、そして設備投資により資本整備がととのい、労働生産性が高まることの必然的な結果なのである。(p.24)
ガーナから帰ってきた今、この言葉の意味が実感としてよくわかる。高度成長時代の日本人というのは、本当に偉大だったと改めて感じる。(2009年時点での彼ら世代がどうかということは別にして。)
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日本の官僚の任務は「与えられた結論を正当化する」ことにある。与えられた結論の合理性、効率性、公正は二の次にまわされ、「正当化」のための屁理屈づくりに官僚は精魂をかたむける。(p.31)
何をか云わんや…。
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旧制高校は究極のインテレクチュアリズムの世界、すなわち虚学の殿堂だったのである。弊衣破帽の旧制高校生たちは、寮生活をしながら、知的陶冶にいそしんだ。(p.34)
この記述以外でも、著者は、「一般教養」の大切さ、また、最近の若者の「一般教養」離れを、繰り返し繰り返し述べている。このご指摘は非常に耳が痛い。教育制度のせいだけにするつもりもないが、自分自身、「教養」と呼べるものには全くもって疎いまま、この年まで来てしまった。若いうちは、そんなものが何の役に立つのかとも思っていたが、最近、そういう広くて深い「知」のストックが、一定の年齢に達した時、人間の深みを左右するんだろうなぁということが何となく分かってきた。著者は、いわゆる「一般教養」に加え、「教養」としてのマルクス経済学の効用についても述べておられる。今になって思うと、大学時代、まったく知識もなかったくせに「マル経」教授を馬鹿にして、まともに勉強しなかったことが悔やまれる。当時の母校は、日本どころか、世界でも有数のマルクス経済学者の群生地だったと思うのだが。。。
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アメリカのエコノミストは、共通の文法にしたがって議論する。そのため、対立する両派の見解がなにゆえ異なるのかが理解しやすい。しかし、日本のエコノミストのあいだには共通の文法など存在しないから、エコノミストの景気見通しの振り幅はとてつもなくひろいし、見解のへだたりがなにゆえのことなのかが、必ずしも明確には伝わってこない。(p.105)
おっしゃる通りかと。アメリカと日本の「エコノミスト」は、似て非なるものです。(似てさえいない??)
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「学際」という言葉は、しばしば安易に用いられがちだが、「言うはやすく行うはかたし」である。それぞれの研究者が自己の専門分野のパラダイムにかたくなにこだわりつつ、異分野の専門家の所説に対して疑問を呈したり、自己のパラダイムにてらしての解釈を述べたりする。「学際」とはそういう営みのことであって、ある分野ともうひとつの分野のあいだに、新しい学問領域をつくることではない。(p.137)
この点、「環境」というきわめて「学際」的色合いの濃い対象物を学ぶものにとっては、非常に傾聴に値するご指摘だと思う。その意味では、著者御自身が設立にも関与されたという京大地球環境学堂の今後に、ご期待申し上げるところ。
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どうやら日本の構造は、工業化社会の最終段階に最適な社会構造のようである。(中略)官僚主導の構造もまた、工業化社会においては十全に機能した。とくに「追いつき追い越せ」の時代には、技術革新―その大方は欧米先進国の生産技術の模倣だったのだが―の方向づけを「賢明」な政府がやり、「金をだすから口もだす」というナビゲーター役を、政府は首尾よくひきうけることができたのである。

 ポスト工業化社会の到来は、日本の構造をすっかり干からびさせてしまった。(中略)工業化社会において最適であった日本の構造は、ポスト工業化社会においては「最不適」といっても、決していいすぎではあるまい。(p.148)

この点もご指摘のとおりかと。この部分に続くディテイルの考察も非常に興味深い。ただ、その結論として「いまもっとも必要とされているのは、経済構造の改革ではなく教育の改革なのである」とのご指摘については、教育改革の必要性に疑問を唱えるつもりは微塵もないものの、果たしてそれが「いまもっとも必要とされている」かというと、やや疑問がなくもない。
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一般教養にせよ、経済学にせよ、それらを学ぶことの重要さは、この年になると、痛いほどによくわかる。そして、それらを十全に体得するには、いくら時間があっても足りないということも。その意味では、与えられた残り一年間の留学期間は、本当に貴重なもの。実際やってみると、ときに長くも感じられる「一年」という期間だが、折にふれ、この佐和先生の著作を思い出しながら、一日一日を大切に使い、残り一年間(正確には既に11か月弱)を過ごしていきたいと思う。
Starbucks Cafe on Connecticut Ave, DC, Aug 8, 8:36

Friday, August 7, 2009

Initiating DC life

朝6時にSyracuseを飛び立ち、JFK経由で、午前11時、Washington DCに到着。新居までは、Regan空港からタクシーで15分の道のり。大きな橋でポトマックを渡った後、Parkwayと呼ばれる林間道路をひた走る。このParkway、その名の通り、道の両側が公園になっているのだが、その公園が半端でなく、「ここは奈良の山奥か」と思わせるほどの木々の茂り様。そんな道が、ホワイトハウスや官庁街から数kmと離れていないところを走っているのだから、この街は、面白いというか、よく出来ているというか、変わっているというか、なんというか(笑) そんなDCも、これまで何度かの滞在では、なかなかじっくり見て回る時間を取れなかった。今回は、4か月半の滞在となる予定。この美しくも奇妙な政治の都を、じっくりと味わいたいと思う。
 
一年前の渡米以来、何かことを起こそうとすると、とにかくいつもトラブルに見舞われ、それが「普通」に思えるようになってきた今日この頃であるが、今回の入居に限っては極めてスムーズ。いくつかの書類にサインするだけで、無事、自分の部屋に通してもらうことができた。
  
今回の部屋は、アメリカで言うところのいわゆる“studio”。東京や京都のシングル用アパートのイメージとほとんど違わない。1K+BTといったところ。5月まで住んでいたSyracuseの家や、一昨日まで居候していたAccraの家に比べると、圧倒的に狭く感じるが、まぁ、先進国の大都市で暮らすともなれば、それも止むをえまい。ちなみに、家賃は、Syracuseはもとより、Accraの家よりも、留学前に住んでいて東京の家よりも高い。ある意味、部屋の広さが値段に反比例している気がする。おかしいなぁ。まぁこれが市場主義か。
  
その代わりと言ってはなんだが、ご近所の通りはレストランからスーパーまで、非常に充実している。徒歩圏内である程度の用事は済ませてしまえそう。この界隈も、これからぼちぼち探検してみようと思う。

(↓ JFK空港への着陸前、機窓からManhattanを望む。)


Starbucks Cafe on Connecticut Ave, Washington DC, Aug 7, 15:33
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Thursday, August 6, 2009

First Aniversary +

2008年8月2日、Marshall Streetのスタバで、このblogをなんとなく書き始めてから、気がつけば、一年と少しが経ちました。というお話を、一年前と同じ、Marshall Streetのスタバで書いています。

この一年間での投稿数、実に383件。我ながら結構なペースで書き続けたもんだなぁと思います。本人は好きで書いているからいいとして、こんな30歳のタワゴト(←書き始めたころは、辛うじて二十代でした。はい、どうでもいいですね。)に根気強くお付き合いいただいている皆さん、本当にありがとうございます。とりあえず、もうしばらくは書き続けてみようと思いますので、引き続き、お付き合いのほど、どうぞよろしくお願いいたします。

今日は、二か月ぶりのSUキャンパスで、いろんな人に会いまくっています。MPA office、IR office、夏のインターンをsuperviseしてくれたM教授、これからindependent study(←授業ではなく、論文書いて単位をもらうシステム)でお世話になるP教授、昔の家のlandlord、この6月に入学されたMPA & EMPAの日本人の皆さん…etc. わずか二カ月間ではありますが、かつての同級生たちが既にこの街を去ってしまったこともあってか、なんだか浦島太郎な自分を感じます。まぁ、人が入れ替わったこと以外は、この街、なーーーんにも変わってなさそうですが(笑)

インターンの報告に訪れたM教授からは、インターンでの経験をもとに、論文を書いてみないかとのご提案が。まずは、idea noteを書いてみて、その上で具体的に相談させていただくことにはなりましたが、もしかすると、二年目の一年は、両教授の下での論文執筆が柱になって進んでいくのかなぁなんていうふうにも考えています。

二か月ぶりのSyracuseの印象は、とにかく緑がきれいだということ。静かで、気温もちょうどよくて、本当にいいところだなぁと思います。キャンパスの空気はとりわけのどかで、Accraの喧噪とは大違い。まぁしばらく住んでいれば、この「感動」が「退屈」にも変わってくるわけですが、とはいえ、久しぶりに帰ってくると、ホッとさせてくれる、良い街であります。

今日はこのあと、去年からずっとお世話になっている日本人の方とディナーをした後、昨夜と同じ、空港近くのホテルでもう一泊。明日、朝一の便で、DCに向かいます。
Marshall Street, Syracuse, Aug 6, 18:14
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Wednesday, August 5, 2009

Back to U.S.A.

2か月ぶりにアメリカに帰国。現在、JFKで乗継ぎ待ち中。時差で少し眠い(ガーナとの時差は4時間)ことを除けば、特に健康上の問題もなし。まずは無事帰って来られて良かった良かった。
  
それにしても、JFK到着後の手続きには本当に疲れた。入国管理なんてのは、だいたいどこの国でも感じの悪いものだが、アメリカのそれは、世界一だということ(←もちろん、worstだという意味)を改めて実感する(苦笑)。 各係員の応対の悪さもさることながら、JFKの構造的な非効率さも相当のもの。着陸後、入管を済ませて荷物をピックアップするまでに二時間半もかかるというのは、いくら空港がデカイとはいえ、ちょっと異常ではないかと思う。そもそも、同じ航空会社で乗り継ぐのに、一旦荷物をピックアップしないといけないというシステム自体、どうにかならないものだろうか…。
  
ターミナルの中で、黄色い看板を目にすると、ついつい「MTN」(←ガーナの大手携帯キャリア)の三文字を探してしまうのだが、異様に太った老若男女を見ると、「あぁアメリカに帰ってきたんだなぁ」と実感する(笑) ともあれ、アメリカに戻ってきて一番うれしいのは、インターネットがサクサク動くことと、スタバがどこにでもあること。というわけで、早速、二か月ぶりのスタバのラテを堪能してきます。
JFK Airport, NYC, Aug 5, 20:31

Tuesday, August 4, 2009

Atlantic breeze

歓送会は、大西洋を望む海辺のホテルのレストランにて。二か月間の宿を提供してくれた、部屋の主でもあるCさんが、インターン先のinternational staffに声をかけて催してくれた。浜からの風の吹き抜ける半戸外の食堂で、波の音を聞きながら、ガーナで最後の夕食を味わう。同じ職場の人同士ということもあって、食事中に仕事の話が出ることも。「じゃ、その件は明日の午後に」なんて話を聞いていると、その「明日」に、僕がこの場にいないということが、なんとなく奇妙にも感じられる。
  
食後、みんなで浜辺に降りていく。近くに灯りはないが、ほぼ満月に近い月の光のおかげで、浜全体が仄かに明るい。暗闇の中、ゆったりと白波を送り続ける大西洋を眺めながら、思えば遠くへ来たもんだなぁと、少しだけしみじみ感じた。
  
この二か月間、全力で走り抜けられたかというと、決してそうではない。動きたくても動けない環境にイライラしたこともあったし、そのうち、そんな環境にも慣れてしまって、何となく日々をやり過ごしていた時期もあった。最後の最後に出張させてもらえたとはいえ、もう少し、フィールドを見ておきたかったという思いも正直なくはない。しかし、そういった思い通りにならない気持ち悪さみたいなものも全部ひっくるめて、「援助」であり、「開発」なんだろうなぁと今は思う。人間がすることである以上、いくら最初のきっかけが崇高な理想であったとしても、非効率や怠惰(あるいは、ときに「腐敗」と呼べなくもないもの)を完全に排することはできない。そういった負の要素を「ないもの」として見ないようにするのではなく、その存在を認めた上で、それらをいかにうまくコントロールしていけるか ― そういう、ある種、とても懐の深い対応こそが求められる世界なんだろうと思う。その意味で、上に立つ人の「人間的魅力」というのは、結局のところ、何のことなんだろうかと考えさせられた二か月間でもあった。
  
ともあれ、明日からはアメリカでの二年目の生活が始まる。やりたいことの多さを考えると、あまりのんびりともしていられないのだが、まずは少し落ち着いて、たまっている日本語と英語の本を読むための時間に充てたいと思う。

(この二ヶ月間に撮りためた、ガーナの写真を。)


my room, Accra, Ghana, Aug 4, 24:41

Development depends on efforts

昨晩は、一緒に出張に行かせていただいた日本人の上司の方(土曜日に御馳走していただいた方です)と、とあるホテルのレストランで、いろんな話をさせていただく。本当にいろんなお話を聞かせていただいたので、すべてをうまく消化しきれているわけではないのだが、今思い出してみて、特に大事だと感じる二点を書き残しておく。
  • 二つの仕事(職業でも、組織でも、ポストでも)を比較して、どっちが良い、どっちが悪いと論じることにはまったく意味がない。比べること自体がナンセンス。それぞれの仕事には、それぞれのメリットとデメリットがあるもの。国際機関で働くことは一見、華々しくも見えるが、プライベートの面での犠牲が大きいのも事実。一方で、安定して見える日本の組織であっても、そこで働き通すにはそれなりの努力と覚悟が要るものであり、その中で培われていく能力は決して馬鹿にされるような代物ではない。ポイントは、自分が大事にしたいと思っている物事を実現できる場に立てているかどうか、ということ。「自分の大事にしたい物事」が、年齢とともに移ろっていくのはある意味、自然なこと。それはそれでいいので、そのときどきにおいて、自分が何を一番欲しているかを見極め、それにあった仕事を選んでいくことが重要。
      
  • 日本人にとって、「国際的に通用する人」になるということは、Westernizeされることとイコールではない。欧米人のやり方を真似ることで、国際人としての素養を高めようとしている間は、欧米人を超えることは決してできない。日本人には日本人なりの、他国の人に真似のできない独特の強みがある。とことん詰めてモノを考える習慣であったり、チームの中で自らの役割を的確に見出し、それを果たす能力であったり。そういった能力が高く評価されるのは、何も日本独特のカルチャーではなく、国際的な舞台においても同じ。日本人(特に、日本の組織の実務経験を持つ人)は、自らの持つそういった能力の有用性を自らきちんと認識すべきであり、いたずらに欧米流のimitationに走るべきではない(ただし、一定の「文法」としての国際カルチャーを身に着けていることが前提)。

なんてことを思い出していたら、今日の本石町日記に、ルワンダ中銀総裁を務められた服部正也氏の昭和59年の国会答弁(抜粋)が掲載されていて、読んでいると、なんとなく、昨日のお話とかぶるものがあった。とりわけ、以下の部分が熱い。孫引きになるが掲載させていただく。

「仮に日本が援助をふやさなきゃいかぬということで、日本が世界全体のGNPの一〇%になるような大国になったならば、日本が援助哲学あるいは援助理論の間違っていることを正す、日本の援助理論を出すということが日本のまず第一の責任ではないか」

「いかに人間の努力というものがいろんなものを克服するかということがこれは日本人の歴史の中であるわけなんで、これを伝えるということ、機械的な統計的なモデルというものでやることがいかに不毛だということ、これはもう人間信頼の問題、個人信頼の問題だと私は思っております」

若干、思いが先走っていたのか、話者の意図が完全には把握しきれない部分もあるが(特に二つ目の引用)、一国の発展というのは、マクロ経済的な成長モデルで説明のつくようなものではなく、むしろ、国民一人ひとりの「努力」「頑張り」といった、多分に精神的な要素が決定的に効いてくる世界なんだ、ということがおっしゃりたかったのではないかと思う。そして、その点に激しく同意する、ガーナでのインターン、最後の夜であった。politicallyに難しいissueではあるのだが、開発・発展を考える上で、その点を無視して考えることは、現実を見て議論をしていることにはならないだろう。もっとも、この論点が、「努力して発展することは果たして普遍的な善なのか」という、より根源的な問題を惹起するのも事実なのだが。

というわけで、これから、歓送会に行ってきます。

Accra, Ghana, Aug 4, 18:15

Monday, August 3, 2009

Tamale Trip

朝6時発の便(←早っ!!)でAccraを飛び立ち、7時過ぎにTamaleに着く。空から見るGhanaを楽しみにしていたのだが、離陸して、次に気づいた時には、既に車輪が地面に着いていた(謎)
  
昼過ぎまで、とある会議に出席し、午後はその会議の参加者で、Tamale周辺のプロジェクトサイトを見て回る。キリスト教徒が主流のAccraとは違い、Tamaleのmajorityはムスリム。そんなわけで、車で街中を走っていると、わりと頻繁にモスクを見かけたり、街ゆく女性が頭にベールをかけていたり、それらしい時間になるとどこからともなくコーランが聞こえてきたりする。とはいっても、予想していたほどにはAccraの雰囲気と違わない。なんだかんだいって、ガーナはガーナなんだなぁと、よくわからないありきたりな感想を抱く(左上の写真は、Tamale市内の一般的な住居)。
  
とはいえ、経済的な格差は大きく、Tamale周辺では、未だに、薪での調理が主流。それも、“three stone stove”と呼ばれる、石を三角形に三つ並べただけの非常にclasicalな加熱器具(器具?)が普通に使われ続けている。
  
この“three stone stove”、少し考えていただければおわかりのとおり、人にも環境にも非常によろしくない。煙は、調理している人にまともに降りかかるので、そんなのを毎日浴びていれば、健康には当然良くないし(ひどいことには、お母さんに負ぶわれた赤ん坊がまともに煙を浴びていたりもする)、また、燃焼効率が悪い分、木を大量に消費するので、森林減少の間接的な原因の一つにもなっている。
   
というわけで、この古典的な調理方法からの脱却を図るべく、いろんな機関・NGOが、energy sourceの近代化を試みているわけだが、一見、簡単なように見えて、これが意外に難しい。理想的な燃料はLPGなのだが、値段が高く(高いだけでなく、変動幅も大きい)、一旦、ドナーがLPG調理器具を設置しても、しばらくすると使われなくなることが多いらしい。ソーラーで湯を沸かすというのも一時期盛んにチャレンジされたみたいだが、一旦、故障したり、バッテリーの耐用年数が過ぎたりすると、村人の自力では直せないので、これも結局、定着しなかった模様。
    
で、結局、薪は薪として使いつつ、人体への影響が少なく、燃焼効率のましな方法を模索しましょう、というのが、当面の目標となっている。左の写真は、そんな“improved stove”の一つ。日本で言うところの「七輪」とそっくり。「ガーナ版七輪」は、外枠が金属でできていて、その中に焼き物の灰皿(?)を置き、周りを黒い塗料でコーティングしたもの。熱が発散しない分、three stone stoveより燃焼効率が高く、また、燃料が燃え切るので、煙の発散も少ない(らしい)。残念ながら、焼き物の部分はTamaleでは内製することができず、Accraから買ってきているそうだが、それ以外のパーツは、地元NGOの実施したキャパシティビルディングの結果、Tamaleの職人さんが自力で作れるようになったとのこと。
    
こちらの写真は、学校の給食調理室。ここで、500人分の生徒のご飯をつくってるんだとか。この小屋でも、昔は、three stone stoveを使っていたそうだが、その頃がどんなだったのか、正直、にわかにはイメージできない。とにかく、相当煙かっただろうなぁと思う。。 そんな調理室にも、improve stoveの一種であるコンクリート製の窯を導入。今では、薪は、壁の裏(建物の外)側からくべる構造になっており、煙は、煙突を介して出ていくので、部屋の中には基本的に煙が入ってこない。この窯が導入されて以来、給食調理のおばちゃんは、すっかりこの調理室が気に入ってしまい、自前で、床のタイルの張り替えまでやってのけたらしい(笑)
  
案内してくれた地元NGOの方が、「結局、一番難しいのは、習慣を変えてもらうことです」と話していた。なるほどなぁと思う。慣れない器具より使い慣れた器具についつい手が伸びてしまうのは、本質的には、先進国のおじいちゃん・おばあちゃんの「機械音痴」と同じ理屈で、ごく一般的に見られる現象だろうと容易に想像がつくが、それだけでなく、中には、「スープには煙の匂いがついてないと嫌だ」という理由で、煙モクモクのstoveを使い続けたり、「こっちの水の味の方が口に合う」という理由で、水道がきているのにもかかわらず、drinkableでない水質のため池の水を飲み続けたりする事例も少なくないんだとか。そのNGOは、某ドナーの支援で、来年、behaviorのchangeを促すためのプロジェクトを回すとのこと。確かに、こういう地域では、そういった取組が、物質的な援助と同じか、もしかしたらそれ以上に、大事なのかもしれない。
 
もうひとつ、印象的だったのは、先の七輪工房で売られていた、ソーラーパネルとLEDの卓上ライトのセット、30セディ(約21ドル)也。ソーラーパネルと言っても15cm四方のごく小さなもので、ライトの方もシンプルというか、かなり、ちゃち(失礼)。でも、このシンプルさが受けて、ソーラーライトセット、送電線の届いていないGhana北部の村々で、非常によく売れているらしい。地方の人たちに30セディという値段はちょっと高いんじゃないかとも思ったが、聞くと、2回、3回の分割払いで買っていく人も多いんだとか。
  
援助する側は、ついつい、複雑に考えてしまいがちなのだが、現場で本当に役に立つのは、こういった極めてシンプルな製品だったりするんだろうなぁと思う。シンプルさは、丈夫さに通じ、メンテナンスフリーにも通じる。いちおう聞いてみると、やっぱり、made in Chinaとのこと。さすが、ツボを心得てらっしゃいます。
Tamale, Ghana, Aug 3, 18:28
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Sunday, August 2, 2009

quite unlike me...

今日中にパッキングと部屋の片づけを済ませるべく、早起きして動き始めたら、僕らしくないことに、意外と早く終わってしまい、午後はなんだかダラダラして過ごしてしまった。まぁ、それも悪くはなし。アメリカに戻ったら、どうせまたカツカツ動き始めると思うので、「ガーナ時間」で暮らす生活も残りあとわずか。

インターン先での勤務も、残すところ、明日・明後日の二日だけとなった。が、どういうわけか、この二日間がTamale(←ガーナ北部の街)への一泊出張(笑)これだけ聞いたら、「どんな日程やねん!?」と思わず突っ込みたくなるが、まぁこれも紆余曲折の結果なので仕方なし。とりあえず、ずっと見たい見たいと思っていた北部の様子を見てから帰れるだけ、よしとしよう。
  
明日朝一の便でTamaleに飛び、火曜日の朝の便でAccraに戻る。その日一日、インターン先での最後の勤務をした後、水曜午前の便でJFK経由、Syracuseへ。7日には、再び飛行機でDC入り。今週は飛びまくりの一週間です。




















my room, Accra, Ghana, August 2, 21:23

Saturday, August 1, 2009

How to enjoy 30's, how to live 30's

ガーナで過ごす最後の土曜日は、お土産選びに費やす。

奥さんからは、「マータイさんが着てそうなアフリカンなドレスを買ってこい」との指令が下る。まんまマータイさんの服を買って帰ったら、ネタにはなるだろうけど、そう頻繁には着てくれないだろうな(毎日職場に着てこられても困る??)…なんて思いつつ、ともあれ、まずはお店を見て回ることに。二軒ほど、わりとトラディショナルな服屋さんを見て回った後、インターン先の同僚から教えてもらった、ちょっとこじゃれたお土産屋さんに行ってみる。が、そこは工芸品が中心で、衣類のラインナップはいまいち。とりあえず石で出来たアフリカンなブレスレットを買いつつ、「この辺りにいい感じの服屋さんはないですか?」と聞いてみたら、「こじゃれた服屋がすぐ近くにあるわよ」とのお答え。

言われたとおりに、てくてく歩くこと3分弱。件のコジャレ服屋に到着。そこがなんと、オーダーメイド専門のお店。自前でファッションショーを開いたりもしているらしく、部屋の壁にはその時の写真が。見たところ、センスも悪くない(←まぁ、あくまで僕基準です。汗)。ガーナにもこんなお店があったのかと半分驚きながら(失礼!!)値段を聞いてみると、そこまで高くはない。というか、日本の基準で考えたらめっちゃお手頃。というわけで、さっそく奥さん用に、ドレスを一着お願いすることに。サイズを伝え、布とデザインを決めて今日のところは伝票だけもらって帰ってくる。来週火曜日の朝には出来上がるとのこと。どんなのが出来あがるのか、結構楽しみ。昨日のエントリーでは、若干、辛気臭いことも書いたが、30代になればなったで、人生の新しい楽しみ方も出てくる、ということか。

夕食は、インターン先の日本人の方に御馳走になる。日本人は、総じて真面目で頭がよくて我慢強いが、世界で活躍できるようになるためには、それだけではダメ。英語で外国人と互角に渡り合えるだけの度胸がないと。そんな度胸は場数を踏まずしては培われない。そのためには武者修行が必要。日本の組織の中にとどまっているだけでは、そういった素養は養われない…。おっしゃるとおりだなぁと思う。そして、そういう人間こそが、本当の意味で、日本に貢献できる人間なんだろうとも。
  
こういう話を聞くにつけ、これからの10年間をどう生きるかが、決定的に大事になってくるだろうなぁと思う今日この頃である。
my room, Accra, Ghana, August, 23:12