Tuesday, August 25, 2009

The History of the End of Samurai Period

『昭和史』で有名(らしい。実際、読んだことはない)な、半藤一利さんの『幕末史』を読んでみた。「そういうの良くないよなぁ…」と常々思いつつも、幕末に関する知識と言えば、いわゆる「司馬史観」一辺倒でこれまで来てしまった僕にとっては、なかなか新鮮な話も多く、非常に面白くて(かつ、講義録をもとに書かれているので、話口調で読みやすい)、大部ながら一気に二日で読み切ってしまった。
  
この本の中で、著者半藤さんが一番力を入れて書かれているのは、1865年に条約勅許が降りて以降のゴタゴタは、主義主張の争いを離れた単なる権力争いに過ぎず、やらずもがなの内乱であった、という点。たとえば、
要するに慶応元年(※ 1865年)のこの時(※ 1858年の調印以来、朝廷としては容認できないとしてきた通商条約に対する勅許が正式におりたとき)、日本の国策は一つになったんです。ですから本来ならここで倒幕などといって国内戦争なんかせず、同じ方向に向いて動くべきだったのです。(p.209)
と。また、
国策が開国と一致したのに、あえて戦争に持ち込んで国を混乱させ、多くの人の命を奪い、権力を奪取したのです。「維新」とカッコよく呼ばれていますが、革命であることは間違いないところです。将軍を倒し、廃藩置県によって自分の属している藩の殿様を乗り超え、下級武士であるものが一斉に頂点に立つ。では、つぎにどんな国を建設するのか、という青写真も設計図もビジョンもほとんどなく、なんです。(p.461)
とも。もちろん歴史なので、いろんな見方ができるのだろうが、この説はこの説で、言われてみればなるほどな、の思いがあった。

また、改めて幕末の歴史を詳しく追ってみると、幕府、朝廷、薩摩、長州、会津、…といった、諸組織間の争いが行われていただけでなく、各組織の内部でも、内ゲバ続きで、意見がブレまくっていたことがよくわかる。井伊直弼を輩出したゴリゴリ佐幕というイメージのある彦根藩も、桜田門外の変で彼が暗殺されて以降、尊皇に転じていたとのことが本著のどこかに書かれてあったし、また、(この点は本著ではあまり詳しく述べられていないが)逆に「勤王思想の総本山」ともいうべき水戸藩も、天狗党の乱(1864年)で尊王攘夷過激派が殲滅されて以降、保守佐幕に転じた時期があったとのこと(戊辰戦争勃発時に天狗党残党が復権)。
  
また、ブレという意味では、なんといっても朝廷のそれがもっともひどく、長州を頼みに「攘夷、攘夷」と叫んでいたのが、「長州の極端なやり方を好まなくなり」(p.158)となるや、八月十八日の政変(1863年。会津・薩摩両藩による対長州クーデタ)を経て、開国的な島津久光に乗り換える、なんてブレを乱発しまくる。その長州にしてもそうで、長井雅楽の下、「開国+公武合体」を藩論としていたのが、一気にひっくり返されて、ゴリゴリの尊皇攘夷となるのが1862年。その攘夷論で以て、一旦朝廷に取り入るも、八月十八日の政変、池田屋事件、蛤御門の変を経て第一次長州征伐を受け、佐幕保守派に藩政の主導権が移るのが1864年。高杉晋作らによる「革命」が成り、再び「倒幕」(ただしこのときは、「倒幕」+「開国」)が藩論となるのが1865年、といった具合に。

行き過ぎれば逆ブレする、ある勢力がこければ対抗勢力が力を持つ――落ち着いて考えれば当たり前の力学なのだが、ついつい我々は、組織ごとに一つの「色」で見てしまいがちである。これは何も歴史を見るときに限らず、現在進行中のことについても言えること。気をつけねばと思う。
  
各勢力(特にのちに「官軍」と呼ばれる薩長を中心とする西軍)による権力闘争を終始批判的に論じている筆者であるが、一人、勝海舟については、ベタ褒めしている。「幕末にはずいぶんいろんな人が出てきますが、自分の藩がどうのといった意識や利害損得を超越して、日本国ということを大局的に見据えてきちんと事にあたったのは勝一人だったと私は思っています」(p.289)といった具合に。やや贔屓目が入っているのでは…、なんて気がしないでもないが(笑)、もちろん、彼が大挙を成し遂げた大人物であったという点については、僕もまったく異論がない。

日本への、勝の最大の貢献が江戸無血開城の成就にある、という点については、ほぼ異論のないところであろうと思うが、その際、「戦争はしたくないけれど、やるとなればやるということを、会見に先立ってはっきりと西郷さんに書き送ってい」(p.318)たそうであり、「いよいよの時には江戸市中に官軍を全て入れ、まわりから火をつけ江戸を火の海にして、彼らを焼き殺す」(p.315)手筈も整えていたんだとか。これに関して勝は、後日、
この議(焦土戦術)ついに画餅となる。この際、費用夥多(多くの者に沢山の金を配った)、我大いに困窮す。人ひそかに知る者、我が愚なるを笑う。我もまたその愚拙を知る。然りといえども、もしかくの如きならざれば(あれだけの覚悟を固めなければ)、十四、十五の談(西郷との談判のとき)、我が精神をして活潑ならしめず、また貫徹せざるものあり(p.343)

と書き遺しているとのこと。ギリギリの交渉、ギリギリの大仕事というのは、こういった相当の準備と覚悟があってこそ、初めて成るものなのだろう。

最後に、引用が少し長くなるが、本著の中で非常に印象的だった一節を。

ところで、「攘夷」「攘夷」と言っていますが、では下級武士や浪人たちはいったいどのような理論構成のもとに攘夷を唱えていたのか、当然問題になるわけです。が、正直申しまして、攘夷がきちんとした理論でもって唱えられたことはほとんどなく、ただ熱狂的な空気、情熱が先走っていた、とそう申し上げるほかない。時の勢いというやつです。そこがおっかないところで、理路整然たる一つの思想があって皆がそれを学び、信奉し、行動に出るなら話はわかるのですが、それがほとんどなく、どんどん動いていく時代の空気が先導し、熱狂が人を人殺しへと走らせ、結果的にテロによって次の時代を強引につくっていく。テロの恐怖をテコに作詞が画策し、良識や理性が沈黙させられてしまうのです。むしろ思想など後からついてくればいいという状態だったのではないでしょうか。いつの時代でもそうですが、これが一番危機的な状況であると思います。

my room, Washington, D.C., Aug 25, 10:55

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