週明け月曜日の
Financial Securityの授業で、今学期最初のpresentationが当たっている。与えられた課題は、「なぜ日本は、バブル崩壊後の不況への迅速な対応に失敗し、以降の10年間で大幅に財政赤字を拡大させるに至ったのか、その原因・経緯を説明せよ」というもの。その道の専門家ならぬ自分には、些か荷の重い課題なのだが(しかも、「あんた日本人なんだから、そのくらい簡単に説明できるでしょ」という、ありがちな誤解に基づく謂れのないプレッシャーをびんびんと感じる…)、ぶつくさ言ってても仕方がないので、目下、必死に勉強中である。
何はともあれ事実関係を確認しておくと、日本を含む西側主要国(G7 -カナダ+スウェーデン+韓国)の政府債務残高の90年以降の推移は、冒頭のグラフのとおり。どこからどう見ても、日本のそれが、「ごぼう抜き」であることは認めざるを得ないだろう。
とりあえず以下のような筋道でしゃべろうと思っているのだが、論理が正しくない可能性も大いにあり、読者の皆さん(特にその筋の専門家の方)から見られて、おかしいと思われる点があれば、ご指摘いただければ、非常にありがたいところである。
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1980年代後半の長期にわたる金融緩和がバブルを引き起こし、バブル退治のための金融引き締めが景気悪化をもたらしたという評価については、既にコンセンサスがあると言えるが、その後の長期の停滞がなにゆえに生じたかについては、そもそも、コンセンサスは形成されていない。
(原田・大西[2002] p.2) しかし、90年代初期の金融政策について見ると、緩和が十分ではなかった可能性が高く(原田・大西[2002] p.4)、このことが、同時期の景気後退をより一層深刻にした可能性は高いと言えよう。
一方、財政政策については、「92 年8 月の総合経済対策以来10 次にわたる財政刺激政策のパッケージが発動され、その総額は136 兆円となっている(三橋・内田・池田[2001]表1-2)。だが、乗数が小さいことも認められ、財政政策の効果は「財政拡大はその時点の経済を下支えこそすれ、その後の成長を保障する呼び水ではなかった」のである(堀・鈴木・菅[1998])というのが政府内のコンセンサスともなっているようだ(経済企画庁[1998]、第3 章第1 節)。」(以上、原田・大西(2002) p.4より抜粋)
つまり、(初期の段階での金融政策の失敗があったにせよ、その後、)景気後退に対する本質的な解決策が打たれないまま、効果の薄い財政発動を約10年の長きに亘って繰り返してきたことが、この期間における、日本の財政赤字拡大の直接の原因であると言えよう。
構造改革が需要を喚起するかどうかは疑問
バブル崩壊後、日本政府が非効率な経済対策を繰り返した結果、財政が急激に悪化し、これ以上の財政出動は許されない
だから、ゼロ金利政策では十分ではなく、非伝統的な金融政策を中央銀行は取るべきだ
インフレ期待を高め、実質金利をマイナスにすれば「流動性の罠」からの脱出は可能になる
その後、日銀は、「インフレ目標」の採用こそしなかったものの、ゼロ金利政策(99年2月)、量的緩和政策(2001年3月)、民間銀行からの株式買取(同年3月)といった、「非伝統的金融政策」を矢継ぎ早に打ち出したが(JB Press [2009.5.27])、それらの効果は限定的であった可能性が高い。なお、「インフレ目標」についてKrugmanは、
昨年11月、10年前の自分の試みに誤りがあったことを認め、「無責任な国でインフレを起こすのは容易だが、そうでなければ容易ではない」(“creating inflation is easy if you’re an irresponsible country. It may not be easy at all if you aren’t.”)と述べている。
「インフレ目標」に代わって、最近のKrugmanは、
“Exports were the driving force behind recovery.”と言っている。これに対し、
小林 慶一郎は、輸出の伸びが2003年以降の日本の景気回復に大きく貢献したことを認めつつも(“True, exports did contribute greatly to Japan’s economic recovery that began in 2003”)、それは、日本経済回復のための必要条件ではあっても、十分条件ではなかった(“In short, export-induced, demand-led growth was a necessary but not sufficient condition for Japan’s recovery.”)とし、日本経済は銀行の不良債権処理が行われて初めて回復したのだ(“Japan’s stock market and economy only rebounded after the banks were cleaned up, specifically after the disposal of bad debt was accelerated following the temporary nationalisation of a troubled major bank and the creation of the Industrial Revitalisation Corp. ”)と、また、市場の信頼は痛みを伴う不良資産の処理を行って初めて回復されるのだ(“market confidence can be restored only when progress is made on the painstaking process of disposing of nonperforming assets.”)と述べている。
迅速かつ正確な損失の認識が不可欠である。
不良資産はバランスシートから切り離す必要がある。
金融機関の自己資本不足には増資による迅速な対応が重要であるが、場合によっては、公的資金による資本注入が必要である。
預金の全額保護や問題が生じた銀行の一時国有化といった例外的措置が、危機的な状況においては選択肢となり得る。
短期的な措置と、中長期的な規制の枠組みの再構築を、バランスを取りながら同時に行う必要がある。
これらが、「我が国の経験から得られる教訓」として挙げられているということは、裏返して言えば、90年代、我が国は、これらの措置を迅速に講じられなかったということであろう。
1.については、同講演の中で、「1990年代初期の我が国には、不良債権に関して情報開示や引当を行うための実効性のある共通の枠組みが整備されていなかったため、金融機関に不良債権の処理を先送りするインセンティブが生まれ、我が国経済は信用収縮と実体経済の悪化という負のスパイラルに陥りました」と述べられている通りであろう。2. が本格的に行われ始めたのは、2002年の竹中平蔵、金融相就任以降のことである。3.については、宮澤喜一首相(当時)が、92年の時点で、既にその必要性を認識し、
「必要なら公的援助をすることもやぶさかではない」と発言していたにもかかわらず、実際に行われたのはそれより3年以上もあとのこと。住専に公的資金(6800億円)が投入されたのが96年で、大手21行に2兆円が投入されたのは98年。同年には、危機管理用として、30兆円の公的資金が預金保険機構に準備されている(同年10月に60兆円まで増額)。4.に関し、日本でペイオフ凍結の
措置が導入されたのは96年。5. についても、「中長期的な規制の枠組みの再構築」が本格的に行われ始めたのは、2002年の竹中プラン以降と見るのが妥当であろう。
というわけで、冒頭にも述べたとおり、コンセンサスが形成されているわけではないものの、「銀行の抜本的な不良債権処理が遅れたばかりに、市場における信頼がいつまでたっても回復せず、そのことが景気回復の阻害要因となっていたのであり、その間、一時的な痛み止め以上の効果を持たない財政支出が断続的に行われたことによって、財政赤字が大幅に膨らんだ」との、見方を示すことができる。
my room, Washington, DC, Sep 26, 27:37