昨日、SyracuseからDCに向かう道すがら、佐和隆光先生の
『経済学への道』(岩波書店、2003)を読んでみた。佐和先生と聞いて僕が最初に思い出すのは岩波新書の
『経済学とは何だろうか』(1982)。計量経済学者として既に世界的名声を得られていた著者が、完全な経済学素人向けの「入門書」として著されたこの本は、明快にして簡潔、それでいて深遠でさえあり、難解かつ意味不明瞭な(←失礼)『経済学Ⅰ』の講義に辟易しかけていた大学一年生の僕に、救いの手を差し伸べ、経済学の面白さに気づかせてくれた一冊であった。その佐和先生の自伝的著作を、留学二年目のスタートに読んでみようと思ったわけである。
幼少時代から執筆時点(2003年)に至るまでの文字どおりの「自伝」と、その間、著者が直接・間接に関係してこられた、その時代、時代の社会的出来事(大学紛争、高度成長、バブル経済、国立大学制度改革etc.)に関する記述・考察が本著の経糸をなし、そこに、経済学を中心とする諸事に関する著者の主張が、横糸として織り込まれていく。
先週のエントリーでも書いたとおり、最近は、この手の、筆者自身の体験談をベースにした著作物が面白い。一般的に言って、功成り名遂げた人の書くこの手の著作物には、時折、鼻に付く表現が含まれるのが玉に瑕なのだが…(そして、この本も、その一般論から自由ではない。笑)
この本を通し、一貫して示されている著者のスタンスは、いわゆる経済学的「リベラル」。反面、「新古典派」に向けられる批判は非常に手厳しい。サッチャー、レーガン、小泉純一郎、竹中平蔵など、具体的な政治家の名前を挙げながら、断定的なトーンでなされていく「新古典派」批判は、読む人のスタンスによって、正直、好き嫌いがあるだろうと思う。誠に僭越ながら、僕からすると、ときに一面的、あるいは感情的にさえ思える記述がないでもなかった。ただ、著者の言う、「新興経済学を受容するべきか否かは、自己の思想にてらして決めることだ」(p.169)とのご意見には、僕自身、全く以て賛成であり、その意味では、「自己の思想」を貫いてお書きになられた、というだけのことなのかも知れない。
その他、個別の論点でも示唆に富む、面白い記述にあふれている。以下、その中からいくつか引用させていただこうと思う。
私たちは、集団就職した、かつての少年少女たちに心から感謝しなければならない。彼らが身を粉にして働いてくれたからこそ、日本経済は、驚異的な高度成長をとげることができたのだから。(中略)そもそも経済が成長するということは、働く人の数がふえ、働く人が勤勉であり労力を惜しまず、そして設備投資により資本整備がととのい、労働生産性が高まることの必然的な結果なのである。(p.24)
ガーナから帰ってきた今、この言葉の意味が実感としてよくわかる。高度成長時代の日本人というのは、本当に偉大だったと改めて感じる。(2009年時点での彼ら世代がどうかということは別にして。)
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日本の官僚の任務は「与えられた結論を正当化する」ことにある。与えられた結論の合理性、効率性、公正は二の次にまわされ、「正当化」のための屁理屈づくりに官僚は精魂をかたむける。(p.31)
何をか云わんや…。
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旧制高校は究極のインテレクチュアリズムの世界、すなわち虚学の殿堂だったのである。弊衣破帽の旧制高校生たちは、寮生活をしながら、知的陶冶にいそしんだ。(p.34)
この記述以外でも、著者は、「一般教養」の大切さ、また、最近の若者の「一般教養」離れを、繰り返し繰り返し述べている。このご指摘は非常に耳が痛い。教育制度のせいだけにするつもりもないが、自分自身、「教養」と呼べるものには全くもって疎いまま、この年まで来てしまった。若いうちは、そんなものが何の役に立つのかとも思っていたが、最近、そういう広くて深い「知」のストックが、一定の年齢に達した時、人間の深みを左右するんだろうなぁということが何となく分かってきた。著者は、いわゆる「一般教養」に加え、「教養」としてのマルクス経済学の効用についても述べておられる。今になって思うと、大学時代、まったく知識もなかったくせに「マル経」教授を馬鹿にして、まともに勉強しなかったことが悔やまれる。当時の母校は、日本どころか、世界でも有数のマルクス経済学者の群生地だったと思うのだが。。。
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アメリカのエコノミストは、共通の文法にしたがって議論する。そのため、対立する両派の見解がなにゆえ異なるのかが理解しやすい。しかし、日本のエコノミストのあいだには共通の文法など存在しないから、エコノミストの景気見通しの振り幅はとてつもなくひろいし、見解のへだたりがなにゆえのことなのかが、必ずしも明確には伝わってこない。(p.105)
おっしゃる通りかと。アメリカと日本の「エコノミスト」は、似て非なるものです。(似てさえいない??)
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「学際」という言葉は、しばしば安易に用いられがちだが、「言うはやすく行うはかたし」である。それぞれの研究者が自己の専門分野のパラダイムにかたくなにこだわりつつ、異分野の専門家の所説に対して疑問を呈したり、自己のパラダイムにてらしての解釈を述べたりする。「学際」とはそういう営みのことであって、ある分野ともうひとつの分野のあいだに、新しい学問領域をつくることではない。(p.137)
この点、「環境」というきわめて「学際」的色合いの濃い対象物を学ぶものにとっては、非常に傾聴に値するご指摘だと思う。その意味では、著者御自身が設立にも関与されたという京大地球環境学堂の今後に、ご期待申し上げるところ。
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どうやら日本の構造は、工業化社会の最終段階に最適な社会構造のようである。(中略)官僚主導の構造もまた、工業化社会においては十全に機能した。とくに「追いつき追い越せ」の時代には、技術革新―その大方は欧米先進国の生産技術の模倣だったのだが―の方向づけを「賢明」な政府がやり、「金をだすから口もだす」というナビゲーター役を、政府は首尾よくひきうけることができたのである。
ポスト工業化社会の到来は、日本の構造をすっかり干からびさせてしまった。(中略)工業化社会において最適であった日本の構造は、ポスト工業化社会においては「最不適」といっても、決していいすぎではあるまい。(p.148)
この点もご指摘のとおりかと。この部分に続くディテイルの考察も非常に興味深い。ただ、その結論として「いまもっとも必要とされているのは、経済構造の改革ではなく教育の改革なのである」とのご指摘については、教育改革の必要性に疑問を唱えるつもりは微塵もないものの、果たしてそれが「いまもっとも必要とされている」かというと、やや疑問がなくもない。
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一般教養にせよ、経済学にせよ、それらを学ぶことの重要さは、この年になると、痛いほどによくわかる。そして、それらを十全に体得するには、いくら時間があっても足りないということも。その意味では、与えられた残り一年間の留学期間は、本当に貴重なもの。実際やってみると、ときに長くも感じられる「一年」という期間だが、折にふれ、この佐和先生の著作を思い出しながら、一日一日を大切に使い、残り一年間(正確には既に11か月弱)を過ごしていきたいと思う。
Starbucks Cafe on Connecticut Ave, DC, Aug 8, 8:36