Friday, July 31, 2009

Farewell Parties

インターン先のinternational staff(ガーナ人ではないスタッフ、ということです)の皆さんに、送別ディナーを催していただく。昨晩は昨晩で、JICAガーナ事務所の方とのお別れお食事会。ガーナでの生活もそろそろ終わりが近づいてきた。

僕の頭の中も、既に半分は、帰米後のことに切り替わっている気がする。DCでの新居も決まり、郵便局に住所変更の届けをしたり、Syracuse→DCの飛行機を予約してみたり…。

2か月過ごした街 ― それも、生まれてはじめて訪れたアフリカの街 ― を去るとあって、それなりに寂しい気持ちはあるが、一方で、意外と簡単にモードを切り替えて、淡々と次の生活の準備を始めている自分もいる。30にもなってそれができないと逆にまずいと言ってしまえばそれまでなのだが、20代半ばまでは、旅行に出る度に感じていた、あの胸苦しいほどの感情 ― 敢えて言葉にすれば、不安と寂寥の入り混じった興奮感、とでも言えようか ― を感じなくなったことには、一抹の寂しさもある。

逆に言うと、やはり、20代の時にしか感じられない思いというものがある、ということなんだろう。その意味では、お金は激しく貯まらなかったけれど、20代のうちにいろんな国を見て回ったのは、正解だったと思う。このblogをお読みの20代前半~半ばの方には、多少無理をしてでも、今のうちに、できるだけたくさんの国を見ておくことをお勧めします。
my room, Accra, Ghana, July 31, 23:17

Wednesday, July 29, 2009

Go down an up and down

帰米後、8月前半の予定が、だいたい固まりましたので、この場を借りてご報告を。

5日(水) 帰米。JFK経由でSyracuseへ。Syracuse着は23:30。SUシェラトンで二泊の予定。
6日(木) 荷物整理と、MPA、IRの両officeに挨拶。
7日(金) 朝一の便でDCへ。→ 新居に入居
8・9日(土・日) 新居のset up。
10日(月) 秋のインターン先へ顔出し・挨拶。

その後、15日か16日くらいにDCを発って、(たぶん)電車でNYCに行き、そこで、一泊か二泊した後、再び電車でSyracuse入りしようと思っています。気が向けば、それ以外の都市に立ち寄ったりするかも知れません。19日にSyracuseでアポがあるので、その日の前後、Syracuseに滞在した後、愛車CR-V君を連れてDCに戻る予定です。

東海岸在住の皆様には、また改めて、個別にご連絡させていただきますが、取り急ぎ、ご報告まで。
my room, Accra, Ghana, July 29, 24:11

Not made in Japan

このblogでも、これまで何度か触れてきたが、日本の産業構造に関する議論には非常に興味がある。というか、本来、一国の環境政策を語ろうと思うならば、その前提として、その国の産業構造の将来に関する自論を持っていないといけないと思う。そうでなければ、「閉じた」議論にならない。
  
とはいえ、僕自身、未だ確たる自論を持てているわけではない。本当に日本は製造業依存から脱するべきなのか、僕の中では、まだ確たる答えはないし、また、その答えが仮に「yes」だったとして、その先にあるという「サービス産業化社会」というのは、具体的に、どういった姿を持つものなのか、僕にはよくわからない。一年後、日本に帰るまでには、一応の答えを見つけて帰りたいと思っている。

その意味で、最近、JB Pressに出ていた、Financial Timesの邦訳記事(『日本の工場の未来』(原題“Not made in Japan”))がそこそこ面白かった。曰く、“将来は「日本からの輸出は最先端の産業でさえ理にかなわなくなる」”(by シャープ片山幹雄社長)との見方がある反面、“「日本は、生産および設計の面で組織の協調がかなり必要になる製品は、得意なはず」”であり、“さらに、この優位性には永続性があるはず”との意見もある (by 東京大学「ものづくり経営研究センター」 藤本隆宏氏)。藤本氏の言うような“世界的に競争力がある製品を別にすると、日本には今後も発展していくと見られる工場が2種類ある。国内市場向けにジャスト・イン・タイム方式でモノを生産する「クイック工場」と、製品設計者にリアルタイムで情報をフィードバックをする、研究拠点に併設された「マザー工場」だ”とのこと。こうやって書きだしてみると、ある種、陳腐なことしか書かれていない気もしてきたが…(苦笑)

日本の製造業が、完全にゼロになるまで駆逐され尽くすなんてことは、まぁないと思うので、問題は、「世界的に競争力がある製品」の生産であったり、「クイック工場」なり「マザー工場」なりで、どれだけの雇用を吸収できるか、ということだろう。ただし、それを知るには、更なる勉強が必要だ。
my room, Accra, Ghana, July 29, 23:21

All progress depends on the unreasonable man

最近、とある政党を辞められた、とある政治家の方(と書けばだいたい分かってしまうと思うが)のブログを時々読ませていただいている。「党」という組織内部の濃密な人間関係(いわば「情」の部分)と、ご自身の政治信条(いわば「理」の部分)との間で揺れ動くお気持ちを、飾ることのない文章で、日々綴っておられるそのblogは、その方を政治的に支持するかどうかとは関係なく、読み物として、非常に興味深い。
  
blogというメディアの一つの大きなメリットは、こういった形で、現在進行中の出来事の渦中にある人物から、「生の声」に近いメッセージを引き出すことができ、それを受け取った読者は、単に知識として、ある事実を知るのではなく、その背景にある心情的な部分も感じ取り、ある種の「追体験」をすることができる点にあると思う。日経新聞『私の履歴書』に代表される追想録にも、ある程度、同様の効果が見込めるとは思うが、歳月を経た後に、昔のことを思い出して書かれている分、多かれ少なかれ、事実の美化が混ざる可能性は否定できないし、それに何より、今まさに出口の見えぬトンネルの中を彷徨っている人の持つ「緊張感」や「不安感」は、功成り名を遂げた後の追想録では、なかなかリアルに表現できないものだと思う。
  
その政治家の方が、最近のエントリーで紹介されていた、George Bernard Shawの言葉が、非常に印象的だったので、孫引きになるが、掲載させていただく。

分別のある人間は、自分の方を世界に合わせる。  
無分別な人間は、世界を自分の方に合わせようと押し通す。  
したがって、進歩というものはすべて、  
無分別な人間のおかげなのである。

The reasonable man adapts himself to the world:
The unreasonable one persists in
trying to adapt the world to himself.
Therefore all progress depends on the unreasonable man.

僕は実際、臆病者なので、まだ「無分別」にはなりきれないのだが、このShawの言葉は、世の中の真実を言い当てているような気がする。

my room, Accra, Ghana, July 29, 22:42

Greet me before ...

仕事と、仕事以外の両方で、今日はいろいろややこしいことがあり、久々に本気でぐったりきた。
  
失敗して、自分の力不足を痛感させられるのは、それはそれで堪えるが、自分の行いとはほとんど無関係なところから発生した災厄が、次々、自分の身に降りかかってくるのも、それはそれで萎える。今日は、後者の方のイベントが目白押しの一日だった。
  
夕方、既に十分やつれきった状態で、Delta航空のAccra支店を訪れた時のこと。はじめての場所だったので、ビルの入口のガードマンに、“Excuse me, where is Delta?”と聞くと、ひどいガーナ訛りで何かゴニョゴニョ言っている。「なんて?」と聞き返すと、“Before ask it, greet me.”(デルタの場所を聞く前に、まずは挨拶しろ)とのこと。ここまでひどい対応は、これまで、ガーナでも経験したことはなかったが、ついていないときというのはこんなものなのかも知れない。

逆に言うと、ここまで憔悴したのも久しぶりと言えば久しぶりで、思ってみれば、留学中というのは、それだけ楽をさせてもらえてるんだなぁと改めて実感する。とはいえ、これから寝て、起きたときには、もう少し、「ツキ」が戻っていてほしい。
my room, Accra, Ghana, July 29, 21:40

Tuesday, July 28, 2009

How to deal with intern

今日のFinal Wrap Reportの準備をしながら思ったことを忘れないうちに。
  
僕自身、東京の職場で経験したことがあるが、インターン生を受け入れるというのは、意外に容易いことではない。忙しすぎる部署だとインターン生にかまっていられないし、暇すぎる部署だとインターン生に与える仕事がない。そして、忙しくもなく暇でもなく、ちょうどいいくらいの部署なんてのは、世の中にほとんど存在しなかったりするものだ。
  
こういった事情は、役所だけに限ったことではないようで、留学に来る前、採用関係の業務を担当していたときに仕入れた情報では、採用活動に積極的な企業ほど、その会社の本体業務とは完全に切り離したところに学生を集め、mimicのプロジェクトを経験させているケースが多かった。学生の側からしてみれば、そんな「なんちゃってインターン」で、本当にその会社の実態が分かるのか僕にはよくわからないが、会社の側からしてみれば、インターン生に本体業務を邪魔されないし、見せたくない部分も見せずに済むしで、金は多少かかろうとも、結局、その方が好ましいという判断だったのだろう。もっとも、景気が落ち込んだ今も、そんな贅沢な採用活動を続けられているのかどうかは不明…。
   
そういう「外付け」タイプのインターンではなく、実際に、本体業務の中に学生を迎え入れるのタイプのインターン(←それこそが本来的な意味での「インターン」だと思うが。)では、ある程度、日数のかかる調べ物をやってもらうのが王道なのではないかと思う。こまめに小さな作業を依頼するのは、依頼する方も説明するだけで疲れるし(←はっきり言って自分でやった方が100倍速い)、インターン生の方も、なんとなくよくわからん作業をやらされていると感じるだけで、お互いにとって、あまり良いことがない。むしろ、一週間なり二週間なりの期間を区切って、その間に、これとこれについて調べて報告してくれ、と頼む方が、お互いにとってhappyでなのではないかと思う。もちろん、その課題の難易度は、インターン生の力量に応じて決めればいい。実力のある人なら、視点次第でいろんな斬り方のできる、射程の遠い課題を与えればいいし、そうでもない人なら、斬り方は既に固まっている、文字通りの「調べ物」をやってもらえばいい。
  
もう一つ、やってみたら面白いんじゃないかと思うのは、インターン生に、一日一つ、何でもいいから質問をしてもらうこと。業務の内容についてでもいいし、仕事の回し方についてでもいい。それなりのリソースを割いてインターン生を受け入れる以上、受け入れる側もインターン生から最大の貢献を引き出したいはず。そして、インターン生にできる最大の貢献は、学生の無垢な視点から発せられる素朴な疑問の提示なのではないかと思う。それを「学生のタワゴト」としてあしらってしまっては身も蓋もないが、真剣に答えを返そうとすれば、答える側が、逆にハッとさせられ、日常の業務を見直すヒントを得られることも少なくないのではないかと思う。
my room, Accra, Ghana, July 28, 23:13

Final Wrap Report

毎週火曜日の朝は、定例の全体会議。この会に出席するのも今日が最後となった。というわけで、インターン生恒例の(←そういうことになっているらしい)"Final Wrap Report"とやらをさせていただく。
  
毒にも薬にもならないことをしゃべっても仕方がないので、それなりに批判めいたことも織り交ぜながら(というか、それだけ!?)10分弱ほどしゃべらせていただいた。ポイントは以下の3点。
  1. CDMを担当させていただいたのはいい勉強になった。ただ、その結果として、CDMを実施するのは難しいということがよくわかった。
  2. Climate ChangeやOzone Layer Protectionにかなり力を入れているのはそれはそれで素晴らしいが、domesticかつconventionalな環境問題(ゴミ処理、大気汚染、etc.)がおざなりになってはいないか?
  3. 組織内のknowledge managementができてなさ過ぎ。というか、そもそも「チーム内で情報をシェアする」という発想を持っていない人が多い。その点、もう少し改善されてみてはいかがでしょうか?
会議終了後、僕と同い年くらいのローカルスタッフのEさんが、「非常にinterestingだった」と言って、議論の続きをしに来てくれた。それだけなら、まま、よくある話なのだが、驚いたのは、彼が僕の二つ目の論点に触れながら、「ガーナの一番の問題は、環境状況のmonitoringシステムがまったく整っていないことなんだ」と言ったこと。 monitoringは環境行政の基本の「き」です。いかにも。そんなのは、「環境」をやってる人間にとって常識中の常識。とは言いながら、はたして、日本のいわゆる「環境学徒」(←特に、after Kyoto 世代)の何割までが、そのことをきちんと理解しているだろうか?そう思うと、彼が真っ先にその点を突いてきたことには、少なからずプラスの意味での驚きがあった。
  
聞けば、マンチェスターでEnvironment & Developmentを学んできたとのこと(たぶんここですね)。ちゃんとしたことを教えているなぁと思う。こういった古典的な環境問題(いわゆる「公害」)への取り組み方に関する留学生向けの教育は、公害を乗り越えてきた歴史を持つ日本(の大学)にとって、本来、もっと強くていい分野だと思うのだが、それをするには、言語の壁が大きすぎるのだろうか。はたまた、日本の、いわゆる「環境系」学部・学科は、気候変動を追いかけるのに忙しくて、もはや、公害対策の分野に多くのリソースを割いている暇はないのだろうか…。
  
もったいないことだと思う。せっかくのknowledgeが散逸してしまう前に、何か手を打たないと。
my room, Accra, Ghana, July 28, 19:53

Monday, July 27, 2009

Eric Schmidt

経ビジネス(web版)に出ているFinaicial Timesの翻訳記事が面白い。『戦略家のグーグル』との邦題が冠されたその記事(原文はこちら)は、 GoogleのCEOであるEric Schmidtが、Bill Gates率いるMSに挑み、敗れ、敗れした後に、2001年、Googleに迎え入れられ、「MSを最大のライバルとして意識するも、その対決姿勢はひた隠しにする」という戦略を主導し続けてきたことが書かれている。
  
1983年に博士号を取得した際、すでに、「ネットワークがコンピューターになる」という、今日のクラウド・コンピューティングに通じる(というか、そのもの?の)発想を持っていたということにも驚かされるが、そのビジョンを最も具体化しやすいと思われる(そして、実際、そうだった)Googleに入社して以降も、無邪気に自らのビジョンを喧伝して正面突破を図るのではなく、むしろ、対外的にはそのビジョンを隠し続け、何が狙いなのかを敵から気づかれないようにしておきながら、周辺パーツの提供という活動を通して気づかれぬ間にMS包囲網を築きあげ、最後の最後の仕上げに「OS提供」を持ってくる、という戦略の妙にも唸らされる。
  
記事で紹介されている、シリコンバレーのベテランバンカーのSchmidt評が興味深い。
“He has the detailed engineering mind that understands the technology from top to bottom, but also understands markets and business models – it’s the same combination that made Bill Gates so successful,”

「シュミット氏には技術を隅々まで理解できる精緻な技術者マインドがあるが、同時に市場やビジネスモデルも理解している。この組み合わせは、ビル・ゲイツ氏に極めて大きな成功をもたらしたものと同じだ」
当たり前の話だが、技術と経営の両方に明るい人間は強い。残念ながら、僕は何年かかっても、GatesやSchmidtのようにはなれないが、経済だけでなく、技術のことについても、少しでも多くを知ろうとする姿勢は持ち続けなければならないと思う。
my room, Accra, Ghana, July 27, 22:36

Trip to Cape Coast

実はこの週末、一泊二日で、Cape Coastに旅行に行ってました。

Cape Coastは、Accraから海岸伝いに165kmほど西へ走ったところにある港町。二時間ほどのバス旅だがSupported by Japan(!!) の道路が通っているので、非常に快適。ガーナ人の常として、ちょっと道がきれいだと、途端に飛ばしたがるので、なかなか安心して座っていられない二時間ではあるのだが…。写真は、往きのバスの車内の風景。 土曜日の午後4時前にAccraを出て、Cape Coastに着いた頃には既に夕暮れ時。そんなわけで、実質の観光は日曜日のみ。Cape Coast郊外にあるKakum National Parkと、市内のCape Coast Castleに行ってきました。

Kakum National Parkの名物は、左の写真の"Canopy Walk(林冠の散歩道?)"と呼ばれる吊り橋。 これが半端なく怖い。日本にも、「怖い怖い」と言われている名物吊り橋がいくつかあるが、はっきり言って、比較にならないと思う。そもそも、歩くところには、幅30cm程の踏み板が縦一列に並べてあるだけで、周りはスケスケの網。それとて、胸の高さまであるだけなので、ちょっと何かirregularなことがあれば、簡単に落ちれる気がしてならない。そんな橋を何本か渡り歩いていくのだが、橋を一本渡り終えるごとに一息つけるかと思いきや、"plat form"と呼ばれるその中間地点(左上の写真中央)は、木の幹の周りに台場が引っ掛けられているだけの物体で、どんな原理でそこに引っ掛かっているのかも、どれだけ信頼していいのかも、ナゾ。実際、信頼するしかないんだけど…。

橋の上からとった木々の写真が左。どれだけ高いかが多少なりともお分かりいただけるかと。たぶん、plat formの位置で、ビルの7階~8階くらいの高さはあったんじゃないかと思う。

 
午後は、Cape Coastの中心地に戻り、Cape Coast Castleへ。Cape Coastの街は、1877年にAccraに遷都されるまで、英領Gold Coast(今のGhana)の首都があったところ。そんな英領時代の政治の中心地がこのCastle。大西洋を臨む白亜の城は、もともと、ポルトガルによって建てられたというだけあって、地中海的な趣もあり、美しいと言っても過言ではない。

しかし、一見爽やかにも見える城の内部には、陰鬱な空間が広がっている。この城は、奴隷貿易の積み出し所としても使われてきた所。 地下には、まともに光も届かないいくつかの小部屋があり、ガイドさんの話によると、それらの小部屋には、常時、数十人~百人以上の「奴隷」たちが押し込まれ、送りだされるのを待っていたんだとか。そんな地下の一室には、たくさんの花輪が手向けられている場所があり、その中には、先日、この場所を訪れた、“Obama Family”からのものもあった。

左上の写真は、城から海岸に通じる出口の扉。通称“The Door of No Return”。「奴隷」の子孫である世界中のAfricanの人たちにとっては、ひとつの象徴となっている場所だ。ここから積み出されていった人たちは、決してここに戻ることがなかったという意味でその名が付されているわけだが、20世紀に入ってから、解放奴隷の子孫であるアメリカ人とジャマイカ人の二人がガーナを訪れ、この“The Door of No Return”を海側から城内へとくぐったんだとか。その歴史的なエピソードを記念してか、ドアの反対側(つまり、海から城内に入る側)には、“The Door of Return”との名称が掲げられてあった。

ドアを開けてすぐのところにある漁港。かつては、奴隷交易船が接岸していたであろうこの海岸は、今では、賑やかな漁港となっている。船と波の間の僅かなスペースを見つけては、子供たちがサッカーに興じていた。

  
最後に、Canopy Walkのplat formの上で、恐怖に怯えながら見上げて撮った大木の写真を。この、樹に巻きつけたロープだけであの吊り橋が支えられているかと思うと、やはりどう考えても恐ろしい。。。(笑)

Kakum National Park, Ghana

my room, Accra, Ghana, July 27, 21:44

I need a "device."

後輩からもらったメールに返事を書きながら、こんなことを考えた。
  
「社会」というのは矛盾に満ち満ちたものであり、その部分集合である「組織」もまた、内部に少なからぬ矛盾を抱えざるを得ない存在である。「組織」内部の矛盾を減らすもっとも効果的な方法は、物理的な意味でも、扱う範囲という意味でも、組織のサイズを限定し、「社会」とのトランザクションを最小限にとどめる(あるいは、限定された径路でのみ「社会」と繋がる)ことだと思う。このことは、「社会のことを扱いたい」(より正確に言えば「社会の全体最適を模索したい」)という志向とは、明らかに背反する。
  
仕事選びに際して、「矛盾の少ない健全な組織で働きたい」というのは至極当然の欲求だと思うが、上記のような背反性がある以上、「社会のことを扱いたい」と思っている人にとっては、その志向の追求と、組織の抱える矛盾の量とを、どこかでバランスさせるしかなく、単純に「矛盾のない組織」を選ぶのは至難の業(というか、原理的に無理?)だと思う。で、ある以上、「組織」は、自分のやりたいことを実現するための「道具」、あるいは「社会」というものを理解するための「観察対象」と割り切って、「自分」と「組織」との間に、健全な距離を取っておくことが重要だろう。
  
しかし、こんなことも、「組織」を二年も離れていられる留学中だからこそ軽々と言えるのであって、いざ「組織」に戻ってしまえば、その実行は並大抵のことではないということは身に沁みてわかっている。人間というものの理性は(少なくとも僕の理性は)そんなに強くはないから、一旦、「組織」の中に物理的・時間的に拘束されてしまえば、ついつい、自分の思考パターンまで、組織のそれとシンクロさせてしまいがちになる。それが、長期的に見て、自分にとって良くないことだとわかっていても、短期的には、「組織」の流れに抗わず身を任せる方が圧倒的に楽な生き方なので。
  
だからこそ、「組織」に戻った後も、定期的に「組織」の呪縛を離れ、自由にモノを考えられるための「装置」が必要だと思う。ただ、「そう努めます」ということではなくて、たとえ自分の心が「折れて」しまっているときにでも、定期的に、無理やりにでも、自分に「自分」を思い出させてくれる、具体的な「装置」が必要だと。

そういった「装置」を準備しておくことも、留学中にやっておくべき非常に大事なことの一つだと思う。
Accra, Ghana, July 27, 17:04

Saturday, July 25, 2009

between abstract and concrete

ガーナで暮らしてみて再認識できたことの一つに、「具体の世界に降りていくことの重要さ」がある。当たり前の話だが、抽象的に物事を考えているだけでは、世界の本当の姿は見えてこない。本質的な問題は、ときに、すごく具体的な文脈の中にあったりするもんだ。
  
CDMにしてもそうで、「市場メカニズムの働きにより、もっとも少ない費用での排出削減が実現されるはず」なんて議論を繰り返していても、問題の本質には到底たどり着けない。このblogでも何度か指摘してきたように、CDM実施の最大のボトルネックは、潜在的プロジェクトオーナーのキャッシュフロー不足にあると思うのだが、ミクロ経済学的なグラフの上でいくら議論をしていても、そんなtransaction(=取引)レベルの問題は決して見えてこない。それだけなら、まだ文字にすることも可能だが、もっとfundamentalな部分にある、ローカルな人々のattitude(←“carbon credit”というものに漠然とした期待は抱いているものの、往々にして「詰めて考える」ということをしないので、一向に話が具体化せず、「キャパビル」と「ワークショップ」だけを繰り返して、なんとなく満足してしまっている)に至っては、(いちおう、青字で書いてはみたものの)正確に文字化することはほぼ不可能で、実際、彼らと時間を共にする中で、「感じる」しかないことだろうと思う。

これは、CDMに限らず、「開発」「援助」そのものについても言えることで、数字で表現できるインプット、アウトプット(orアウトカム)だけを見て議論していても、本当の答えはまず見えてこない。「そんなことは百も承知で、「近似」の話をしているんだ」ということなんだろうとは思うが、問題は、上のCDMの例のように、本質的なポイントが議論のフレームの外側にある場合だ。このような場合、議論は単なる「的外れ」でしかなく、近似にさえなっていない。こんな事例は、きっと世の中にごまんとあふれている。
  
「抽象」の世界から「具体」の世界に降りていき、「具体」の世界で見てきたことを「抽象」の世界の言葉に翻訳して紹介する――そうした行いを億劫がらずに続けていかないといけないと思う。それには、忍耐も必要だし、体力も必要。ネットワークやスキルもなくてはならない。そして「抽象」の世界の人たちに、「あなたがたが見ているものは「裸の王様」ですよ」と言える勇気も必須だと思う。
Accra, Ghana, July 25, 12:35

Thursday, July 23, 2009

Closing mode...

ガーナでの生活も残り二週間を切った。

東京で二週間もあれば、それなりの仕事もできそうなもんだが、ガーナの時間の流れの中では、なかなかそれも難しいだろう(ということをこの二か月で学んだ)。CDMに関する調査も、(「難しい」という結論で)いちおうひと段落した今となっては、もはや、まとまった課題もなく、あと二週間、ぼちぼち過ごして、アメリカに帰るのかなぁといった感じ。正直、そろそろアメリカに復帰したいような気もしてきた。

月に一回、この家にやってくるらしい掃除のおばさんが昨日来て、掃除をして行ってくれたのはいいのだが、一か所、網戸を閉めずに帰っていったおかげで、最近、家の中を普通に蚊が浮遊している。超怖い。。何の因果かわかりませんが、防虫スプレーを塗りたくって寝ます。
my room, Accra, Ghana, July 23, 24:55

Wednesday, July 22, 2009

Regulating human nature

最近、巷で話題のAndrew Lo(MITのB-Schoolの教授)が、Financial TimesにOpinion記事を載せている。曰く、

「市場でのモノの価格は、availableな情報を完全に反映して合理的に形成されるんだから、市場規制なんかいらんわい」とする合理的市場仮説(Efficient Markets Hypothesis (EMH))と、「だいたいからして人間の行動なんてもんは、そんな合理的にできとらん。”animal spirits”に突き動かされてるだけ。なので市場規制は絶対必要」とする行動経済学派(behaviouralists)の論争が、ここのところ盛り上がっているが、いずれの考え方も、市場というものの本来の姿を映し出してはいない。市場というのは、「普段は極めて効率的に機能しているが、しばしば、”animal spirits”に突き動かされた人々の群集心理に反応して、バブルや、その崩壊を発生させてしまう」もの。両派の主張は、それぞれ、市場の姿の一部分を説明しているに過ぎない。

私の唱える適応的市場仮説(Adaptive Markets Hypothesis (AMH))は、市場の動的変化を、進化生物学的な視点から捉えている。この視点からすると、市場というものはホモ=サピエンスの発明した、生き抜くための数々の道具の一つにすぎない。どんなに優れた道具でも、ときには故障を起こすことがあるように、「市場」という道具も、故障・失敗を繰り返しながら、いまだ、進化・改良の途上にある。にもかかわらず、環境の変化を無視した硬直的なルールなんてものを持ち込んでしまえば、思いもかけない結果を招くことになる。

ときて、最後の一文がコレ。
The only way to break this vicious cycle is to recognise its origin – adaptive behaviour – and design equally adaptive regulations to counterbalance human nature.
直訳すると、「この負の連鎖を断ち切るための唯一の方法は、規制というものの起源=適応的行動 を再認識し、それと同じように、人間の性向とのバランスがとれるような適応的規制を設計することである」といった感じだと思うが、具体的に何を言わんとしているのか、正直、よくわからん…。僕には、「規制にも、試行錯誤を繰り返せるだけのflexibilityを持たせてやれ」ということのように読めるのだが、もし仮に、比較的短期間のことについておっしゃっているのだとしたら、「規制をad hocに設定・改定すべき」と言っているに等しく、規制というものの本質からして、それってどうなのと思う。一方、比較的長期についておっしゃっているのだとしたら…、それってほとんど何も言ってないのに等しい気が。 (← 誰も、今日の規制制度が未来永劫、機能し続けるなんて思っていない)
  
あるいは、Lo教授は、実は、もっと本質的な―でもそのまま文字にすると毒が強すぎる―ことをおっしゃりたいのかなぁとも思う。「「経済学には、その理論に基づく予見可能性があり、その予見に基づいて危険回避的な制度を編み出すことができる」とする、従来の「社会工学」的経済学観それ自体が間違っていた。所詮、経済学に(そして人類に)そんな力はありません。せいぜいできることと言えば、経験的に失敗から学ぶことだけです」みたいな。。。
my room, Accra, Ghana, July 22, 6:23

Tuesday, July 21, 2009

They might be options...

そもそも、このblogは、僕自身の備忘録、思考のピン止め、アイデアのスケッチ、といった要素が強いのだが(強いんです。)、今日のエントリーは、いつにもましてその傾向が強い。と前置きさせていただきつつ、CDMに関する議論の続きを。
  
現行のCDMは、「大きすぎる」案件と「小さすぎる」案件を拾いにくい制度構造になっている、と思う。多少(では済まないかも知れないが)、制度を変えてあげることで、これらを拾いやすくなるのではないかと言うのが、今日のエントリーの趣旨。
  
前回挙げた、「CDMが失敗した4つの理由」のうち、一つ目の理由(密度が薄いこと)と二つ目の理由(トランザクションコストが大きいこと)は、大規模プロジェクトをCDMの対象に選ぶことで、理論上、多少なりともデメリットを減らすことができる。しかし、ここに一つの壁がある。現行、「CDMプロジェクトの資金はODAの流用であってはならない」こととされており(by マラケシュ合意(2001))、「ODAの流用」の解釈が完全には確立されていないものの、一般的には、CDMプロジェクトは、民間からの資金でまかなうべき、というのが一応の常識となっている。民間資金のみで実施するとなると、大きなリスクの伴う低開発国での大規模プロジェクトはなかなか実施されにくい。かといって、低開発国に大規模インフラへの需要がない訳ではもちろんなく、結局のところ、そういった大型案件は、中国やインドの支援で実施されがちというのが最近のトレンド。
  
日本を含む西側先進国が、こういった大規模インフラ建設に、もっと積極的になるべきか、なんて話を始めると、CDM云々のレベルを超えて、「援助」そのものの在り方をめぐる議論になってしまうので、ここではあまり踏み込んだ議論をすることは避けたいが、あくまで個人的な考えとして書かせていただくと、いわゆる“poverty reduction”も確かに大事なのだが、povertyをreduceするためにも、大規模インフラの整備は非常に重要で、また、どうせ中印などの支援で実施するんだったら、西側先進国が積極的にコミットして、よりクリーンな形での開発を進める方が良いのではないかという気もする。
  
これについての具体的な改善案は、「ODAの流用禁止」規定を廃止してしまうこと、そして、よりradicalにやるならば、先進国に対し、「削減約束の一定割合はCDMの実施によって達成しなければならない」との義務を課すことではないかと思う。寡聞にしてよく知らないのだが、現在のODA流用禁止条項が導入されたのには、それなりの訳があるのだろうと思うので、安易に取っ払ってしまっていいものかどうか、断定的なことは言えないのだが、最初に述べたとおり、あくまでひとつのアイデアとして。

一方、「小さすぎる」案件も今のCDM制度では拾いにくい。アフリカの田舎で、Improved Cooking Stove(燃焼効率を改善し、薪の消費を抑えたもの。たとえばこんなの)を普及させるプロジェクトや、ソーラーパネルを設置するプロジェクトを、CDMとして実施しようとしている人たちの話も何回か聞いてきたのだが、正直言って、今の制度の下では、これらをCDMにするのには、困難が多過ぎるように思う。仮に、registrationまでたどり着けたとしても、monitoringに相当なコストがかかってしまい、CERの売却益を相殺しかねない(下手すればマイナス)。

こういった「小さな」CDM案件を促進する目的で、文字どおり、「小規模CDM」という制度があったり(一定以下の大きさのプロジェクトについては登録手続きを緩和してあげる仕組み)、あるいは、小さなactivitiesを一つの「傘」の下にまとめて登録するPoA(Project of Activities)と呼ばれる制度があったりする。が、それらの制度が十分な効果を発揮しているかというと、疑問。多少なりとも障壁を下げることには役立っているのかもしれないが、Improved Cooking Stoveの普及のような、「零細GHG削減活動」にとっては、まだまだ壁が高すぎる。
 
いっそ割り切って、この手の「零細GHG削減活動」については、「プロジェクト」ベースで捉えるのをやめ、「商品」にCERを乗せてあげてはどうかと思う。たとえば上に挙げたImproved Cooking Stoveであれば、その耐用年数の間に、旧型のstoveに比べ、一般的に言ってどのくらいの薪の使用を減らすことができるかは、いちおう概算できると思うので(←ここは思い切ってざっくり割り切る!!)、その分のCO2排出削減量に見合ったCERを商品の販売業者に対して発行し、その業者は、CER売却益分を、値段から差っ引いて途上国向けに商品を販売する、といった具合に。かなり大胆な割り切りだということはわかっているが、プロジェクトベースにこだわっている限り、零細GHG削減活動がCDMの恩恵に与れる日はいつまでたっても来ないんじゃないかと思う。もっとも、仮にこの制度を採用するとして、どのくらいのレパートリーの商品を対象にできるかといった問題はあるし(とりあえず思いつくのは、Improved Cooking Stoveの他、ソーラー、蛍光灯電球、といったところ。どこまで範囲を広げられるか?)、その商品が実際に途上国向けに販売されたかどうかをどうやって確認するのか、といった制度上の課題もいろいろあると思う。繰り返すが、あくまでひとつのアイデアとして。

というわけで、まったく詰まっていない、突っ込みどころ満載の、ふわふわなアイデアスケッチだが、現時点での僕なりの、CDM改善に向けたアイデアということで。
Accra, Ghana, July 21, 19:13

Sunday, July 19, 2009

How different is his policy?

ちょうど一週間前にGhanaの国会で行われたObamaの演説に関する解説記事がEconomistに出ている。タイトルは、“How different is his policy?” 「実際のところ、Obamaのアフリカ政策は、前任者のやってたこととあんまり違わないんじゃないの??」という論調だ。

と書くと、さも悪いことをやっているみたいに聞こえるが(と聞こえさせてしまう「前任者」の負のオーラもすごい)、同記事は、“In truth, Mr Obama’s Africa policy is unlikely to differ much from his predecessor’s, which was viewed favourably by Africans in general and by most pundits of African development.”(実際のところ、Obamaのアフリカ政策はその前任者の政策とそれほど違っているようには見えない。もっとも、前任者の政策は、一般的には、アフリカの人々や、多くのアフリカ開発の専門家から好意的に受け止められていたのだが)という趣旨で書いている。

この指摘は確かにその通りで、日本ではあまり知られていないが、Bush政権時代には、“Millennium Challenge Accounts”などを通し、米国からのアフリカ向け援助額は大幅に拡充された。したがって、北アフリカのイスラム国はともかく、sub-Saharaの人たちから、Bushが嫌われないといけない理由は、実はあまりない。それでも、Accraのタクシーの運ちゃんたちとしゃべっていると、Obamaの人気、Bushの不人気は両方とも絶大。政治家というのは、「中身」もさることながら、やはり「イメージ」が大事な職業なのだなとつくづく痛感させられる。

Bush政権時代は、頑張って何かをやらないと、アフリカの人たちの気持ちを繋ぎとめておくことができなかった米国だが、Obamaが大統領となった今、(やや極端に言えば)Obamaがそこにいるという事実だけで、米国は、アフリカ(とりわけsub-Sahara)からの好感を集め続けることができる。目に見えてマイナスの方向に舵を切るようなことをすれば、「裏切った」という印象を持たれてしまうだろうが、少なくとも表面上、現状のトーンを維持しておけば、その心配もない。

むしろ、演説の中で述べられた、“We must start from the simple premise that Africa’s future is up to Africans.”(我々は、「アフリカの未来は、アフリカの人たち次第だ」という明快な前提からスタートしなければならない)との言葉が示唆しているように、米国のアフリカへの関与は、今後、「自立化」の名の下に、少しずつ減っていくのではないかという気がする。アフリカサイド、援助サイドからすると、このことには一長一短があり、一概に良いとも悪いとも言えないが、米国サイドからしてみれば、良いとか悪いとか言っている場合ではなく、世界中に伸びきった兵站線を少しでも縮めるために、そうするしかない、というのが本音ではないかと思う。
  
Economistの記事は、“The deeper truth is that Africa is not high on the American president’s agenda. His Ghana speech was sensible and stirring. But in the end his message was that African-American relations would see no grand change.”(実際のところ、アフリカは米国大統領にとっての重要課題ではない。彼のガーナでの演説は感動的なものであったが、彼の真のメッセージは「アフリカと米国の関係には大きな変化は訪れない」というものだ)と締めくくっているが、僕はむしろ、今後の米-Africa関係は、「変化がない」どころか、実質的には、疎遠になっていくのではないかと思う。逆説的だが、アフリカでのObama人気が続く限り…。

(演説の全文は、こちらで。)
my room, Accra, Ghana, July 19, 15:41

Saturday, July 18, 2009

Four Reasons for CDM's Failure

おとといのCDMの話の続きを。先に断わっておきますが、今日は長くなると思います(笑)

なぜCDMが低開発国ではうまくいかないのかを、自称、「経済学的」に説明させていただくというお話。以下、おとといのエントリーで挙げた「4つの理由」(1. 収益源の密度が薄すぎる。 2. 収益の大きさと比べてトランザクションコストが大きすぎる。 3. 期待収益の大きさと比べてリスクが大きすぎる。 4. GHGの排出削減という行為が、underlying projectと不可分にしか存在しえない。)について、それぞれ、説明させていただく。

1. 収益源の密度が薄すぎる
ときどき、「地球上には温室効果ガス(GHG)の削減ポテンシャルが○○トンもあるんです」みたいな話を聞く。理論的には正しいんだろうが、実際のところ、それだけの排出削減がほんとに可能かというと、まずそんなことはない。なぜか。その理由の一つが、排出ポテンシャルの密度の問題だ。これは石油の掘削などと同じ話で、いくら埋蔵量がたくさんあるとは言え、それが広範囲に低密度で拡散しているようでは、一単位を掘り出すのに莫大なお金がかかってしまって、現実的には、すべてを掘り出すことはできない。密度の高い部分だけ掘り起こし、残りの部分は「さようなら」ということになる。GHGの排出についても、これと同じことが言える。一つのサイトからGHGが大量に放出されているような“高密度”ケース(典型的にはHCFC工場)はCDMの対象になりやすいが、家庭でのエネルギー使用のように、排出源が広く薄く広がっているよう“低密度”ケースでは、CDMの実施は難しい。この傾向は、世界のGHG排出量の過半を占める「エネルギー起源CO2」において特に顕著である。

2. 収益の大きさと比べてトランザクションコストが大きすぎる。
1.の話の続きであるが、どこまでの低密度なら操業可能かについては、絶対的な水準があるわけではなく、CER産出に要する費用と、そこから得られる収入との見合いで決まる。これも石油掘削に見られるのと同じ現象で、「原油価格が上がれば、カナダのオイルサンドもpayableになる」というのと同じ理屈。
  
ここでいう「費用」とはCDM登録に要するトランザクションコストのことであり、「収入」というのはCER売却益(=CER価格×CERの量)のことであるが、今のところ、「費用」が「収入」より大きすぎて、sub-Saharaのような「GHG排出過疎」地域では、payableなCDMはなかなか組めない。つまり、一つ目の「理由」と、この二つ目の「理由」が相まって、CDM成立のための第一条件(CER売却益>トランザクションコスト)の達成を難しくしているのだ。

3. 期待収益の大きさと比べてリスクが大きすぎる。
どんなプロジェクトにも必ずリスクはあるわけだが、CDMの特殊なところは、underlying projectのリスクはそのままに、追加的に、CDM developmentに関するリスクが積み増されるという点である。underlying project自体、どこかでポシャるかもしれないし、それがうまくいったとしても、CDM登録(registration)に失敗するかもしれない。また、晴れてregistrationまでたどりついたとしても、当初予定していたとおりのCER売却益を得られる保証はどこにもない(∵排出削減量の不確実性、CER市場の変動性)。つまり、CDMというのは、投資する側にかなりのリスクテイクを要求する投資機会なのである。
  
もっとも、投資という観点から言えば、「リスクが高いこと」それ自体が問題なわけではない。世の中には、ローリスクなものからハイリスクなものまで、ありとあらゆる投資機会があり、そのそれぞれに見合った投資マネーも存在する。CDMが問題なのは、そこから得られるリターンが、その高いリスクに見合っていないということだ。一言で言えば「ハイリスク・ローリターン」だということ。これでは、十分な資金がCDMに回ってこないのも道理と言える。

4. GHGの排出削減という行為が、underlying projectと不可分にしか存在しえない。
この点を、多少なりともわかりやすく解説するためには、低開発国におけるCDMプランニングの実態に触れておく必要がある。ガーナを含め、多くの低開発国で一般的に行われているんじゃないかと想像されるCDM開発のプロセスはこんな感じだ。
  
ある国、ある街にとって、積年の課題となっているインフラ整備の問題があるとする。たとえば発電所の増設とか、市内交通の近代化とか、廃棄物処理施設の新設とか。お金がなくて、長年諦められてきたそれらのプロジェクトだが、「CDM」という枠組みを使えば、「カーボンファイナンス」を通してお金を撮ってこれるらしいという話になり、にわかに建設計画が動き始める。(ちなみに、ガーナの人たちも開発業界の人たちも、この「カーボンファイナンス」という言葉を本当によく使う。実際、その言葉の意味するところを頭の中できちんと定義しながら使っている人は、ごくわずかだと思うのだが…。)しかし、関係者の「キャパシティビルディング」を行い、何十回となくワークショップを開き、PIN(Project Image Note)を起案し…としていく中で、彼らの言う「カーボンファイナンス」で賄えるのは、せいぜい、underlying projectのコストの一部だけであり、その他の部分は、結局、どこかからまとまった資金を借りてきて充当するしかないということがわかってくる。ましてや、CDMからの収入が入ってくるのは、その設備が稼働し始め、排出削減が実現されてからである。それまでに必要なキャッシュ(←当然、対象となる施設の建設コストを含む)はすべて、CER売却益以外の資金ソースでファイナンスしないといけない。この“underlying finance”が確保できないがために躓くケースが、(少なくとも低開発国では、)CDM頓挫の理由として、一番多いのではないかと思う。

この「不可分性」の問題はなかなか難しい。プロジェクトが基本単位となっている現在のCDM制度にとって、この点は、本質的であるというだけでなく、最大のメリットであるともされてきたからだ――「GHGの排出削減」という先進国にとっての「義務履行」を梃子として、途上国でのclean developmentを進めることができる、という意味で――。しかし、皮肉なことに、実際には、この点が、低開発国でCDMが進まない、最大のボトルネックになってしまっているような気がする。
  

さて、これら4つの理由を見てきた上で、どうやってこれらを克服していくかが問題だ。とりあえず、一つ目の「理由」については、その性質上、如何とも手の打ちようがない。「石油が、もっとまとまって埋まっていたら、今より堀り出しやすかったのに…」と言ったところで詮がないのと同じである。
  
二つ目、三つ目の「理由」への対応としては、申請手続きを簡易にしてCDM申請に係る費用とリスクを下げる方法と、逆にCDMからのリターンを高める方法の二つが考えられる。申請手続きの簡易化については、先月27日のエントリーにも書いたとおり、僕は本質的な解決になり得ないんじゃないかと考えている。直感的に感じるのは(なぜそう言えるのかをうまく説明する言葉を今は見つけられないのだが…)、「GHGの排出削減」のような行為を経済的取引の対象にするためには、公正さを確保するため、市場参加者にはそれなりの手続きを踏んでもらうしかなく、その結果、それなりのトランザクションコストを負担してもらうしかない、ということだ。そこをケチると、結局、制度の根幹が揺らいでしまい、何のためにCDMをやっているのかわからなくなるような気がする。その難解さゆえ、とかく批判のやり玉にあげられがちな「追加性(additionality)」についても然り。具体的な執行の部分ではもう少し改善の余地があるのかもしれないが、その依って立つ考え方自体は、まったくもってmake senseなものである。であるにもかかわらず、その哲学を安易に緩めてしまっては、「CDMはバンバン成立するが、GHGの排出は一向に減らない」といった本末転倒の状態にも陥りかねない。
  
一方、リターンを高めるためには、当然ながらCER価格を引き上げるしかなく、そのためには、先進国の排出削減目標をより厳しくする必要がある。これは、一つのオプションではないかと、同じ日のエントリーに書いたが、よくよく考えてみると、この方法にも問題がないわけではない(先進国がそんな条件呑むはずないだろう、という点をいったん脇に置くにしても。)。リスクの大きさはそのままに、リターンだけが大きくなるということは、CDMが「ハイリスク・ローリターン」商品から「ハイリスク・ハイリターン」商品になるということである。確かに、それによって、CDMに流れてくるマネーの量は増えるだろうが、理屈から言うと、そのマネーは「一発当てる」ことを企図した「リスクマネー」である可能性が高い。まったくお金の貸し手のない状況に比べてマシと言えばマシなのだが、はたして、そういう性格のマネーが、CDMと相性が良いと言えるかどうか…。僕には、これまでcommercial baseのfinanceに触れたこともないホスト国の政府や市役所の人たちが、先進国の資本の道理に翻弄されている姿が容易に想像できる気がしてならない。。。
  
四つ目の理由についてだが、これを完全に解決しようと思えば、「プロジェクト」を単位として構成されている現行のCDM制度を根本から見直す必要が出てくる。「プロジェクトごとに、どれだけのGHG排出を減らしたか」を計測する現行のやり方から、たとえば、「国」単位で見て、どれだけGHGが減ったかを測るやり方に変える、といった具合に。不勉強にして、十分な理解はできていないのだが、目下、コペンハーゲンに向けた議論の中で複数国から提案されている“NAMAs(Nationally Appropriate Mitigation Actions)”という制度が、まさに、この方向性を掲げているものだと思われる。ただし、ここで一つ問題になってくるのは、何をbaselineにするかという点。baselineなくしては、増えた減ったの議論をすることはできない。国単位でGHG削減量を測ろうとすれば、当然、国ごとのbaselineを設定する必要があるが、このことは、「途上国に法的な排出削減目標を設定することにつながる(あるいは、削減目標そのものだ)」として、途上国自身が反対している。NAMAsについては、僕自身、もう少しきちんと勉強しないとけないのだが、いずれにせよ、「プロジェクト単位」から「国単位」に、制度を組み替えようと思えば、baselineをどう設定するかという新たな問題を避けて通ることはできない。

以上が、一か月半、ガーナでCDMに取り組んでみての、僕なりの理解・感想である。読んでいただいてお分かりの通り、CDMに対する今の僕の見立ては、正直、optimisticとは言えない。とはいえ、何らかの方法で、CDMという制度を改善する方法はないものかと、僕なりに考えてみた結果を、次回エントリーで書きたいと思う。さわりだけ言っておくと、基本的な構造は維持しつつも、「大きすぎる」案件と、「小さすぎる」案件を、CDMでカバーしやすくする方法があるのではないか…という提案。あくまで「思いつき」のレベルだが、次回(たぶん明日)のエントリーでは、これについて書きたい。
Accra, Ghana, July 18, 15:44

Friday, July 17, 2009

Ghana, as No.1

今日は、このプロジェクトの関係のワークショップがあり、それに参加するために、セネガルにある、うちの組織のアフリカ総括オフィスから、フランス人のおじさんがAccraにやって来ていた。常日頃からアフリカ中を飛び回っている彼だが、ガーナに来たのは初めてとのこと。そんな彼と車で一緒に移動した時、窓の外を眺めながら「他の西アフリカの国とは全然違う。南アか、アメリカのようだ」と言っていたのが印象的だった。「アメリカのよう」というのはちょっと言い過ぎのような気はするが(笑)、ともあれ、周辺国に比べ、ガーナがダントツに発展しているというのは紛れもない事実なのだろう。

前回のエントリーでは、酷評させていただいた本プロジェクトだが、今日のワークショップでは、多少なりともリアリスティックな方向への修正意見もちらほら。そんな様子を見ながら、「なるほど、開発プロジェクトってのは、こうやって進んでいくんですね」と、僕の中でも、いちおう、納得ができたような、できなかったような…。(どっちやねん)
  
ワークショップ終了後のフランス人おじさんのコメント:「excellent。私が担当している案件の中で、この案件が間違いなく一番うまくいっている。他の国とは比べ物にならない!!」 
  
もちろん、ガーナ側スタッフへのねぎらいの意味もあるのだろうが、彼の言い方から察するに、本音の部分も大きかっんじゃないかと思う。他の国のケースでは、カントリーレベルのワークチームが機能せず、彼自らプロジェクト案を書きおこす、なんてケースも少なくないんだとか。このあいだは酷評してしまったこのプロジェクトだが、プロジェクトの案を、地元の人が自律的にまとめられるというだけでも、ガーナはやはり、すごい国なのかも。
  
そんなフランス人おじさんが、仕事中にちらっと漏らした、こんな言葉が胸に響いた。“I’m pessimistic, but active.” 僕自身、「こうありたい」とぼんやり思っていたことを、きわめて簡潔に、言葉にしてくれた感じ。この言葉、僕もどこかで使わせてもらおうと思う(笑)
my room, Accra, Ghana, July 17, 23:45

Thursday, July 16, 2009

Reflection on CDM

一か月半前、ガーナに到着したての頃は、実務的なことをほとんど知らないながらも(或いはそれ故に??)、CDMという仕組みに、そこはかとない希望を抱いていた。従来、値段のつかなかった「温室効果ガス(GHG)の排出」という行為に(負の)値段が付されることにより、それを減らす事業に経済的な価値が生まれる。その結果、先進国の資本が、政府という「必要悪」を介さずとも、市場メカニズムを通して、直接、途上国でのGHG排出削減に流れるようになる――その、ある種、理想的とも思える美しいビジョンを眼前にして、様々な批判があることはそれはそれとして知りつつも、CDMというものに、かなり前向きな期待を抱いていたことを否定するつもりはない。
  
しかし、あれから一か月半がたった今、あの頃の希望は、正直、幻滅へと変わりつつある。この間、CDMに関する実務的な知識が身に着いた一方で、CDMの抱える本質的な限界についても、かなり明確に認識できるようになってしまった。
  
CDMが経済的にpayableになるためには、次の二つの条件をクリアしないといけない。
   
一つ目の条件は、CER(いわゆる排出権)の売却によって得られる利益が、CDM登録に要する諸々のトランザクションコストを上回らなければならないという条件である。ごく初歩的な、当たり前ともいえる条件だが、残念なことに、いわゆる「草の根」的なCDMプロジェクト(家庭を対象にしたenergy efficiencyプロジェクトなど)は、現実的に試算すれば、この条件だけで、そのほとんどがはじかれてしまうだろう。
  
二つ目の条件は―このハードルがより困難なのだが―、プロジェクト全体から得られる利益(CER売却益を含む)が、[underlying projectのコスト+CDMのトランザクションコスト]を上回らなければならないというものだ。「GHGを減らす」という行為は、(極めて特殊な場合を除き、)それだけでは存在しえない。何らかのプロジェクト(発電するとか、製品をつくるとか、廃棄物を処理するとか)を、よりクリーンな(=GHGの排出が少ない)方法で行った場合と、通常の方法(=GHGの排出を気にしない方法)で行った場合の、GHG排出量の「ギャップ」という形でしか存在しえないのだ。したがって、(この点は意外と忘れられがちなのだが)CDMという所業は、常に何らかのプロジェクト(しばしばunderlying projectと呼ばれる)と同時に(或いは「一体不可分に」)行われるものであり、underlying project部分も合わせた全体としてpayしないことには、プロジェクトとして成り立たない。
 
ここで再びキーになるのがいつかのエントリーでも触れた“additionality”という条件だ。CDMとして承認されるためには、そのプロジェクトが、「CER売却益なかりせば成立しなかった」ものでなければならない。ということは、underlying project部分だけでpayするような案件は、そもそもCDMとして認められないということになる。逆に言うと、「CER売却益なしではギリギリpayしない」くらいの案件がちょうどいいわけだが、そんな都合のいい案件は、そうゴロゴロと転がっているものではない。かたや、CERの売却益でどれだけのお金を稼げるかと言うと、ほとんどの場合、(もちろん、プロジェクトの種類にもよるが、)underlying projectの初期費用の5~10%程度といったところらしい。その程度の決して大きいとは言えない額で、赤字から黒字に転ぜられるような「ちょうどいい案件」というのは、普通に考えて、そう多くはないだろう。

ここまでの話では、「リスク」という要素を全く考慮してこなかったが、勿論のことながら、実際のCDMプロジェクトには、多種多様、色とりどりのリスクが絡む。そのうちのいくつかは、致命的(=そこで躓けば、CDM登録にたどりつけない)なものであったりもする。また、無事に登録(registration)されたとしても、予定していたとおりの分量のCERを産出できる保証はないし(現に、予定排出削減量を大幅に下回るケースが頻発しているらしい)、周知の通り、CERの市場価格のvolatilityは非常に大きい。
    
斯く具合に、実務的に考えると、CDMという仕組みがworkしうる範囲は非常に限られていると言わざるを得ない。確かに、CDMという制度を支えている経済学的理論には何とも魅力的な美しさがあるのだが、その理論が適用できない“例外ケース”を取り除いていくと、“適用できるケース”は、結局、ほとんど残らなかった、というのが実情ではないかと思う。施行から数年が経つ中で、この分野に早くから携わっていたビジネス界の人たちは、trial & errorを通してこの仕組みの本質と限界を見抜き、CDMの世界から手を引き始めているように思う。おっとり刀でようやく最近CDMに取り組み始めた後進国の人たちだけが取り残されているというのが現状なのかも知れない…。

以上は、「実務的」観点から、CDMの限界を僕なりに説明したものだが、今日のエントリーでは、もともとは、なぜこんなことが起こってしまったのかを、もう少し経済学的な観点から書きたいと思っていた。すでに長くなってしまっているので、今日のエントリーはここまでにしようと思うが、CDMの失敗に関する「経済学的説明」の項目だけ、とりあえず挙げておく。それぞれの項目の中身については、後日、改めて、ということで。

<CDMが成功しなかったことの経済学的(??)説明>
  1. 収益源の密度が薄すぎる。
  2. 収益の大きさと比べてトランザクションコストが大きすぎる。
  3. 期待収益の大きさと比べてリスクが大きすぎる。
  4. GHGの排出削減という行為が、underlying projectと不可分にしか存在しえない。

my room, Accra, Ghana, July 16, 22:39

Wednesday, July 15, 2009

At the half way point

日本を発ってから、今日でちょうど丸一年が過ぎた。一年前の今頃は、日がな一日「ピヨピヨ」言っていたものだが、一年経つ間に、blogで偉そうなことを毎日垂れ流すようになったもんだなぁと、我ながら思う(といいつつ、英語ではいまだに「ピヨピヨ」言っている。ピヨピヨ。。)。ちょうど良い節目なので、この一年の間に、留学という機会から僕が得られたと思うことを整理しておこうと思う。

何はともあれ、一番大きな成果だと思うのは、言うまでもなく、英語力の向上。と言うと、「おいおいそんなことですかい」と言われるかもしれないが、正直、そうなのだから仕方がない。未だに、まだまだひよっこだが、いちおう、「孵化」レベルには到達できたんじゃないかと…(←レベル低っ!?)。英語学習については、やはり、英語圏で暮らすのが圧倒的に手っ取り早い。もちろん、ただ暮らしているだけではほとんど伸びないが、日本で英語を勉強するよりはるかに有利な環境が備わっているのは間違いないだろう。
  
二つ目も、当たり前と言えば当たり前の話なのだが、アカデミックの世界に改めて触れらたのは大きかったと思う。「改めて」とは書いたものの、実際、学部時代に、どれだけ「アカデミック」と呼べるようなものに触れていたかと言えば、お恥ずかしい限り…。正直、英語に限らず、日本語でさえ、「論文」というメディアから情報を拾ってくることは、これまで、ほとんどしたことがなかった。その点、アカデミック(とりわけ経済学)の土地勘を得、論文に当たることにも心理的抵抗を覚えなくなったのは、この一年間の大きな成果。この点については、ご一緒させていただいた日本人の皆さんの影響によるところも大きい。彼らとの知的刺激の交換がなければ、一年目の留学生活は、もう少し、味気ないものになっていただろうと思う。

就職してからの6年半、物理的にも心理的にも組織に入り浸ってきた僕にとっては、「組織」というものの心理的呪縛から放たれ、自由にものを考えられる機会を持てているのも非常に大きなことだと思う。去年の8月・9月には、ややもすれば「組織」の色に凝り固まりがちだった自分の思考パターンが、まるでストレッチで硬くなった筋肉を伸ばすかのように、少しずつ、自由に発想できるようになっていくのを、日々感じていた。この点は、一つ目や二つ目の点と違って、留学前には予想だにしていなかった、留学の隠れた「メリット」であるが、上記二点と同じか、もしかするとそれら以上に、大きなメリットであると思う。

Blogというメディアに慣れ親しめたのも大きい。「書く」だけでなく、「読む」という意味でも。正直言って、いま、僕が読みたいと思うweb情報は、その大半がblogであり、新聞・テレビのwebサイトではない。日本語メディアに関して言えば尚更。もっとも、こんなことをやっていられるのは、世の中の日々の動きを追わずとも許される、お気楽ご気楽な身分だからと言ってしまえばその通りなのだが、日本に戻ってニュースを追っかけないといけない身分に戻ったとしても、「blogを読む」という習慣自体は、きっと辞めることはないだろうと思う。ざっくり言って、新聞・テレビは「ファクト(だと世の中的にみなされていること)」を掴むためのツール。より深い知識や着想を得るためのツールはblog・経済誌、という役割分担が、自分の中ではできつつある。
  
また、いままさに経験しているインターンから得ているものも計り知れない。ガーナでの経験については、改めて総括しようと思うが、ともあれ、思い切ってガーナに来てみて、本当に良かったと思う。ここに来るに当たり、サポートをしていただいた方々や、寛大にもガーナ行きを許してくれた妻・家族には、本当に感謝しないといけない。
  
その他、細かいことで言えば、「ペーパードライバーから脱却できた(←ただし左ハンドル限定)」、「雪国で暮らす術を身につけた(←東京ではまず役に立たない)」、「スパゲティのペペロンチーノを作れるようになった(←○○の一つ覚え)」などがこの一年間の成果。一方、残り一年間で達成したいことも、いろいろあるにはあるのだが、書き始めると長くなりそうなので、それについてはまたの機会に。
my room, Accra, Ghana, July 15, 23:17

Tuesday, July 14, 2009

A kinda treasure of Japan

お天気の良い昼下がり、二時間かけてAccra市内に戻る。
  
ちょうど下校時間に当たったらしく、道中では、制服を着た小中学生くらいの子供たちをたくさん見かける。中には、「どっから歩いてきたの??」と聞きたくなるくらい、人里離れた場所で見かけた子供たちも。片道一時間とか二時間とかかけて、通っているのかもしれない。
  
とはいえ、この地域は、どうしようもないくらいに貧しいというわけではないようで(まぁ、家は基本的に土壁+藁ぶきなんですが…)、子供たちの表情を見ていると、どの子の顔も非常に明るい。アコソンボ・ダムのお膝元というだけあって、電気もいちおう、通っているようだった。
    
普段は、Accra市内のオフィスに籠りきりだが、こうやって、Ghanaの田舎の、普通の人たちの普通の生活の様子を見ると、なんだかちょっとホッとした気持ちになれる。
  
そんな気持ちになれたのも、ある意味、僕の乗っていた車のおかげなのかもしれない。3日前、同じ道を観光バスで通った時には、ひたすら「早く着いてくれ」と願っていたものだが、今日は、道の凸凹もそれほど気にはならず、しばしば、うたた寝なんかもしながら、二時間の移動を楽しむことができた。世界中の途上国で、Landcruiserが重宝がられる理由がよくわかった気がする(笑)
Accra, Ghana, July 14, 18:39

Monday, July 13, 2009

How to be a Trotro Driver

ガーナ最大の発電所アコソンボ・ダムを望むボルタ湖畔(←世界最大の人造湖なんだそうで。)のホテルで一泊二日の缶詰ワークショップに出席中。確かに、それなりに風光明媚なところなのだが、Accraからは車で片道二時間。出席者のほとんどがAccraから来ていることを考えると、「敢えてここまで来る必要あるの?」という気がしないでもないが、二日以上にまたがる会議だと、「じゃ、郊外のホテルで」というのがこの国の定番らしい。てか、ほんと会議(というかワークショップ)好きだよねぇ…。

夕食の際、隣の席に座った交通省のおじさんから、「トロトロ(←街中でしょっちゅう見かけるミニバス)の営業の始め方」について教えてもらった。①ミニバスを手に入れる(ほぼ100%どこかの国のお古。とにかく古い。排ガスも汚い) ②Union(=トロトロ運転手組合)に掛け合って営業の「お墨付き」をもらう。That’s it!!

つまり、役所の許可は不要。Unionに「ショバ代」払えば、誰でもどんな車ででも運行できるというわけ。交通省としてはこの「野放し」状態に終止符を打つべく、運転手(Union)サイドと交渉を繰り返しているらしいが、「自由に運行できる」という既得権益を手放すことへの反発は強く、交渉は難航しているとのこと。ただ単に「許可制にしますよ」と言っても、到底納得を得られないので、「許可制にする代わりに政府がバス専用レーンを整備します」という条件を示しているらしいのだが、Union側が政府の言うことを信用してくれず、話がまとまらないんだとか。ただ、その交通省のおじさん自身、「政治家は言ってることをころころ変えるので、トロトロの運転手たちが政府の言うことを信じないのも無理はない」とおっしゃっていましたが…。
  
交通省では、南米などで導入例のあるBus Rapid Transitシステム(近代的な大型バスを導入するのと同時にバス専用レーンなどのインフラ整備も行い、バス交通の信頼性・利便性アップと、排気ガスの排出削減を実現しようという試み。コロンビアBogotá市のBRTはCDMとして登録されている)の導入を目指しており、現在、第二の都市、Kumasiでの導入を検討中とのこと。「え?Accraは??」と思って聞いてみたら、なんとAccraは既に導入済みらしい(あれで!!?)。導入済みは導入済みなのだが、トロトロUnionに手出しができないので、無数のトロトロが道路を席巻している状態はそのまま。よって、近代的交通システムが敷かれているようにはまったく見えない、というのが実情らしい。

交通省のおじさんには、既得権益の壁に負けず、ぜひとも頑張っていただきたいものである。
Akosombo, Ghana, July 13, 22:36

Sunday, July 12, 2009

Trip Over the Lake

昨日は、念願叶って、初の郊外出張に行ってきました。先週木・金とAccraで行われていた国際会議の附属イベントとして行われたone day tripに同行させてもらい、Volta Lakeの向こう側、東の隣国Togoとの国境に位置するVolta Resionへ。今回のツアーは、同会議を主催する某国際基金が援助しているコミュニティベースのプロジェクトの実施サイトを巡るもの(と書くと、分かる人には、「某国際基金」がどこのことか、すぐに分かってしまうと思いますが…)。以下、各村での体験を徒然に。

一つ目の村は、村落周辺の森林を保護するプロジェクトが行われているところ。昨日は、プロジェクトサイト自体にはお邪魔できなかったのだが、代わりに(代わりに??)村人総出の大歓迎を受けた。
  
観光バスが到着するや、民族衣装を着た露払い風の男性が、打楽器を打ち鳴らしながら何事かを高らかに歌い始める。彼の先導の下、村の集会所までたどり着くと、そこでは、村の若者たちが太鼓とダンスで大歓迎(左の写真)。最後に、立派なトーガを身にまとい、右手にきらびやかな杖を持ったChief(酋長)と思しき老人が現われ、僕たちを集会所内部に招きいれてくれた。
 
集会所の中では、事務的な内容(NGOスタッフからのプロジェクトの進捗状況の説明など)と儀式的な内容が同時並行で進行。時間的には前者3:後者7。印象的には1:9で圧倒的に「儀式」の勝ち(笑) 村人たちと、我々一行との友好を確かめ合う(のが目的なんだと思う。もちろん説明はなかったけど。。)儀式の最高潮では、集会所の中にいた村人の皆さんが、一斉に「あわわわわわ」と叫びはじめ(西部劇で、native americanの人たちがよくやっている、手を口に当てて声を反響させるアレです)、それはそれは、結構な迫力でした。

こういう、「近代」と「土着」の融合する場面は、アフリカに限らず、日本を含め、どこの国でも多かれ少なかれ見られるものであるが、よそ者からするとやはり非常に興味深い。首都Accraにいてはなかなか見ることのできないoriginalなGhanaの一面に触れることのできた、非常に貴重な経験であった。(二つ目の写真は集会所の中の様子)

二つ目の村では、sustainable agricultureの活動が行われていた。この村では、1993年に土砂崩れが発生し、農地が崩壊。その後、村の若者が中心となってNGOが結成され、彼らが他の村人をコーディネイトする形で、持続可能な農業の実践を行っているらしい。あまり詳しいところまでは理解できなかったのだが、要は、育てる作物をうまく組み合わせながら、土地がやせ細ってしまわないよう、持続的な耕作を行っている、ということなんだと思う。左の写真はナスビ畑。この地域のナスビの実は、表面が白く、日本のナスビよりも小さい。その実物を見て、「あぁなるほど、だからegg ptantなのか」と、思わず膝を打った(恥ずかしながら、なぜ“egg plant”なのか今まで知りませんでした )。
  
興味深かったのは、土地の権利に関するお話。活動を始める際、そのNGOは、役場からではなく、この村のChiefから、承認を受けたんだとか。というのも、村の土地については、事実上の処分権限をChiefが握っている。確かに、考えてみれば、近代的な土地台帳があるはずもなく、そもそも、municipalityの施政がどこまで及んでいるのかは謎。となると、なんとなく「ここからここまで」と区切られた村の内部については、Chiefが土地の使い道を決める、というのも道理と言えば道理なのかも知れない。だが、ふと思ったのだが、たとえば、aforetationやre-forestationのCDMを組む場合、その対象地の範囲を明確する必要があると思うのだが、こういったケース(Ghanaに限らず、こういうケースは少なくないはず)はどうやっているのだろうか。
  
最後に訪れた村は、村の周囲の森林を刈ってしまわず、維持・育成することで、野生のサルを保護し、エコツーリズムで生計を立てるというプロジェウトに取り組んでいる。
   
とはいえ、野生のおサルさんになんて早々簡単にはお目にかかれないだろうと思いながら、トレイルを歩き始めると、特に待つこともなく、普通にお会いすることができた。しかも、一匹と言わず、何匹も(左下の写真)。なぜこんなに簡単に野生のおサルさんに出会えるかといえば、ごく単純な話で、バナナで餌付けしているから。トレイルの途中に「餌付け」ポイントがあり、そこに来ると案内役の村人さんが、観光客にバナナを手渡し、餌付け体験をさせてくれる。
  
その光景を見ながら、(いちおう)環境屋のハシクレとしては、「うーん…」と思ってしまったのだが、この村の人たちからしてみれば、森を畑にせずに保存している以上、観光収入が得られないことには食べていけないわけで、そのためには、観光客にコンスタントにサルに出会っていただかねばならず…。森が刈り取られ、サルがどこにも住めなくなってしまうことに比べれば、これもまぁ、ある種のsecond bestなのだろうと、自分を納得させたでありました。

と、盛り沢山で大満足の一日であったのだが、 ガーナの田舎道の悪路には、相当参った。言うまでもないが、NY州の道路なんて、いくら整備が行き届いていないと言っても、昨日の道に比べれば天国のようなもの。途上国の地方部が経済発展をしていく上で、まともに走れる道路を敷くことが如何に重要かということを、身に沁みて経験した一日であった。

なんて言っていたら、明日・あさっては、再び一泊二日で郊外に出張。田舎の様子を見れるのは嬉しいのだが、またあの悪路を行くのかと思うと、嬉しいような辛いような。。(笑)
  
最後に、エコツーリズムの村で撮った、立派な大木の写真を。全く自信はないですが、おそらく、アフリカンマホガニーの木だと思われます。
African Mahogany?, Volta Resion, Ghana
Accra, Ghana, July 12, 18:31

Mad Summer in Kasumigaseki

最近、TBSが城山三郎の『官僚たちの夏』をドラマ化したという話をここここで知って、なんだかなぁ…と思った。(今日のタイトルは、いちおう、この小説の英訳のつもりです。もちろん意訳ですが、イメージ的にはなんとなくこんな感じかなと。笑)
  
別に、通産省(や今の経産省)が好きだ嫌いだという話を(ここで)するつもりはないし、本石町さんご指摘のように、「一般の官僚観はむしろ良い」ということがこのドラマ放映を通してわかったのだとしたら、個人的には多少なりともうれしい(←ただ、実際には視聴率が取れた理由は、そういうことではない気がする。単純に佐藤浩市効果??)。しかし、「国民車構想」なる“どPlanner”な政策が主題となったストーリーを、21世紀もそろそろ10年が過ぎようかとしているこの時代に扱うことについては、アナクロ感が否めず、僕の中では「なんだかなぁ…」という感想になる。経産省の中にも、同じように歯がゆく思っていらっしゃる向きがあるのではないだろうか。
      
僕はこの小説を4年くらい前に読んだが、その時点でも既に十分「古い」なと感じた。同じ城山三郎でも、『男子の本懐』や『落日燃ゆ』は、時代を超える普遍的な価値のある小説だと思うが(『落日燃ゆ』で描かれている広田弘毅像が正確かどうかについては、賛否あるようだが、それはともかく。)、『官僚たちの夏』は、「賞味期限」のある作品だなと。
  
Planner型政策が、いついかなるときにも機能しないとは言いない。シンガポールでは未だに十分機能していると思うし、韓国の経済的躍進も、基本的にはPlanner型政策によってもたらされたものと言えるだろう。『官僚たちの夏』で描かれている「国民車構想」自体の真偽・是非はともかくとして、より一般的な意味で、日本の高度経済成長が多分にPlanner型性格を帯びていたのは事実だと思うし、またそれがある時期(まさに『官僚たちの夏』が書かれた時期)、大成功を収めたのも事実だとも思う。
   
しかし、Planner型政策が機能しうるのは、一国の経済規模がある程度の大きさまで、ある程度の複雑さまでのときだけであって、それを超えると、もはやPlanner型政策は機能しない。まともに経営(学)を学んだこともないのにこんな話を持ち出すのはやや不安だが、事業の成長・拡大に成功した結果、巨大化し、高度に複雑化し(、身動きが取れなくなっ)た大企業が、「トップダウン」型経営をやめて、「カンパニー化」に走る事例がまま見られる。最近では、日立がそれに踏み切るといったニュースを見た。やや荒っぽい議論かもしれないが、国のかじ取りも、根本の部分ではこれと同じではないかと。一定以上、一国の産業構造が複雑になってしまっては、政府がトップダウンでいちいち口を差し挟むよりも、基本的には市場に信頼を置き、そこでのtrial & errorに委ねる方が、よっぽどスムーズなリソース配分(←資本・人材その他あらゆる意味での)が可能になるのではないかと(なんてことを、ここで敢えて言及するのもためらわれるくらい、これって市場主義経済の基本の「キ」なわけですが。)。
   
蛇足ながら、通産省を描いた物語としては、『官僚たちの夏』よりも、『白洲次郎 占領を背負った男』の中に出てくる、省発足のストーリーの方がよっぽどかっこいい。白洲次郎が、新生、通商産業省に籠めた「創造的破壊」という役割こそが、通産省・経産省のレゾンデートルだと思うのだが…。他人事ながら。
my room, Accra, Ghana, July 12, 8:00

Saturday, July 11, 2009

The White Man's Burden

あるじの本棚に転がっていた“The White Man’s Burden”を流し読み。“The Bottom Billion”や“Dead Aid”と並び、ここ数年の援助関連ヒット作の一つ。著者は、先日読んだ“The Elusive Quest for Growth”と同じ、William Easterly。“The Elusive Quest for Growth”を出版した時点では世銀に勤めていた彼だが、同著で伝統的な援助手法を批判したおかげで世銀にいられなくなり、今はNYUに移って教授職に就いているんだとか。本著は、前作“The Elusive Quest for Growth”の発刊から5年後、NYUの教授としてEasterlyが世に放った最初の一冊である。
  
言うまでもなく、ベースにある考え方は前著と同じ。これまでの援助は、経済合理性への配慮を欠いていたがために、そのほとんどが失敗に終わり、中には、途上国の発展に悪影響を及ぼしたものさえ少なくなかった、というもの。これを説明するために、前著では“incentive”という言葉が繰り返し使われていたが、本著では、“Planner vs Searcher”という対立軸が、全編を貫く大きなテーマとなっている。この“Planner”と“Searcher”については、作中、 “Let’s call the advocates of the traditional approach the Planners, while we call the agents for change in the alternative approach the Searchers.”と述べられている。少し補うと、“the traditional approach”=「援助する側が大きなプラン(Big Plan)を作成し、それに軸足を置いてすべての援助活動を進めていこうとするアプローチ」の正当性を標榜する人を“Planner”と呼び、それに対し、“the alternative approach”=「計画に依存するのではなく、marketの中に答えを探そうとするアプローチ」に依拠する人を“Searcher”と呼ぶ、ということのようだ。

この両者の比較考察(を通しての“Planner”批判)が、なかなか興味深いものなので、少し長くなるが、引用しておく。ちなみに、引用の冒頭に“In foreign aid,” とあるが、ここで述べられていることは、何も援助の世界に限ったことではなく、行政一般に言えることだと思う(だからこそ非常に興味深い)。
In foreign aid, Planners announce good intentions but don’t motivate anyone to carry them out; Searchers find things that work and get some reward. Planners raise expectations but take no responsibility for meeting them; Searchers accept responsibility for their actions. Planners determine what to supply; Searchers find out what is in demand. Planners at the top lack knowledge of the bottom; Searchers find out what the reality is at the bottom. Planners never hear whether the planned got what it needed; Searchers find out if the customer is satisfied. . . . A Planner thinks he already knows the answers; he thinks of poverty as a technical engineering problem that his answers will solve. A Searcher admits he doesn’t know the answers in advance; he believe that poverty is a complicated tangle of political, social, historical, institutional, and technological factors. A Searcher hopes to find answer to individual problems only by trial and error experimentation. A Planner believes outsiders know enough to impose solutions. A Searcher believes only insiders have enough knowledge to find solutions, and that most solutions must be homegrown.
この世界には、市場だけでは処理しきれない問題(=「市場の失敗」)がある。原理的に言って、それがあるからこそ、行政があり、援助があるわけであって、行政サービスを(或いは援助を)すべてmarket baseで提供できるというのなら、そもそも、行政なんていらないということになる。それが本当なら誠にhappyなことだが、残念ながら、市場はそこまで完ぺきではない。そのことは、Easterly自身も認めている。“This is not to say that everything should be turned over to the free market that produced and distributed Harry Potter*. The poorest people in the world have no money to motivate market Searchers to meet their desperate needs.”と。認めた上で、“However, the mentality of Searchers in markets is a guide to a constructive approach to foreign aid.”と述べている。まさにその通りかと。

“the mentality of Searchers”に沿って具体の政策を考えるというのは、実際には非常にタフな挑戦だ。“the mentality of Searchers”を心中に宿したからと言って、自ずと具体的な答えが見つかるわけではない。本当の答えに行きつくためには、時間をかけて、まさにEasterlyの言うようなtrial and error experimentationを繰り返していくしかないのだろう。しかし、まず第一歩としては、Plannerの人が、(すぐにSearcherにはなれなくても、)EasterlyのPlanner批判に真摯に耳を傾けるだけでも、大きな価値があるように思う。

* なかなか普及しない貧困対策とは対照的に、圧倒的な普及に成功した“Searcher”の実績の代表として、Harry Potterが例示されている。
my room, Accra, Ghana, July 11, 23:44

Friday, July 10, 2009

Countdown for OBAMA

今から数時間後、ObamaがAccraにやってくる。
  
そんなわけで、Accra市内は、少しばかりの興奮気味。とはいえ、ラテン系の人たちのように、何かあれば踊り狂うというタイプではないガーナ人。星条旗を掲げている車は、普段より多く見かけるものの、街の雰囲気が、普段と全然違っている、というわけではない(ちなみに、アメリカに限らず、いろんな国の国旗を車にくっつけて走るのは、ガーナの流行りらしい。売れ筋は、アメリカ、カナダ、南ア、UKあたり。残念ながら日章旗は見かけない。)。

と思っていたら、僕と同じユニットのガーナ人のおばちゃんが、「Obamaを見に、これから空港に行ってくる」と言って嬉しそうに帰って行った。まず実物は見れないんじゃないかと思ったが、おばちゃんがあまりにも嬉しそうだったので、そんな無粋なことは口にできず、「会えるといいね!!」と言って送り出してしまった(苦笑)

Independend Television Newsというイギリスのテレビ局が、Accraの様子を報じている(知らなかったのだが、googleのニュース検索で、Youtubeのテレビ画像も拾えるようになっていた。めちゃ便利)


画像の中で、University of Ghana のpolitical scienceの教授がこんなことを言っている。
Ghana was the first country of sub-Sahara to get independence, and then it has been a stable country, very very stable.
これと同じようなことは、この学者さんに限らず、政府の役人からタクシーの運ちゃんまで、Accraの人たちみんなが口にする。「独立後、一度も内戦をしたことがない」「peacefulな国民だ」「stableな国だ」「democraticな国だ」というのは、この国の人たちみんなが共有するお国自慢なのだ。

でもそれは、アフリカの中にあっては、確かに本当に稀有なことであるし、異なる民族から成る国でありながら(ガーナにもやはりいろんな民族の人がいて、mother toungueでは、互いに意思疎通を図ることもできないらしい)深刻な民族対立を経験しなかったというのは、やはり、すごいことだと思う。

ただ、経済発展との関連でいえば、事態はもう少し複雑だ。小さい国土の中にも、金、ココア、材木といった輸出資源を持ちながら、本格的な工業化には失敗し、経済面では、西アフリカの盟主の座を、完全にナイジェリアに持っていかれている(もちろん、ナイジェリアには石油があるのが大きいのだが)。
  
果たして、民主主義は、経済的発展の面でも、もっとも効率的なシステムだと言えるのか。1960年当時、GDP per capitaでほとんどガーナと差のなかった韓国やシンガポールが、ある種独裁性を帯びた 政治体制の下、目覚ましい発展を遂げたのと比較するに、その問は、即答するには難しすぎる。
   
しかし、経済的にはそこまで豊かでなくても、国民が自由を謳歌し、自国に誇りを持てるということは、それだけで、素敵なことではないか。もうちょっと仕事には責任を持ってほしいし、仕事上のアポをすっぽかすのもいい加減ににしていただきたいが(…)、とはいえ、この国は、「アフリカでもっとも民主主義が定着している国」として、Obamaのsub-Sahara訪問第一号に選ばれるに値する、素敵な国だと心から思う。
Accra, Ghana, July 10, 16:24

Thursday, July 9, 2009

Game of reporting

一般論として(あくまで一般論として)こんなことを考えてみた。念のために言っておくが、昨日の話の続きではない。
  
【前提】
あなたの直属の上司と、その上司(以下、「上司の上司」)とは、ときどきソリが合わない。「上司の上司」から、あなたのチームに対し、あるご下問メールが降ってきた。メールの宛先には、あなたも、あなたの上司も入っている。あなたの頭の中では、既に、ご下問に対する回答案が出来上がっているが、何となく、その回答案は、あなたの上司のお気に召さない気がする(ただし、あなた自身は、その回答案にかなり自信がある)。あなたは、直属の上司にお伺いを立ててからご下問メールに返信するべきか、それとも、お構いなしに「全員に返信」するべきか。

【戦略と結果】
それぞれの戦略を取った場合、以下のどちらかの結果が起こるものと想定する。
  • 「お伺い」戦略: 「許可」(メール出してよろしい) or 「不許可」(メール出しちゃダメ)
  • 「ダイレクト返信」戦略: 返信後、直属上司からの 「お咎めなし」 or 「お咎めあり」
なお、「お伺い」-「不許可」の場合、上司への再チャレンジは行わないものとする。

【期待値】
「お伺い」戦略を取った場合に「不許可」をくらう確率と、「ダイレクト返信」戦略を取った場合に「お咎め」をくらう確率は、同じ(p)だと仮定する(要は、「上司があなたの回答を気に入らない」確率。厳密にいえば、同じではない気もするが、じゃぁどちらの確率の方が高いのかと考えると、状況によりけりのような気がするので、ここでは単純に同じ確率とする。)。一方、あなたの回答案を「上司の上司」の耳に入れることによって得られる便益を1とし、「お咎め」による損失(の絶対値)をqとする。なお、回答案が「上司の上司」の耳に入れられなかったこと自体からは、便益も損失も発生しないこととする。

このとき、両戦略から得られる期待値は、それぞれ以下の通り。
  • E(お伺い)= p*1 + (1-p)*0 = p
  • E(ダイレクト返信)= p*1 + (1-p)*(1-q) = p + (1-p)(1-q)

【結論】
   E(ダイレクト返信) > E(お伺い)
p + (1-p)(1-q) > p
⇔ (1-p)(1-q) > 0
⇔     (1-q) > 0 (∵ p <1)

つまり、どちらの戦略をとるべきかは、「お咎め」によって被るダメージと、「上司の上司」への上申によって得られる利得の大小関係のみを比較して判断すればいいのであって、直属の上司がその案を気に入るかどうかは関係ない、というわけである。
  
こういったシチュエーションに見舞われると、僕はいつも、上司がその案を気に入るかどうかを何となく考慮に入れながら、戦略を選んでいたような気がするので、この結論は、僕的にはなかなか新鮮だった。まぁ、このくらい、わざわざ、不等式引っ張り出してくるまでもなく、直感的に分かれよって話かもしれません…。

Accra, Ghana, July 9, 17:12

Wednesday, July 8, 2009

project owner trap

あなたはいま、ある道の入口に立っている。見たところ、その道は、大きな山へとつながっているようだが、その先、どうなっているのかはわからない。「この道のゴールに着けば、あなたは「それなり」の報酬(「それなり」とはいうものの、具体的にどのくらいかは不明)を手に入れることができます」と、訳知り顔の人たちが口々に叫ぶ。しかし、あなたには、ゴールにたどり着くまでに、どのくらいの距離を歩き、どのくらいの難所を越え、どのくらいの時間とお金を費やさないといけないのか、確たる情報が何一つない――ある国で初めてCDMプロジェクトに取り組もうとするproject ownerの心境は、たとえて言うならば、こんな感じではないかと思う。こんな心境の中、「「それなり」の報酬」のために、何はともあれ歩きだそうと思える人がどのくらいいるだろうか?

コンサルタントや援助機関の人たちにしてみれば、ゴールまでの行程(=どういったステップを踏めば「CER issuance」にたどりつけるのか)については、これまで散々説明してきたという思いがあるだろう。正直、僕もそう思っていた。しかし、今日、ガーナ人である上司に、CDMの手続きを説明しながら、「どう考えても、この人はCDMの手続きを完全には理解していないし、今後も理解することはないだろう」と直感的に感じてしまった。もちろん、こちらの英語能力の欠如という大きな問題もあるのだが、それはさておいても、正直、難しいだろうと…(多分にそれは、能力というよりも「理解しよう」とする意欲の問題である)。
  
それほど工業化が進んでいるとは言えない低開発国にとって、CDMになる可能性が一番高いのは、ゴミ処理や発電といった公共サービス部門だったりする。ということは、project ownerになるべき主体は、自治体であったり、公営企業であったりするわけだ。金融機関の人たちが、それなりにCDMの知識を持っているという話は、先月の記事に書いた。しかし、自治体や公営企業はどうだろうか? 彼らが、CDM開発の工程(とりわけ、financeに関する部分)を理解しているか(あるいは、この先、容易に理解できそうか)と考えると、今日のその上司の顔を思い浮かべながら、正直、「うーーん…」と唸らざるを得ない。

CDMというのはproject ownerがまず動き出さないことには何も始まらない制度である。確かに例外はある。たとえば、HCFC工場からのHFC回収のように、CDMのポテンシャルが外部の人の目から見ても明らかな場合には、工場のowner自身は黙っていても、どこからかfundやconsultantや商社の皆さんが集まって来て、CDM化が開始される可能性は高い。しかし、そんな「おいしい」案件は、既に掘り尽くされてしまった。ましてやここはsub-Saharaである。CDMの開発ポテンシャルが小さいことは元より明らかだ。project ownerの側から動き出さないことには、そもそもコンサルタントは寄って来てもくれない。そんな状況であるにもかかわらず、皮肉なことに、その国の潜在的project ownerたちは、上に書いたように、多くの場合、CDMを理解していない人たちだ。そんな彼らが、何かの拍子に思いついて、コンサルタントを雇い、いきなりCDMのfeasibility studyを始めるなんてことが起こりうるか?もちろん答えは、NOだ。。。
  
国際機関やドナーがCDM案件の掘起こしをする活動は、各国でなされてきたようである。しかし、外野が頑張って盛りたててPIN(Project Idea Note。CDMプロセスの一番最初に作成する、概括的なプロジェクト設計書)を作るところまでは一緒にやってあげたとしても、その先、project owner自身が本気で進めようと思わないことには、CDM化は進まない。
  
最初のたとえ話に戻ると、project owner自身が歩き始める気になりさえすれば、助けの手を差し伸べる人はそれなりにいる(多くの場合は有償だが、それにしても)。しかし、得られる報酬の大きさも、越えなければいけないchallengeの大きさも、ごく曖昧にしかわからない中で、「歩き始める」というオプションを選択するのは、どう考えても容易ではない。むしろ、hesitateする方がまともな判断なんじゃないかという気さえする。
  
(潜在的)project ownerのCDM開発意欲の欠如―― ここに、低開発国でCDM開発が進まない、一つの大きな要因があるのではないかと思う。 ※※

※ 担当者レベルであれば、自治体や公営企業の中にも、CDMをそれなりに理解している人はいるかもしれないが、意思決定レベルでとなると、まず期待薄だろうと思う(そしてまた、CDMとして成り立つような規模のプロジェクトは、waste managementであれ、energy efficiencyであれ、こちらの基準で言えば一大プロジェクトに当たるので、そんなプロジェクトが、トップのコミットメントなしに動かせるとも思えない)。まぁ、その辺の事情は、日本とて、ひとごとではないかもしれないが。

※※ 海外NGOが、全面的にプロジェクトに参加し、project ownerの一部となるような形で進められている案件については、成功しているものもそれなりにあるようだ。そういう形もあり得るわけだが、いずれにせよ、project ownerがしっかりしないことには、CDMはなかなか進まない。
Accra, Ghana, July 8, 18:12

Tuesday, July 7, 2009

Pickens paring down wind farm project

以前、このblogでも紹介したオクラホマの「風船おじさん」ならぬ「風車おじさん」、Boone Pickensが、自らの名を冠した一大風車建設プロジェクト“Pickens Plan”の撤回を表明したらしい。Dallas Morning Newsにその記事が出ている。
    
撤退の理由が、“lack of a transmission line”(送電線の不足)というから笑える。北米大陸の中西部には、「良い風」の吹く広大な土地が広がっているが、哀しいかな、電力の大消費地(東西の海岸沿い)からは果てしなく遠い。中西部に風車をバンバン建てるのは良いとして、そこからどうやって電気を消費地に運び出すかが大問題…。そんなことは、僕でも知っている、この世界の「常識」ではないか。あれだけ大々的に宣伝を打っておきながら、そんな初歩的なところが詰まっていないなんて、いったい、どんな神経しているんだろうかと思う。結局、全米挙げて、金持ちオヤジの道楽に付き合わされただけ、ということなんだろうか…。
  
NY times web版のblog記事によると、当初、必要な送電線はPickens自らが施設する予定であったが、予定を変更し、テキサス州がPickensに代わって$5 billion相当の送電線を施設するということになったらしい。しかし、結局は、その「救済案」もPickensの願いどおりにはいかず、今般の「計画撤回」という結末に至ったらしい。もちろん、その背景には、油価の下落と金融危機の発生という、二大ショックがあったわけだが、それにしても…。
    
一年前、僕がアメリカに着いた頃、テレビではPickens PlanのCMがバンバン流れ、おっさん本人は、CNNのLarry King Liveで熱っぽく自らのプランについて語っていた(←その時点で胡散臭いと判断すべきだった。苦笑)。ガソリンの値段は最高値に達し、中東とアメリカの緊張関係には依然先が見えず。ましてや、わずか2,3数か月後に100年に一度の大不況がやってくるなんて、一般人は、ほとんど知る由もなかった。そんな中、Pickensが依って立った“energy independence”というテーゼには、一年後の今、感じるよりも、はるかに切実な響きがあったように思う。大統領選の波に乗ったのも大きかったのだろう。確か、Pickensには、Obama、McCainの両陣営から秋波が送られていたんじゃなかっただろうか。おっさん本人は、確か、予備選でMcCainに負けた共和党候補の誰かを支持していたように思うが…。
     
それにしても、この一年の間に、世の中、大きく変わったもんだなぁと思う。一瞬でも、彼が時代の寵児になれた(或いはなりかけた)前提条件は、良くも悪くも、ほぼすべてが失われてしまった。そんな、時代の寵児になり損ねた男のweb サイトを久しぶりに開いてみたら、言っていることがほとんど意味不明になっている。“TheDailyPickens”という同サイトのblogコーナーによると、CNBCのニュースショー(明日放送)に出演したPickensは、「cap-and-trade法案に賛成か?」との質問に“I’m for something bigger than cap-and-trade. I’m for saving America.”(私は、cap-and-tradeよりももっと大きな何かに賛成する。私はアメリカを救うことに賛成する)と答えたらしい。なにそれ?新興宗教??
  
Pickens Planと一緒に、風車おじさん本人も、そろそろ表舞台から撤退していただくということで。。
Accra, Ghana, July 7, 17:44

Monday, July 6, 2009

harm of innocence

あるパイロットプロジェクトについて、関係機関と少人数ミーティングを行う。
  
気になる点をいろいろと指摘するのだが、そもそものところで、そのプロジェクトのfeasibilityに関する認識が、他の人たちと僕とでは根本的に違っているので、なかなか話が噛み合わない。
   
僕からすれば、そのプロジェクトは到底キックオフできるようなレベルではなく、まだまだ作り込みが必要な段階。しかし、他の人たちは「ほぼ完成形」と認識しているらしく、そもそもからして、今日のミーティングの位置づけは、残された論点の話し合いの場でしかない。いざその場に行ってみたら、どこが残っているかを特定するより、(紛いなりにも)どこがfixされているかを特定する方がはるかに早い段階だと感じたのだが…。
       
この状態のまま走りだしてしまえる人の感覚というのは、僕にはさっぱりわからないのだが、こういったタイプは、ガーナに限らず、日本にだって普通にいる。ガーナと日本では、多少「見切り発車」のレベルが違うかもしれないが、「環境に良いことなんだし、まずはやってみましょう」という、はた迷惑な無邪気さが行動のベースにあるという点では何ら違いはない。見聞を深め、見識を養う機会は、ガーナの人たちよりもたくさんあるはずなのに、何年間か働いても、あんまり学習できていないという意味では、日本のそういった人たちの方が罪は深いのかもしれない。
  
ガーナでのミーティングに参加しながら、何となく日本でのことを思い出してしまった。
Accra, Ghana, July 6, 18:06

Saturday, July 4, 2009

Half Day Trip to Tema

ついにAccraの街を抜け出して、遠出(??)をしてきました。といっても車で20分の隣町、Temaまで。
  
Temaの街は、もともと漁港だったところ、首都Accraの発展に連れて工業化の進んだ港町。「工業化」と言っても、先進国基準でいえば、コンビナートのできそこないみたいなのが一つ、二つ、あるだけ(笑)
  
Accra-Tema間には、一応、この国で一番クオリティが高いと言われている(←でも道路の脇にはおっさんが普通に歩いている)高速道路が走っていて、タクシーで飛ばせばあっという間で着く。Temaでは、Google Mapに出ていた韓国料理屋さんでお昼を食べようと思ったのだが、「俺に任せろ」的なことを(たぶん)言っていたタクシーの運ちゃんが、結局そのお店を見つけられず、彼の非常に癖のある英語(てか、それ英語??)もほとんど聞き取れないので、あきらめて午前中でAccraに撤収することに。結局、昼食は、普段の週末どおり、Accra Mallのフードコートにて。石焼きビビンバ、食べたかったなぁ。。
  
というわけで、残念ながら、韓国料理にはありつけなかったが、その代りというべきか、タクシーの運ちゃんが(頼んでもいないのに)連れて行ってくれた地元の漁港 兼 魚市場で、石焼きビビンバを補って余りあるディープな体験をしてきた。築地みたく、外国人観光客がそこら辺をぷらぷら歩いてたりなんかしない(←ただ一人、僕を除いて)、100%地元民による地元民のためのマーケット。漁港と市場とは、back-to-backどころか、完全に一体化している。ついでに言うと、漁師さんとその家族の住居も。以下、そこで撮ってきた写真を。

それにしても、ガーナの人たちは、写真に撮られるのがほんと大好きです(笑)
Accra, Ghana, July 4, 17:22

Friday, July 3, 2009

Obama is Coming

今週も一週間が終了。ガーナでのインターンも残り4週間となってしまった。帰るまでに何をどこまでできるかわからないが、後悔のないよう、やれるだけのことをやって帰ろうと思う。どっかのにそっくりそのまま転がってそうなくらい月並みな言い方ですが、まぁ実際にそう思っております。
 
さて、みなさん御存じの通り(かどうかは知りませんが)、来週金曜日、Obamaがガーナにやってきます。もちろん、アメリカ大統領の、あのObama(←ほかにいないですよね)。というわけで、Accraの街もそろそろざわついてきました。大通りには、「Akwaba(=Welcome) Obama!!」みたいな看板が大量に設置されてるし、毎朝通勤に使ってる幹線道路の補修(といっても縁石にペンキ塗るだけ)も始まったし…。
  
聞くところによると、数年前にBush Jr. がAccraに来たときには、あり得ないレベルの交通規制が敷かれて、Accraの街が麻痺状態に陥ったんだとか。今回も間違いなくそうなるに違いない…。来週木曜日くらいからは要警戒(って何できんだっけ??)。

とはいえ、この国の人たち(←基本的に親米。とりわけObama人気は絶大)がどんなふうにObamaを迎えるのかはすごく楽しみ。熱狂的に歓迎したりするんだろうか?(←ガーナの国民性からして、あんまり熱狂しそうではないけど。。) あわよくば、僕自身も「生Obama」を見てみたいけど、それはちょっと難しいのかなぁ…。
  
そういえば、明日7月4日はアメリカ合衆国の独立記念日。アメリカに二年も留学していながら、アメリカ国内での独立記念日を一度も経験しないなんて、ちょっともったいなかった気もする。まぁ仕方ないけど。やっぱりObamaが演説したりするもんなんでしょうか…??
Accra, Ghana, July 3

追記:Voice of America が、Obama受け入れ準備の進むガーナの様子を報じています。このblogにもよく出てくるAccra Mallも紹介されています。

Wednesday, July 1, 2009

Great Father of Ghana

一応祝日なので、少しは祝日らしいこともしようと思い、3時頃からオフィスを抜け出して、ガーナの初代大統領Nkrumahのお墓に行ってみた。

オフィスからタクシーで約15分。Accraの街の南側、海岸に程近い官庁街の一角にある彼のお墓とその周囲の庭園は、“Nkrumah Memorial Park”という公園になっている。タクシーの運ちゃんに「Nkrumah Memorialに行ってちょーだい」と言うと、彼はわかりやすいリアクションで大変うれしそうにしていた。独立運動の主導者であり、建国の父でもあるKwame Nkrumahは、この国の人たちにとって、今も圧倒的なヒーローなのだ。

公園の中心に建つ石造りの彼のお墓は、すごく立派なモニュメント。とはいっても、レーニン廟やホーチミン廟のように近寄りがたいまでの威容を放っているわけではない。彼のお墓に「神格化」という表現は当たらないだろう。「神」としてではなく、あくまで自分たちが生み出した自分たちのヒーローとして、この国の人たちから愛され、尊敬されている様子が自然と伝わってくるモニュメントだ。

Nkrumah Monument, Accra

併設の博物館にも行ってみる。小さな博物館で、展示物と言えば、彼の遺品と写真、著作だけだが、1960年前後の写真を見ていると、植民地後の新生アフリカの旗手として、世界中から期待を集め、まばゆい輝きを放っていた当時のガーナの姿が見えてくる。展示されている写真にNkrumahと一緒に納まっているのは、ネルー、カストロ、フルシチョフ、毛沢東、マクミラン、JFK、エリザベスⅡ世…といった東西両陣営、先進国・途上国の錚々たる面々。エリザベス女王とはダンスを舞い、北京を訪問したNkrumahは、毛沢東自らが率いる共産党幹部の一団に、出迎え&見送りの大歓待を受ける。今では考えづらいことが、当時のガーナは、東西両陣営から、新興勢力アフリカのキャスティングボードを握る国として重視されると同時に、途上国からは、自らの手で独立を勝ち取った偉大なる先達として多大なる尊敬を集めていたのだろう。もちろん、Nkrumahその人の個人的力量・個人的魅力も大きく作用していたと思う。
  
その後のこの国の実情を見るに、内戦こそはなかったものの、当時、世界から期待されていたような発展を実現したとは言い難い。外交面でも、Nkrumahが世界を駆け巡っていた頃の輝きは遠い昔に失われてしまった。それでも、自分たちの国が、アフリカの中でいち早く独立を達成した国であり、かつて偉大なリーダーの下、世界的な注目を集めた国だという歴史は、いまもGhanaianたちの自信の源となっているのではないだろうか(「自分たちはそこそこイケている」という慢心の源にもなっているかも知れないけれど)。

博物館を出たら、社会見学に来ていた地元小学生の一団に囲まれて大変な騒ぎになった。皆、口々に写真を撮ってくれと言い、それが収まったと思ったら、今度は「握手して」攻撃。引率の先生がやって来て、子供たちを止めるのかと思いきや、逆に「ツーショットで写真に写ってくれ」とのリクエスト。当然の如く、「先生だけずるいよ~」的大反響が巻き起こり、結局、その後も数分間、「握手して」と「写真撮って」の渦の中から抜け出すこと、給わず。。 とはいっても、皆、本当に素直そうな子どもたちで、何の打算も計算もなく(←そりゃそうだ)握手や写真をリクエストしてくれる彼らに囲まれていると、久々に心が洗われる思いがした。いつもいつも世の中をナナメからばかり見ていてはいけませんね(苦笑)
Children in Accra
my room, Accra, Ghana, July 1, 24:45

Kill-time on a Holiday

今日はRepublic Dayというガーナの祝日。何の記念日なのかはよくわからない。独立記念日はまた別にあるらしい。ともあれ、祝日なのでインターン先もお休み。なのだが、家にいててもあまりやることもないし、インターネットにもお金がかかるので、オフィスにきてちょこちょこ調べ物をしている。

先日このblogでも紹介した、UNEP RisoのCDM Pipeline overview。若干情報過多で、言葉に置き換えないことには、数字を見ているだけでは実像が見えてこないので、以下、僕なりの切り口で勝手に解釈してみる。
  • “Registered”の案件のうち、アフリカの案件は30件のみ(全体では1,699 件)であるが、これらの他に、“Correction request”状態のものが3件、“At Validation”のものが67件ある。
  • それら30件の“Registered”案件からのExpected CERs(pre-2012)の合計量は、52,344,832 tCO2であり、世界全体(> 1,620,000,000 tCO2)の3%。一方、“Correction request”と“At Validation”の案件(70件)のExpected CERs(pre-2012)の合計量は27,416,973 tCO2 。案件数で見れば、“Correction request”+“At Validation”は、“Registered”の倍以上あるが、Expected CERsでみると、約半分。一件当たりの排出削減量の大きい「優良」案件から開発されていったということか。
  • “Registered”案件だけで見ると、南アフリカが全アフリカ案件のうちの半分(15件)を占めているが、それに“Correction request”と“At Validation”の70件を加えた全100件で見ると、南アの案件シェアは27%に下がる。シェアを伸ばしているのは、ケニア(14%)、エジプト(12%)、ウガンダ(10%)、モロッコ(10%)など。
  • これら100件についてExpected CERs(pre-2012)の合計量を見ると、南ア24.5%、エジプト20.4%、ウガンダ1.5%、モロッコ3.3%、ケニア3.7%。ウガンダ、モロッコ、ケニアの3カ国は、プロジェクト一件当たりの排出削減量が比較的小さいということ。
  • 反対に、案件数に比して排出削減量が多いのがナイジェリア。案件数で見ればアフリカ全体の6%だが、Expected CERsで見ると33.8%で首位。油井でのフレアガス回収(2件)、セメント工場でのenergy efficient(1件)、水力発電施設の改修(1件)と、大規模案件を4件抱えていることが大きい。
  • 案件数上位4カ国のプロジェクトの内訳は以下の通り。
    【南ア】 Landfill Gas(LFG) 6件、N2O、Fossil Fuel Swich、Biomass Energy 各4件、その他。
    【エジプト】 Wind 4件、LFG、Energy Eficiency (EE) own generation 各2件、その他。
    【ウガンダ】 Reforestation 5件、Biomass Energy、Hydro 各2件、LFG 1件。
    【モロッコ】 Wind 3件、Solar、LFG、Biomass Energy 各2件、Biogas 1件。
    【ケニア】 Reforestation 7件、Hydro、Geothermal、Biomass Energy 各2件、Cement 1件。
  • エジプト、モロッコといった北アフリカの国がRenewable Energy系の案件を多く開発しているのに対して、ウガンダ、ケニアといった東アフリカの二か国は、Reforestationに頼るところ大。(Reforestation案件は、CDM化が難しく、これまでにRegisterされた案件は世界でも3件のみ。また、EU-ETSでの使用が認められていないため、post-2012 CERの買い手が極めて少ないという問題もある。)
  • 西アフリカ、中央アフリカの国について見ると、カメルーン1件(LFG)、コートジボアール1件(Biogas)、リベリア1件(LFG)、マリ2件(Hydro、Reforestation)、ナイジェリア6件(Fugitive×2、Cement、EE Households、LFG、Hydro)、ルワンダ1件(EE Households)、セネガル1件(Biomass energy)、ウガンダ10件(上記のとおり)、ザンビア1件(EE Households)。やっぱりCDM初心者に向いているのは、LFG-Biogas系??
  • また、南ア、ウガンダ、セネガル、チュニジアは、果敢にもPoA (programme of activities)に挑戦中(いずれもAt Validation段階)。セネガルは蛍光灯、ウガンダはWaste Compostingで、南アとチュニジアはSolar Water Heater。蛍光灯は、正直難しいと思うのだが、後の二つはどういう形でPoAにしようとしているのか、少し掘り下げて調べてみようと思う。

完全に自分用のメモになってしまいました。。

Accra, Ghana, July 1, 14:33