Saturday, July 25, 2009

between abstract and concrete

ガーナで暮らしてみて再認識できたことの一つに、「具体の世界に降りていくことの重要さ」がある。当たり前の話だが、抽象的に物事を考えているだけでは、世界の本当の姿は見えてこない。本質的な問題は、ときに、すごく具体的な文脈の中にあったりするもんだ。
  
CDMにしてもそうで、「市場メカニズムの働きにより、もっとも少ない費用での排出削減が実現されるはず」なんて議論を繰り返していても、問題の本質には到底たどり着けない。このblogでも何度か指摘してきたように、CDM実施の最大のボトルネックは、潜在的プロジェクトオーナーのキャッシュフロー不足にあると思うのだが、ミクロ経済学的なグラフの上でいくら議論をしていても、そんなtransaction(=取引)レベルの問題は決して見えてこない。それだけなら、まだ文字にすることも可能だが、もっとfundamentalな部分にある、ローカルな人々のattitude(←“carbon credit”というものに漠然とした期待は抱いているものの、往々にして「詰めて考える」ということをしないので、一向に話が具体化せず、「キャパビル」と「ワークショップ」だけを繰り返して、なんとなく満足してしまっている)に至っては、(いちおう、青字で書いてはみたものの)正確に文字化することはほぼ不可能で、実際、彼らと時間を共にする中で、「感じる」しかないことだろうと思う。

これは、CDMに限らず、「開発」「援助」そのものについても言えることで、数字で表現できるインプット、アウトプット(orアウトカム)だけを見て議論していても、本当の答えはまず見えてこない。「そんなことは百も承知で、「近似」の話をしているんだ」ということなんだろうとは思うが、問題は、上のCDMの例のように、本質的なポイントが議論のフレームの外側にある場合だ。このような場合、議論は単なる「的外れ」でしかなく、近似にさえなっていない。こんな事例は、きっと世の中にごまんとあふれている。
  
「抽象」の世界から「具体」の世界に降りていき、「具体」の世界で見てきたことを「抽象」の世界の言葉に翻訳して紹介する――そうした行いを億劫がらずに続けていかないといけないと思う。それには、忍耐も必要だし、体力も必要。ネットワークやスキルもなくてはならない。そして「抽象」の世界の人たちに、「あなたがたが見ているものは「裸の王様」ですよ」と言える勇気も必須だと思う。
Accra, Ghana, July 25, 12:35

1 comment:

まえ said...

chiefsの試合、行ってきました。
最高ですね。
鳴り物なしの応援、野球やっている音が聞こえて良いです。
情報ありがとうございました。最高でした!