おとといのCDMの話の続きを。先に断わっておきますが、今日は長くなると思います(笑)
なぜCDMが低開発国ではうまくいかないのかを、自称、「経済学的」に説明させていただくというお話。以下、おとといのエントリーで挙げた
「4つの理由」(1. 収益源の密度が薄すぎる。 2. 収益の大きさと比べてトランザクションコストが大きすぎる。 3. 期待収益の大きさと比べてリスクが大きすぎる。 4. GHGの排出削減という行為が、underlying projectと不可分にしか存在しえない。)について、それぞれ、説明させていただく。
1. 収益源の密度が薄すぎる
ときどき、「地球上には温室効果ガス(GHG)の削減ポテンシャルが○○トンもあるんです」みたいな話を聞く。理論的には正しいんだろうが、実際のところ、それだけの排出削減がほんとに可能かというと、まずそんなことはない。なぜか。その理由の一つが、排出ポテンシャルの密度の問題だ。これは石油の掘削などと同じ話で、いくら埋蔵量がたくさんあるとは言え、それが広範囲に低密度で拡散しているようでは、一単位を掘り出すのに莫大なお金がかかってしまって、現実的には、すべてを掘り出すことはできない。密度の高い部分だけ掘り起こし、残りの部分は「さようなら」ということになる。GHGの排出についても、これと同じことが言える。一つのサイトからGHGが大量に放出されているような“高密度”ケース(典型的にはHCFC工場)はCDMの対象になりやすいが、家庭でのエネルギー使用のように、排出源が広く薄く広がっているよう“低密度”ケースでは、CDMの実施は難しい。この傾向は、世界のGHG排出量の過半を占める「エネルギー起源CO2」において特に顕著である。
2. 収益の大きさと比べてトランザクションコストが大きすぎる。
1.の話の続きであるが、どこまでの低密度なら操業可能かについては、絶対的な水準があるわけではなく、CER産出に要する費用と、そこから得られる収入との見合いで決まる。これも石油掘削に見られるのと同じ現象で、「原油価格が上がれば、カナダのオイルサンドもpayableになる」というのと同じ理屈。
ここでいう「費用」とはCDM登録に要するトランザクションコストのことであり、「収入」というのはCER売却益(=CER価格×CERの量)のことであるが、今のところ、「費用」が「収入」より大きすぎて、sub-Saharaのような「GHG排出過疎」地域では、payableなCDMはなかなか組めない。つまり、一つ目の「理由」と、この二つ目の「理由」が相まって、CDM成立のための
第一条件(CER売却益>トランザクションコスト)の達成を難しくしているのだ。
3. 期待収益の大きさと比べてリスクが大きすぎる。
どんなプロジェクトにも必ずリスクはあるわけだが、CDMの特殊なところは、underlying projectのリスクはそのままに、追加的に、CDM developmentに関するリスクが積み増されるという点である。underlying project自体、どこかでポシャるかもしれないし、それがうまくいったとしても、CDM登録(registration)に失敗するかもしれない。また、晴れてregistrationまでたどりついたとしても、当初予定していたとおりのCER売却益を得られる保証はどこにもない(∵排出削減量の不確実性、CER市場の変動性)。つまり、CDMというのは、投資する側にかなりのリスクテイクを要求する投資機会なのである。
もっとも、投資という観点から言えば、「リスクが高いこと」それ自体が問題なわけではない。世の中には、ローリスクなものからハイリスクなものまで、ありとあらゆる投資機会があり、そのそれぞれに見合った投資マネーも存在する。CDMが問題なのは、そこから得られるリターンが、その高いリスクに見合っていないということだ。一言で言えば「ハイリスク・ローリターン」だということ。これでは、十分な資金がCDMに回ってこないのも道理と言える。
4. GHGの排出削減という行為が、underlying projectと不可分にしか存在しえない。
この点を、多少なりともわかりやすく解説するためには、低開発国におけるCDMプランニングの実態に触れておく必要がある。ガーナを含め、多くの低開発国で一般的に行われているんじゃないかと想像されるCDM開発のプロセスはこんな感じだ。
ある国、ある街にとって、積年の課題となっているインフラ整備の問題があるとする。たとえば発電所の増設とか、市内交通の近代化とか、廃棄物処理施設の新設とか。お金がなくて、長年諦められてきたそれらのプロジェクトだが、「CDM」という枠組みを使えば、「カーボンファイナンス」を通してお金を撮ってこれる
らしいという話になり、にわかに建設計画が動き始める。(ちなみに、ガーナの人たちも開発業界の人たちも、この「カーボンファイナンス」という言葉を本当によく使う。実際、その言葉の意味するところを頭の中できちんと定義しながら使っている人は、ごくわずかだと思うのだが…。)しかし、関係者の「キャパシティビルディング」を行い、何十回となくワークショップを開き、PIN(Project Image Note)を起案し…としていく中で、彼らの言う「カーボンファイナンス」で賄えるのは、せいぜい、underlying projectのコストの一部だけであり、その他の部分は、結局、どこかからまとまった資金を借りてきて充当するしかないということがわかってくる。ましてや、CDMからの収入が入ってくるのは、その設備が稼働し始め、排出削減が実現されてからである。それまでに必要なキャッシュ(←当然、対象となる施設の建設コストを含む)はすべて、CER売却益以外の資金ソースでファイナンスしないといけない。この“underlying finance”が確保できないがために躓くケースが、(少なくとも低開発国では、)CDM頓挫の理由として、一番多いのではないかと思う。
この「不可分性」の問題はなかなか難しい。プロジェクトが基本単位となっている現在のCDM制度にとって、この点は、本質的であるというだけでなく、
最大のメリットであるともされてきたからだ――「GHGの排出削減」という先進国にとっての「義務履行」を梃子として、途上国でのclean developmentを進めることができる、という意味で――。しかし、皮肉なことに、実際には、この点が、低開発国でCDMが進まない、最大のボトルネックになってしまっているような気がする。
さて、これら4つの理由を見てきた上で、どうやってこれらを克服していくかが問題だ。とりあえず、一つ目の「理由」については、その性質上、如何とも手の打ちようがない。「石油が、もっとまとまって埋まっていたら、今より堀り出しやすかったのに…」と言ったところで詮がないのと同じである。
二つ目、三つ目の「理由」への対応としては、申請手続きを簡易にしてCDM申請に係る
費用とリスクを下げる方法と、逆にCDMからの
リターンを高める方法の二つが考えられる。申請手続きの簡易化については、
先月27日のエントリーにも書いたとおり、僕は本質的な解決になり得ないんじゃないかと考えている。直感的に感じるのは(なぜそう言えるのかをうまく説明する言葉を今は見つけられないのだが…)、「GHGの排出削減」のような行為を経済的取引の対象にするためには、公正さを確保するため、市場参加者にはそれなりの手続きを踏んでもらうしかなく、その結果、それなりのトランザクションコストを負担してもらうしかない、ということだ。そこをケチると、結局、制度の根幹が揺らいでしまい、何のためにCDMをやっているのかわからなくなるような気がする。その難解さゆえ、とかく批判のやり玉にあげられがちな「追加性(additionality)」についても然り。具体的な執行の部分ではもう少し改善の余地があるのかもしれないが、その依って立つ考え方自体は、まったくもってmake senseなものである。であるにもかかわらず、その哲学を安易に緩めてしまっては、「CDMはバンバン成立するが、GHGの排出は一向に減らない」といった本末転倒の状態にも陥りかねない。
一方、リターンを高めるためには、当然ながらCER価格を引き上げるしかなく、そのためには、先進国の排出削減目標をより厳しくする必要がある。これは、一つのオプションではないかと、
同じ日のエントリーに書いたが、よくよく考えてみると、この方法にも問題がないわけではない(先進国がそんな条件呑むはずないだろう、という点をいったん脇に置くにしても。)。リスクの大きさはそのままに、リターンだけが大きくなるということは、CDMが「ハイリスク・ローリターン」商品から「ハイリスク・ハイリターン」商品になるということである。確かに、それによって、CDMに流れてくるマネーの量は増えるだろうが、理屈から言うと、そのマネーは「一発当てる」ことを企図した「リスクマネー」である可能性が高い。まったくお金の貸し手のない状況に比べてマシと言えばマシなのだが、はたして、そういう性格のマネーが、CDMと相性が良いと言えるかどうか…。僕には、これまでcommercial baseのfinanceに触れたこともないホスト国の政府や市役所の人たちが、先進国の資本の道理に翻弄されている姿が容易に想像できる気がしてならない。。。
四つ目の理由についてだが、これを完全に解決しようと思えば、「プロジェクト」を単位として構成されている現行のCDM制度を根本から見直す必要が出てくる。「プロジェクトごとに、どれだけのGHG排出を減らしたか」を計測する現行のやり方から、たとえば、「国」単位で見て、どれだけGHGが減ったかを測るやり方に変える、といった具合に。不勉強にして、十分な理解はできていないのだが、目下、コペンハーゲンに向けた議論の中で複数国から提案されている“NAMAs(Nationally Appropriate Mitigation Actions)”という制度が、まさに、この方向性を掲げているものだと思われる。ただし、ここで一つ問題になってくるのは、何をbaselineにするかという点。baselineなくしては、増えた減ったの議論をすることはできない。国単位でGHG削減量を測ろうとすれば、当然、国ごとのbaselineを設定する必要があるが、このことは、「途上国に法的な排出削減目標を設定することにつながる(あるいは、削減目標そのものだ)」として、途上国自身が反対している。NAMAsについては、僕自身、もう少しきちんと勉強しないとけないのだが、いずれにせよ、「プロジェクト単位」から「国単位」に、制度を組み替えようと思えば、baselineをどう設定するかという新たな問題を避けて通ることはできない。
以上が、一か月半、ガーナでCDMに取り組んでみての、僕なりの理解・感想である。読んでいただいてお分かりの通り、CDMに対する今の僕の見立ては、正直、optimisticとは言えない。とはいえ、何らかの方法で、CDMという制度を改善する方法はないものかと、僕なりに考えてみた結果を、次回エントリーで書きたいと思う。さわりだけ言っておくと、基本的な構造は維持しつつも、「大きすぎる」案件と、「小さすぎる」案件を、CDMでカバーしやすくする方法があるのではないか…という提案。あくまで「思いつき」のレベルだが、次回(たぶん明日)のエントリーでは、これについて書きたい。
Accra, Ghana, July 18, 15:44