Monday, May 25, 2009

Public, Private, and Community

いろいろと紆余曲折はあったが、この9ヶ月間、香港人のルームメイトと暮らしてきた。
   
彼自身は、1月に「出戻り」してきて以降、人間的に、それなりに成長してくれたと思う(←超上から目線でスイマセン)。未熟なところを数え上げれば切りはないが、いろいろと悩める真面目な青年(少年?)であり、彼が是非にと言ってくれている明後日のディナーでは、そんな彼の人生相談にも、できる限り乗ってあげたいと思う。
  
しかし、彼の彼女、彼の友達、或いは「出戻り」以前の彼の姿を見ていると、Chineseという人たちについて、思うところがいろいろある。ある意味、いい勉強になった一年だったとも思う(苦笑)。
  
そんなに大きくもないサンプルから、母集団全体についての結論を引き出すことは統計学的に言えば邪道だということを重々認識しつつも、この一年間のルームシェアリングのまとめ(?)として、現時点での僕の「中国人観」を書いておきたいと思う。(当たり前の話として、この「中国人観」の枠に納まらない中国人の方は、いくらでもいらっしゃると思う。あくまで、僕の感じる一つの「傾向」として。)
    
彼らに関して僕が思うことは、日本人的な意味での(そしてそれは、世界の常識からそんなにずれていないと思うが)“private”と“public”の、両方に対する意識が極めて希薄だということだ。その代り、その中間的な位置づけとも言うべき“中国人community”という存在が、彼らの中で、絶対的な重要性を占めている。
    
この家での彼ら(=ルームメイトの彼女や、遊びに来る彼の友人)の振る舞いや、Maxwellの自習室での彼らの行動を見ていて思うのは、「完全に独りになる」という意味での“private”な時間は、彼らにとってはあまり重要でないらしい、ということ。ほぼ常に、同じメンバーで固まっている。自分も含め、日本人の「独りの時間」希求性は、確かに他の国の人たちと比べても強い方だと思うが、とはいえ、中国人の“communnity”帰属性の強さは、明らかに際立っている。
   
それと同時に言えることは、“community”の外側に対する彼らの関心・配慮は、非常に小さいということ。どこにいても、"Little China"とも言うべき彼ら独自のcommunityを形成し、外界とは、最小限の関係しか持とうとしない。その傾向は、大学院生になれば、学部学生よりも多少弱まる気がするが、それでも、Maxewllの中で、彼らのcommunityは確実に際立っている。
     
多少の主観が混ざっているかもしれないが、これが、現時点で僕が抱いている、中国人観、中国人コミュニティ観だ。この分析が、中国人一般に妥当するという根拠はどこにもないので、あくまで仮説に過ぎないのだが、この一年で僕なりに得た一つの「理解」の到達点として、書き残しておく。
my home, Syracuse, May 25, 22:52

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