そんなわけで今、Nicholas Carrの“The Big Switch”(邦題『クラウド化する世界』)の邦訳版を読んでいる。各方面で評されている通り、非常に読みやすく、示唆に富んでいて面白い。敢えて比べる必要もないかもしれないが、『フラット化する世界』のトーマス=フリードマンより、よっぽど説得力がある。
ちょうどいま、半分まで読み終わったところだが、端的に言うと、こういうお話。
エジソンらによって電気の商業利用が開始された当時、電気は、それを使う事業者(工場)が個別に発電するのが当たり前だった。街灯などに用いられる非事業用の電気も、小規模な区画ごとに発電されるのが普通で、NYやシカゴといった大都市では、ひとつの街の中にいくつもの発電事業者が存在していた。そのような「分散型」発電システムが、徐々に、今日のような、集中的発電/広範囲送電システムにとって代わられることにより、電気をめぐる環境(ひいては近代社会そのもの)は、まったく新しい発展段階を迎えることとなった。
同様の転換が、今まさにITの世界で起ころうとしている。これまでは、各オフィスごとにサーバを設置し、諸々のアプリケーションを購入するのが当たり前だったが、Googleに代表される次世代のIT企業の登場により、コンピューティングサービスは、高速回線を通し、インターネットの向こう側から提供されるものになりつつある。このようなビジネスモデルの転換は、電気に関して起こったのと同様の、大規模な社会的転換をもたらす可能性がある。
この本についての感想は、全部読み終わってから改めて書くとして、今日、この本を読みながら考えていたのは、(しつこいようだが)betterplace社のEVビジネスのこと。
電気にせよ、ITにせよ、新しいモデルを導入するときには常に、「克服不可能」と思われるほどの技術的・経済的困難が伴った。しかし、それらの困難は、先見性に満ち、リスクテイクに積極的な各時代のベンチャー起業家らによって打ち破られてきたわけだ。ただ、ここでひとつ言えることは、(世間の人たちがどう思うかはともかく)少なくとも彼ら起業家たちの頭の中には、「もしそのモデルが軌道に乗れば、旧来のモデルを遥かに凌ぐメリットが得られるはず」という算段があったということだ。電気の集中発電化は、各工場を「発電機の保有・運転」という経済的呪縛から解放し、彼らの経済活動をより自由なものにした(当然、それによって得られるメリットの一部は、電気代という形で、発電事業者にも還元された)。ITにおけるサービスモデルの転換についても、本質的には同じことがいえる。逆に言えば、そのような「大きなメリット」が向こう側に見えていない状況では、大規模なシステム転換は起こり得ない、ということなのかも知れない。
と、考えたときに、自動車の動力を石油から電気に変えることの社会的メリットとは何なのだろうかと思えてきた。その点が、まだ十分見えていないことが、ベ社の挑戦の最大の弱点なのではないかと。
ベ社の仕掛けようとしているビジネスは、電気やITと同様、非常に大規模なインフラの転換を伴うものである。そうである以上、一定の過渡期を除き、<二つの形式>が併存し続けるとは考えにくい。大規模なインフラを二重に維持し続けることは、それ自体、社会にとってきわめて非効率だ。もし、ベ社型のEVモデルが本当に有利だと認知されれば、(現時点ではにわかに信じにくいことだが)ガソリンを動力とする今日の自動車システムは、数年後、十数年後には駆逐されるだろうし、そうでなければ、ベ社の挑戦は、遠からず、撤退を強いられるだろう。
一つ、確実に言えることは、電気自動車の方が、(システム全体で見ても)CO2の排出量が少なく、また、排ガスの問題も生じにくいということ。ただしこのメリットを、個々の主体の経済活動に織り込むためには、政策的な転換装置(=外部不経済の内部化=炭素排出の有料化)が必要だ。今のところ、十分な「転換装置」を導入していると言える国は、先進国の中にも見当たらないが。
本当のところ、ベ社の人たちが、何を「EVのメリット」として認識しているのか、その点は非常に気になるところである。が、もし唯一最大のメリットが、その「環境性能」なのだとしたら、そのメリットを顕在化させるためには、市場のデザインを変える必要がある。言うまでもなく、それは政府の仕事だ。そして、(ベ社に限らず)EVを普及させるために政府ができる、最大の貢献であるとも思う。補助金よりも、何よりも。
my home, Syracuse, May 24, 24:36
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