Tuesday, September 9, 2008

「普通の国民」とは誰のことか?

今学期は、英語の授業(週3回)もとっていますが、今日の英語の授業のテーマは "What Part of NO Don't You Understand?" というもの。国によって「No」の言い方もずいぶん違いますよ、というお話でしたが、その中で紹介されていたのがこんな小噺。

ある月曜日、メキシコ在住のアメリカ人の車が故障した。彼が、現地の修理屋さんにもって行って「金曜日までに直してほしいんだけど、できる?」と尋ねたところ、メキシコ人の修理工は、「OK。金曜なら確実に間に合うよ」と答えた。さて金曜日、アメリカ人が、車を引き取りに修理屋さんを訪ねてみると、修理がまだ終わっていない。「出来ないなら出来ないと、なぜ月曜日に言ってくれなかったんだ?」とアメリカ人が尋ねたところ、メキシコ人が答えて曰く、「これは "happiness" の問題だ。月曜日に、僕が『間に合う』と答えたからこそ、あなたは月曜日、火曜日、水曜日、木曜日、そして今日と "happy" に過ごせただろ。来週の月曜日には、あなたはもう一度"happy"になれるよ。」

本当でしょうか?? これが本当なら、メキシコは、アメリカどころじゃなく、手ごわそうですね…。機会があれば、一度、乗りこんでみたい気もしますが。


さて、ここから先は、今日のPublic Budgetingの授業中に、ぼんやり考えていたこと。正直、まだあまりまとまってませんが。

Budgetingの先生は、最近、Indiana州から移り住んできた人で、彼女曰く、数年間彼の地に住んでいてた間に、同州の消費税は二度にわたって増税されたとのこと。また、授業とは関係ないですが、今年の総裁選を見ていても、Obama候補の公約の中には、ある種の増税策が含まれていることに気づきます。

増税万歳、と言いたいわけではもちろんありません。ただ、増税の是非に関する議論(もう少し正確にいえば、「どこからどれだけの税を集めるか」という、税体系にもかかわる議論)が、冷静かつ客観的にできる土壌がまったくない某国の状況は、どう考えても不健全だと思うのです。

―それは確かに正論だが、税の議論は古今東西を問わず、センシティブな議題の代表選手。世論への影響を脇においた客観的な議論なんて、そもそもの性質からしてできるもんじゃない。―

こういった反論がしばしば聞かれるところだとは思いますが、それを認めた上でも、米国と某国(てゆうか日本ですが)を比べたときに、税の議論のしづらさは違いすぎると感じています。(もちろん、日本での方が議論しにくい、という意味です。)

税率が上がるのを嫌うのは、アメリカ人も当然同じです。その点をついて、McCain候補は大々的にObama候補の批判を行ったりもしています。ただ、少なくとも、一定以上の教育水準にある市民(彼らは、その教育水準にともなった経済水準も享受しているわけですが)は、増税を頭ごなしに嫌うのではなく、その増税によって得られる政策効果を勘案した上で賛否を決めようとするrationalな姿勢を少なからず持っているように思うのです(そうでもなければ、野党の大統領候補が、選挙公約に増税を伴うプランを掲げるとは信じられないですし。)。

翻って日本はどうかと考えると、あの国においても、教育・経済の面で、いわゆる「中の上」(あるいは「中の中」)以上に位置する層については、税のことを、ある程度冷静に考えられる視点を持っていると、個人的には信じています(ここでいう「増税」が、間接税についての話であればなおさら。)。また、「中の上」以上の層の割合(人口比)が、アメリカに比べて格段に少ないということもまずないと思います。正確なところはわかりませんが、むしろ、日本の方が多いくらいではないでしょうか。

じゃ、何が問題なのかと考えていたのですが、僕の仮説は、それらいわゆる「中流」と言われる人たちの声を伝えるメディアが存在しないことが問題なのではないか、というもの。最近の(昔から?)日本のメディアは、往々にして、よりpoorな層にフォーカスし過ぎていて、メディアの話を鵜呑みにすると、日本では「格差社会」化が異常なスピードで進行しており(それ自体は、僕も否定しませんが)、いまや、ごく一部の「セレブ」と、その他大勢の「庶民」だけしかいない社会になってしまったかのような印象を受けます。

しかし、よく考えてみれば、その「セレブ」と「庶民」の間には、いわゆる「中流」層が、かなりの人口比率で存在しているはずですし、また、少なくとも経済の面で言えば、その層に位置する人たちの頑張りに、この国の発展が拠っているところは非常に大きいと思うのです。

であるにもかかわらず、なぜその人たちの声を直接代弁するメディアが日本にはないのか。なぜメディアは、よりpoorな層の声を代弁したがるのか(※ それ自体、悪いことではないが、多少偏り過ぎている、というのが僕の考えです。念のため。)。これに対する明確な答えは、今のところまだ持ち合わせていませんので、またちょっと考えてみたいと思います。


明日は(既に今日ですが)、9/11です。学内で、テロ防止に関するシンポジウムが行われるそうなので、行ってみようと思っています。

my home, Syracuse, Sep. 10, 27:00
(なぜか日付が9/9になってしまっていますが、9/10深夜の記事です。)

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