Sunday, October 25, 2009

Government-Academia relationship

今年の1月に読んだ、青木昌彦先生の『私の履歴書 人生越境ゲーム』を、パラパラと読み直してみた。巻末に付いている加藤創太氏との対談が非常に面白い。やや長くなるが、以下、その中からの抜粋を。下線はMSJ筆者による。
加藤氏 官学の交流でいえば、スタンフォードなどでは多少事情が違うかもしれませんが、アメリカの田舎で専門論文を書いていると、だんだん世間から途絶されるんじゃないかという危機感がすごくある。日本は大学も東京など都心部に集中しているし、政策的な発言をしている学者も、比率としてはアメリカより高いぐらいではないかと思います。にもかかわらず、実際の政策ペーパーを見ると、アメリカのほうが洗練された議論をしている。どうしてそうなってしまうかというと、日本では、政策形成に協力してもらう学者を選ぶ権利が官の側にあるためではないかと思うんです。自分たちが実現させたい政策が最初にありきで、その政策にとって都合のいいことを言っている学者をどこかから探し出してくる、あるいは御用学者を動員する、という手法がまかりとおっているあいだは、真の意味で学問が政策に浸透することはありません。
青木先生 一つには終身雇用の影響でしょう。終身雇用はただ雇用が安定しているわけではなく、それぞれの組織の内部で激烈な昇進競争が行われます。この競争は人事管理でコントロールされている。だから、人事管理のクライテリア(基準)が何なのかが重要で、官僚の場合は法律を作る、あるいは予算をとってくることが大事になってくる。彼らにとっては学者も、政策を作るためではなく、そういうことに役に立つアドバイスを持ってくるために存在するわけです。
アメリカの場合は官僚の質は必ずしも高いとはいえません。しかし実際に政策形成するのは、あるレベルより上の人たちで、その層は常に動いている。そうすると、どう問題解決するかを軸に議論を組み立てなければいけないし、問題解決できなくて野に下った場合には、もう一遍カムバックするため、改めて理論を作り上げようと努力する。政策にかんして真剣勝負するし、学者との交流も実質的です。
青木先生の発言の最初の段落については、やや議論が単純化されすぎている気がしないでもないが、 少なくとも本質は外していらっしゃらないと思うし、二つ目の段落でおっしゃっていることは、まさしくその通りだと思う。

何であれ、ある集団から真っ当なアウトプットを引き出そうと思ったら、その集団を真っ当な競争環境に置いてやることが、何よりの近道だし、それに、そうすることが本質的な解なんじゃないかと思う。最近、自分の中で、そういった考えがとみに強くなりつつあるのを感じる。
my room, Washington DC, Oct 25, 11:14

No comments: