Wednesday, October 14, 2009

Skyhooks versus Cranes

Elinor Ostrom考の続き。

何はともあれ、並みいるお偉方が、それぞれに立派なコメントをされているのを見て、わけわかっていない人間が、あまり軽々にモノを言うもんじゃないと反省。ただ、Steven Levitt(Freakonomicsの著者の一人)のblog記事なんかを見ていると、経済学ムラの中で、彼女への授賞が物議を醸しているのは少なくとも事実のようである。曰く、"So the short answer is that the economics profession is going to hate the prize going to Ostrom even more than Republicans hated the Peace prize going to Obama. Economists want this to be an economists’ prize (after all, economists are self-interested). " と。彼自身はどう思っているかといえば、「Ostromの受賞が必ずしも悪いことだと言いたいんじゃなくて、ただ、僕の周りのヤツらの間では、きっと、評判悪いだろうなぁと思ったっていうだけなんだけどね。」とのこと。えらくもって回った言い方をしているが、ホントはたぶん、あんまり面白くないんだろう。

Paul Romerは、こちらのblogでOstromを絶賛(というか、逆から言えば、一般的なeconomistを酷評)している。"Bravo to the political scientist who showed that she was a better economist than the economic imperialists who can’t tell the difference between assuming and understanding.” (下線は、MSJ筆者)。

Romerのこの指摘自体には納得するのだが、では、Ostromの理論で、世界のどこまでを説明できるのか、というのが次に気になってくる。こんなことを言っていると、「説明できないものは、逆立ちしたって説明できない。それを無理矢理説明しようとするから、おかしなことになる」といった反論が返ってきそうであるが、経済学(とeconomist)に対する社会からの要請を考えると、果たして、「説明できないものは説明できない」と開き直ることが許されるかどうか…。

そんなわけで、とあるblogで「お勧め」と紹介されていた、2003年のOstrom夫妻へのインタビュー記事を読んでみたかったのだが、今日のところは時間切れ。また後日。
my room, Washington DC, Oct 14, 25:32

【追記】 一夜あけ、自ら読み直してみて、これだけじゃ、エントリーのタイトルが意味不明であることに気づく。そんなわけで、若干の補足を。“crane”と“skyhook”というのは、エントリーの中でリンクを張ったRomerの文章の中で使われている表現。「理論」という構築物を、地に足のついた「クレーン」で以て上から吊り下げるか、はたまた、宙ぶらりんの状態の「気球(skyhook)」で以て吊り下げるか、という暗喩になっている。言うまでもなく、世間一般のeconomistsは、skyhookに頼りすぎているという
批判。これに対し、Ostromは、クレーンだけで自論を支えているのでエラい!!!、というのが、Romerの論旨である。

2 comments:

outernationjp said...

いわゆるマクロ・ミクロ・計量経済学のコースワークでガチガチに固めてある経済学の博士課程を修了した人間、あるいはそういうプログラムを運営する教授陣からみるとOstromの受賞は面白くないんだろうと思います。

数理モデルとデータによる実証で如何に分析するか、そこから如何に有益な発見を出来るかどうかが経済学者としての評価を左右してきた流れからすると、如何に政治経済学という異分野とは言え、主流派の経済学が客観的でないとして否定してきたアプローチで、「経済学」賞を受賞することは意見が分かれるんでしょうね。

とにかくモデルを書いて、データを回帰分析して、20ページから40ページくらいのペーパーを、如何に高いレベルのものを、大量生産出来るかという経済学者間の競争を、苦々しく見ている主流派の経済学者もいますし。

髙林 祐也 said...

いつもコメントありがとうございます。確かに、いわゆる「主流派」からの反応は、そういった、アンビバレントなものなんでしょうね。

たまにこういった「変化球」的な授賞で、経済学界全体に対して「釘をさす」というのは有効なんだろうと思いますが(実際、今年の選考には多分にそういった色を感じますが)、去年もKrugmanだったわけで、あまり、「変化球」ばかりを連投していると、いわゆる「主流派」から見たノーベル経済学賞の価値そのものが揺らいでしまわないかなと、そんな心配も(勝手に)してみたり。

まぁ、なんとも難しいですね。(実際、こういった議論が起こっているというだけでも、今年のNobel経済学賞の狙いは当たったと言えるのかもしれませんが)