Tuesday, October 20, 2009

Proximal Term / Distal Term

人は、人の顔を認識するとき、各部分の特徴(近位項)を経て全体(遠隔項)をそれとして認識する。顔の各部分を無視して、全体としての顔を認識できるわけはない。だが、ひとたび顔全体をそれとして認識したとき(その人と別の人の顔を見分けることができるようになったとき)、近位項である各部分の特徴についての認識が危うくなる。どのようにして、顔を認識するに至ったのかというプロセスは、彼の頭の中から消えてしまう。(中略) 似たことは、人の認識のプロセス一般で起こっているというのがポランニーの主張だ。
最近読んだ、石井淳蔵著『ビジネス・インサイト―創造の知とは何か』からの一節(p.107)である。ここで挙げられている「近位項」と「遠隔項」の関係は、ことばを認識するというプロセスにも大いに妥当するように思う。
  
調子が悪くて、人の話す英語がうまく頭に入ってこない時、集中して相手の言っていることを聴き取ろうとすればするほど、僕の場合、意識は「単語」のレベルに向かってしまう。「僕の場合」と書いたが、たぶん多くの人が、そうなのではないだろうか。しかし、言語というのは、要素還元的なアプローチで把握できるようなものではない。まったく無理とは言わないが、そういったやり方では、おのずとリスニングのスピードに限界が生じてしまう。
    
「近位項=単語」に意識が捉われているとき、「遠隔項=文意」を掴むためには、「近位項の集合体」(=単語の単なる寄せ集め)から「遠隔項」(=それ全体として意味をなす文章)を再構築するという作業が必要になってくるが、それをしている間(実際には、一秒かかるかどうかだとは思うが)、流れてくる単語を拾う作業の方が、どうしてもおろそかになってしまいがちで、結果、「ワンフレーズ丸ごと聞き逃しました」みたいなことが起こってくる。脳ミソの容量がめちゃくちゃ大きければ、こういったやり方でも、言語の把握は可能なのかもしれないが、自分の母語の場合を思い浮かべてみれば、そんなまどろっこしいやり方をしていないのは明らかである。「音を拾う」という作業と「単語を認識する」という作業、それに「全体の文意を把握する」という作業が、完全に同時進行で行われており、というか、前二者については、そういう作業をしているということすら、普段は意識しない。まさに、「遠隔項」のみに意識が向かい、「近位項」が頭の中から消えてしまっている状態と言えるだろう。
  
言うまでもないが、問題は、どうすれば英語についても、そういった聴き方ができるようになるかである。察するに、これはもう、「頭を使って聴く」とか「集中して聴く」とか、そういう次元の問題ではなくて、スポーツと同様、「練習」或いは「訓練」を積んで、身体に沁み込ませるしかないのではないかと思う。いちいち、一つ一つの動作を意識しなくても、スムーズにバッドを振れるように、スノーボードで自分の思った方向に曲がれるように…。
 
というわけで、昼間のミーティングで思うように議論に参加できなかった悔しさを思い出しつつ、意味を把握できようができまいが、文の途中では立ち止まらず、できる限りの高速でひたすら音読し続けるという練習を繰り返し中。
 
まぁ、留学16ヶ月目のこの期に及んで、まだそんな話してるのかと言われそうではあるのだが…。

『ビジネス・インサイト』の詳細については、後日、改めて。非常に面白い本であった。
my room, Washington DC, Oct 19, 26:17

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