桂枝雀という人は、不世出の天才と言われながら、次第に心を病んでいき、ついには齢五十九にして、自ら命を絶ってしまった落語家である。その番組中、師匠である人間国宝の桂米朝にして「我が弟子ながら、あんな噺家はもう二度と出んと思いますわ」とまで言わしめている。そんな御仁である。
世の中というのは、完璧から程遠い、そこかしこに矛盾のあふれる世界である。また、どんな物事であれ、世の中から完全に途絶された状態で自立しているなんてことはほぼあり得ない。となると、いわゆる「三段論法」というヤツで、「どんな物事であれ、その内部には何らかの矛盾を抱えているものであり、それを取り除き、自己完結するなんてのは、土台、無理なことである」と言うことができそうである。
落語にせよ、学問にせよ、仕事にせよ、何にせよ、本質をとことんまで突き詰めていけば、きっといつかは、そういった矛盾――「本質的な矛盾」とでも言えようか――にぶち当たるのではないかと思う。一つ一つ、誤りを取り除きながら、真実に近付いて行けば行くほど、最後に見えてくるのは、もはや自分にはどうしようもない矛盾であったり、絶対に乗り越えられないことを受け入れざるを得ないほど巨大な壁だったりするんじゃないかと思う。
枝雀師匠の番組を見ながら思ったのは、ある限度を越えて、その「壁」に近付いて行くことは、いろんな意味で、すごく危険なことなんじゃないかということだ。そして、近付いて行く本人自身は、その危なさを、ある程度自覚しているものなんじゃないか、とも思う。それでも吸い寄せられるようにして、「本質的な矛盾」に近付いて行ってしまうのは、いま自分の見ているものが、まだ「本質」ではないと感じた瞬間、そこに止まることにある種の気持ち悪さを感じ、その先に進みたいという衝動に抗えなくなってしまうからではないだろうか。その衝動が、義務感や使命感といったものから来ているものなのか、はたまた、単なる好奇心から来ているものなのか、その辺のところはよくわからないのだが…。
ともあれ、枝雀師匠のような天才ならぬ我々凡人にしてみれば、頑張ってがんばって天寿を生き抜いてみたところで、そういった、本質云々の境地にたどり着けるのは極めて稀なことであろう。そう考えると、こんな心配をしているだけ、時間の無駄というものである。
番組中、師匠晩年の創作である『夢たまご』という演目のVTRが挿入されていた。なかなか不思議な味わいのある、奥深い作品(たぶん、「奥深い」んだと思う)ではあるのだが、僕的には、『青菜』や『植木屋娘』のような、起承転結のはっきりした、わかりやすい下げのある演目を演じる桂枝雀の方が、見ていて素直に面白い。果たしてこの先、『青菜』や『植木屋娘』より、『夢たまご』の方に惹かれる日は来るのだろうか…。
my room, Washington DC, Oct 26, 26:30
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