Sunday, October 18, 2009

Climate Policy v. Depression Remedy

有名bloggerの一人である本石町日記さんが、16日のエントリーで、温暖化問題に触れておられる。曰く、
現実問題として、エネルギー効率をいくら向上させても、プラス成長(生産増加)と同時にCO2排出を減らすのは無理なので、温暖化防止を最優先課題とするなら不況放置が最大の対策となる。で、問題は温暖化対策が本当に最優先課題なのか、ということ。
言わずもがなだが、有無を言わさずに温暖化最優先となるケースは、温暖化によって人類滅亡とは言わずとも大災害などで大量の犠牲者が発生する可能性が高い場合だ。生活水準を落とさなければ死ぬかもしれない、となれば不況に耐えてCO2排出の削減に誰もが努力するであろう。
温暖化対策の必要性に私がなお懐疑的なのは、経済的コストをかけるだけの価値があるかどうかが良く分からないからだ。不況がもたらす被害と温暖化がもたらす被害。後者の被害がかなり甚大であることが明確であるなら、不況に耐えるという覚悟が必要な気がする。
との由。

思うに、「温暖化の進行自体については、ある程度、事実として受け入れているが、それへの対策については消極的」な人が、何故そういった態度をとるのかについては、以下の3つのうちのどれか(又はそれらの組合せ)に集約できるのではないかと思う。
  1. マクロ的な問題に対処するよりも、目の前で苦しんでいる人の生活を守ることの方が大事である。
  2. 比較的遠い将来に発生するであろう問題に対処するよりも、現在起こっている問題(或いは、より近い将来に起こるであろう問題)に対処する方が先決である。(1.の時間軸上での拡張版とも言える)
  3. その影響及び対策の効果について、一定程度以上の不確実性がある問題については、断定的な行動を控えるべきである。
本石町日記さんが「温暖化対策の必要性」に「なお懐疑的」なのは、3.の動機によるものであろう。

最近一人で勝手に思っているのだが、この構造は、政府債務の持続可能性を巡る議論にもよく似たところがあるように思う。財政規律の健全化に消極的な態度を示す人々の動機も、おおよそ、1.~3.のどれかに集約できるのではないだろうか?(例:不況に苦しむ中小企業を見殺しにしていいのか→1、まずは経済を安定軌道に乗せるのが最優先である→2、債券市場の動向から見て更なる国債の積増しは可能である→3) 中長期的に見て、一人の論者が、立場を変えることが稀(理屈以前に信念ありき??)、という点でも、二つの議論はよく似ているように思う。まぁ、言ってしまえば、どんな議論でも多かれ少なかれ、こういった性質を持っているのかもしれないけれど。

もちろん、両者の間には大きな違いもある。1.の点については、あまり違いはないように思うが、2.については、温暖化問題の方が、受益と負担の時間的ギャップがより大きいような感じがするし(もっとも、温暖化の悪影響が本格的に発現するのはそう遠い将来ではないとする意見もある)、また、3.についても、温暖化問題の方が、一般に認識されている不確実性の度合いは、より大きいといえるであろう。少なくとも、財政規律問題については、その悪影響が実際に発現すれば、どんな悲惨なことが起こるのかという、人類共通の「記憶」があるが、温暖化問題にはそれがない。この点は、inter/intra-nationalな政治的意思決定の舞台において、非常に大きなポイントとなってくるように思う。

もうひとつ、温暖化問題に関する3.のポイントをより難しくしているのは、一つの学問領域(discipline)だけでは、この議論を語りつくせない、という事実である。財政問題については、経済学の範疇(せいぜい、プラス政治学)でおおよその議論を尽くすことができる。一方の温暖化問題については、それへの対策までも含めて議論するならば、自然科学・社会科学にまたがる、さまざまなdisciplineを動員してくる必要がある。それら複数のdisciplineを、真に「専門」と言えるレベルまで一個人で修得している人間が、圧倒的に少ないという現状の下では、こういった学際的性質を持つ問題を議論していくのは、構造上、非常に難しい。僕も含め、経済学に軸足を置く人間にとって、その外側の議論を、完全に自分の頭で理解しきることは(時間的・能力的・心理的に)非常に難しく、多かれ少なかれ、「ブラックボックス」として受け入れることを余儀なくされるわけである。その結果、「外側の議論」に参加することには、少なからず、二の足を踏んでしまう…。

ここまでの話をまとめれば、温暖化問題は、財政規律の問題とよく似た構造を持っていると同時に、より難しく、扱いづらい性質も有していると言えるように思う。
   
財政規律の問題とて、いまだ、(具体的にも抽象的にも)コンセンサスらしきものがあるわけではなく、アメリカでも日本でも、先のcrisisへの対応を巡っては、いつやむとも知れぬ議論が繰り返されているわけである。そうである以上、「より難しく、より扱いづらい」温暖化問題に対する世の中の考え方が、早晩に、どちらかに終息するなんてことは、まず起こり得ないと思ったほうがいいのではないかと思う。どちらの側に立つかは、各個人の良心(conscience)に従って決めるべきであろうが、どちらの側に立つにせよ、この問題は、そういった構造・性質を本質的に有しているんだということをよく認識し、一つメタのレベルから、処し方を考えていく必要があるのではないだろうか。

ちなみに…

経済学者が温暖化問題を議論することの難しさは、近日発売予定のSuperfreaconomicsを巡る米ブログ界の騒動からも見て取れる。日本でも『ヤバい経済学』の邦題で人気を博した“Freaconomics”の第二弾であるが、その中で、著者が「成層圏に二酸化硫黄を撒いて太陽光を反射させる、という方法がより安上がりで効果的」と主張していることについて、blog上での集中砲火を浴びせられている。今なお進行中であるが、この件を巡るこれまでの「集中砲火」の経緯については、himaginaryの日記さんに詳しい。もちろん、僕はまだ、この本を読んでいない(今後読むかもわからない)ので、なんとも言いようがないが、Krugmanがこの件について述べている以下のポイントには少なくとも賛同できるように思う。
But if you’re going to get into issues that are both important and the subject of serious study, like the fate of the planet, you’d better be very careful not to stray over the line between being counterintuitive and being just plain, unforgivably wrong.
my room, Washington DC, Oct 18, 14:30

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