Tuesday, February 16, 2010

Utility of Economics

ここ数日、何人かと議論してみて感じたこと。

経済学を勉強していて ― と胸を張って言えるほど、深く勉強しているわけでもないが ― 良かったなと思える理由の一つは、世の中の「常識」に対する疑いの目を持てること、世間一般で「良い良い」と持て囃されていることに対して、「ほんまかいな」と疑ってかかる、その「反抗」の手立てを得られたことだと思う。

もちろん、経済学自体の中にも「バイアス」は潜んでいるわけで、それ自体、無謬なわけでも全能なわけでもない。しかし、「世の中」というものが、そもそもバイアスに毒されたものだとするならば ― 正直、僕はそう感じているわけだが ― 無防備に、その「世の中バイアス」に身を晒すよりも、「カウンター=バイアス」を自らの思考回路に宿しておく方が、はるかに健全で、安全で、誠実なことだと思う。もちろん、その「カウンター=バイアス」が、経済学である必要はないわけだけれども。

ある前提の下、世の中の多くの人が「こうあって欲しい」と望む状態と、前提に基づく理論的推察の結果が異なるときには、往々にして、後者の予測の方が正しいことが多い。願望、常識、倫理観、社会通念…etc. そういった感覚的・感情的なものに流されず、「この前提からは、残念ながら、こういう結果しか生まれませんよ」とドライに言い切る考察結果を見るとき、経済学って素敵だなと思う。

現実をわきまえることからしか、良い戦略は生まれない。しかし、より「願望」に近い状態を想定したがる空気の中にあって、ドライな将来予測を主張し続けることは、精神的に全く以て容易なことではない。ある集団の中で、「異端」となる覚悟がなければ出来ないことである。

もしこの先、そういった覚悟を迫られる時が来たならば、そのとき、論理・精神の両面で支えになってくれるのは、僕の場合、間違いなく経済学であろうと思う。そう考えると、今のうちに少しでもたくさん、経済学のことを学んでおかなければな、という気がしてくる。

Maxwell School, Syracuse, Feb 16、21:40

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