環境屋さんの間では、いまや常識になった関係式(?)である。しかし、我々先進国で暮らす者にとっては、“adaptation”の方がいまいちピンとこないのも事実。だいたいが、「高波に備えて堤防でも作りまっか」という話で終わる。もちろん、東京を高波から守ることは、それはそれで大変大事なのだが、adaptationの主戦場(??)は、あくまで途上国。とりわけ、サハラ以南のアフリカは、気候変動の影響が世界で最も顕著に現れる地域といわれている。
では、アフリカに来てみれば、adaptationの何たるかが手に取るようにわかるのかというと、これが案外そうでもない。こっちはこっちで、「これから気候変動が起こりますよ。今のうちにadaptation(適応策)やっておかないと大変なことになりますよ」と、ようやく、環境庁が関係機関にふれて回っている段階のようで、現地の環境屋さん以外の人たちにとっては依然、“Adaptation, so what??”というのが実情のようだ。
自分自身、adaptationについてはほとんど素人のまま、ここまで来てしまったわけだが、この3日間、働いてみて、少しはガーナにおけるadaptationの現状が見えてきた(気がする)。そして思う。「これはなかなかややこしい話になりそうだ」と。――援助する側にとって。とりわけ、援助国の環境省/庁にとって。
何がそんなにややこしいかだが、まず、何より、「伝言ゲーム」の距離がやたら長い。典型的な二国間援助のケースで考えると、
(援助側)環境省→外務省→援助機関(又は国際機関)→(被援助側)外務省→環境省→(財務省)→各事業官庁
みたいな話になる。援助国自前の援助機関(ex. JICA、US-AID )の代わりに、国際機関がこの位置を占めることもあるし、また、お金の振分けの話なので、被援助国側の環境省と事業官庁の間に、財務省が割って入って来たっておかしくない。こうやって考えてみると、援助国側の環境省にしてみれば、自分の手元からめちゃくちゃ離れたところで(←物理的な距離の問題ではなく、間に入る人・機関の数の問題)adaptationのお金が使われることになる。そうなると、その予算が、どんな形で使われるのか、具体的に把握しろと言われても、正直、難しいと言わざるを得ないだろう。加えて言えば、adaptationとして実際に行われるプロジェクトは、たとえば食糧対策、たとえば農村対策、たとえば感染症対策…といった具合で、環境屋のナレッジが全面的に活かせる分野ではない。
もう一つの難しさは、日曜日の記事にも書いたとおり、adaptationプロジェクトと、通常の(=adaptationではない)開発プロジェクトを明確に線引きすることは、非常に困難(というか事実上、不可能)というところにある。確かに、同じ食糧対策、農村対策、感染症対策であっても、adaptation基金でfundされたプロジェクトはadaptation、それ以外の財源からfundされたプロジェクトは通常のプロジェクト、という具合に事後的に分類することはできる。しかし、このような分類は、結局のところ、文字どおり、事後的にしか役に立たない。
この「線引き不可能性」は、今後、先進国が途上国のadaptationのために、どの程度の支援を行うべきかという議論を詰めていく上で、非常に気持ちの悪いポイントになってくるんじゃないかという嫌な予感がする。何と言うか、南北両陣営の、お互いに対する疑心暗鬼の源になるんじゃないかと思うのだ。ただ、残念ながら、(たぶん)どこまでいっても「線」は引けない。adaptationをめぐる今後の議論の中で、にっちもさっちもいかなくなって、「線」が引けたことにするレトリックが現れる可能性は全く否定しないが、レトリックはあくまでレトリックであって、本質的な意味での「線」引きは、いくら知見を集めてもできないと思う。そもそもそういう性質のもんなんだと。
インターンが始まってからまだわずか3日なので、わからないこともまだまだいっぱいある(というか、ほとんど何もわかってない)。そんな状況なので、今後、思いなおして前言撤回、なんてこともあるかもしれないが(←すいません、予防線張りました)、とりあえず、今の時点での「思考メモ」として書き残しておく。
p.s. 「援助側にとって厄介」=「援助すべきでない/する必要がない」ということを言いたいわけでは全くありません。念のため。
my room, Accra, Ghana, June 3, 22:07
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