Saturday, December 5, 2009

horizontal division of labor

数年前、派遣職員の方を部下に持って仕事をしたときのことを思い出しながら、水平分業と「判断」との関係について、以下のような仮説を考えてみた。(ほぼ自分用メモ)

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あらゆる仕事(タスク)には、「判断」が伴う。言い換えれば、「あらゆるタスクは、「判断」と、「判断」を伴わない純粋な「作業」とに分けられる」と言うこともできるかも知れない。あるタスクが水平分業可能かどうかのジャッジメントは、そのタスクに内在する「判断」を軸に行うべきではないか。その際、考慮すべきと考えられる点は以下のとおりである。
  1. 当該「判断」のもたらすインパクト……世の中には、間違っても大したことのない「判断」と、大したことのある「判断」とがある。
  2. 当該「判断」の難しさ……ここでは、当該「判断」に内在する客観的な意味での「難しさ」と、分業の委託先主体の能力との相対的関係を考慮。
  3. 「判断」が必要となる事態の発生確率……通常は「判断」を要しないが、不測の事態が生じた場合には「判断」が必要となるタイプのタスクも存在する(というか、そういったタスクはわりに多い)。「不測の事態」の発生がレアなのであれば、バックアップ装置をbuilt-inしておくことで対応可能であるが、それが頻繁に起こるようであれば、(委託に出さずに)その都度、自分で判断する方が早いかも知れない。
  4. 求められる「タスク」の完成度……「1.」で「大したことがある/ない」という話をしたが、大したことがあるかないかのジャッジは、当然ながら、当該タスクの成果に求められる完成度の高さに依存する。
「水平分業適正指数(仮称)」(=あるタスクが水平分業に適しているかどうか)は、1.~4.の要素の減少関数として捉えることができる。
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僕自身の、その数年前の経験から言うと、意外に難しく、手間もかかり、それでいて非常に大事なのは、最初の時点で、「タスク」をどう切り分けるということである。普段、僕らが上司から「あれやってて」「これやって」と言われるときの「あれ」や「これ」は、「判断」と「作業」とがごちゃ混ぜになった状態のもの。これを如何にきれいに「判断」と「作業」とに選別できるかが勝負ではないかと思うのだ。
  
あるタスクの「作業」純度を高めれば高めるほど、そのタスクに含まれる(客観的な意味で)難しい「判断」の量は減る。最終的には、自分で責任を取らないといけない以上、「委託先主体の能力」はconservativeに見積もらざるを得ないが、それにしても、上手なタスクの切り分けを行うことで、委託先に任せられるタスクの量は実質的に増やすことが可能である。また、「不測の事態の発生確率」を下げるためにも、タスクの切り分けは非常に重要なポイントであるように思う。

その上で、であるが、自分の経験を振り返ってみて、ポイントだなぁと思うのは、「4.」でいうところの「完成度」のレベル。これを高めようと思えば、(「1.」と連動して、)委託に出せるタスクの範囲は必然的に狭まる。しかし、タスクAの完成度をどんどん高めていくことが、ある従業員の、彼/彼女の組織に対する貢献を、必ずしも高めるとは限らない。組織に対する一人の従業員の貢献度は、言うまでもなく、その従業員の担当するタスクA, B, C, …X, Y, Zの完成度の加重平均によって測られるべきものであり、その加重平均値を高めるためには、比較的重要度の劣るタスクの完成度を、敢えて低いレベルで甘んじる、といった判断も当然あり得る。

各従業員レベルの話と、企業レベルの話を、analogyとして比較することの無理を承知で書かせてもらうと、日本人は、この手の「敢えて低い完成度に甘んじる」という戦略的判断が非常に下手であるように思う。何事にもベストを尽くすのが日本人の美徳、という考え方を端から否定する気はないのだが、その「美徳」を楯にとって、思考を停めてしまうのは、単なる惰性以外の何物でもないと思う。
Starbucks Cafe, Connecticut Ave., Washington DC, Dec 5, 14:49

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