Friday, April 24, 2009

What makes you happy?

池田信夫氏が、直近(4/24)のエントリーの中で、「19日の記事には驚くほどの反響があり、出版化の話まで来た」と書いている。

「希望を捨てる勇気」と題されたその記事の中で池田氏が述べていることをいくつか抜き書きすると、

日本の産業構造が老朽化しており、これを再編しないと衰退する、と多くの人が90年代から警告してきた。20年間できなかったことが、これから数年でできるとは思えない。

これから始まる長期停滞においては、少子化とあいまって、ほぼゼロが自然な成長率になるだろう。

日本は現在の欧州のように落ち着いた、しかし格差の固定された階級社会になるだろう。ほとんどの文明は、そのようにして成熟したのだ。「明日は今日よりよくなる」という希望を捨てる勇気をもち、足るを知れば、長期停滞も意外に住みよいかもしれない。幸か不幸か、若者はそれを学び始めているようにみえる。

といった感じ。
  
MSJの4月1日エントリーの中で、僕は、「「低成長社会」のモデルを練り直す(或いは、もっと精緻に作り込む)必要があるということではないか」と書いた。書きながら、「じゃぁどういう方向に向かっていけばいいのか」という点は自分でも答えを持ちあわせていなかったのだが、池田氏の19日の記事を読んで、望むと望まざるとにかかわらず、日本の向かっていく先はこういう方向なのかなぁという気がした。
   
昔から何となく思っていることだが、一般的な人間にとっての「幸福」は、物質的豊かさの絶対量よりも、その変化率との相関の方が強い変数なのではないだろうかという気がする。ここでいう「幸福」は、あくまで当の本人がどう感じているかということであって、その人のことを周囲がどう思っているか――セレブで羨ましいなぁと思っているか、貧乏でかわいそうだなぁと思っているか――は関係ない。実際、周囲からは「地位もお金もあって何も言うことないよなぁ」と思われている人が、実は、年がら年中、何かに思い悩んでいて、まったく人生を楽しめていない、なんて事例はよくあるし、逆に、途上国に遊びに行ったときに、物質的にはすごく貧しそうだけれど、日本では見たこともないような屈託のない笑顔を浮かべている子供たちに出くわすことも珍しくない。

もし仮に、僕のこの仮説が正しければ、人間は、或いは、社会は、物質的豊かさの絶対量こそ少なくとも、増加率が大きければ幸せに暮らしていける、ということになる。そしてこの「増加率」という指標と、池田氏言うところの「希望」という概念とが、強く相関しているように思うのだ。この二つの仮定が正しいとすると、三段論法で、「希望を捨てた社会」=「幸福ではない社会」ということになる。だとすると、池田氏の示唆する、希望を捨てて、なお住みよい社会、というのはどういう状態なんだろうか。
  
それは、要するに「悟りの境地」ということなんじゃないかと思う。つまり、通常、僕らが普通に感じているような(したがって、経済学においてもそれを目標変数としているような)世俗的な意味での「幸福」を追求するのをやめて、「心の平穏」だとか「無我の境地」だとかを追求することで、「住みよさ」「心地よさ」を得ようとする状態。言いかえれば、池田氏自身の言う通り「足るを知る」ということであり、更に言えば「諦念」の域に達するということだろう。
  
19日の記事の中で池田氏は、「希望を捨てる勇気をもち、足るを知れば、長期停滞も意外に住みよいかもしれない」と述べているが、これは「希望を捨てる勇気を持つ」ことのススメではなく、彼なりの皮肉、あるいは、変革に踏み切れない日本社会に対する諦めの現れであろうと思う。それが証拠に、今日の記事では、
この意味で今の日本が不幸なのは、富が失われていることより希望が失われていることだろう。
と述べている。
  
よほど奇特な人でもない限り、イケイケどんどんの昇り調子のときに「悟りを開こう」なんて思ったりはしない。「悟り」を開く人には「悟り」を開くだけの、止むに止まれぬ理由があるものだ。そうやって「悟り」を開いたところで、簡単に楽になれるわけではなく、「悟り」の後には、当然のこととして、禁欲的な生活が待っている。ここでやりたい方題やってしまっては、全く以て、何のために「悟り」を開いたのやらわからない。
   
社会が「希望を捨てる」ということは、一個人としてではなく、社会全体として、この「悟り」のフェーズに飛び込むということだ。一個人としてなら、「悟り」を開くことで精神的な平穏を得、かえって心地よく暮らせる人もいるのだろうが、それを社会全体としてやるとなると(かつ、国民の自由を保障したままでやるとなると)どのような結果がその先に待っているのか、正直、僕には想像がつかない。政府が積極的に旗を振って、社会をそちらの方向に先導していくことなんて、本当に可能なんだろうかとも思う。
  
ただ、最初の方にも書いたとおり、望むと望まざるとにかかわらず、また、政府の方針如何にもよらず、日本社会は自律的に、そちらの方向に進んでいかざるを得ない状況にさしかかりつつあるような気はする。そして、留学中に、(昔から読まないとと思いながらまだ読めていない)『市場・知識・自由』を、今度こそ読もうと思った。
Maxwell School, Syracuse, Apr 24, 12:13

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