この本は、副題からも見てとれるように、「リベラリズム」の展開を中心に、アメリカの現代思想を解説していきます。
皆さんもご存じのとおり、この国は、ことあるごとに、「Libertyだ」「Freedomだ」と叫び、外国人からしてみれば「ちょっと無理し過ぎとちゃうの」と言いたくなるくらい、「自由」にこだわろうとします。僕も、アメリカに来て以来、端々に見え隠れする、この国の「“自由”至上主義」ぶりに、正直、食傷気味だったんですが(今でも食傷気味ですが)、この本を読んでみて、この国の人たちが、自分たちの国のアイデンティティの一部でもある「自由」という価値観をめぐって、深く真剣な議論を積み重ねてきたんだということは、よくわかりました。
実質的な自由を確保するために、政府は「平等」の確保にも注力するべきか、それとも徹底して市場に委ねるべきか、といったリベラリズムとリバリタリアニズムの間での議論や、国内での「リベラル」化を推し進めていった結果、80年代に発生した「差異の政治」派(ジェンダーや文化に根ざした「差異」を強調し、各人を西欧近代の同化圧力から解放することを目指す動き)と、建国の理念を中心とする伝統的価値観に回帰しようとする保守派との間での「文化戦争Culture War」と呼ばれる一連の議論――これらの議論が、単にアカデミックに行われたのではなく、現実の社会問題と結びつき、(著者の言葉を借りれば)「アクチュアルな意味を持つ」問題として議論されてきたところに、アメリカ現代思想の奥深さがあるんだろうと思います。
この点、日本はまったくかなわないと思いますね。それだけ戦後の日本は恵まれていて、「日本人としてのアイデンティティとは何ぞや??」という問いに対する答えを真剣に考えないといけないような状況に追い込まれなかったからと言ってしまえばそれまでですが。この点に関して、著者が面白い(と言ったら語弊があるかもしれませんが)意見を書いているので、少し長いですが、引用しておきます。
55年体制の下で、(中略)「アメリカ」との関係をどうするかが、日本における「左/右」の政治的な対立の中心的なテーマになった。
ただし、「左/右」の対立といっても、「左」の側にはマルクス=レーニン主義を軸とする政治哲学が一応あったのに対して、“右”の側には、それに対応するものがなかったことに留意しておく必要がある。(中略)反共・反ソを共通項にして、“現体制”を取りあえず維持しようとする勢力が集まっただけであり、明確な思想的基軸はなかった。(p.104)日本のアカデミズムや学生運動において長年にわたって、マルクス主義のようなラディカルな思想が圧倒的な優位を誇ることが可能であったのは、日本の政治・経済・文化に完全に定着しつつある「アメリカ」のプレゼンスをもはやどうすることもできないという暗黙の了解が左派的な人たちにもあったからではないかと見ることもできる。どれだけ暴れても、「アメリカ」との繋がりを現実的に断ち切ることができそうにないので、安心して観念のうえで“ラディカル”になれたということである。(p.261)
さて、今週は、読書三昧+ジム通いという、近年稀に見る(別に近年に限定しなくても超まれ!!)穏やかな一週間を過ごしてきましたが、来週からはいよいよ怒涛の春学期が始まります。しかも、青年実業家になるべく香港に帰国したはずの元ルームメイトJ君が、何の因果か再び舞い戻ってきて(ヤツが継ぐはずだった会社はどうなったんだ???)、明日から、この家に住むことになりました。というわけで、そろそろ、騒々しい日々が戻ってきそうな予感です。
my home, Syracuse, Jan 9, 20:00
1 comment:
仲正さんは説明うまいですからね。京都大学の冨田さんという教授もこの手の本も読みやすいです。私もこの本、帰国したら読もうと思っています。
大学卒業後、つい最近までローティー主義者でしたが、ちょっとアメリカに来て心境の変化が、個人的にはあります。
リベラル・保守は語られる国、論点でだいぶ変わりますので、ご都合主義の便利な用語ではありますね。
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