Thursday, January 22, 2009

Speculation without Conclusion

池田信夫氏が、御自身のブログに、こんなことを書かれていました。 (下線は僕が引きました)

ハイエクが見抜いたように、大きな社会を維持するシステムとして唯一それなりに機能しているのが、価格メカニズムである。それは富を増大させるという点では人類の歴史に類をみない成功を収めたが、所得が増える代わりにストレスも増え、生活は不安定になり、そして人々は絶対的に孤独になった。会社という共同体を奪われた老人はコミュニケーションに飢え、派遣の若者はケータイやネットカフェで飢餓を満たす。

マルクスとハイエクがともに見逃したのは、伝統的な部族社会がコミュニケーションの媒体だったという側面だ。正月に郷里に帰ると、東京では出会ったこともない人々の暖かい思いやりにほっとするが、それをになっているのは70代以上の老人だ。やがて日本からこうした親密な共同体は消え、「強い個人」を建て前にした社会になってゆくだろう。それが不可避で不可逆だというマルクスとハイエクの予言は正しいのだが、人々がそれによって幸福になるかどうかはわからない

僕的にすごくしっくりきたので、転載させさせていただきました。世間的にはリバリタリアンと目されている (と、少なくとも、僕は理解している) 池田氏らしからぬ発言だとは思うんですが。 (見る人が見れば、これはこれで池田氏らしい意見なのかもしれませんが、不勉強な僕にはよくわかりません)

社会が「進歩」していく過程で、昔ながらの「コミュニティ」は弱体化・希薄化を余儀なくされる。両者は基本的にトレードオフであり、僕らはその間でバランスを取っていくしかない (つまり、「どっちも」という選択肢はあり得ない)―― これは普遍的な真理だと思うんですが、このテーゼに対する向き合い方は、日本とアメリカでかなり違っている ―― 一言で言うと、アメリカの方が相当先を行っている ―― 気がします。

日本でも、過去に何度か (特に小泉さんの時代に) このテーゼに絡んだ激しい議論がありました。ユニバーサルサービスか、効率性向上かが争われた郵政民営化の議論もそうですし、日本的経営 (終身雇用&年功序列) から成果主義への変革論争もそう。わかりやすいところでは、プロ野球選手が大リーグに移籍しようとする度に持ちあがる下世話な議論 (賞賛すべき挑戦か、日本球界に対する裏切りか) も、その一例だと思います。

しかし日本の場合、これらの論争は、それぞれ独立した文脈の中で扱われがちで、その根底にあるはずの、「進歩」(←全面的に肯定的な意味では使ってません) vs 「コミュニティ(の維持)」という対立構造に関する認識は、ついぞ今日に至るまで、広く社会に浸透することのないまま来てしまっている気がします。

その点、この国(アメリカ)では、この対立構造がかなり一般的に共有されています。「リバリタリアン vs コミュニタリアン」 という思想界の (ゆえに一般人にはわかりにくい) 議論にとどまらず、その両者の価値観をほぼ体現するかたちで共和党と民主党とという二大政党があり、両党が、誰の目にも見えやすいかたちで(よりわかりやすくするためにPalinなんてマンガキャラまで登場させながら)論争を展開してくれる→ 対立構造に関する認識が社会全体に浸透する。この結果、現われてくる日米の違いはかなり大きい…。

なぜそんな違いが生まれたのかと言うと、何もアメリカ人が日本人より先見性があったからということではなくて、アメリカ人が、抜き差しならぬ議論を避けては通れない環境に置かれてきたから、というだけのことだと思います。それ自体、決してhappyなことではありません。しかし、Obamaが就任演説の中で"because we have tasted the bitter swill of civil war and segregation, and emerged from that dark chapter stronger and more united" と言ったように、禍福はあざなえる縄のごとし。雨降って地固まる。結果としていまここにある現状だけを見れば、この点において、アメリカが日本よりいく段か成熟しているのは否定できない事実だと思います。

自分でもどこに向かいたいのかようわからん議論を展開してしまいましたが、無理やり結論付けるならば、「アメリカの多くの内政問題(特に、国民間の対立)は、(少なくとも今の世代のアメリカ人たちが自ら選んだわけではない)この国の成り立ち・構造によるところが大きい」ということでしょうか。アメリカの内政のイケてなさっぷりを、僕ら日本人はよく笑いのネタにしますが(実際、いろいろイケてないのでしょうがないんですが)、僕ら日本人は、アメリカ人の一歩先をいっているから笑っていられるわけじゃなく、たまたま、アメリカの抱える難しい問題(の一部)を抱えずに済んだから、笑っていられる(或いは、笑っていられた)だけなんだということを、意識しておく方がいいんじゃないかと思った午後でした。

というわけで(←支離滅裂ですが)、今夜はアメリカ人たちと一緒にボーリングに行ってきます。ではでは。
Maxwell School, Syracuse, Jan 22, 20:28

2 comments:

くりた said...

そんな話、社会学者のパットナムさんがなさっていた気が。
その著書のタイトルはBowling Alone.

髙林 祐也 said...

いらっしゃいまし。

経年的にみれば、もちろん、アメリカでも「コミュニティの崩壊」的なことが進んでるんだと思いますが、日本と比べると、平均的には、アメリカの方がコミュニティは残っているような気がします。家族のことは日本人以上に大事にするし、仲間内のパーティも大好きだし。

ただ、平均はそうでも、varianceがどうなってるかはわからないけどね。実際、僕らが普段つきあってるアメリカ人なんて、ごく一握りの上流階級の人たちなんだろうしね。