わずか2分12秒のトレイラーではありますが、作品賞を受賞した"Slumdog Millionare"(→感想はこちら)との質の違いは歴然。ちょっと大げさに言えば、「映画」というジャンルでひとくくりにしてしまっていいのだろうかという気さえします。
『おくりびと』はまだトレイラーしか観てないので、あくまで一般論になりますが、映画・小説などのコンテンツものにせよ、料理にせよ、庭やお茶といった伝統文化にせよ、日本人の持つきめ細かな表現力は、この国(アメリカ)の人たちには、まず真似できないだろうと思います。よく言われることではありますが、住んでみて、改めてそのことを実感。それにはきっと理由があって、日本人の表現するモノは、基本的に、日本人の同質性に根ざしているから、つまり、日本人が共有している精神世界を前提として表現されているからではないかと。
たとえば映画について言えば、上映時間は、アメリカにせよ日本にせよ、普通2時間に限られているわけで、その中で、出演者に語らせられる言葉の数は、どうしても物理的な制限を受けます。しかし、「一言えば十わかる」という具合に前提を共有しているもの同士であれば、表面的には同じ数の言葉しかしゃべらなくても、実質的にははるかに深いものを表現できる。さらに言えば、言葉なんてなくても、ある景色を映すだけで、多くを伝えることすらできる。
そういう意味では、今回、『おくりびと』が嬉しいことにアカデミーを受賞しましたが、多くのアメリカ人は、この映画を、日本人が感じるのとはまた違った印象で観ているんだろうなと(有体に言えば、彼らは、日本人なら普通に感じられる要素のすべてを感じられているわけではないんだろうなと)思います。
一方で、文化にせよ、制度にせよ、世界を席巻するのは、前提なんてものを必要としない単純なタイプのものです。そういう意味では、この国(アメリカ)の持つ単純明快さは、日本人からしてみれば、非常に味気ないですが、同時にそうであるが故に、圧倒的な影響力を持っていることを認めざるを得ません。マクドナルド然り、Windows然り、株主資本主義然り…。
しかし、味気ない。非常に味気ない。そしてガサツ…。翻って日本を見てみれば、その同質性から来るセンチメンタルな守旧主義に、社会としての健全な前進を阻まれている部分が大いにあることは否定できません。しかし、そうであったとしても、その豊かな精神世界を決して失ってはいけないと、アメリカで『おくりびと』のトレイラーを観ながら、一人、思った夜でした。
そういう美しいけれどwetな文化と、社会の改革・前進を両立するのって、言うほど簡単じゃないってことはよくわかってるんですけどね…。
ともあれ、早く『おくりびと』の本編を観てみたいところ。1年半我慢するのはあまりに長すぎるので、こっちで観る方策を何か考えないなぁと思っています。
my home, Syracuse, Feb 23, 26:08
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