しばらくPCの画面に集中していて、ふと顔を上げてみると、窓の外がいつもよりも明るい。何だろうと思って外を見てみると、一旦融けていた雪がまた積もり始めている。雪の積もっている日は、普段より外が明るいんだという事実に気づく。当たり前のことかも知れないが、そんなことも雪国で暮らしてみて初め知りました。
さて、今日は、ある意味笑うしかなかったお話を。
今日は、朝から、クラスメイトの留学生二人と一緒にNY州の免許を取りに。これまで3人とも国際免許証で乗っていたが、滞在中に有効期限が切れてしまうので、こっちの免許を取る必要がある、というわけ。
まずは、連邦政府ビル内に入っているSocial Security Administration(SSA)へ。ここで、「この人は、Social Security Number(SSN)を取得できない人です」ということの証明となるletter(30日間有効)をもらう必要がある。
ちなみにSSNというのは、もともと徴税用に導入され、いまや事実上の「国民背番号」となっている9桁の番号のこと。官民問わず、何か登録をしようとすると必ずといっていいほど求められる。アメリカ人は基本的に全員、SSNを持っているが、外国人は就労者しか取得できない。自動車免許の取得の際にも当然SSNを求められるわけだが、I-20ビザ(留学ビザ。就労は禁じられている)で渡米している僕のような学生は、就労者ではないのでSSNを取得できない。そこでSSNを管轄するSSAからのofficialなletterが必要になるというわけ。免許発行を管轄する州陸運局でI-20を見せれば済む話だと思うのだが…。
ともあれ、制度は制度と割り切って、SSAで待つこと2時間弱。ようやくletterを受け取って、一路、NY州陸運局(Department of Motor Vehicles。略称:DMV)のSyracuse事務所へ。10分ほどのドライブでDMVに着いてみると、なんと停電で閉鎖中。しばし途方にくれる3人。しかし、North Syracuse市にもDMVがあることを思い出し、停電中のofficeの外で油を売っていたDMVの職員に大体の道順を聞いて、Northの事務所へ向かうことに。
途中、道に迷うも、11時半頃、なんとかNorth SyracuseのDMVに到着。しかしここで思いもよらぬ事件が…。
SSAでもらってきたletterを添えて免許取得の申請書を提出したところ、「このletterは無効だ」という。なんとなれば、letterの一番下に、「この書類は、『この人物がSSNを取得できない』ということを有効に証明するためのものではない」との一行が添えられていたから(正確な英語は忘れましたが、だいたいそんな感じの文意。)。確かに、この一文は意味不明。ただ、そのletterに書かれている内容からは、僕らが制度上、SSNを取得できないことは明らか。かつ、何より、その紙は「これからDMVに行って自動車免許を申請するので、そのためのletterが欲しい」といって、SSAからもらってきたもの。その旨、窓口の女性に伝えるも、最後の一文が引っかかって、あくまで「No」。さらに押すと「supervisorに聞いてみる」と言って、実際、彼女の上司に聞いてくれはしたものの、そこでやっぱり否定されて、the end。やむなく、僕ら3人は、高速を飛ばしてSSAへ戻ることに。
その時点で、letterをもう一度よく見てみると、Y君が持っていた、夏ごろに同じSSAから発行されたという同じ趣旨の(はずの)letter(既に有効期限切れ)とは、様式が違っていて、「謎の一文」は夏のletterにはなかったことが発覚。間違った紙をつかまされたのかと思いつつ、また一時間以上待たされた後、SSAの事務所でこれまでの経緯を説明すると、やっぱり今朝渡されたものが僕たちの必要としているletterだという。「このletterがDMVで拒絶されるなんてケースを聞くのは初めてだ、理由がわからない」と言うので、「僕らはもっとわからない。なんとかしてくれ」と応酬すると、「ここはFederal(連邦政府)、あちらさんはState(州政府)」と言ってみたり、「まったくbeuraucracyな出来事だねぇ…」と言ってみたり、正直、日本で同じこと言ったら袋叩きにあいそうな開き直り的発言をこともなげに連発。「最後の一文はなんだんだ?」「なぜ夏のものから様式が変わったんだ?」と聞いてみても「少なくとも最近はこの様式を使っているし、このletterがDMVに蹴られたなんて話はこれまで一度も聞いたことがない」の一点張りで埒が明かない。
DMVの受付終了時間(15:30)も近づいてきたので、仕方なく、最後の望みをかけて、最初に行った方のDMVにもう一度行ってみることに。今度は、停電も直っていて、締切15分前に何とか滑り込む。面倒くさいので今日一日の経緯など、何も説明せずに、シレっと件のletterを添えて提出してみたら、何も言われずに受理。試験にも通り、半日余計にかかったものの、なんとか当初の目的は達成することができた。
それにしても、である。停電という不運にも見舞われたとはいえ、半日で済むはずの仕事に丸一日もかかってしまった。それはとりもなおさず、North SyracuseのDMVやSSAの対応はあまりにもひどかったから。いかにもアメリカ的と言ってしまえばそれまでだが、あまりの無駄の多さに、怒りというより呆れてしまった…。
と、愚痴っているだけでは意味がないので、この事例から、多少なりともアメリカ人の労働気風の分析を。
まず言えることは、「組織としての責任」という意識が日本に比べると著しく希薄だということ。つまり、何か問題が起こったとき、その原因が自分の職責の範囲内にはないと判断した時点で、その担当者は思考停止に陥ってしまう。その人自身の職責の範囲内ではないにしても、その人の属する組織が責任の一端をになっているということに対して、申し訳ないと感じたり、何か問題復旧のための努力をしようとしたり、といった行動がほとんど見られない。ましてや、「連邦政府であれ州政府であれ、同じ"役所"なんだから、その間に落ちた問題で市民を困らせていることは、原因がどっちにあるにせよ、"役所"として申し訳ないことなんだ」なんて発想は、彼らの頭には微塵もわいてこないんだと思う。これが一点目。
二つ目は、とかく経験主義的だということ。今日の例でいえば、SSAのおっさんがその最たる例。論理的に文章や状況を理解して、そこから結論を引き出そうとする努力がまったく見られない。「これまでもこれでやってきた」「これまでも問題なかった」と言うだけで、それ以上の論理的な原因追究には至らない。
三点目は、裁量の余地が非常に大きいということ。この国で暮らしていると、「supervisorに聞いてきます」という言葉をよく聞く。日本語で言うところの「ウエに上げます」だが、一つ目との関係もあってか、この国の人たちは、ちょっともめるとすぐに「ウエに上げ」ようとする。そのこと自体、組織の効率的運営という観点から、必ずしも悪いことではないのかもしれないが、そのあとに出てくる「supervisor」なる人が往々にして甚だ怪しい。したり顔で物事をさばくのだが、彼らの言うことがまちまち。今回、ふたつのDMVでletterに対する判断が全く違っていたように。二点目とも関係するが、たぶん、客観的なルールから演繹的に結論を引き出すことを重視する風土が少なく(それをすれば、ブレは少なくなるはず)、安易に個々人の経験に頼って結論を導くことを容認する雰囲気があるので、superbisor次第で判断がブレる、ということになるんだと思う。
以上、なんだか長々と書いてしまいましたが、今日一日の笑うしかなかったある意味貴重な(?)経験と、その経験から感じたことでした。(新しい筆致、いまだ定まらず…。)
my home, Syracuse, 27:00, Dec. 16