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Tuesday, March 2, 2010

prep for Friday panel

今週の金曜日、とある授業にゲストスピーカー(?)としてお招きいただくことになった。お題は、「ガーナでのCDM promotion experienceから学んだこと(仮)」。この記事とこの記事を元ネタにしゃべろうとは思うのだが、10分という与えられた時間で話すには長すぎる ― というか、もともと、organizedされた文章というには程遠い ― ので、パワポづくりに着手する前に、今一度、文章ベースでまとめ直しておこうかと。テーマは、「なぜ低開発国でのCDM実施は難しいか」。

===============
そもそも、CDMというのは、何らかの事業(project)と一体となって、行われるものである。事業をするには当然ながら、金が要る。資金がショートすれば、それがどんなに「良い」事業であっても ― ここでいちいち「良い」の尺度を検証することはしないが ―、実施・継続することは不可能。これが大前提。

俗に「CDM事業(CDM projects)」と呼ばれるものをファイナンスの面から考える際には、“Conventional Project”と、(狭義の)“CDM Project”(あるいは、“additional CDM-specific component”)に分けて考えるのが有効である(UNEP(2007) “Guidebook to Financing CDM Projects”)。“Conventional Project”は、いうなれば「事業そのもの」。たとえば、風力発電のCDM事業(広義)を実施するのであれば、「風車による発電事業を計画し、風車を建て、その風車を実際に運用する」というのが、“Conventional Project”に当たる。これに対し、「諸々の手続きを経て、当該プロジェクトをUNFCCC事務局のCDM委員会に登録(registration)し、Carbon Creditsを販売し、monitoring、verificationを経て、CER(Carbon Emission Reduction。いわゆる「排出権」)を発行する」という一連のプロセスが、狭義の“CDM Project”、あるいは“additional CDM-specific component”に当たる。これを図にしたものが下図。(UNEP(2007) “Guidebook to Financing CDM Projects” p.52) 
Conventional Projectと(狭義の)CDM Projectは、それぞれに、費用と収益を生む。最初に掲げた“大前提”に照らして考えると、事業を実施・継続するためには、
{Conventional Projectの収益+(狭義の)CDM Projectの収益}-{Conventional Projectの費用+(狭義の)CDM Projectの費用}≧ 0
でなければならない。これを「条件A」とする。

もちろん、左辺がネガティブとなった場合に、NGOその他の団体が、損失を補填することも可能ではあるが、もしそのNGOが、(Conventional Projectの規模から見て)潤沢と言える資金力を持っているのであれば、最初からCDM revenueには頼らず、Conventional Projectだけを行えばいい。当該プロジェクトでCDMの利用が検討・模索されている時点で、そこまでの資金力はないものと想定できる。(多少のマイナスであれば補うことは出来るかも知れないが。)

なお、ODA資金のCDMへの流用(diversion)は、COP7(2001)での決定事項(いわゆる“マラケシュ合意”)の一つ、Decision -/CP.7 Modalities and procedures for a clean development mechanism
as defined in Article 12 of the Kyoto Protocolの前文で、以下の通り、禁止されている。
Emphasizing that public funding for clean development mechanism projects from Parties in Annex I is not to result in the diversion of official development assistance and is to be separate from and not counted towards the financial obligations of Parties included in Annex I,
次にキーになってくるのが、京都議定書第12条5(c):

5. Emission reductions resulting from each project activity shall be certified by operational entities to be designated by the Conference of the Parties serving as the meeting of the Parties to this Protocol, on the basis of:
(c) Reductions in emissions that are additional to any that would occur in the absence of the certified project activity. 
---------------------------
5 事業活動から生ずる排出削減量は、次のことを基礎として、この議定書の締約国の会合としての役割を果たす締約国会議が指定する運営組織によって認証される。
(c) 認証された事業活動がない場合に生ずる排出量の削減に追加的に生ずるもの

 (京都議定書 原文・和訳)

の定める、「additionality(追加性)」基準。非常に難解な規定であるが、話を事業収益の部分に絞ると、
Conventional Projectの収益-Conventional Projectの費用<0
でなければCDMとしては認めないということを言っていると解してよい。これを「条件B」とする。

条件A及びBを踏まえると、“成功するCDM”の条件は、
  1. Conventional Project部分の赤字幅が小さいこと(ただし黒字であってはいけない)
  2. (狭義の)CDM Project部分の黒字幅が大きいこと
の二つ。

1.を満たす案件=「ギリギリ赤字」案件になるかどうかは、多分に、個々の案件の個別事情に依っており、そのような案件の見つかりやすさと、ある国の発展度合いには、あまり大きな相関はないのではないかと想定される。

一方、2.については、一定の相関が認められる可能性が高い。というのも、(狭義の)CDM Projectは、固定費用(fixed cost)が大きく、限界費用(marginal cost)が逓増しにくいビジネス。このことは、CDMの登録及びCERの発行に伴う手続きが非常にcost-consumingであること、その反面、コストの総額は、主に関連する施設数・事業所数に連動するのであって、削減総量との相関は比較的薄いという事実から、推量できる。

ということは、一か所で大量の温室効果ガス(GHG)を削減できる事業こそが、2.の条件を満たすということ。その代表選手は、化学工場でのHFC又はN2Oの排出削減事業ということになるが、そういった案件は、中印墨伯などの中進国に集中していて、低開発国にはほとんどない。また、エネルギー転換(Fossil fuel switch)や省エネ(Energy Efficiency)などのCDM事業も、事業実施前に、それなりの量のGHGを排出していてはじめて、それなりの量のGHGを「削減」できるのであって、もともとそのような大量排出施設を持たない低開発国にとっては、これらで攻めるというのもなかなか苦しい。

実際、ガーナでインターンをしていたときには、「“three-stone stove”を、近代的な窯に置き換える事業を、CDMでファイナンスできないか?」といった話もあった。確かに、料理用の加熱設備を近代化することで、燃焼効率が上がり、薪材の使用量が減れば、GHGの排出削減に貢献するであろうことは、理論的には理解できる。しかし、もしこの案件に、CDMを適用しようとすれば、Conventional Projectの赤字を補うどころか、(狭義の)CDM Project単体で赤字を計上するはめになってしまうだろう。要するに、減らせるGHGの量(及びそれに比例して発行されるCERの量、ひいては、その売却益)に比して、手続きに手間とお金がかかり過ぎるのだ。

stoveの話は、やや極端な例であるにしても、ガーナくらいの発展度合いの国で、上記2.の条件に照らして十分な排出規模(=排出削減ポテンシャル)を持つ案件を見つけ出すことは容易でない。ここに、低開発国でのCDMの実施が難しい、最大の原因があるように思う。

加えて、リスクの問題もある。当然ながら、Conventional Project自体も事業リスクをはらむわけだが、それに加えて、(狭義の)CDM Projectも、それ独自のリスクを有している。具体的に挙げれば、登録(registration)に伴うリスク(=何らかの理由により、手続きでつまずき、CDMとして認められない)、CER issuanceに伴うリスク(=CDM案件としてはregistrationされたものの、予定されていただけのGHG排出削減が実現しない)、CER価格の変動に伴うリスクなど。次期枠組みを巡る国際交渉の進捗状況なども、価格に影響を与えるリスク要因となりうる。

仮に同じだけのリスクに晒されるにしても、低開発国の小規模案件の事業体(project owner)と中進国の大規模案件のproject ownerを比べれば、後者の方が資本力が大きく、その分、リスク耐性も大きいケースが多いだろう。加えて、CER売買契約の際、買い手との間で交わされる、売り手・買い手のどちらが価格変動リスクを負うかについての交渉においても、売り手が、より大きなロットを手にしているときの方が、対買い手の交渉力を大きく保てることは想像に難くない。また、登録リスク、CER発行リスクについても、一般的に、大型案件の方が定型化が進んでいるので、そうしたリスクは少ないはずである。

こういったことから、低開発国でのCDM実施は、構造的な難しさを抱えていると言わざるを得ない。今後、次期枠組み交渉が難航し、CDM市場に流れる資金の量そのものが先細りすれば、低開発国でのCDMの実施は、ますます難しさを増すものと予測される。
Maxwell School, Syracuse, Mar 2, 22:28

Wednesday, February 10, 2010

"Measure for Measure"

ときどき、このblogにもコメントをくださる某先輩が面白い記事を転送してくださった。“Measure for Measure” by Craig Pirrong @Global Energy Management Institute, Bauer College of Business, University of Houston。

いちおう、2月7日のFTの記事へのコメントという体裁になっているが、オリジナルの記事の方はたいして面白くもないので読む必要なし(何様だ、オレ?) Pirrongの記事だけ読んでも十分理解できるし、Pirrongの記事だけ読んでも十分に時間がかかる――blog記事にしてはめちゃ長い(笑)

この記事のポイントは、
although there is a strong conceptual case to be made for offsets (if it is cheaper to capture carbon somehow rather than reduce carbon output on other margins), the practical difficulties make it highly problematic to rely heavily on them.
The practical objection relates to transactions costs, notably what is sometimes called the measurement branch of transactions cost economics.
(拙訳) (他の利益を生み出す際に発生する炭素の排出を(その利益と一緒に)削減するのと比べて、どちらが安上がりかということについて)オフセットを支持する強い理論的論拠があるが、実務上の難しさを考えると、オフセットに強く依存することには大変疑問がある。実務上の反対理由となるのは、トランザクションコスト、とりわけ、measurement(測定)に関する部分である。
というところにある。

なぜそう言えるかについて、blog後半で(長々と)論じられているが、Pirrongの論点は、大きく分けて、以下の三点に集約できるかと。

1. carbonは“bads”である。
carbonは、正の価値を持つ“goods”ではなく、負の価値を持つ“bads”なので、goodsの場合とは違って、“consumer”は真面目にその品質をmonitorしようというincentiveを持たない。よって、その測定に関するpublic regulationが必要となり、transaction costが発生する。

2. 債権としてのpermanence(永続性)の保障が困難。
オフセット事業を実施するdeveloperが倒産した場合、約束されたはずのcreditが発行されなくなってしまう(=permanence loss risks)。このリスクをmanageする目的で、保険が売り出されたり、オフセットの「格付け」機関が登場したり、CDOs ― carbon derivative obligations ―が開発・販売されたりするだろうが、先だってのfinancial crisisで一般の債権に起こったことを思い起こすと、これらの仕組みが十分に機能するとは思えない。

3. additionality(追加性)の測定・判断が困難。
additionality(追加性)とは、あるオフセット事業から「産出」されるcarbon creditの量を算定する際のベースとなる考え方で、creditの販売益という「補助金」があろうがなかろうがいずれにせよ行われていたはずの事業と、実際にオフセット事業として行われる事業とのギャップを把握することで、「追加的」に削減されるcarbon emissionの量を特定しようというもの。しかし実際には、「いずれにせよ行われていたはずの事業」(“base line scenario”と呼ばれる)の排出量を特定するのが非常に困難。Pirrong曰く、“highly, highly subjective, and built on layer after layer of assumptions.” (とてもとても主観的で、何層もの仮定の上に立脚している)との由。

Pirrongがこの記事の中で言っていることは ― CDOsは、Collateralized Debt Obligationsに絡めたダジャレだと思うが ―、去年の夏、僕がガーナでインターンをしながら実際に感じた印象と非常に近い(参照1、2、3)。だからといって、「CDM廃止論」や「オフセット不要論」に直行するわけではないが、CDMやオフセット(ひいては、cap-and-trade)を考える際に、こうしたmeasurement issuesへの配慮が少なすぎるというPirrong指摘には全面的に同意できる。

経済学の観点からbig pictureを掴むのも大事だが、こういうB-School的な観点から地に足の着いた議論をしていくことも、政策を考える上では非常に大事。問題は、経済学の議論以上に、耳を傾けてくれる人が政策畑に少なそうだということ。説明側の能力次第と言ってしまえばそれまでなのだが…。
My room, Syracuse, Feb 9, 15:02

Tuesday, August 4, 2009

Development depends on efforts

昨晩は、一緒に出張に行かせていただいた日本人の上司の方(土曜日に御馳走していただいた方です)と、とあるホテルのレストランで、いろんな話をさせていただく。本当にいろんなお話を聞かせていただいたので、すべてをうまく消化しきれているわけではないのだが、今思い出してみて、特に大事だと感じる二点を書き残しておく。
  • 二つの仕事(職業でも、組織でも、ポストでも)を比較して、どっちが良い、どっちが悪いと論じることにはまったく意味がない。比べること自体がナンセンス。それぞれの仕事には、それぞれのメリットとデメリットがあるもの。国際機関で働くことは一見、華々しくも見えるが、プライベートの面での犠牲が大きいのも事実。一方で、安定して見える日本の組織であっても、そこで働き通すにはそれなりの努力と覚悟が要るものであり、その中で培われていく能力は決して馬鹿にされるような代物ではない。ポイントは、自分が大事にしたいと思っている物事を実現できる場に立てているかどうか、ということ。「自分の大事にしたい物事」が、年齢とともに移ろっていくのはある意味、自然なこと。それはそれでいいので、そのときどきにおいて、自分が何を一番欲しているかを見極め、それにあった仕事を選んでいくことが重要。
      
  • 日本人にとって、「国際的に通用する人」になるということは、Westernizeされることとイコールではない。欧米人のやり方を真似ることで、国際人としての素養を高めようとしている間は、欧米人を超えることは決してできない。日本人には日本人なりの、他国の人に真似のできない独特の強みがある。とことん詰めてモノを考える習慣であったり、チームの中で自らの役割を的確に見出し、それを果たす能力であったり。そういった能力が高く評価されるのは、何も日本独特のカルチャーではなく、国際的な舞台においても同じ。日本人(特に、日本の組織の実務経験を持つ人)は、自らの持つそういった能力の有用性を自らきちんと認識すべきであり、いたずらに欧米流のimitationに走るべきではない(ただし、一定の「文法」としての国際カルチャーを身に着けていることが前提)。

なんてことを思い出していたら、今日の本石町日記に、ルワンダ中銀総裁を務められた服部正也氏の昭和59年の国会答弁(抜粋)が掲載されていて、読んでいると、なんとなく、昨日のお話とかぶるものがあった。とりわけ、以下の部分が熱い。孫引きになるが掲載させていただく。

「仮に日本が援助をふやさなきゃいかぬということで、日本が世界全体のGNPの一〇%になるような大国になったならば、日本が援助哲学あるいは援助理論の間違っていることを正す、日本の援助理論を出すということが日本のまず第一の責任ではないか」

「いかに人間の努力というものがいろんなものを克服するかということがこれは日本人の歴史の中であるわけなんで、これを伝えるということ、機械的な統計的なモデルというものでやることがいかに不毛だということ、これはもう人間信頼の問題、個人信頼の問題だと私は思っております」

若干、思いが先走っていたのか、話者の意図が完全には把握しきれない部分もあるが(特に二つ目の引用)、一国の発展というのは、マクロ経済的な成長モデルで説明のつくようなものではなく、むしろ、国民一人ひとりの「努力」「頑張り」といった、多分に精神的な要素が決定的に効いてくる世界なんだ、ということがおっしゃりたかったのではないかと思う。そして、その点に激しく同意する、ガーナでのインターン、最後の夜であった。politicallyに難しいissueではあるのだが、開発・発展を考える上で、その点を無視して考えることは、現実を見て議論をしていることにはならないだろう。もっとも、この論点が、「努力して発展することは果たして普遍的な善なのか」という、より根源的な問題を惹起するのも事実なのだが。

というわけで、これから、歓送会に行ってきます。

Accra, Ghana, Aug 4, 18:15

Sunday, July 12, 2009

Trip Over the Lake

昨日は、念願叶って、初の郊外出張に行ってきました。先週木・金とAccraで行われていた国際会議の附属イベントとして行われたone day tripに同行させてもらい、Volta Lakeの向こう側、東の隣国Togoとの国境に位置するVolta Resionへ。今回のツアーは、同会議を主催する某国際基金が援助しているコミュニティベースのプロジェクトの実施サイトを巡るもの(と書くと、分かる人には、「某国際基金」がどこのことか、すぐに分かってしまうと思いますが…)。以下、各村での体験を徒然に。

一つ目の村は、村落周辺の森林を保護するプロジェクトが行われているところ。昨日は、プロジェクトサイト自体にはお邪魔できなかったのだが、代わりに(代わりに??)村人総出の大歓迎を受けた。
  
観光バスが到着するや、民族衣装を着た露払い風の男性が、打楽器を打ち鳴らしながら何事かを高らかに歌い始める。彼の先導の下、村の集会所までたどり着くと、そこでは、村の若者たちが太鼓とダンスで大歓迎(左の写真)。最後に、立派なトーガを身にまとい、右手にきらびやかな杖を持ったChief(酋長)と思しき老人が現われ、僕たちを集会所内部に招きいれてくれた。
 
集会所の中では、事務的な内容(NGOスタッフからのプロジェクトの進捗状況の説明など)と儀式的な内容が同時並行で進行。時間的には前者3:後者7。印象的には1:9で圧倒的に「儀式」の勝ち(笑) 村人たちと、我々一行との友好を確かめ合う(のが目的なんだと思う。もちろん説明はなかったけど。。)儀式の最高潮では、集会所の中にいた村人の皆さんが、一斉に「あわわわわわ」と叫びはじめ(西部劇で、native americanの人たちがよくやっている、手を口に当てて声を反響させるアレです)、それはそれは、結構な迫力でした。

こういう、「近代」と「土着」の融合する場面は、アフリカに限らず、日本を含め、どこの国でも多かれ少なかれ見られるものであるが、よそ者からするとやはり非常に興味深い。首都Accraにいてはなかなか見ることのできないoriginalなGhanaの一面に触れることのできた、非常に貴重な経験であった。(二つ目の写真は集会所の中の様子)

二つ目の村では、sustainable agricultureの活動が行われていた。この村では、1993年に土砂崩れが発生し、農地が崩壊。その後、村の若者が中心となってNGOが結成され、彼らが他の村人をコーディネイトする形で、持続可能な農業の実践を行っているらしい。あまり詳しいところまでは理解できなかったのだが、要は、育てる作物をうまく組み合わせながら、土地がやせ細ってしまわないよう、持続的な耕作を行っている、ということなんだと思う。左の写真はナスビ畑。この地域のナスビの実は、表面が白く、日本のナスビよりも小さい。その実物を見て、「あぁなるほど、だからegg ptantなのか」と、思わず膝を打った(恥ずかしながら、なぜ“egg plant”なのか今まで知りませんでした )。
  
興味深かったのは、土地の権利に関するお話。活動を始める際、そのNGOは、役場からではなく、この村のChiefから、承認を受けたんだとか。というのも、村の土地については、事実上の処分権限をChiefが握っている。確かに、考えてみれば、近代的な土地台帳があるはずもなく、そもそも、municipalityの施政がどこまで及んでいるのかは謎。となると、なんとなく「ここからここまで」と区切られた村の内部については、Chiefが土地の使い道を決める、というのも道理と言えば道理なのかも知れない。だが、ふと思ったのだが、たとえば、aforetationやre-forestationのCDMを組む場合、その対象地の範囲を明確する必要があると思うのだが、こういったケース(Ghanaに限らず、こういうケースは少なくないはず)はどうやっているのだろうか。
  
最後に訪れた村は、村の周囲の森林を刈ってしまわず、維持・育成することで、野生のサルを保護し、エコツーリズムで生計を立てるというプロジェウトに取り組んでいる。
   
とはいえ、野生のおサルさんになんて早々簡単にはお目にかかれないだろうと思いながら、トレイルを歩き始めると、特に待つこともなく、普通にお会いすることができた。しかも、一匹と言わず、何匹も(左下の写真)。なぜこんなに簡単に野生のおサルさんに出会えるかといえば、ごく単純な話で、バナナで餌付けしているから。トレイルの途中に「餌付け」ポイントがあり、そこに来ると案内役の村人さんが、観光客にバナナを手渡し、餌付け体験をさせてくれる。
  
その光景を見ながら、(いちおう)環境屋のハシクレとしては、「うーん…」と思ってしまったのだが、この村の人たちからしてみれば、森を畑にせずに保存している以上、観光収入が得られないことには食べていけないわけで、そのためには、観光客にコンスタントにサルに出会っていただかねばならず…。森が刈り取られ、サルがどこにも住めなくなってしまうことに比べれば、これもまぁ、ある種のsecond bestなのだろうと、自分を納得させたでありました。

と、盛り沢山で大満足の一日であったのだが、 ガーナの田舎道の悪路には、相当参った。言うまでもないが、NY州の道路なんて、いくら整備が行き届いていないと言っても、昨日の道に比べれば天国のようなもの。途上国の地方部が経済発展をしていく上で、まともに走れる道路を敷くことが如何に重要かということを、身に沁みて経験した一日であった。

なんて言っていたら、明日・あさっては、再び一泊二日で郊外に出張。田舎の様子を見れるのは嬉しいのだが、またあの悪路を行くのかと思うと、嬉しいような辛いような。。(笑)
  
最後に、エコツーリズムの村で撮った、立派な大木の写真を。全く自信はないですが、おそらく、アフリカンマホガニーの木だと思われます。
African Mahogany?, Volta Resion, Ghana
Accra, Ghana, July 12, 18:31

Saturday, July 11, 2009

The White Man's Burden

あるじの本棚に転がっていた“The White Man’s Burden”を流し読み。“The Bottom Billion”や“Dead Aid”と並び、ここ数年の援助関連ヒット作の一つ。著者は、先日読んだ“The Elusive Quest for Growth”と同じ、William Easterly。“The Elusive Quest for Growth”を出版した時点では世銀に勤めていた彼だが、同著で伝統的な援助手法を批判したおかげで世銀にいられなくなり、今はNYUに移って教授職に就いているんだとか。本著は、前作“The Elusive Quest for Growth”の発刊から5年後、NYUの教授としてEasterlyが世に放った最初の一冊である。
  
言うまでもなく、ベースにある考え方は前著と同じ。これまでの援助は、経済合理性への配慮を欠いていたがために、そのほとんどが失敗に終わり、中には、途上国の発展に悪影響を及ぼしたものさえ少なくなかった、というもの。これを説明するために、前著では“incentive”という言葉が繰り返し使われていたが、本著では、“Planner vs Searcher”という対立軸が、全編を貫く大きなテーマとなっている。この“Planner”と“Searcher”については、作中、 “Let’s call the advocates of the traditional approach the Planners, while we call the agents for change in the alternative approach the Searchers.”と述べられている。少し補うと、“the traditional approach”=「援助する側が大きなプラン(Big Plan)を作成し、それに軸足を置いてすべての援助活動を進めていこうとするアプローチ」の正当性を標榜する人を“Planner”と呼び、それに対し、“the alternative approach”=「計画に依存するのではなく、marketの中に答えを探そうとするアプローチ」に依拠する人を“Searcher”と呼ぶ、ということのようだ。

この両者の比較考察(を通しての“Planner”批判)が、なかなか興味深いものなので、少し長くなるが、引用しておく。ちなみに、引用の冒頭に“In foreign aid,” とあるが、ここで述べられていることは、何も援助の世界に限ったことではなく、行政一般に言えることだと思う(だからこそ非常に興味深い)。
In foreign aid, Planners announce good intentions but don’t motivate anyone to carry them out; Searchers find things that work and get some reward. Planners raise expectations but take no responsibility for meeting them; Searchers accept responsibility for their actions. Planners determine what to supply; Searchers find out what is in demand. Planners at the top lack knowledge of the bottom; Searchers find out what the reality is at the bottom. Planners never hear whether the planned got what it needed; Searchers find out if the customer is satisfied. . . . A Planner thinks he already knows the answers; he thinks of poverty as a technical engineering problem that his answers will solve. A Searcher admits he doesn’t know the answers in advance; he believe that poverty is a complicated tangle of political, social, historical, institutional, and technological factors. A Searcher hopes to find answer to individual problems only by trial and error experimentation. A Planner believes outsiders know enough to impose solutions. A Searcher believes only insiders have enough knowledge to find solutions, and that most solutions must be homegrown.
この世界には、市場だけでは処理しきれない問題(=「市場の失敗」)がある。原理的に言って、それがあるからこそ、行政があり、援助があるわけであって、行政サービスを(或いは援助を)すべてmarket baseで提供できるというのなら、そもそも、行政なんていらないということになる。それが本当なら誠にhappyなことだが、残念ながら、市場はそこまで完ぺきではない。そのことは、Easterly自身も認めている。“This is not to say that everything should be turned over to the free market that produced and distributed Harry Potter*. The poorest people in the world have no money to motivate market Searchers to meet their desperate needs.”と。認めた上で、“However, the mentality of Searchers in markets is a guide to a constructive approach to foreign aid.”と述べている。まさにその通りかと。

“the mentality of Searchers”に沿って具体の政策を考えるというのは、実際には非常にタフな挑戦だ。“the mentality of Searchers”を心中に宿したからと言って、自ずと具体的な答えが見つかるわけではない。本当の答えに行きつくためには、時間をかけて、まさにEasterlyの言うようなtrial and error experimentationを繰り返していくしかないのだろう。しかし、まず第一歩としては、Plannerの人が、(すぐにSearcherにはなれなくても、)EasterlyのPlanner批判に真摯に耳を傾けるだけでも、大きな価値があるように思う。

* なかなか普及しない貧困対策とは対照的に、圧倒的な普及に成功した“Searcher”の実績の代表として、Harry Potterが例示されている。
my room, Accra, Ghana, July 11, 23:44

Friday, July 10, 2009

Countdown for OBAMA

今から数時間後、ObamaがAccraにやってくる。
  
そんなわけで、Accra市内は、少しばかりの興奮気味。とはいえ、ラテン系の人たちのように、何かあれば踊り狂うというタイプではないガーナ人。星条旗を掲げている車は、普段より多く見かけるものの、街の雰囲気が、普段と全然違っている、というわけではない(ちなみに、アメリカに限らず、いろんな国の国旗を車にくっつけて走るのは、ガーナの流行りらしい。売れ筋は、アメリカ、カナダ、南ア、UKあたり。残念ながら日章旗は見かけない。)。

と思っていたら、僕と同じユニットのガーナ人のおばちゃんが、「Obamaを見に、これから空港に行ってくる」と言って嬉しそうに帰って行った。まず実物は見れないんじゃないかと思ったが、おばちゃんがあまりにも嬉しそうだったので、そんな無粋なことは口にできず、「会えるといいね!!」と言って送り出してしまった(苦笑)

Independend Television Newsというイギリスのテレビ局が、Accraの様子を報じている(知らなかったのだが、googleのニュース検索で、Youtubeのテレビ画像も拾えるようになっていた。めちゃ便利)


画像の中で、University of Ghana のpolitical scienceの教授がこんなことを言っている。
Ghana was the first country of sub-Sahara to get independence, and then it has been a stable country, very very stable.
これと同じようなことは、この学者さんに限らず、政府の役人からタクシーの運ちゃんまで、Accraの人たちみんなが口にする。「独立後、一度も内戦をしたことがない」「peacefulな国民だ」「stableな国だ」「democraticな国だ」というのは、この国の人たちみんなが共有するお国自慢なのだ。

でもそれは、アフリカの中にあっては、確かに本当に稀有なことであるし、異なる民族から成る国でありながら(ガーナにもやはりいろんな民族の人がいて、mother toungueでは、互いに意思疎通を図ることもできないらしい)深刻な民族対立を経験しなかったというのは、やはり、すごいことだと思う。

ただ、経済発展との関連でいえば、事態はもう少し複雑だ。小さい国土の中にも、金、ココア、材木といった輸出資源を持ちながら、本格的な工業化には失敗し、経済面では、西アフリカの盟主の座を、完全にナイジェリアに持っていかれている(もちろん、ナイジェリアには石油があるのが大きいのだが)。
  
果たして、民主主義は、経済的発展の面でも、もっとも効率的なシステムだと言えるのか。1960年当時、GDP per capitaでほとんどガーナと差のなかった韓国やシンガポールが、ある種独裁性を帯びた 政治体制の下、目覚ましい発展を遂げたのと比較するに、その問は、即答するには難しすぎる。
   
しかし、経済的にはそこまで豊かでなくても、国民が自由を謳歌し、自国に誇りを持てるということは、それだけで、素敵なことではないか。もうちょっと仕事には責任を持ってほしいし、仕事上のアポをすっぽかすのもいい加減ににしていただきたいが(…)、とはいえ、この国は、「アフリカでもっとも民主主義が定着している国」として、Obamaのsub-Sahara訪問第一号に選ばれるに値する、素敵な国だと心から思う。
Accra, Ghana, July 10, 16:24

Tuesday, June 30, 2009

Computer in the Crowd

最近読み終わった二冊の本の感想文を。

一冊は、William Easterlyという世銀エコノミストの書いた“The Elusive Quest for Growth”。6月7日のエントリーでも触れたとおり、なぜ多くの途上国で経済成長の模索が失敗に終わったのかが書かれている(『エコノミスト 南の貧困と闘う』という邦題で訳本も出ているみたい)。全編を通してのキーワードは“incentive”。政府も含め、あらゆる主体は“incentive”に導かれて行動する。先進国ドナーによる多くの援助は、その事実を無視(或いは軽視)して行われてきたため、大した成果をあげることができず、それどころかマイナスの影響を与えることも多かった――というのが著者の主張。

その前に読んだ『クラウド化する世界』(後述)があまりに素晴らしかったので余計にそう思ったのかもしれないが、経済学を一通り学んできた人間にとっては、ある程度当たり前に思える主張が多く、「目からウロコ」な記述には残念ながら出会うことができなかった。ただ、具体例の提示が多いので、ものを考えるきっかけを得るには悪くない本。「前時代の遺物を抱えていない途上国は、先進国よりむしろスムーズに新技術に適応できる可能性がある」と述べられたChapter 9は、裏から読めば、如何に先進国でinnovationを起こすのが大変かというようにも読め、日本の現状を思うと非常に耳の痛い話。

もう一冊は、Nicholas Carrの『クラウド化する世界』邦訳版(原題“THE BIG SWITCH”)。この二年くらいの間に僕が読んだ本の中で、一番と言っていいくらいにおもしろい一冊だった。

「クラウド(=雲)コンピューティング」と呼ばれる現代のコンピュータ社会を、いろんな側面から解き明かした一冊で、無理やり分類すれば、数年前に大ヒットした梅田望夫氏の『ウェブ2.0』と同じジャンルに位置づけられるのかも知れない。ただ、あの本より数倍深い(←正直に言うと僕も、当時は、『ウェブ2.0』に熱狂した)。

前半では、いま、webやコンピュータをとりまく世界で何が起こっているのか、またそれは何を意味し、その結果としてどんなことが可能になるのかが、総じて肯定的なトーンで描かれている。反面、後半では、コンピュータのクラウド化によって、現代人や現代社会(←「ネット社会」ではなく、社会そのもの・社会全体)がどのように変化していくのかが予測的に描かれており、底流に流れるトーンはどちらかというとネガティブ。クラウド化が人間社会にもたらすものは、決してプラスの要素だけではなく、マイナスの要素もあり、それらの一部は、人間や人間社会の本質的な部分にも関わるものだということが率直に述べられている。(だからといって、「クラウド化を止めるべき」なんていうナイーブかつ無意味な主張はもちろんなされていない。)

前半部分では、コンピューティングのクラウド化のアナロジーとして、発電システムが分散型から集中型へと推移していった歴史的経緯がかなり詳しく紹介されている。この箇所(特に、中央発電システムに先鞭をつけたインサルの事例)は、「要するにイノベーションってどういうこと?」かを極めて具体的に現している。どんな分野においてであれ、「イノベーション」というものを考えるときに、大いに参考になる著述だと思う。

斯く具合に、前半は前半で、示唆に富んでいて非常に面白いのだが、本著の心髄はむしろ後半部分にある。後半は、「ネット論」「コンピュータ論」の範疇を超え、「社会論」或いは半ば哲学の域に達しているとさえ思える。そのくらいに深い。こんな文章は、ただ一つの分野に精通しているだけの人にはまず書けないだろう。分野を超えた膨大な知識を一個の脳ミソの中に貯め込み、咀嚼して初めて紡ぎだされる文章ではないかと思う。

僕には、これ以上、この本を解釈したり要約したりする力量はないので、代わりに、本著からの引用を一節。
インターネットの能力、範囲および有用性の拡大がもたらしたもっとも革命的な結果は、コンピュータが人間のように考え始めることではなく、我々がコンピュータのように考えることなのだ。リンクを重ねるたびに、我々の頭脳は「“ここ(HERE)”で見つけたもので、“これを行え(DO THIS)”、その結果を受けて、“あちら(THERE)”に行く」ように訓練される。その結果、我々の意識は希薄になり、鈍化していくだろう。我々が作っている人工知能が、我々自身の知能になるかもしれないのだ。
ここで書かれていることは、確かに実感として感じるだけに、正直、薄ら寒いものを覚える。卓見と言えるのではないだろうか。
my room, Accra, Ghana, June 30, 24:34

Saturday, June 27, 2009

Wraping-up CDM workshop

昨日で、三日間のCDMワークショップが終了。掛け値なしに、いい勉強になった。アメリカや日本にいても、あんな内容の濃いレクチャーを聴ける機会はなかなかないと思う。司会者の南アなまりの英語が多少聞き取りにくかったことを除けば◎。以下、ワークショップに出てみて、CDMについて思った点をいくつか。

低開発国にとってこそCDMをする価値がある。
あるプロジェクト(小型水力発電にせよ、廃棄物処理場の回収にせよ、なんでも)を、CDMとして行うとなると、プロジェクトの計画段階から、いろんな主体(CERの買い手、プロジェクト資金の貸し手、CDMコンサルタント、etc.)がコンソーシアムを組んで、プロジェクトに参画することになる。彼らは、それぞれの分野(CDM developing、project financing、engineering、etc.)のプロフェッショナルだというだけでなく、「利益を得るためにはCDM登録を成功させなければならない」という状況に置かれているので、プロジェクトマネジメントを必死に行おうとするインセンティブを持つ(←CDMの元となるプロジェクト(=小型水力発電、廃棄物処理場回収、etc.)が予定通り遂行されなければ、そもそもCDMは成り立たない)。プロジェクトマネジメントの能力に限りのある低開発国(←政府や援助機関が、開発プロジェクトを十分効率的にマネジメント出来ているかというと疑問。プロジェクトマネジメントの人的リソースは、質的and/or量的に不足している面がある)にあっては、そういったプロのプロジェクトマネジャーが、健全なインセンティブを持って(←好奇心に駆られた実験気分で参加するのではなくて、という意味)プロジェクトに入って来てくれるということは、かなり新鮮で、有効なことではないだろうか。中・印・伯・墨のようなemerging countriesであれば、有能なプロジェクトマネジャーはたくさんいると思うので、敢えてCDMにしなくても彼らがプロジェクトを回してくれる。しかし低開発国ではそういったプロジェクトマネジャーがなかなか見つからない。そう思うと、CDMというスキームは、低開発国にとってこそ大きな効果(←ただし、in terms of “development,” not “emission reduction”)があるのではないだろうか。

プロジェクトのファイナンスがボトルネック?
しかし皮肉なことに、低開発国(特にアフリカ)では、これまでほとんどCDMが行われてこなかった(数字はこちら)。走り始めて途中でこけたケースもあるのが、そもそも、走り始めた案件数自体が少ない。これはつまり、上に書いたように一旦コンソーシアムが出来てしまえば強力なマネジメントサポートを得られるのだが、そもそもコンソーシアムを組むところまでたどり着けていないということではないかと思う。考えてみれば当たり前の話で、プロジェクトの開始にあたり、いろんな主体を連れて来て、コンソーシアムを立ち上げるためには、広い知識(CDM制度、ファイナンス、エンジニアリング、etc.)と広いネットワークがないと無理。そんな仕事を、これまで間近でCDM案件の成り行きを見たこともない低開発国の人たち(←中印であれば、参考事例は身近にごろごろ転がっている)にやれと言っても、不可能に近いだろう。援助機関の国際スタッフにしても、別にCDMのプロフェッショナルとして雇われているわけではないので、そういった能力をはじめから持っているケースは極めて稀だと思う。コンソーシアムを組むにあたり、特に難しいだろうと思うのは、プロジェクトへの融資を引っ張ってくること。純粋な民間企業がproject ownerとなるケース(たとえば工場の省エネ化。一般的に言って、その国・地域の開発と言う意味では効果は薄く(あるいは間接的で)、“additionality”の面でも微妙)は比較的、融資を取りやすいと思うが、municipalityやインフラ系公社がproject ownerとなるケース(たとえば電源の開発やwaste management。開発の効果は大きい(=poverty reductionに直接的に資する)し、“additionality”もより明らか)では、規模が大きい上に、返済がCER売却益頼みということもあって、商業銀行が単独で融資するのは非常に困難。ここに、低開発国でCDMが進まない大きなボトルネックがあるのではないかと思う。

登録要件の緩和は本当に解なのか。
低開発国でのCDM案件数を増やすため、CDMの登録要件を緩和すべしとの声があり、国際会議においても、それなりに有力な意見となっているようである。具体的に、どこをどう緩和すべしということなのか、そこの議論は正直followできていないのだが。おそらく、いくつか論点があり、中には妥当なものもあるのだろう。だが、現学習段階での僕の印象を言わせてもらうと、要件の緩和は本質的な解決策にはならないのではないかという気がする。たとえば、“additionality”の要件を緩和し(←今回の講義によると、CDM理事会における登録rejectの57%までは、additionalityの証明不十分が理由とのこと)、「CDMなかりせば…」の基準を緩めるとしよう。そうすると、確かに、登録案件数自体は多少なりとも増えるだろう。しかし、この要件緩和によって恩恵を被るのは、上に書いたような純粋民間企業ownedのケースであり、そういったプロジェクトは、CDMにならなかったとしても、他の経済的利益だけで十分break evenし、implementされていた可能性が高い。もちろん、より大きなCDM資金がそういった分野に流れることによって、これまで以上に民間企業の省エネ/低炭素型事業が活性化されるという主張はありうる。それは確かにそうなのだが、逆に言うと、限りあるCDM開発資金が、そういった「グレー案件」(←additionalityの面で「グレー」。別に法的・倫理的に悪いことをしているわけではない。念のため)に持っていかれてしまい、本当の意味で開発に資する案件へのお金の流れがますます干上がってしまう可能性もある。これをGHG削減の観点から言えば、「CDMがなかったとしても」行われていたプロジェクトを「CDM」だと追認してあげることで、CDM案件数自体は増えるが、それによるGHGの追加的な(=文字どおり“additionally”な)削減はあまり期待できない、ということ。

一番の解決策はCERの値上げ。
では、今後、低開発国でのCDM開発を促進するにはどうすればいいかだが、経済学的に言って一番合理的な方法は、単純に、CERの値段を引き上げることだろう。そうすれば、おのずとより多くの資金がCDM開発市場へと流れ、開発のより困難な(しかし、additionalityは大きい)案件の掘り起こしも進むことになる。それをするためには、排出削減義務を負う国の排出削減量の総和を大きくする(=より厳しい削減目標を課す)ことが必要。(個人的には各国が、排出削減達成に用いることのできるクレジットの割合に上限を課す必要はない(というか、課すべきではない)と考えている。)もちろん、これは簡単なことではないが、これをすることによって、先進国の中でも儲けを増やせるセクターは必ずある。コンサルティングの市場が広がるのは間違いないし、インフラ技術を(援助ではなく、ビジネスとして)輸出できる機会も増える。それに何より、金融機関や機関投資家にとっては、新たな投資先が増えることを意味する。Wall St.の上の方の人たちが、温暖化問題やCDMを、本音の部分でどう考えているかという点は、非常に気になるところ。

最後に一言。ガーナのような未だCDM登録ゼロの国であっても、実業界(特に金融)には、豊富なCDM知識を持った人がそれなりにいる。政府の役人だけを見て、それがこの国の最高レベルの理解度だと勝手に決め付けてはいけない。今回のワークショップからの教訓。
my room, Accra, Ghana, June 27, 13:53

Monday, June 22, 2009

Deeper reason for sub-Saharan backwardness on CDMs

なぜCDMプロジェクトには如実な地域的偏りがあるのか。中でも、南アを除くsub-Saharaの国々で、これまでほとんどCDMが行われてこなかったのはなぜなのか(←ナイジェリア2件、ウガンダ、タンザニア、ケニアが一件ずつ)。

この問に対する最も一般的な回答は、「“CDM後進国”における ①削減ポテンシャルの不足 と ②キャパシティ不足」というものだろう。

①の方は確かにその通りで、ガーナのような国が中国やインドやブラジルのように、バカバカCDMを量産できるわけはない。そもそも、削減ポテンシャルの量が違い過ぎている(逆に言えば、中国やインドやブラジルのように、バカバカGHGを排出しているわけではないということ)。ただ、そうは言っても、一つもCDMを作れないほど、削減ポテンシャルがないわけではないので(少なくともガーナはそうだし、他の国でも事情は同じだと思う)、①の理由は、案件が「0」、あるいは、それに限りなく近い状況であることの直接の説明にはならない。

②の方は、そもそも何の“キャパシティ”なのかがはっきりしないので、当たっているとも間違っているとも言えないのだが、仮に、ここでいう“キャパシティ”が、CDM申請のために必要な諸手続きに関するキャパシティのことなのだとすれば、対応は、比較的簡単なのではないだろうか。それにまつわる技能については、国際機関や各国ドナーが、途上国の政府職員に対するキャパシティビルディングをわりと頻繁に行っているみたいだし、また、その気になれば、コンサルタントを呼んできて、丸々お願いしてしまうことだってできる。
  
それよりむしろ根の深い問題なのは、CDMのベースとなる事業(たとえば、landfill gas回収型のCDMであれば、廃棄物処理場の建設、運営を行う事業)を的確に運営できるoperatorがいないこと、また、いたとしても、その事業を立ち上げるだけの資金を調達できないことではないかと思う。
  
CDMから生み出されたCERの売却益は、確かに事業収益の足しにはなるが、事業コスト全体をカバーしてくれるという保証はない。事業に要するコストの額と、削減されるGHGの量、それに、CERの市況次第。また、仮に、CERの売却益が事業コストを上回ったとしても、CERの売却益が入ってくるのは、一年以上事業を回した後なので、それまでの事業立上げ期は、CERの売却益以外の資本でファイナンスしなければならない。信用力の乏しい低開発国の事業者が、この部分のファイナンスに難儀することは、想像に難くない。


この点が、sub-Saharaの国々でのCDMの成立を難しくしている、ひとつの大きなポイントなのではないかと、最近、仕事をしながら感じている。こんなことは、ビジネスサイドからCDMを見ている方々にとっては常識なのかも知れないが。
my room, Accra, Ghana, June 22, 22:00

Friday, June 12, 2009

Ghanaian Way?

インターン先で仕事をしたり、(日本人を含め)他の外国人と話をしたり、ただ街をぶらぶら歩いたりしていて思うのだが、この国の人たちには(という一般化も雑かも知れないが)、あまり野心というものがないような気がする。政府の方針では、いちおう、更なる発展を目指すことになっているが、一人一人の本音としては、今の状況に既に満足しちゃっている人が多いのではないだろうか。少なくとも首都Accraに関して言えば。
 
その点は、中国やインドと決定的に違う気がする。今後、何年、何十年と経ったとしても、ガーナが、年率二桁%以上の経済成長を経験する日なんて、まずやってこないんじゃないだろうか。
 
それが良いことか悪いことかは誰にもわからない。「これがガーナ流なんです」と言われたら、我々外国人としては「はい、そうですか」と言わざるを得ないだろう。
  
ただ、問題は、いまのガーナの定常状態(或いは、ちょびちょび右肩上がり状態)が、自立的に達成されているわけではなく、諸外国からの援助があって初めて達成されているという現実だ。援助なしでは、現状維持もままならないけれど、援助を続けたからと言って、援助の必要ないレベルまで発展していくわけでもない(たぶん、ない)。
  
よくよく考えると、これはなかなか難しい問題だと思うのだが、援助する側もされる側も、今の状態が「当たり前」になっていて、難しく考えている人がいないんだろうなぁという気がする。落ちのない話で恐縮です・・・。
my room, Accra, Ghana, June 12, 21:53

Sunday, June 7, 2009

The Elusive Quest for Growth #1

アメリカを出る直前にAmazonで買った“The Elusive Quest for Growth”(『困難なる成長の探求』??)なる本を読む。
  
William EasterlyというWorld Bankのエコノミストが書いた本。副題は“Economists’ Adventures and Misadventures in the Tropics”。第二次大戦以降、国際社会は、主流派と言われるエコノミストたちの描いた処方箋の示す通りに援助を行ってきた。にもかかわらず、多くの途上国は、エコノミストが予想したとおりの発展を遂げることができず、未だ貧困の中にある。なぜ、エコノミストたちの描いた処方箋は機能しなかったのか――援助を考える上では、ある種、根源的ともいえるこの問に挑戦しようというのがこの本の主旨。筆者は、世銀のエコノミストだが、世銀の立場を代弁するわけでも言い訳するわけでもなく、虚心坦懐に自論を展開している。英語で本を読むと、恥ずかしながら、一冊読み終えるまでに最初の方を忘れてしまいそうになるので、とりあえず、今日、読み終わったところまでの感想を書く。
    
マクロの教科書にも出てくるSolowの成長モデルは―Solow本人は先進国への適用のみを念頭に置いていたらしいが―開発の分野でも、長らく理論的拠り所として「信奉」されてきた。この理論によると、追加的な資本一単位から得られる収益は資本が積み上がるに従って逓減していく。
  
先進国で暮らす者にとって、この前提に特に違和感はない。僕がもし、(奥さんの説得に成功して)PCをもう一台買うことができれば、レポートを書いたりブログを書いたり写真を整理したりする作業の効率は、それなりに上がると思うが、これが3台、4台…と増えていっても、正直僕一人では使いきれない。つまり、追加的なPC一台あたりの収益(この場合は作業効率の改善度合い)は如実に逓減していく。逆にもし、僕がいま1台もPCを持っていなかったとしたら、1台目のPCを手に入れることによって得られる作業効率の改善度合いは、非常に大きなものになるだろう。
   
斯く具合に、Solowの理論に従って考えると、より資本蓄積の少ないところで行われる投資ほど、効率よく収益を生み出すはず。つまり、先進国で投資するよりも、途上国(それも、より発展度合いの低い国)で投資する方が有利ということになる。これが本当なら、黙っていても民間の資本は途上国へと流れ、彼の地での資本蓄積に貢献し、途上国のcatch-upを後押しするはずなのだが、誰が見ても明らかなように、現実はそうはなっていない。2009年の今もなお、資本のほとんどは先進国に投下されている。  
  
資本投下の実態について、本著曰く、
In 1990, the richest 20 percent of world population received 92 percent of portfolio capital gross inflows; the poorest 20 percent received 0.1 percent of portfolio capital
inflows.(1990年において、世界の全資本の92%は、もっとも裕福な2割の人々へと投下され、もっとも貧しい2割の人々には、わずか0.1%の資本のみが投下された)
とのこと。[p.58] このようにSolowの理論が現実に妥当しない原因として、筆者は、political stability(政治的な不安定さ)、corruption(腐敗)、the risk of expropriation(政府による接収のリスク)などの可能性を示唆しつつも、より根本的な原因として、「投下された投資が、必ずしも十分に活用されるとは限らない」点を指摘している。筆者曰く、
Multiplying machines when incentives for growth were lacking was useless. Maybe the machines would produce things nobody wanted. Or maybe the machines were there but other crucial inputs were unavailable. (成長への誘因を欠いた中で機械を増やしても無意味である。その機械は誰も欲していないモノを生産するだけかも知れない。あるいは、機械はそこにあるが、他の重要な生産要素が手に入らないといった状況に陥るかも知れない。)
だと。[p.68]

先進国の経済を考えるとき、「投資が本当に活用されるかどうか」なんてことは考える必要がない。先進国での投資は、基本的に、民間主体によって自発的に行われるから、「投資はしたが使われなかった」なんてバカなことは、普通、起こり得ない(政府による投資ではしばしば起こる…)。だから、経済モデルを組むときに、「投資された資本のうちの何%が実際に使われるか」なんてことは、普段まったく気にされないし、Solowの成長理論も、御多分にもれず、その点はまったく配慮せずに設計されている(←Solow自身は先進国への適用を念頭に置いていたわけだから、当然と言えば当然)。そういう、先進国の常識の下で設計された経済モデルを、そのまま途上国に適用しようとしたことが、エコノミストたちの失敗の最大の原因、というのが筆者の主張。しかも、その誤った処方箋に則った援助政策が、何十年にもわたって行われてきたと、筆者は批判している。

彼我の違いが見えているときに、アプローチの仕方を調整するのは比較的簡単。本当に怖いのは、彼我の違いが目には見えないとき、つまり、疑いもなく万国共通だろうと思っていたルール・習慣が、実は彼の地では通用しなかった、というようなケースだろう。一昨日の「中間層」の話にも通じるが、途上国での政策を考える上で、この点は非常に重要なポイントのような気がしてきた。
my room, Accra, Ghana, June 7, 19:56

p.s. Weekly、更新しました。こちらからどうぞ。

Wednesday, June 3, 2009

Adaptation for the Climate Change

(気候変動対策)=(mitigation)+(adaptation) 

環境屋さんの間では、いまや常識になった関係式(?)である。しかし、我々先進国で暮らす者にとっては、“adaptation”の方がいまいちピンとこないのも事実。だいたいが、「高波に備えて堤防でも作りまっか」という話で終わる。もちろん、東京を高波から守ることは、それはそれで大変大事なのだが、adaptationの主戦場(??)は、あくまで途上国。とりわけ、サハラ以南のアフリカは、気候変動の影響が世界で最も顕著に現れる地域といわれている。
  
では、アフリカに来てみれば、adaptationの何たるかが手に取るようにわかるのかというと、これが案外そうでもない。こっちはこっちで、「これから気候変動が起こりますよ。今のうちにadaptation(適応策)やっておかないと大変なことになりますよ」と、ようやく、環境庁が関係機関にふれて回っている段階のようで、現地の環境屋さん以外の人たちにとっては依然、“Adaptation, so what??”というのが実情のようだ。
    
自分自身、adaptationについてはほとんど素人のまま、ここまで来てしまったわけだが、この3日間、働いてみて、少しはガーナにおけるadaptationの現状が見えてきた(気がする)。そして思う。「これはなかなかややこしい話になりそうだ」と。――援助する側にとって。とりわけ、援助国の環境省/庁にとって。
  
何がそんなにややこしいかだが、まず、何より、「伝言ゲーム」の距離がやたら長い。典型的な二国間援助のケースで考えると、
  
(援助側)環境省→外務省→援助機関(又は国際機関)→(被援助側)外務省→環境省→(財務省)→各事業官庁
  
みたいな話になる。援助国自前の援助機関(ex. JICA、US-AID )の代わりに、国際機関がこの位置を占めることもあるし、また、お金の振分けの話なので、被援助国側の環境省と事業官庁の間に、財務省が割って入って来たっておかしくない。こうやって考えてみると、援助国側の環境省にしてみれば、自分の手元からめちゃくちゃ離れたところで(←物理的な距離の問題ではなく、間に入る人・機関の数の問題)adaptationのお金が使われることになる。そうなると、その予算が、どんな形で使われるのか、具体的に把握しろと言われても、正直、難しいと言わざるを得ないだろう。加えて言えば、adaptationとして実際に行われるプロジェクトは、たとえば食糧対策、たとえば農村対策、たとえば感染症対策…といった具合で、環境屋のナレッジが全面的に活かせる分野ではない。
    
もう一つの難しさは、日曜日の記事にも書いたとおり、adaptationプロジェクトと、通常の(=adaptationではない)開発プロジェクトを明確に線引きすることは、非常に困難(というか事実上、不可能)というところにある。確かに、同じ食糧対策、農村対策、感染症対策であっても、adaptation基金でfundされたプロジェクトはadaptation、それ以外の財源からfundされたプロジェクトは通常のプロジェクト、という具合に事後的に分類することはできる。しかし、このような分類は、結局のところ、文字どおり、事後的にしか役に立たない。
   
この「線引き不可能性」は、今後、先進国が途上国のadaptationのために、どの程度の支援を行うべきかという議論を詰めていく上で、非常に気持ちの悪いポイントになってくるんじゃないかという嫌な予感がする。何と言うか、南北両陣営の、お互いに対する疑心暗鬼の源になるんじゃないかと思うのだ。ただ、残念ながら、(たぶん)どこまでいっても「線」は引けない。adaptationをめぐる今後の議論の中で、にっちもさっちもいかなくなって、「線」が引けたことにするレトリックが現れる可能性は全く否定しないが、レトリックはあくまでレトリックであって、本質的な意味での「線」引きは、いくら知見を集めてもできないと思う。そもそもそういう性質のもんなんだと。
   
インターンが始まってからまだわずか3日なので、わからないこともまだまだいっぱいある(というか、ほとんど何もわかってない)。そんな状況なので、今後、思いなおして前言撤回、なんてこともあるかもしれないが(←すいません、予防線張りました)、とりあえず、今の時点での「思考メモ」として書き残しておく。

p.s. 「援助側にとって厄介」=「援助すべきでない/する必要がない」ということを言いたいわけでは全くありません。念のため。
my room, Accra, Ghana, June 3, 22:07

Sunday, May 31, 2009

Climate Change vs Development

最近、本や資料を読みながら考えているのは、「地球温暖化対策と(途上国の)開発の位置関係はどのようになっているのか??」ということ。というわけで、とりあえず今の時点での自分の頭の中のイメージを絵にしてみた。【※ マニアックな内容です】

ポイントは以下の通り。
  1. adaptation(適応策:起こってしまった温暖化に、どう「適応」するか、という対策)は、その大部分がdevelopmentと重なる。developmentの延長線上にadaptationがある、と言ってもいいくらい。途上国で求められるadaptationとは、具体的には、食料対策、風土病対策、砂漠化対策、ひいては、それらに起因する経済難民の取扱いなど。これらは、いずれも、既にdevelopmentとして行われている対策であり、それらをさらに推し進めることが、adaptationとなる。また、どこからがadaptationで、どこまでが「純粋なdevelopment」か、なんて線引きはできない。
  2. 途上国においては、mitigation(緩和策:温暖化を「緩和」するために、どれだけ温室効果ガスの排出を減らせるか、という対策)も、adaptationほどではないものの、developmentと重なる部分が大きい。先進国視点でmitigationを考えると、ついつい、「既にある設備・システムを、如何に低炭素型のものに置き換えるか」と考えがちであるが、途上国(特に低開発国)においてmitigationを考えるときには、「これから新たに設置する設備・システムを、如何に低炭素型のものにできるか」と考える方が良さそう。
  3. 京都議定書に基づくCDM(Clean Development Mechanism)は、まさにそれを体現する制度。先進国(=附属書Ⅰ国)的には、「如何に効率的にクレジットを生み出すか」という方向に目が向きがちであるが、途上国からすると、CDMを梃に、如何にdevelopmentを進められるかこそがポイント。
  4. ただし、CDMとして行われるプロジェクトの中には、「ホスト国の発展に寄与していない」と評されているもの(上の図で言えば、「development」の領域からはみ出ている部分)もある(HCFC製造工程からのHFC回収がその典型例)。

そもそも、京都メカニズムというものは、地球温暖化対策に市場の効率性を活かすことが、その目的の一つとなっている。その意味では、炭素「市場」を政策的に歪める政策(たとえば、HFC回収CDMを全面的に禁止する、など)が、一概に良い政策であるとは思わない。市場経済的にmake senseな行動を安易に否定してしまうと、制度自体が、木に竹を接いだようなものになりかねない。

ただ、竹に置き換えてしまわないまでも、ベースとなる木(=市場活用型システム)の枝ぶりを多少整えてやるくらいのことは必要だろう。根本の部分では市場の力を尊重しつつ、部分的に「市場の失敗」を是正する、といったアプローチが有効ではないかと思う。

とは言え、実際にどう制度を設計するかという具体の話になると、これは非常に難しい。明日からのインターンでは、その辺りの着想を多少なりとも得たいと思う。

Central Hotel, Accra, Ghana, May 31, 9:46

Sunday, May 24, 2009

What to do in Ghana

無事、Syracuseに帰還。

それなりに大きな期待を寄せて参加した、今週の“African Development Seminar”であったが、終わってみると、幸いにも、当初の期待をも上回る成果が得られたと思う。たくさんの情報を仕入れられたことは言うまでもなく有意義であったし、それにとどまらず、同級生たちとの議論を通して、気持ち・モチベーションの面でも、良い刺激を得られたように思う。

そんな中、先週、NYCで考えた、「この夏のインターンで何を見、何をすべきか」という問についても、一定の答えが得られた。
  
今後の人生で自分がやりたいことは、決して「開発」そのものではない。言うなれば、「開発」と「環境」という二つの世界を、より効果的・効率的に<繋げる>方法を見つけ出すということ(「開発」と「環境」だけでなく、「環境」といろんな分野を<繋げ>たい)。非常に抽象的な言い方なので、もう少し具体的に言うと、たとえばこんな感じ。
  
気候変動がアフリカに与える悪影響を強く懸念している「開発」分野の人は多い。彼らは、「砂漠化、食糧難、難民の増加、政情不安などの様々な問題が、気候変動によってアフリカ諸国で引き起こされる」と訴える。しかし、これらの問題を個別に扱うのではなく、「(気候変動への)adaptation」という括りで、集合的に扱おうとするならば、それを扱うアリーナは、おそらく、「開発」の世界ではなく、「環境」の世界の一部になるはず(京都メカニズムで、CERs発行益の2%がAdaptation Fundに収められると規定されているのはその好例)。少なくとも、「環境」と「開発」の共催アリーナで議論がなされるはずであって、「環境」の世界の人間のあずかり知らぬところで議論が進められるということは、多分あり得ない(なぜなら、adaptation名目でaidが行われる以上、その原資は、各国の環境セクションを通して拠出される可能性が高いから)。
   
問題は、「環境」の世界に、「開発」に明るい人間が多くはないということだ。少なくとも、日本についてはそうだと思う。「環境」の世界に本籍を置きつつ、「開発」の分野にも「関心」を持っている人、「simpathy」を抱いている人は多いと思うが、「開発」に関するきちんとした知識を持っている人がどのくらいいるかというと、かなり怪しい気がする。
  
僕のやりたいことは、「開発」の世界も見渡しながら、「環境」の世界の判断ができるようになること。たかだか一夏の付け焼刃で、「開発」分野の専門家に追いつけるわけはないのだが、「開発」「環境」両分野のnexusとして働けるくらいの理解を得ることは、もしかしたら可能なのではないか…と。とりあえず、そのゴールに少しでも近づくことが、この夏の目標。その意味では、僕がガーナでやるべきことは、きわめて当たり前と言えば当たり前で、開発と気候変動問題との関係(mitiagtion、adaptationの両面)に関し、自分なりの視点を得られるよう、見聞を積んでくるということだと思う。mitigationに関しては、「まだまだmitigationを考えるような発展レベルにはない」という結論に至るならば、それはそれで良し。いずれにせよ、どこかから借りてきた言葉ではなく、自分の言葉で語れるようになることが重要だと思う。
 
ここまで考えると、出発前に勉強しておくべきこともおのずと見えてきた。明日からの4日間、引っ越し準備を進めつつ、どこまで勉強しておけるかが、まずは勝負。
   
ここ一週間、もっぱらアフリカ関係の記事を書いてきたが、環境関連のニュースを一つ。今週21日(木)、下院のEnergy and Commerce Committeeは、Waxman-Markey法案を可決したとのこと。Gristによると、他にも最低6つの下院委員会が、本法案の jurisdictionを主張しているらしく、成立はもちろん、下院通過まででも、道のりは、まだまだ、まだまだまだまだ長そうだが、ともあれ、歴史的な一歩が刻まれたということで、拍手。
my home, Syracuse, May 23, 25:28

Tuesday, May 19, 2009

China and Development in Africa

今日の授業のお題の一つは「アフリカの開発と中国」。以下、今日の読み物からの抜粋を。
  • アフリカ各国は、中国の経済成長とそれに伴う天然資源への需要増大から、大きな経済的利益を得ている。アフリカからの中国向け輸出額は、2000年から2005年までの5年間に、年平均48%の割合で増加。この増加率は、同期間の米国向け輸出増加率の2.5倍、EU向けの4倍。
  • 中国は、天然資源の購入にとどまらず、西側諸国が長らく手控えてきた分野(大規模インフラ、製造業、農業)への投資・支援も積極的に行っている。
  • 中国製の安い工業製品もアフリカ各国に大量に流入しており、衣料品などを中心に、アフリカの国内製品が市場から駆逐される事態も。
  • 中国系企業による工業製品の現地生産も行われているが、労働力・原材料とも中国本国から持ち込んでくるため、地元経済へのプラスの波及効果は限定的。
  • 中国の企業は国営(或いはその系列)であるため、各企業ごとに黒字を出す必要がなく、パッケージを組んで参入する(言わば「損して得取る」)ことが可能。更に、商談とaidのofferがセットになっていることも。OECDでは、こういった形でのdealを控えるよう取り決めしているが、OECD国でない中国には無関係。
  • 「十分な民主化がなされていない」などの理由で、西側各国やIMFなどの(西側)国際機関が援助を控えている、スーダン、アンゴラなどの国にも、中国は無条件で援助を行う。
  • 西側の援助の対象になりうる国にとっても、援助と引き換えにもろもろの条件をつけられ、かつ、手続き(環境アセスなども含めて)にやたらと時間がかかる西側の援助よりは、無条件かつ迅速に動いてくれる中国の方が便利。

これだけ読んでいると、「あぁ、やっぱり良貨は悪貨に駆逐されちゃうのね。。」と、思いそうになるのだが、事態はそんなに単純でもないようで…。

授業後、例の相部屋のべニン人のおじさんと、この件について話をしてみたところ、彼が言うのにも、やはり、中国のaidは迅速かつ効果的らしく、USAIDと違って被援助国が本当に望んでいるものを提供してくれるんだと言っておられた。地元に雇用を産み出さない(=労働者を本国から連れてくる)点については批判していたが、総じて言えば、中国から援助を受ける方が「より便利」なんだと。

また、アメリカの「民主主義の押付け」には、相当、嫌気がさしておられるご様子。彼自身、「自由と民主主義が大好きだ」と言いつつも、「民主主義にもいろんなフェイズがあるんであって、各国の発展段階にお構いなく、単純に“アメリカ流”を押し付けられるのはかなわん」という趣旨のことをおっしゃっておられた。(ちなみに、彼の出身国であるベニンは、20年の伝統を持つ安定した民主主義国家。)
   
ベニンでも、中国は積極的な投資・援助を行っていて、中国製品も盛んに流通しているとのこと。これといった天然資源のないベニンのこと、「何が彼らの狙いなんだろう?」とCさんに聞いてみたら、「市場だろうね」とのお答え。首都には、made by Chinaの巨大なサッカー場もあるらしい。ちなみに中国の援助は、USAIDやJICAのようなAgencyを通さず、大使館自らが取り仕切って行っているとのこと。
  
ゲストスピーカーで来ておられたCSISの研究員の方は、「中国の援助の仕方にはいろいろと問題もあるが、USAIDがここ20年の間に見失ってしまっていたpracticalityを多分に備えているのは否定できない。中国、アメリカ双方ともにお互いから学ぶべきところがある」とまとめておられた。言いたいことも分かるが、そんなにきれいにまとまる話ではないような気もする。中国については、他にもいろいろ書きたいことがあるのだが、明日も朝から授業なので、またの機会ということで。
Calvert House, DC, May 19, 25:21

Monday, May 18, 2009

Key Challenges to Development in Africa

African Development Seminar 2日目。今日から金曜日までは、朝から夕方まで、みっちり授業。

この講座、先生が講義することはほとんどなく、ゲストスピーカーのスピーチと、それを踏まえてのディスカッションが中心。今日は“Key Challenges to Development in Africa”というテーマの下、食料問題、感染症(主にマラリア、HIV/AIDS)対策、gender equity、気候変動への対応など、幅広い論点についての議論がなされた(←報告電かよ…)。
 
受講生は13人。うち、アフリカ出身者4人、ヨーロッパ人2人、アジア人が一人(=僕)で、残りはアメリカ人という構成。先生(女性)は、元国務省の役人で、元在ギニア大使という経歴をお持ちの方。genocide直後のルワンダ駐在も経験されたらしく、ルワンダ関係の著作もあるとか。とにかく、アフリカに関する知識が半端ない。
  
生徒の中では、行きの車を同乗してきたベニン人Cさんのお話が面白い。地元NGOで10年間働いていたというだけあって、単なるアフリカ擁護論でもなく、奥が深い。今日、一番印象に残った彼の話は、「aidのdonor国がしたいことと、受入国がして欲しいことはかみ合わないことが多い」というもの。donor国としては、自国内でのaccountabilityの問題もあり、一定期間で目に見える形の成果を挙げようとする。一方の受入国からしてみれば、いくら援助が入ろうと、これまでの長い積み重ねのある文化・習慣を短期間に変えるのは困難。そこにミスマッチが生まれる。donor国の国内事情も分かるのだが…とのこと。
 
開発の世界の皆さんからすれば常識的な話なのかもしれないが、僕的には、軽く目から鱗が落ちる思いがした。税金を使ってaidをする以上、何らかの「評価」は当然必要なのだろうが、評価のフレーミングが不味いと、遡って、政策そのものが歪んでしまう。aidに限らず、国内政策でも起こりうる問題だと思うが、こうなると完全に本末転倒。とかく、政策評価というのは大事なのはわかるが、そのやり方は難しい。
    
お昼休みには、秋インターンでお世話になる予定の機関に挨拶に行く。ボスになる予定の方がMaxwell almuniという話は聞いていたのだが、vacation中でお休みとのことで、同じチームの別の方にお会いさせていただくことに。お会いして少しお話するうちに、なんと、その方もMaxwel alumniであることが判明。 たまたまとは言え、Maxwell ネットワーク、恐るべし。
 
夜は夜で、世銀系の某機関で働いておられる日本人の方とお食事。アフリカの開発の話で盛り上がる。その方曰く、「『日本は輸出依存から脱却すべし』という議論はナンセンス。日本の生き残っていく道は、輸出と(その延長線上にある)直接投資(FDI)しかない。何年後かにはアフリカも発展の軌道に乗り、(援助ではなく)FDIの候補地の一つになる、はず」との由。安易な「輸出依存脱却」論よりも、僕としては、よほど合点のいくお話だった。
Calvert House, DC, May 18, 22:41

Friday, May 15, 2009

Africa’s Stalled Development

今週末から始まる一週間の短期集中講座“African Development Seminar”の予習用課題図書“Africa’s Stalled Development -International Causes & Cures-”を読む。2003年に出版された本で、著者は、UC BerkeleyのPolitical Scienceの先生と、University of Wisconsin-Madisonの同じくPolitical scienceの助教授。

旧宗主国から独立して以降の40年間、なぜアフリカ諸国の発展は停滞(Stall)したままだったのか――その理由に迫ろうという趣旨の本。

同じ主張の繰り返しが多くて論理の流れが明快でなく、あまり読みやすい本ではなかったが、本書の主張の中心部分を短くまとめると、たぶんこういうことだと思う。

アフリカ諸国の低成長の原因を、それら国々の文化的特徴に求めるのは誤り。(植民地時代の遺産である)それら国々の社会構造にこそ、本当の原因がある。

多くのアフリカの国の経済は、enclave production――特定の地域から産出される一次産品(通常、枯渇性)であって、そのほとんどが輸出に回される商品の生産。石油・鉱物などの天然資源及び大規模プランテーションで生産される輸出向け商品作物など――に著しく依存している。enclave productionの利権さえ掴んでおけば、諸々のrent(税、賄賂、顧問料など)が自然に転がり込んでくるので、そういった国のエリート層は、envlave productionの経営にばかり関心が向き、generalに国の生産性を上げようというインセンティブを持たない。

一方で、enclave productionに付随するrentは、特定の集団への利益供与の温床となり、大統領及びその取り巻きによる“personal rule”(国家の私有化/私的国家経営)を惹起、国民一般が利益を享受できる健全な形での経済の発展の妨げとなる。

多額の財政赤字と先進諸国からのODAのコンビネーションも、アフリカ諸国の停滞に一役買ってしまっている。多くのアフリカ諸国では、財政赤字の額が、ODAなしには利子を払い続けられない水準に達しているため、毎年、(その国の経済規模に比して)多額のODAを受け入れることが必須化・常態化。結果、エリート層は、よりよい内政を敷いて国内の生産力を高めることに関心が向かず、外交にばかり関心を払うこととなる。

このような事情が重なり、アフリカ諸国と欧米諸国との関係(connection)が、発展を妨げる中心的な原因となってしまっている。先進各国は、「従属理論」が指摘するように、意図的にアフリカ諸国を低成長の状態に留めておこうとしているわけではなく、アフリカ諸国の発展を本当に望んで諸々の援助などを行っているのだが(先進国にとっては、アフリカ諸国が安定的に発展してくれる方が、より大きな経済的利益が得られる)、結果的にはそれが裏目に出ており、この両者の関係を根本的に改めないことには、アフリカが低成長から脱することはない。

目から鱗というほどではないが、「なるほどね」という内容の本であった。

今日の記事とは全く関係ないが、数日前に紹介したベタープレイスについて二点。一点目。シリコンバレーの新聞San Jose Business Journalの今日(5/14)付け記事で、13日に横浜で行われたベタープレイスのバッテリー交換デモンストレーションの模様が紹介されていた。ご参考まで。
  
二点目は、ある読者さんから個人的に頂いたご指摘。「車の保証・バッテリーの保証」を誰が行うか(車メーカー?バッテリーメーカー?システム供給者?)が最大のネックとなり、ベタープレイスのビジネスモデルの成功は厳しいのではないか、とのこと。
  
こういうご指摘は本当に勉強になる。言うまでもないことだが、(自分も含め)役所の人間はビジネスの話に疎い。都市国家的な国ならともかく、日本くらいの大きさの国になれば、財/官の分業は徹底せざるを得ないから、役人がビジネスに(ある程度)疎いこと自体は致し方のないことだと思う (疎いどころか無関心なのは大問題だが)。ポイントは、政策を走らせる前に、どれだけ実業界からの意見を聞いて政策に反映させられるかだろう。以前のエントリーでも書いたように、Obama政権のstimulusの環境・エネルギー関連部分(←日本で、“グリーンニューディール”と呼ばれているもの)の立案に当たっては、実業界を巻き込んだ、相当入念な準備が行われている。
my home, Syracuse, May 15, 25:43