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Wednesday, June 16, 2010

PC復活とExecutive Leadership

まず、何はともあれPC復活。祝!! こんなに荷物の到着を待ちわびたのは久しぶり。

というわけで、さっそく、あんなこととか、こんなこととか、blogに書きましょと思っていたのだが、晩飯から帰ってきて、風邪薬を飲むなり妙な頭痛に襲われて、昨晩はそのままダウン。たまたまそういうタイミングだったのかも知れないけれど、普段あんまり経験しないタイプの頭痛だっただけに、副作用が疑われる…。まぁ、blogを書くこと以外、特にやんないといけないこともなかったので、まぁいいっちゃぁいいんだけど(風邪自体はいちおう良くなってる気もするし)。

Executive Leadershipの方は昨日で二日目終了。周囲の評判は頗るよろしくないが、個人的には、「予想してたのよりは良いんじゃない?」という気がしている。もともとの期待値は僕の中でもそんなに高くなかったわけだが、大して役に立ちそうにない授業というのは、これまでにもいろいろあったわけで、それに比べてこのコースが特にひどいということではない気がする。

ただ、日本人/アメリカ人に関わらず、ここまで周囲の評判が悪いとなると、オレの価値観ズレてるのかなと逆に心配になってみたりもする。まぁ、多少ズレてるんだろうな。

ともあれ、教室の内外で、ここ最近、感じたことについてはまたおいおい。
my home, Syracuse, June 16, 7:57

Thursday, June 10, 2010

distant goal

capstoneのプレゼンが午前中に終わった後、軽く放心気味に午後の半日を過ごす。今の自分にできることは一応出し切れたんじゃないかと思う反面、それでやれたことがこれだけかと思うと些か哀しくもある。

英語が出来ないなりの貢献の仕方・チームへの食い込み方を自分なりにあれこれ試してはみたが、何はともあれ、ネイティブどうしの会話をもう少しまともに聞き取れないことには、チームの流れについていけない。「一対一なら会話できますよ」というレベルでは、自ずから限界がある。ネイティブ並の会話力を身につけるのは端から無理にしても、もう少し、聞く力と話す力を改善しないことには、まともに英語で仕事をできることにはならないなと痛感。

この先はどうすればいいんだろうか?帰国後は――幸運(??)にでも恵まれなければ――仕事で英語を使う機会もほとんどなくなるわけで、ドラマでも見て勉強するしかないのかな…。仮に仕事で英語に触れることになったとしても、英語文献を読んだり、一対一で外人さんとお話したり、というレベルでは、現状維持には役立っても、改善までには繋がらないようにも思う…。
my home, Syracuse, June 10, 22:44

Wednesday, June 9, 2010

almost there

capstone大詰め。今日は担当教授を前にしての模擬プレゼン。いくつかご指摘はあったものの、“総じて言えばvery good”との評価をいただく。自分で言うのもなんだが、確かに上々の仕上がりだと思う。僕自身、どれだけ貢献できたかはさておき(苦笑)
 
個人的には、反省すべきことがいろいろあるが、何はともあれ、明日のプレゼンがうまくいってくれることを祈りつつ、数少ない自分のパートを練習。
Maxwell School, Syracuse, June 9, 21:20
  

Monday, May 31, 2010

First step does not have to be perfect.

先学期は、Comparative Foreign Policyなる授業(と、そのdiscipline)に対する不平不満を何度か書いたが、学期も終わり、その授業をもう受けなくなってから、若干、自分の考えを改めてみた。

当時、僕のフラストレーションの中心にあったのは、元来chaoticなはずのこの世の中を、いくつかのパターンでMECE(mutually exclusive and collectively exhaustive)に説明できると言うかのような、CFPのその姿勢。そこに、いかにも「象牙の塔」的な空気を感じ、なかなか好きになれなかった。こんなものは、実践の役には立たないと。

しかし、最近になってから、choticなものを(無理やりにでも)パターン化する(或いは、カテゴライズする)ことの実践的意味がなんとなくわかるようになってきた気がする。完璧には説明し切れなくとも――もっと言えば、完璧からは程遠くても――、とにかく、何らかの視点で対象物を斬ってみれば、多少なりとも理解が進み、ただただchaosなままに眺めているときより格段に速いスピードで、多くを学べるようになる。うまく斬れなかったとしても、それはそれでOK。その経験自体から、何かを学ぶことができるはず。とにかく、まずは斬ってみることが大事。ただ素朴に眺めているのではなく。

今さらながらだが、CFPの授業からは、少なくともこのことを学ばせてもらったように思う。
my home, Syracuse, May 31, 18:22

Thursday, May 27, 2010

Conference Call

Capstoneのプロジェクトは、粛々と進行中。うん、「粛々」という言葉がピッタリくる。

そもそも、クライアントからの注文の内容が比較的はっきりしているので、プロジェクト管理さえしっかりやっておけば、そうそう大爆発は起こらない内容。そこに持ってきて、メンバーの過半(僕は含みません)が優秀なので、プロジェクト管理もほぼ問題なし。もちろん、この先の不安要素がゼロではないが、これまでのところ、文字通り「粛々」と進んでいる。班員は非常にビジネスライクな人たちで、その点が若干不満なのだが、まぁそれも、順調に進んでいるからこそ言えるゼイタクというものか。

他の班の様子を聞いていると、クライアントからの発注の曖昧さゆえに苦戦しているところが多そう。学生の「模擬店」的コンサルティングなのでなおのこと、というところはあるが、曖昧な(或いは、scopeの大きすぎる)発注ではコンサルタントが動きにくいというのは、現実世界にも当てはまる事実だろう。多くを狙いすぎてはダメ。基本的には世の中なんて、漸進的にしか変えられない。大きいけれど具体性の乏しい絵を描くより、分相応にscopeを区切り、その中で、より現実的な行動をとることが重要なのではないかと思う今日この頃。capstoneの話から、飛躍しすぎ?

今日からは、各州立法府事務局への電話インタビューが始まる。インタビュー第一弾はTexas。メモ取り要員(2号)として、最大限の貢献を期すも、Texasオヤジの、こちらの「質問リスト」を屁とも思わない勝手気ままなfree talkの前に、敢え無く惨敗。テーマが分からない議論を追うのは未だにキツイ。しかもそれが電話でとなるとなおさら…。明日は朝からMinnesota州。今日ほどの「自由」さは、Texanに特有のものと願いたい。。

夕食は、僕と同じ二年目組で、元N○VA講師のN君と一緒にMarshall St.のピザハウスへ。それぞれのcapstone projectの話に始まって、旅行のこと、仕事のこと、互いの奥さんのことと、二人でひとしきり盛り上がる。彼がルーマニア系移民の二世だという話を初めて聞いた。確かに珍しいfamily nameではあるが、珍しいfamily nameなんて、この国では、そんなに珍しくないので、これまで気にしたこともなかったし、たぶん、周りの人(アメリカ人含む)も全然気にしていないと思う。Europeanとそれ以外という差は、やはりあるとは思うが、それにしても、二世にして、これほど自然に“アメリカ人”になれてしまうところが、この国の凄さであり、強さの源泉なんだろうなと思う。
my home, Syracuse, May 27, 23:42

Saturday, May 22, 2010

Mashup?

このプロジェクトは、当初 ―― 少なくとも僕が ――思っていたのより、幾分テクニカルな方向に向かい始めている。正確に言うと、“頭が良いと評判”のC君が、昨日あたりから、『依頼者の関心の中心は、単なる情報公開より、テクニカルな方にあるんじゃないの?』と言い始め、僕を含む他の面子が、一日遅れて今日あたりから『確かにCの言うとおりかも知れんなぁ…』と気付き始めたというわけ。てなわけで、今日の午後は、テクニカルな知識のお勉強に費やす。具体的には、Mashup、Web Service、API、etc.

これまでの僕の理解によると ―― と言っても、C君作成“まとめペーパー”に助けられている部分が非常に大きいのだが…(汗) ――、Web Serviceというのは、あるデータ又はアプリケーションの作成者が、自分以外の者の管理・運営するwebsite上でも、そのデータ/アプリケーションが利用できるよう、一定のルールに沿った様式で、データ/アプリを公開すること。あるいは、公開されたその情報のこと。たとえば、このblogでも、たまに、Flickrのスライドショーを埋め込んでいるが(たとえばこの回)、Flickrのああいう機能は、Web Serviceの一例に数えて良いんだと思う。API(Application Programming Interface )は、その中でも特にデータに関するもののよう(厳密に、どこまでを含むのかはよくわからない)。Widgetのように、具体的な形状は持たないが、あるデータのデータベースを外部サイトに提供するようなサービスがこれに当たるんだと思う。

で、それらをどこかから集めてきて、一体のweb siteとして見えるように組み合わせたものがMashup。いろいろ見てみた中で、その特徴が分かりやすく出ているなと思った例がこちら。Scorecard.orgという環境汚染に関するサイトで、住所を入れれば、その地域の汚染に関する情報がアウトプットとして返されるように出来ている。一見、普通の情報提供サイトなのだが、実は、この団体自体は、この機能のベースとなるデータベースを所有していない。政府や他の団体の提供している400以上のデータベースから情報を引っ張ってきて、それらを機械が自動的に処理し、検索結果として表示されるようにシステムが組まれているらしい。もちろん、なぜそんなことができるのかという具体的な話は聞かないでいただきたい(笑)

少し気になっているのは、文献を調べていて検索に引っかかる情報が、だいたいいつも2006~2007年のものだということ。いわゆるWeb2.0ブームの頃に一旦点火しかけながらも、(地図情報APIを除いては)結局、あんまり普及せず消えていった技術なのではあるまいかという気がしてきた。つまり、僕らのクライアントは、やや時代遅れな技術を追おうとしているのではないかと…(CRSがどうかは知らないけれど、一般論として、public sectorにはありがちな話)。まぁ、仮にそうだったとしても、僕らとしては、依頼された通り、調べ続けるしかないわけなんですけど。
my room, Syracuse, May 22, 25:35

Friday, May 21, 2010

Project gets complicated

Capstone5日目。僕らの班のプロジェクトは、①全米50州立法府のWeb開示情報に関するインベントリ作り と②それらの中での先進事例のケーススタディ の二本立て。まずは、来週前半までに①を済ませようということで、今週は、インベントリの項目を決めた上で、各人7~8州ずつを調べ、今日、その結果を持ち寄って「摺り合わせ」を行うというふうに一週間が過ぎてきた。

インベントリの質問項目は、たとえば、「法案を委員会ごとに検索できるか」「発案者ごとに検索できるか」といった、情報開示に関する基本的なものから、「掲載されている法案はauthenticationのなされたものか。yesの場合、その方式如何?」「Web Serviceがprovideされているか?」といった、より技術的な範疇に属するものまで。質問項目を決めていた前回までは、あまり細かい話に立ち入らず、それゆえ、議論は比較的スムーズに進んでいたのだが、いざ、実際の事例をインベントリにインプットしていく段になり、いろんな難問が噴出。限界事例が報告されたり、そもそも、班員の間での理解の不一致が顕在化したり…。てなわけで、今日のミーティングはややギクシャク。

そんな中、何となく班員各人の個性も見えてくる。頭が良いと評判のチームメイトは、決して、議論の次元を誤らない。その点、そうでもないかな(失礼)と感じてしまうチームメイトは、我慢しきれないのか何なのか、班としての今後の進め方を議論している最中に、突然、ひどく具体的なポイントについてのclarificationをtableしたりする。もっとも、そういう場面で、「次元」の不一致を英語で指摘するのは僕にはまだまだ難しい。日本語で「今はそういう次元の話をしていないよね」というべきようなとき、それを、嫌味にならないように英語で伝えるにはどう言えばいいのか…。難しく考えすぎなのかもしれないが、何と言っていいのかよくわからなかったので、とりあえず、竿はささずに場の流れに任せてみた。。。

斯く言う僕も、技術的な知識については、やや出遅れ気味。APIとかWeb ServiceとかBulk Downloadとか言われても、イマイチ、正確に理解できている気がしない。来週以降のケーススタディに備える意味でも、今週末は、その辺りのお勉強に充てようかと。
Maxwell School, Syracuse, May 21, 15:00

Thursday, May 20, 2010

to have atmosphere on my side

グループの中で意見を通すには、その場の空気を味方に着ける必要がある。もちろん、アメリカに限った話ではない。正しい内容をわかりやすく伝えることは、当然、重要なのだが、愚直にそれをしているだけで意見が通りやすくなると考えるのは甘すぎる。

そもそも、質問であれ、意見であれ、何か発言をするときには、その場の多数派意見と自分の考えとの間に、何らかのギャップがあるケースが多い。でなければ、敢えて口を開いて発言する必要はないからだ。それまでの議論の中で出ていなかった(或いは、それまでの議論の流れに反する)考えを聞かされれば、誰だって最初は、「はぬ?」と思う。一旦「はぬ?」と思われつつも、最終的には「あぁ、なるほど。こいつの言っていることは正しいかも知れんな」と思わせるところに、発言を敢行する価値がある。

ここで思うのは、「はぬ?」の直後にどういう空気が漂うかが、発言の内容そのものと同じくらいに、クリティカルだということだ。「こいつ、また訳のわからんことを言いよってからに」と思われるのと、「こいつはいつも良いポイントを衝いてくるから、今回も丁寧に聴いておこう」と思われるのとでは、その後の展開が全然違ったものになる。どれだけ良いことを言おうとも、端から「あしらい」モードで対応されるか、多少言葉に詰まろうとも、続きの言葉を待ってもらえるか。誰に対してもniceに振る舞えるだけのsophisticationを備えた人なら、とりあえずこちらの意見を聞いてはくれるが、そのことと、その場の空気がpositiveかどうかは、また別の問題。コンスタントに自論をねじ込んでいきたいのなら、相手のniceな反応に期待するのではなく、相手がこちらの意見を自発的に「聴きたい」と思えるような空気を勝ち取る必要がある。

というようなことを意識しながらcapstoneに参加しているのだが、3日目終了時点での空気は、まだまだaway。こちらの発言(の中身)は、そんなに間違っていないと思うし、彼らの議論のレベルが、そこまで高いとも思わないのだが、結果的には、まだ信頼を勝ち取るレベルに至っていない。

こっちの考えていることが、齟齬なく相手に伝わるよう、英語の表現方法を改善する必要があるのは確か。それ自体、難題なのだが、それに加えて、難儀だなと思うのは、どこまでの細かさ・正確さを追求すべきかという点。細か過ぎるところに立ち入ると、「確かにお前の言うとおりだが、今はそこまで詰める必要ないだろ」といった反応が返ってくる。それ自体は日本でも同じなのだが、じゃぁどの辺りに、「細かさ」に関しての米国式最適点があるのかが、未だによくわからない。今日、「細かすぎるかな」とは思いながらも、自分の気持ちに正直になって(笑)、3つ、4つ、質問/意見を投げてみたら、総じて、あんまり感じ良くない反応が返ってきた。その発言も、空気が良ければ、聞き入れられたのかも知れず、鶏が先か卵が先かみたいなところはあるのだが。

あとは、自分の存在価値をどこに求めるかということだろう。少なくとも、「この角度からの意見は俺に任せろ」的な領域を持てるといいのだが、今のところ、そういった「角度」はまだ確立できていない。次回ミーティングは、一日空けて、金曜日の正午から。
my room, Syracuse, May 20, 25:07

Wednesday, May 19, 2010

Capstone program starts

今週月曜日から、新学期が始まっている。卒業前、最後となる今学期は、capstone(4週間)とLeadershipナンチャラ(「ナンチャラ」部分が何回聞いても覚えられない)(3週間)の二本立て。7週間後の金曜日には、晴れて卒業式を迎えることになる(はず)。

capstoneは、7~8人のグループに分かれ、グループごとにclientを持ってその要望にお応えするという企画。期間中、他の授業はまったくない。僕のグループは、米国会図書館付属のシンクタンクであるCRS(Congressional Resource Service)からの要望で、米国各州議会のweb上での情報公開の内容(何を開示しているかと、どう開示しているかの両面)を調べる。月曜日には、DCから遠路はるばるCRSの職員の方がお二人お見えになり、このプロジェクトの趣旨を説明して行かれた。ちなみに言うまでもないが、お二人は空路にて来訪。この国で鉄道を使うなんてアホのすること(笑)

中身についてはまたおいおい書こうと思うが、とにもかくにも、この期間中、出来る限りのことをして、チームに食い込んでいきたいと思っている。そう思うのは、この反省を踏まえ、この言葉に感化されてのもの。二年の留学期間中、アメリカ人との交流に、終始、及び腰だったことは否めない。今さら意識を変えたところで、多くを取り戻すことは出来ないかも知れないが、留学中最後のチャンスとなるこのプロジェクトで、とにもかくにも、今自分にできる最大限のことをやってみて、自分の能力の外縁を少しでも広げたいと思っている。最後の悪あがきであれ、なんであれ。

チームメイトは、アメリカ人の男6名。全員一年目の生徒で、二年目組の僕と面識のあった人はゼロ。ただ、日本人一年目組の人たちから事前に聞いていた通り、なかなか優秀なメンツが揃っていて、最後の悪あがきをするには申し分のない環境。これまで二日間のミーティングでも、しょうもないやり取りはほとんどなく、サブ・ロジ両面で、非常に合理的な議論が交わされている。このグループに入れたのは非常にラッキーだったと思う。

その中で、自分が如何に付加価値を示し、同僚として認められるかとともに、プロジェクトの中身を離れたプライベートの領域でも、彼らとの間で、どれだけ実質的な親交を築けるかが、この先一か月間の勝負。英語力が足りていないのは重々承知だが、英語力だけでなく、これまでの自分の経験を総動員して挑んでみようと思う。
my room, Syracuse, May 19, 8:46

Saturday, May 8, 2010

ready-to-use knowledge

帰国の日が近付くにつれ、「すぐに役立つ」知識に対する欲求が高まってきている気がする。何が「すぐに役立つ」知識かは、与えられる仕事次第で違ってくるので、最終的には、東京に戻ってみないとその範囲は特定できないが、よほど特殊な部署に配属されでもしない限り、理論的な経済学が、そのままの形で「すぐに役立つ」知識になり得ないことは明らか。政策づくりを理論的に支える縁の下の力持ちとして重要な役割を果たすにしても、文化包丁的にそれ一本で何から何まで料理してしまおうとするには無理がある。

その点、「すぐに役立つ」知識として、もっともその目的に適っているのは、何と言っても、過去のケースからの教訓であろう。成功例であれ、失敗例であれ、過去の同様の取組事例を知っていれば、それだけでも政策立案の際には「すぐに役に立つ」し、そういった事例をいくつか集めて、そこから共通する傾向を引き出せれば更に有効な情報となり得る。経営学の世界では、大々的に行われている研究手法である。

なまじっか抽象化された理論(経済学、政治学、etc.)の方が高度に発展し過ぎてしまっているせいか、政策の世界では、経営の世界ほどにはケースタディ的研究手法が発展していないように思う。あるいは、この世界では、ケーススタディが、正統派の学術研究よりも一段低いものと見なされている結果――まぁ、それ自体は別にそれでもいいんだけど――、国をまたいでの知見の収集・体系化がそれほど進んでいないということなのかなぁとも思う。

もっとも、政策の世界でも例外はあって、金融政策や、military operationも含めた防衛政策の世界では、理論的な研究と併せて、ケーススタディ的な議論も盛んに行われているように思う。一方で、例えば僕の専門領域である環境政策について言えば、他国の事例を横断的に学ぼうとしたときには、いったいどこにアクセスすればいいのか、といったところからして迷ってしまう。僕の勉強が足りていないだけなのかもしれないけれど。
たとえば、環境を学部名に冠したスクールなどでにいけば、そういったケーススタディを横断的・体系的に教えていたりもするのだろうか。 この辺りにアクセスすれば、それなりの情報が取れる、といったところがあるのであれば、押さえておきたいようにも思う。
Chicago, May 8, 11:07 CT

Monday, April 26, 2010

How to educate in Public Policy Schools

久しぶりに徹夜をしてみたら、朝からまるでアタマが働かない。歳をとったものだと思う。

とりわけ英語がアタマに入らないので(と言う訳でもないんですが)、しばらく前に頂いたままになっていた、outernationjpさんからのコメントについて、考えてみる。

“行政系大学院は、…「公共セクターの担い手あるいは行政府の職員はこうあるべきだ」という理念が先にあってそれに併せてプログラムをくみ上げてる側面もある”とのご指摘は、まさにおっしゃる通りかと思います。要するに、supply-pushではなく、demand-pullで教える内容が決まってくる世界なんだろうなと。

ただ、そうだとすると、その“pull”は誰がしているのか、つまりその、誰がどういった形で、行政官の「あるべき像」を発信しているのか、というところが次に気になってくる。

僕自身、「行政官たるもの、こうあるべきだ」的な像は(本人が実行できているかどうかは別にして)いちおう持っているし、そのイメージを、後輩に求める(そしてウザがられる)こともある。ただ、そういった像/イメージを、組織としてのものに昇華し、ワンボイスで外部に発信できるかというと、正直、なかなか難しいし、私的所有ならざる公的機関が、そういった「職員のあるべき像の一元化」を図ることが好ましいことなのかどうかも良く分からない。

では、artificialな「取りまとめ」をしないにしても、採用の機会などを通し、自然な形で、需要側(=行政機構)の集合的意思が、供給側(=大学)にフィードバックされる、といったことは起こっているのだろうか。少なくとも日本での経験で言えば、これは非常に怪しい(起こっていたとしても、非常に弱い)と思う。部署ごとの裁量で人を採る傾向の強いアメリカでは、そういったフィードバックが働く可能性はより低いのではないだろうか。

議論が堂々巡りループに入ってきつつある気がするので、そろそろ閉じようと思うが、「あるべき像」を容易に特定できないのが行政官という職業の特徴だとしたら、逆に、一定の多様性をプールしておくのが賢い戦略。となれば、その職業の反射である公共政策大学院も、特定の「色」や「行動様式」を持つ卒業生をマスに輩出するのではなく、生徒に相当程度の自由を与えた上で、好きなように勉強させるというのが、一見、非効率なように見えて、実は、その社会的使命に見合ったスタイルなのかも知れない。

そもそも、この議論に意味があるんだかないんだか、自分でもだんだんよく分からなくなってきている(笑) でもおかげで、いちおう頭が冴えてきたので、そろそろ(って、もう夕方だよ!!)論文執筆の続きに取り掛かります。
Maxwell School, Syracuse, Apr 26, 17:33

追記: 夜に読み直してみて思ったこと。アメリカの方が、日本に比べて「一元採用」の度合いが弱く、多元的な採用活動が行われており、より「(労働)市場」と呼ぶにふさわしいものがそこに存在しているからこそ、需要サイドの集合的意思は、逆にフィードバックされやすいのかも知れない。

Thursday, April 22, 2010

Half of the Administrator's Skill 

outernationjpさん、いつもながら含蓄溢れるコメントありがとうございます。じっくり咀嚼させていただいた上で、改めて返信させていただきます。

さて、そのouternationjpさんがコメントを付けてくださった、前回エントリの続編を。続編とは言ってみたものの、spin-offと言うべきか、はたまた単に“思考の残滓”とでも言うべきか、その辺は書いてる本人もよくわからない。

昨日のエントリにも書いたとおり、ざっくり言って、行政官の仕事の半分は「弾を作る」(=政策案を考える)ことで、残りの半分は「弾を撃つ」(=考えたことを組織の内外で通す)ことだと思う。これも昨日のエントリに書いたことだが、いわゆる公共政策系の大学院で教えてもらえるのは、基本的に前者(=弾作り)の方。後者(=弾撃ち)っぽい授業も、一応、ないわけではなくて、うちのスクールで言えば、MPA必修の“Public Organization & Management”なんてのは、まさしく、弾の「撃ち方」を教える講座なんだろうが、実際に5年も6年も職場で働いてきた人間からしてみれば、瞠目に値するような「撃ち方」メソッドはそれほど教えてもらえなかったように思う。毎回の授業自体はそれなりに楽しんでいた気がするが、振り返ってみて、「その講座で何を得たのか?」と聞かれれば、やや答えに窮するかなと。まぁ、最初の学期に受講したので、こちらの英語力が拙すぎて聞き取れていなかっただけ、という可能性は否定できない。

留学中、日々、「弾作り」のことばかりを考えて暮らしていると、「弾撃ち」の方もしないといけない日常に戻るのが、正直、億劫にも思えてくる。前者が、理論的に物事を整理し、本来ありうべき方向性を予測・提示する領域だとすれば、後者は、せっかく前者がきれいにまとめた「方向性」を、いじくりまわした挙句に骨抜きにしてしまう、おそろしーぃ魑魅魍魎の世界――そんなイメージが1mmもないかと言われれば嘘になる。

しかし、そんなふうに、「理屈で論じられる世界」と「それ以外」とか、「本筋」と「ノイズ」みたいなかたちで、「弾作り」と「弾撃ち」を捉えてしまうのではなくて、両方とも、「行政官に絶対必要なスキル」として、同列に並べた上で、「たまたまアカデミズムに馴染んだ方」と「たまたま馴染まなかった方」というふうに捉え直せば、見え方が違ってくるのではないか。後者については、大学(院)で学べないとは言え、行政官にとって必要であるという点では、前者となんらかわりはないのだから、“それ以外”という形で消極的に捉えるのをやめ、(ディシプリンとまでは言えないまでも)一つの「スキル群」として捉えたうえで それを有自覚的に、また、体系的かつ科学的に、習得しようと試みれば、職業人としての成長効率を高めることができるのではないか。

そんなことを、Comparative Foreign Policyの授業を(聞くともなく)聞きながら、考えていた次第。我ながら、『あなたを変えるナントカ力』的なビジネス書に出てきそうなメッセージみたいで、若干気持ち悪いんですけど…。
Maxwell School, Syracuse, Apr 22, 27:10

Tuesday, April 20, 2010

The Limits of Public Administration School

今日のInt'l Trade Lawのクラスは、いつにも増して秀逸だった。と、同時に、これと同じだけ「役に立つ」授業を公共政策系のスクールでするのは、構造的に無理なんじゃないかと思ってしまった。

要は、その職業で使うメインのスキルが、教室で教えられるような類のものであるかどうか、ということだ。実際にやったことはないので本当のところ、どうなっているのかはわからないが、おそらく、法律家が法律家として生きていく上で必要なスキルの大半は、文字通り、「法律」に関するものなのではないかと思う。相手を攻撃したり、自分(のクライアント)を守ったりする上で、いかに巧みに法律を使えるか、その出来不出来で、法律家としての資質の大半が決まってくると言っても過言ではないのではないかと。

行政官という職業に、それに対応するようなmajorなスキルがあるかというと、たぶんない。人付き合いの良さだとか、チームワークの能力だとか、そういう「社会人基礎力」と呼ぶべきなような基礎的スキルはさて置いても――こういったスキルなら、法律家にしても必要だろう――、法律学、経済学、政治学に始まって、関連する自然科学諸分野から、果ては“経験・勘・度胸”の世界に至るまで、必要とされるスキルは極めて広範囲に散らばっている。この時点で既に、一つの「スクール」という形態で以て、その道のプロを養おうというのには、些か無理があるように思えてくる。

糅てて加えて、実際の業務の中で使うスキルは、多かれ少なかれ“経験・勘・度胸”の方に偏っている。“経験・勘・度胸”なんてものは、あんまり教室で教えるような性質のものではないし、ケースを使って教えられなくもないとはいえ、こんどは教える側の人間の問題として、そういうアカデミズムに馴染みにくい世界を、敢えて自分の専門にしようという人はたぶんそんなに多くはないはず。結果、経済学なり、統計学なり、政治学なり…といったところが、カリキュラムの核になってくるわけだが、それらは本当は、あくまで「経済学」であり、「統計学」であり、「政治学」なのであって、直接的に行政官が日常的に用いるスキルを習得・鍛練するための講座ではない。この意味において、公共政策系スクールの授業は、どう頑張っても、法律家の卵たちにとってのlaw schoolの授業ほどには、職業訓練として「役に立つ」ように提供することは不可能なんじゃないかと思う。別にMaxwellが悪いということではなく、行政官という職業の構造上、どうにもならない問題なのではないかと。

と、なんだか悲観的なことを書いてしまったが、その上で、公共政策系スクールは、生徒に何をどう教えるべきなのか、また、そこに通う生徒たちは、そこで何を学ぶべきなのかを考えることが大事なんだろうなと思った次第。一つ確実に言えることは、公共政策系スクールで何を教え、何を学ぶべきかは、law schoolのそれらに比べてはるかに曖昧で、定式化されておらず、それだけに、学ぶ側にしてみれば、どういう戦略で臨むかによって得られる効果が大きく違ってくる、ということではないかと思う――問題は、その「効果」を計る尺度からして、非常に曖昧だということなのだが…。
Maxwell School, Syracuse, Apr 20, 16:42

Monday, April 12, 2010

hard to pick up

MaxwellのMPAでは、春学期が終わった後、“MPA Workshop”なる、“仕上げ”的コース(4週間)が付いてくる。5~7人ずつのチームに分かれ、City of Syracuse、連邦政府、地元NPO等々、いちおう“リアル”なクライアントからの要望にお応えする形で論文を書き、プレゼンをする、というもの。

5月17日の開始に先立ち、先週の木曜日、今年のプロジェクト一覧(全23件)が発表された。目下、各生徒には、その中から第1~第4希望を選択し、今週火曜までに提出するという課題(?)が課せられている。

去年の同級生(←一年前にこのカリキュラムを経験)の中には、「プロジェクトのコンテンツより、誰と一緒になりそうかで選ぶべし」という人もいて、それはそれで良く分かるのだが、僕の場合、今年の同級生にどんなヤツがいるのかさっぱり把握していないので、おとなしく、プロジェクトの中身だけを見て決めることにする。

と言っても、これがなかなか難しい。さっきからずっと、行きつ戻りつしながら、プログラム概要を読んでいるのだが、なかなかズズッと触手の動くものがない。中身がショボそうというよりは――いや、そういうのも、実際、あるのだが――、プロジェクトの分野に些か偏りがあり、その偏りが、僕の守備範囲から遠ざかる方向に顕れているので、どうしたもんかなと。まぁ、クライアントを探してくるのもそれなりに大変だろうから、そう満遍なくは集めて来られないのもよくわかるんですけど。

「これちょっと面白そう」というプロジェクトを第1希望欄に、「これならまぁやってもいいかな」というプロジェクトを第二希望欄に記入…したところで、指が止まる。第3希望と第4希望に何を選ぼうか…。長考の末、いちおう、残りの二つも決定。望むらくは第2希望までに収まりたい。

どういうメンバー構成になるかは、その次にやってくる大問題。今週金曜日には、それも発表されるらしい。もっとも、日本人の方と、僕と同じdual-degreeのヤツらを除いては、名前だけ見せられても誰が誰やらさっぱりわからんというのが痛いところ。まぁ、ぼちぼち頑張ろ。

関係ないけど、ホテルでTVが見れるのを良いことに、TVつけながら仕事(?)してたら、こんなCMに遭遇。下らないけど、面白い。“IT IS America!!”な感じ(笑)
Holland Ave., Albany, NY, Apr 11, 25:52

Saturday, April 10, 2010

after ‘shrimp-turtle’

昨日のエントリの続きと言えば続きの話。今朝のInt'l Trade Lawのクラスでの教授のコメントが面白かったので、メモしておく。ちなみに教授曰く、そのコメントは「このクラスのprofessorとして」ではなく、彼一個人としてのもの、とのこと。

議論のベースは、昨日のエントリでも触れた“India etc vs US: ‘shrimp-turtle’”事件。書き始めると長くなるので、詳細は端折るが(ご興味ある方はこちらを)、端的に言うと事件の経緯はこうである。
  1. 米国が、ウミガメの混獲防止措置を取っていない国からのエビの輸入を禁止する法的措置を施行。
  2. インド、マレーシア、パキスタン、タイの4か国は、米国のこの措置が、WTO協定に違反するとして提訴。
  3. Panel(一審に相当)、Appellate Body(二審に相当)とも、米国のWTO協定違反を認める。
問題は、米国の措置(Section 609 of Public Law 101-162)がなぜWTO協定違反とされたかという点なのだが、米国自身、この措置が、輸入の量的制限(Quantitative Restrictions)を禁じたGATT Art XIに違反しているという点については争っていない。したがって、当該措置が、GATT Art XX: General Exceptionsの適用を受けるかどうかが争点となった。

Art XXの適用を受けるかどうかは、①当該措置が、Art XX各項に定める例外事項のscopeに該当するか否か、と、②(If so,)当該措置が、Art XX chapeau(柱書き)の要件を満たしているか否か、の二段階のテストで以て判定される。Section 609は、①のテストをクリアしたものの、②のテストで「否」とされ、結果、「WTO違反」と判定されるに至る。

Section 609を「WTO違反」に追いやったArt XX chapeauの原文は以下の通り(下線、blog筆者);
Subject to the requirement that such measures are not applied in a manner which would constitute a means of arbitrary or unjustifiable discrimination between countries where the same conditions prevail, or a disguised restriction on international trade, nothing in this Agreement shall be construed to prevent the adoption or enforcement by any contracting party of measures:
つまり、“arbitrary or unjustifiable”(恣意的な又は正当化できない)な方法で以て、ある国と別の国とを“discriminate”していないかどうかが判定のポイントとなる。

本事件において、Appellate Bodyは、以下の二つの理由により、アメリカの取った措置は“unjustifiable”であると判定した;
  1. エビの輸出国に対し、事実上、米国の国内規制とcomparable(同程度)なだけでなく、essentially the same(本質的に同じ)な措置を取るよう求めた。⇒ 必要以上に輸出国のflexibilityを制限しすぎ。
  2. unilateralな措置を講じる前に、一部の国との間でのみ、真摯な国際交渉(negotiation)を行い、それ以外の国と同様の交渉を行う努力を怠った。⇒ discriminatory & unjustifiably
判決後の米国は、Section 609自体は維持しつつも、他国の規制措置をより柔軟に認めるよう、ガイドラインを改定するとともに、インド等エビ輸出国との協定締結に向けた交渉を実施。‘shrimp-turtle’事件の判決から三年後に、マレーシアが、米国の判決不履行(=Section 609を撤回していない)に関して、再度の提訴を行った際には、Panel、Appellate Bodyとも、「米国の改善努力は十分行われており、その結果、Section 609は、今や“justified under Article XX”なものになっている」との判定を下している。

前置きが長くなってしまったが、この事件に関してのColares先生の指摘は以下の二点;
  1. Appellate Bodyの二つ目の判定理由(一部関係国との真摯なnegotiationの不実施)には、それを以て“unjustifiable”かどうかの判定理由とするだけの十分な根拠がない。
  2. かつ、米国の措置を“unjustifiable”と断じたその判決が、結果的には、同国による「“multilateral”を騙った“unilateralism”の遂行」をauthorizeするという、皮肉な事態を招いた。
つまり、一回目の訴訟の判決が、「協定締結に向けた交渉努力をしさえすれば、米国の措置はWTO上、“シロ”と判定される」との状況を準備した形になり、米国は、訴訟に負けたにもかかわらず、「“真摯”に交渉を行った」という実績さえ作れば、unilateralなエビ禁輸政策を大手を振って執行できるという、考えようによっては非常に美味しい結果を得た、というもの。二回目の訴訟の結果は、実際、その通りになっている。

いつもながらに辛口のColares先生、ご自身の同僚(特に環境法の先生)の中にも、この判決を「国際環境問題の分野におけるunilateralismの否定、multilateralismの勝利」を打ちたてたものであるとして、肯定的に評価する向きが少ないくいことに言及しつつ、そういった見方は「表面的(superficial)である」と、バッサリ。

貿易関連のlawyerとして、実務畑でもそれ相応の実績を積んでこられた方であるが故の、洞察とでも言うべきか。
my home, Syracuse, Apr 9, 27:10

Thursday, April 8, 2010

General Exceptions (GATT 1947 Article XX)

GATT 1947 第20条の規定する“General Exceptions”に関するAppellate Bodyの見解(@India etc vs US: ‘shrimp-turtle’)。Int'l Trade Lawの教科書から引用(斜体原文)。
It appears to us (= Appellate Body), however, that conditioning access to a Member's domestic market on whether exporting Members comply with, or adopt, a policy or policies unilaterally prescribed by the importing Member may, to some degree, be a common aspect of measures falling within the scope of one or another of the exceptions (a) to (j) of Article XX. Paragraphs (a) to (j) comprise measures that are recognized as exceptions to substantive obligations established in such measures have been recognized as important and legitimate in character. It is not necessary to assume that requiring from exporting countries compliance with, or adoption of, certain policies (although covered in principle by one or another of the exceptions) prescribed by the importing country, renders a measure a priori incapable of justification under Article XX. such an interpretation renders most, if not all, of the specific exceptions of Article XX inutile, a result abhorrent to the principles of interpretation we are bound to apply.
要するに、「第20条(a)~(j)の各項に規定する例外事項のいずれかに該当している限り、ある国が、他のWTO加盟国からの輸入品に対して、一方的(unilateral)な措置(measure)を課したとしても、そのことを以て自動的に、WTO協定違反とはならない(だって、そうなってたんじゃ、第20条を置いてる意味ないじゃん)」ということかと。

ちなみに、環境規制に関係してくるのは、(g)項。以下、chapeauと(g)項の原文を。
Article XX: General Exceptions
Subject to the requirement that such measures are not applied in a manner which would constitute a means of arbitrary or unjustifiable discrimination between countries where the same conditions prevail, or a disguised restriction on international trade, nothing in this Agreement shall be construed to prevent the adoption or enforcement by any contracting party of measures:
(g) relating to the conservation of exhaustible natural resources if such measures are made effective in conjunction with restrictions on domestic production or consumption;
Maxwell School, Syracuse, Apr 8, 11:42

Wednesday, March 31, 2010

“Teaching” or “Talking”

今学期受講の、“International Trade Law”(以下、ITL)と“Comparative Foreign Policy”(以下、CFP)の授業スタイルを比べてみると、いろいろ面白いことが見えてくる。今学期はこの二つしか受けていないので、余計にそう見えるのかもしれないが、いろんな点で、対照的なのだ。

まず、reading assignmentの量が圧倒的に違う。CFPでは、毎週、読み切れないくらいのreadingが課されるのに対し、ITLは限定的。加えて、単純に「この論文を読んでこい」というだけでなく、「○ページの△段落目~◇ページまで」と、読むべきエリアの細かい指示が付される。

その実、授業中にreading assignmentに書かれてある以外の内容に話が及ぶ機会は、CFPの方が圧倒的に多い。「大学院生なら、これくらいのことはわかっていて当然」ということなのかも知れないが、カーターがどうした、ニクソンがどうしたと言われても、(少なくとも留学生にとっては、)正直、キツイ。その点、ITLの方は、reading assignmentを読み込みさえしていれば(ただし、精読は必須)、そこに書かれてある以外の知識がなくても、十分理解できる授業内容になっている。法律の授業なので、英米法の知識が必要となる場面はもちろん多々あるのだが、その都度、端折らずに、丁寧に説明してくれている(ただ一人、ロースクール外からの聴講生である僕向けのサービス、という面もあるのだろうが、客観的に見て、他のロースクール生たちにとっても、悪くはない復習の機会になっているようだ)。

ITLでは、毎回、「少なくとも、これを理解して帰りなさい」という何か(概念、考え方、ルールetc.)があるのに対し、CFPにはそれがない。先生の頭の中にはあるのだろうが――それを感じ取れるくらい、じっくり傾聴すれば、聴く側にも見えてくるのかもしれないが、僕のリスニング能力では残念ながら無理――、普通に受講している限りは、なんとなく、山も谷もなしに、先生のお話が2時間半続いて、眠くなってきた頃に終わる、というイメージ。

最後に、これはほぼ余談だが、ITLの先生は、生徒を笑わせるのに一生懸命(ただし、95%はブラックジョーク)なのに対して、CFPの先生は、喋りながら、ときどき、自分の話に自分で笑う。聴き手によっては、重要なポイントかも知れない――僕にとっては重要です。

なぜこういった違いが生まれるのかを考えていたのだが、おそらく、ITLの先生は、文字通り、「教える」こと、或いは、何かを「伝える」ことに主眼を置き、そこから逆算をして授業を構成しているのに対して、CFPの先生は、「語る」ことに主眼を置いてしまっているのではないかという気がする。もちろん、CFPの先生も、「語る」ことを通して「教え」ようとされてはいるのだろうが、やはり、なんというか、間接的で、効率が悪い。

こういう言い方をするのは申し訳ないのだが、CFPの先生は、自分の考えや思いことを語ることに満足してしまっていて、その内容を生徒が理解したかどうかについてはあまり関心が持てていないように見受けられる。毎回、授業の最後にquestionを受け付けたりはするのだが、全般的な印象としては、どうしても、“one-way”なのだ。もちろん、ITLの先生と比べれば、ということであって、彼女が突出して良くない、というわけではないんだけれど。

まとめると、「教える」という行為は、自分の口から何かを発すればそれで終了というものではなく、教えられる側の頭の中に、何か(=伝えたいこと)を着床させてはじめて完了するものなんじゃないか、ということ。また、そうであるならば、そこまでのプロセスを、もっとも効率的に提供するのが、良い「教え方」というものであって、「私が語るから、あとは自分で理解しろ」というのは、「教え方」として、あまり効率的でないのではないかということ。

書いてしまえば当たり前のことだが、実行するのは容易ではない。自戒もこめつつ。
Maxwell School, Syracuse, Mar 31, 16:28

Friday, March 26, 2010

COP 6, Election 2000, US Withdrawal ...

Comparative Foreign Policyのエッセイ、二つ目を提出。このエントリで少し触れたが、外交史上の事件を一つピックアップし、Foreign Policy Analysisのメソッドを使って分析していくという課題。エッセイは3回(各回、ダブルスペースで10ページ)に分けて提出することとされていて、一回目の課題は、事件概要の記述。僕は、2001年の米国の京都議定書からの脱退をピックアップし、それに至る米-EU間のやりとりを調べて書いてみた。
   
今日提出した二つ目エッセイの課題は、「これまで授業で扱ったtheoryを使い、当該事件を分析しなさい」というもの。いちおう断わっておくと、MaxwellのIR(International Relations)コースのクラスは、総じてこんな感じにアカデミック。実践性を期待してくると、少なからず肩透かしを食らう。MPA(Master of Public Administration)の方はそうでもない(と思う)けど。

この辺りのエントリで書いたとおり、IRという学問の考え方・方法論には、些か、のめり込めないものがあり、今回のエッセイも、あんまり気乗りせずに書いていたのだが、いちおう、体裁を整え、規定の10ページを満たしたところで、さっくり提出。

とは言え、書いてみると、やっぱり学んだことはある。詳しく書き始めると長くなる(し、あんまり面白くもない)ので端折らせていただくが、今回、使ったtheoryに基づいて言えば、あるpartyにとって、交渉相手が、①関係良好な相手であり、②経済的な相互依存度の高い相手であり、かつ、③相対的に自分よりも大きなcapabilityを持った主体である場合、当該partyは、相手に対し、譲歩をしてでもagreementを引き出そうとする、ということになる。しかし、実際に、2000年12月のCOP6において、EU代表団がとった選択は、米英二国がバイでまとめた妥協案を蹴り、同会議を「成果なし」で終えるというもの――EUにとって、上記①~③が当てはまると言えそうな状況であったのにもかかわらず。ちなみにその一か月後、米国ではBushが大統領に就任、更にその二か月後に京都議定書からの脱退を宣言するに至っている。

こんな定性的・感覚的なtheoryがいつも妥当するとは限らない、というのは確かにその通りなのだが、「役立たず」と斬って捨てたくなる気持ちを抑え、「なぜこのとき、theoryの御宣託は当たらなかったのか」と考えてみると、少しは面白くなってくる。

僕がエッセイの中で書いたのは、結局のところ、EU(もちろん、他の国もだが)の意思決定権者(特にpoliticalな)にとって、気候変動問題というのは、そこまでurgentな課題ではなかったからではないか、ということ。上記“theory”は、暗に、「二国間交渉=双方(少なくとも一方)にとってurgentな課題」との前提に立っているが、気候変動問題を巡るEU-US間の交渉は、実際にはそうではなかったが故に、theoryの主張と異なる結果がもたらされたのではないか、と。

と書いてみたところで、引き続き、当たり前のことを言ってるだけのような気もする。しかし、僕のような環境屋からしてみれば、ついつい、「希望的観測」や「べき論」といった色眼鏡で見てしまいがちな、この種の外交イベントを、客観的に、或いは、実際の意思決定権者のそれに近い視点で理解しなおすのを手助けしてくれるという意味では、こういったメソッドにも、それなりの御利益があるのかも知れない。

まぁ、それによって多少は気持ちが明るくなるかというと、実際には、その真逆なんだけどね。
Maxwell School, Syracuse, Mar 26, 17:08

Tuesday, March 23, 2010

Air of Law School

Law Schoolの授業に出ていると、Maxwellにいる人たちだけを見て、「これがアメリカ人だ」と思ってはいけないんだなぁとつくづく感じさせられる。まぁ、Law Schoolと言っても、取ってる授業は一つだけなので、僅か数名のクラスメイトから、“Law School生”全体の像を類推するのも危険と言えば危険なんだけど。

Law School生に典型的な行動だと僕が(勝手に)感じているのは、先生が喋っていてもお構いなしに、自分の発言をかぶせていく振る舞い。特に、ある生徒が発言した後、先生がその発言にコメントしている最中、その生徒が再び喋り始めるケースが殊のほか多い。先生の言葉を制してまで、その生徒が主張するのは、往々にして、自分の発言の正当性。先生が、自分の発言に、少しでも否定的なコメントを始めようとするや、宛てられてもいないのに割って入り、「本当はこう言いたかったんだ」とか、「でもこういう見方だってできるはずだ」とか、とにかく、「彼/彼女の発言も“間違い”とは言い切れない」という線が確保できるまで執拗に食い下がる。そんな彼らの口癖は“but”と“right”。“But, but, blablabla”で、喋り始め、防衛ラインが確保できたと見るや、“Right.”で以て幕引きする。日本人の僕からすると、先生の言葉に“Right.”で答えるというのは、何とも失礼に感じられるのだが、まぁ、この辺は、単純に、日本語と英語の語感の違いなのかも知れない。

彼らの性向は、一見すると“aggressive”そのものなのだが、反面、少しでも自分が「間違っている」と言われることを極度に恐れる「弱さ」が滲み出ているようにも見える。自信満々でここまで勝ち上がってきたからこそのナイーブさというか…。

先生も、その辺りは重々承知していると見え、授業中、「この注意は、あなただけに向けているわけではないですからね。ほとんどの生徒が犯しがちなミスだからこそ、重点的に指摘しているだけ。今回は、そのミスを、たまたま、あなたが犯してしまったというだけのことです」なんてフォローを、これでもかとばかりに、差し挟んでくる。正直、「大変だなぁ…」と先生の側に同情してしまうほど。もっとも、クラスの中でも本当にデキそうなヤツらは、そんなフォローアップも不要で、間違いを指摘されれば、さらりと受け入れるだけのmaturityを持っているんだけど。

それに比べて、MPAコースの生徒はというと ― と言っても、今年組はほとんど知らないんだけど ―、総じて、良い感じに肩の力が抜けていて、そこまでガツガツと前に出て来るヤツは稀。まぁその分、総じて、いい加減だったりもするんだけど…(笑)

言わずもがなのことながら、一口に「アメリカ人」と言っても、業界が違えば、性格や言動は、いろいろと違ってくる、ということのようで。。
Maxwell School, Syracuse, mar 23, 17:07

Friday, March 5, 2010

wonkish?

プレゼン終了。

絵を使うなりして、できるだけわかりやすく説明しようとはしたんだけれど、いざ喋ってみると、audienceの退屈そうな反応は否めず。やっぱりwonkish過ぎたのか?? まぁそもそも、CDMに関する基礎的知識もおぼつかない人たちに、CDMの実態はどうなっているかという「応用編」の講義をしろ、という設定自体に無理があった気がしないでもない。ともあれ、英語でプレゼンする練習としては良い機会だった。

ちなみに、今日のPanel Discussionの担当教授によると、今日のプレゼンの様子を撮影したビデオ画像が、そのうち、Maxwellのwebにアップされるらしい。超適当な教授なので、本当に手間かけてそこまでやるのかどうかかなり怪しいと思うけど(笑)

というわけで(??)、NYC&DCの週末旅行に行ってきます。
Syracuse Airport, Mar 5, 15:08