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Sunday, May 24, 2009

The Best Places to Work in the Fed Gov't

The Partnership for Public ServiceというNPOがAmerican Universityと共同で実施した“Best Places to Work in the Federal Government”というリサーチの2009年版調査結果が発表されている。

その名の通り、連邦政府の機関を「働きやすい」順にランク付けしちゃおうという企画。279の連邦機関及びその下部機関が対象で、21万2000人以上の官僚へのアンケート結果を元に集計しているらしい。その数、実にSyracuseの人口の1.5倍。

14の小項目について各機関を評価し、その結果を得点化。それをもとに、総合的な「職員満足度」を算出している(相加平均化なのか加重平均なのかは不明)。ランキングは、「Large Agency」「Small Agency」「Agency Subcomponents」ごとに行われており、「Large Agency」のトップ10は以下の通り。

1. Nuclear Regulatory Commission
2. Government Accountability Office
3. National Aeronautics and Space Administration
4. Intelligence Community
5. Department of State
6. Environmental Protection Agency
7. Department of Justice
8. General Services Administration
9. Social Security Administration
10. Department of Commerce

ついでに載せておくと、14の評価項目はこんな感じ。

  • Employee Skills/Mission Match
  • Strategic Management
  • Teamwork
  • Effective Leadership
  • Effective Leadership - Empowerment
  • Effective Leadership - Fairness
  • Effective Leadership - Leaders
  • Effective Leadership - Supervisors
  • Performance Based Rewards and Advancement
  • Training and Development
  • Support for Diversity
  • Pay and Benefits
  • Family Friendly Culture and Benefits
  • Work/Life Balance
この企画、2003, 2005, 2007と行われてきて、今回が4回目。 実施しているNPO(The Partnership for Public Service)はナニモノ?? と思って調べてみたら、2001年にJustice Departmentを退官したHeymanというおじさんが、最近の国家官僚の質の低下を憂い、連邦政府が、かつてのような“America’s best and brightest”を引き寄せる場に甦ることを願って(そのことは国益にも適うと考えて)、同世代のおじさんたちと一緒に立ち上げた機関らしい。詳しくはこちらを。

中央政府の無能ぶりが連日のように報じられているのは日米に共通だが、「如何にすればうまく機能するか」という前向きな議論は、アメリカでの方が積極的に行われている気がする。この手の調査にしても、霞が関で同じことをやろうと思ったら、えらい騒ぎになるだろう(というか、たぶん出来ない)。そもそもの国の成り立ちの違いが一つの原因なのかもしれないが、仮にそうだったとしても、日本も真面目に考えないといけない時期に来ていると思う。
my home, Syracuse, May 24, 20:01

Wednesday, May 13, 2009

Japanese Soul Food –NYC #2–

NYといえば、一風堂(違う?)前回3月にNYを訪れたときには、行列が長すぎて断念したが、今回は、満を持して、空いていそうな夕方を狙って行ってみた。NY店には、去年の年末以来、2度目の来店。今回もいつもどおり(日本にいたときから)、「白玉」をいただいてきたが、日本で食べるのとまったく変わらぬ味に感動。たぶん「赤玉」も他の料理もそうなんだろう。ちなみにNY店は、ラーメンのほかに、夜には居酒屋的なメニューも出していて、日本で言うところの「一風堂」と、「五行」(←一風堂が展開しているダイニング)がくっついたような感じの営業形態になっている。

このお店、前回に来た時にも思ったのだが、店員さんの雰囲気が非常に良い。もちろん、繁盛しているからということもあるのだろうが、店内に流れている空気がすごくポジティブで、かつ、良い意味で「日本的」なのだ。

店員さんの構成は、ざっと見たところ、日本人半分弱、(日本語を流暢には話せない)日系人半分弱、日系人以外のアメリカ人少々。なので、店員さんの間でのコミュニケーションは、日本語がdominantというわけでもないのだが、流れている空気は明らかに日本のそれ。アメリカの普通のお店で感じる空気とは根本的に違うし、他のなんちゃって日本料理屋さん(失礼)の空気とも何かが違う。

「白玉」を啜りながら、何が違うんだろうと考えていたのだが、たぶんこれじゃないかと思ったのは、自発的かつ分権的な改善意欲の存在。見ていると、店員さん同士で仕事の仕方を教えあったり、何人かで集まって、料理の出し方を話し合ったりしている光景がときどき目に映る。そういう光景を通して伝わってくるのは、店員さんが、自分の店、自分の仕事を愛していて、上の人から言われるまでもなく、自ら進んで何かをより良くしていこうとしている姿勢。

また、「上から言われるまでもなく」とは書いたが、「チーフ」的な感じのお兄さん(僕より5つくらい上くらい?)もすごくいい。いつもにこやかに店内を歩き回りながら、決してきつい言葉は使わずに、しかし、こまめに、店員さんへの指示を出し続けている。そして、店員さんみんなが、彼のことを素直に尊敬している様子がなんとなく伝わってくる。

日本にいれば、こんな光景を見ても当たり前にしか感じないのかもしれないが、この国で見ると、ある意味新鮮で、「こういうのってやっぱ日本の良さだよなぁ」と妙に感心してしまう。組織に対して無批判に忠誠を誓うことが正しいことだとは決して思わないが、自らの仕事を愛する姿勢は、日本の美風であり、強みであるとも思う。楽しみながらそれをできるなら、もはや言うことはない。「最高」の一言に尽きる。

もちろん、みんながみんな、そんな楽しい仕事にありつけるわけではないし、どう考えても楽しめない(あるいは「愛せない」)仕事は日本にだってたくさんあると思う。が、少しでもたくさんの人たちの間で、「働く」ということに関する日本の美くしい感覚が受け継がれていってほしいなと、外から日本を見る者として、ふと思った午後だった。

my home, Syracuse, May 13, 14:22

Wednesday, May 6, 2009

Pork Cutlet on Rice

Economics of Science & Technology のtake home exam 2日目。とりあえず、日本語での下書きを終わらせ、現在、英訳作業中(なんだかんだ言って、このやり方が一番速いという結論に、最近、落ち着きつつある)。目下、3問あるうちの2問目を英訳中。今晩中に、2問目の英訳まで終わらせて帰る予定。うーん、あと一時間半はかかるかなぁ。。

今晩の夕食は同級生と一緒にMarshall Streetの怪しいnoodle houseに。Syracuseのような東海岸の田舎町には、この手の“なんちゃって”和風料理屋が氾濫している。リアルな和風料理屋は、残念ながら東海岸の田舎にはほとんどない。Albanyに行けば、本格的な日本料理を食わせる店があると聞いたことがあるが、片道2時間以上となると、他に何か用事でもなければなかなか行けない(そしてAlbanyなんかに用事はない。笑)。
  
ともあれ、その“なんちゃって”和風料理屋さんで、僕は「塩ラーメン的な何か」を食べたのだが、一緒に行った同級生の頼んだ"Bento"なる商品名の「弁当的な何か」の中に、「かつ丼的な何か」が入っているのを見て、無性にかつ丼が食べたくなった。彼女が食べている「かつ丼的な何か」には、そんなに惹かれなかったが、僕の頭の中は、「リアルかつ丼」でいっぱい。
  
僕の中で「かつ丼」と言えば、何といっても、東山御蔭東入ルの「おくだ」。まだやってるのかなぁと思ってググってみたら、無事、ひっかかった。が、「みぞれおろしとんかつ」の写真を見たら、ますますかつ丼(とんかつでも可)が食べたくなった。ちなみに、「おくだ」のすぐ隣にある喫茶店「ケニア」(←外装も内装も、全然、アフリカっぽくない)は、森見登美彦の小説『太陽の塔』に実名で登場する。森見氏、最近、どうしてんだろう?(←面識ないけど同い年) 万城目学は絶好調だけど。
    
こんな話を書いていたら、無性に京都に帰りたくなってきた。住んでた時間の長さで言えば、大阪>東京>京都の順なのに、日本を離れて一番思いだす街は何といっても京都。まかり間違っても、一番最近住んでたはずの東京ではない。不思議と言えば不思議だが、京都がそんなに恋しくなるのは、「奥さんの生まれ育った街だから」という理由にしておこう。きっとそうに違いない(笑)
Maxwell School, Syracuse, May 5, 27:11

Saturday, April 25, 2009

Japanese Failure on Wind Power Development

今週末は、Economics of Science & Technology のレポート執筆に専念中。「この20年間、なぜ日本は風力発電市場を拡大できなかったのか」という平成最大のナゾ(??)に迫っております。
  
一般的な日本人の感覚では、風力発電なんてのは、いまだに採算も安定供給もおぼつかない、遠い「未来」のエネルギー源、くらいのイメージで見られているんじゃないかと思うのですが、ヨーロッパ(特にドイツ、スペイン、デンマーク)はじめ、アメリカ(特にカリフォルニア)、インド、中国なんかでは、(それなりに国の補助を受けつつではありますが、)純粋に営利を目的とする事業会社・金融機関が市場に参入し、風車をバンバン建てていくような時代に入っています。下のグラフを見ていただければ、日本が、ドイツ・スペイン・アメリカに水をあけられ、インド・中国にも置いていかれつつある状況がおわかりいただけるかと(NEDO編『風力発電導入ガイドブック(2008年度版)』より拝借)。欧州の風力先進3カ国では、単に風力発電のシェアが伸びて良かったね、ということだけではなく、外貨をじゃんじゃん稼いでくれる風車メーカーも立ち上がっています。直接・間接を合わせると、風車業界全体で、かなりの雇用を吸収しているとも。そういった環境面以外の社会的便益も併せて考えると、日本が90年代にこの分野で逃したサカナは結構大きかったんじゃないか、と。ちなみに2006年には、世界の風車メーカー上位10社が、新設風車の95%を供給していましたが、その10社の内訳は、ドイツ4社、スペイン2社、デンマーク(ダントツ首位のVestas社)、アメリカ、中国、インドが1社ずつで、日本のメーカーはゼロ。他の環境技術では、軒並み上位に日本メーカーが顔を出しているだけに、風力に関しては、日本の弱さが逆に際立っていますね。
     
それにしても、この世界、とにかく間口が広くて奥が深い。調べていけばいくほど、自分の無知っぷりを思い知らされます。芋づる式に知らない情報を集め始めると、ほんとにキリがないので、「えいや」で割り切って書くしかないわけですが、こんな知識レベルでペーパーを書いてしまっている自分が、正直、嫌になってきます。技術政策の論文なんてのは、常にそんな矛盾との葛藤なのかもしれませんが…。とりあえず、今回の論文はあさって出さないといけないので、えいやであれなんであれ、明日中に書き終えるつもりですが、風力発電のお勉強自体は、その後も続けてみよっかなぁと、ぼんやり考え始めているところです。
Maxwell School, Syracuse, Apr 25, 26:30

Friday, April 24, 2009

What makes you happy?

池田信夫氏が、直近(4/24)のエントリーの中で、「19日の記事には驚くほどの反響があり、出版化の話まで来た」と書いている。

「希望を捨てる勇気」と題されたその記事の中で池田氏が述べていることをいくつか抜き書きすると、

日本の産業構造が老朽化しており、これを再編しないと衰退する、と多くの人が90年代から警告してきた。20年間できなかったことが、これから数年でできるとは思えない。

これから始まる長期停滞においては、少子化とあいまって、ほぼゼロが自然な成長率になるだろう。

日本は現在の欧州のように落ち着いた、しかし格差の固定された階級社会になるだろう。ほとんどの文明は、そのようにして成熟したのだ。「明日は今日よりよくなる」という希望を捨てる勇気をもち、足るを知れば、長期停滞も意外に住みよいかもしれない。幸か不幸か、若者はそれを学び始めているようにみえる。

といった感じ。
  
MSJの4月1日エントリーの中で、僕は、「「低成長社会」のモデルを練り直す(或いは、もっと精緻に作り込む)必要があるということではないか」と書いた。書きながら、「じゃぁどういう方向に向かっていけばいいのか」という点は自分でも答えを持ちあわせていなかったのだが、池田氏の19日の記事を読んで、望むと望まざるとにかかわらず、日本の向かっていく先はこういう方向なのかなぁという気がした。
   
昔から何となく思っていることだが、一般的な人間にとっての「幸福」は、物質的豊かさの絶対量よりも、その変化率との相関の方が強い変数なのではないだろうかという気がする。ここでいう「幸福」は、あくまで当の本人がどう感じているかということであって、その人のことを周囲がどう思っているか――セレブで羨ましいなぁと思っているか、貧乏でかわいそうだなぁと思っているか――は関係ない。実際、周囲からは「地位もお金もあって何も言うことないよなぁ」と思われている人が、実は、年がら年中、何かに思い悩んでいて、まったく人生を楽しめていない、なんて事例はよくあるし、逆に、途上国に遊びに行ったときに、物質的にはすごく貧しそうだけれど、日本では見たこともないような屈託のない笑顔を浮かべている子供たちに出くわすことも珍しくない。

もし仮に、僕のこの仮説が正しければ、人間は、或いは、社会は、物質的豊かさの絶対量こそ少なくとも、増加率が大きければ幸せに暮らしていける、ということになる。そしてこの「増加率」という指標と、池田氏言うところの「希望」という概念とが、強く相関しているように思うのだ。この二つの仮定が正しいとすると、三段論法で、「希望を捨てた社会」=「幸福ではない社会」ということになる。だとすると、池田氏の示唆する、希望を捨てて、なお住みよい社会、というのはどういう状態なんだろうか。
  
それは、要するに「悟りの境地」ということなんじゃないかと思う。つまり、通常、僕らが普通に感じているような(したがって、経済学においてもそれを目標変数としているような)世俗的な意味での「幸福」を追求するのをやめて、「心の平穏」だとか「無我の境地」だとかを追求することで、「住みよさ」「心地よさ」を得ようとする状態。言いかえれば、池田氏自身の言う通り「足るを知る」ということであり、更に言えば「諦念」の域に達するということだろう。
  
19日の記事の中で池田氏は、「希望を捨てる勇気をもち、足るを知れば、長期停滞も意外に住みよいかもしれない」と述べているが、これは「希望を捨てる勇気を持つ」ことのススメではなく、彼なりの皮肉、あるいは、変革に踏み切れない日本社会に対する諦めの現れであろうと思う。それが証拠に、今日の記事では、
この意味で今の日本が不幸なのは、富が失われていることより希望が失われていることだろう。
と述べている。
  
よほど奇特な人でもない限り、イケイケどんどんの昇り調子のときに「悟りを開こう」なんて思ったりはしない。「悟り」を開く人には「悟り」を開くだけの、止むに止まれぬ理由があるものだ。そうやって「悟り」を開いたところで、簡単に楽になれるわけではなく、「悟り」の後には、当然のこととして、禁欲的な生活が待っている。ここでやりたい方題やってしまっては、全く以て、何のために「悟り」を開いたのやらわからない。
   
社会が「希望を捨てる」ということは、一個人としてではなく、社会全体として、この「悟り」のフェーズに飛び込むということだ。一個人としてなら、「悟り」を開くことで精神的な平穏を得、かえって心地よく暮らせる人もいるのだろうが、それを社会全体としてやるとなると(かつ、国民の自由を保障したままでやるとなると)どのような結果がその先に待っているのか、正直、僕には想像がつかない。政府が積極的に旗を振って、社会をそちらの方向に先導していくことなんて、本当に可能なんだろうかとも思う。
  
ただ、最初の方にも書いたとおり、望むと望まざるとにかかわらず、また、政府の方針如何にもよらず、日本社会は自律的に、そちらの方向に進んでいかざるを得ない状況にさしかかりつつあるような気はする。そして、留学中に、(昔から読まないとと思いながらまだ読めていない)『市場・知識・自由』を、今度こそ読もうと思った。
Maxwell School, Syracuse, Apr 24, 12:13

Friday, April 3, 2009

Record Sales Growth of ...

明日〆切の "Economics of Science & Technology" のtake home exam を、なんとか無事終了。火曜日のエントリーで書いたとおり、結局、今週は、寝る間も削ってこの課題にかかりきりになってしまった。本来、そこまで時間を要する課題ではないと思うんだけども、英語で文章を書くのには、本当に時間がかかってしまう…。資料集めなどの準備の時間も含めると、ダブルスペース (一行おきに書くスタイル)でA4に8枚書くのに、延べ30時間以上はかかった計算になる。やれやれ。。
  
そんなわけで、体力的にはかなり消耗してしまったが(ただいま、若干、モウロウ気味。。)、課題の中身自体は興味深いものだった。今回の課題は、「政府資金で行われた研究の成果の民間企業への普及に関するアメリカの政策を評価せよ」というものと、「中国がより高度なR&Dを内製化できるようになるための方針を示せ」というもの。二問とも、この分野(技術政策)のど真ん中直球と言っていい問題。
  
前にも少し書いた気がするが、技術政策を論理立てて体系的に教えてくれるこの授業はpracticalで、非常に面白い。今学期、一通り勉強した後には、90年代以降の日本経済の低成長の元凶の一つともされる、近年の日本の技術政策を自分なりに解釈してみたいと思っている。論文にまとめられれば理想的なのだが(やるとしたら来年の春学期か)。
 
さて、このblogでは、日本国内のニュースは基本的に扱わないことにしているが、今日のYahoo! newsに非常にうれしいニュースが載っていたので、これまでの禁を破って(??)取り上げることとする。同記事によると、世界一おいしい餃子を世界一のお手ごろ価格で提供することで有名な(←以上は僕が勝手に書き足した内容)餃子の王将の先月の既存店売上高が前年同月実績を14.5%上回り、1967年の創業以来、最高の伸び率を記録したとのこと。WBCの日本優勝に勝るとも劣らない壮挙に、地球の裏側から、一人、快哉を叫んでいる。思い返せば、久宝寺口店、寺田町店、京都三条店、新橋店、水道橋店、西日暮里店と、僕の人生の傍には常に餃子の王将があった。ここアメリカでは、あの奇跡的ともいえる美味に触れられないのが残念でならないが、一年半後の再会に思いを馳せつつ、歴史的快挙に心から賞賛を送りたいと思う。
Maxwell School, Syracuse, Apr 2, 26:15

Wednesday, April 1, 2009

Slow Growth Society

韓国人の皆さんと、経済情勢の話をすると、皆、異口同音に 「日本の経済はrobust(堅調)でいいよね」 と言う。普段、日本のニュースに慣れ親しんでいる身としては、反射的に 「いやいやとんでもない」 と否定したくなるのだが、先様の状況を考えると、単純に否定すれば、逆に先方の気分を害するなと気づいて、喉まで出かかった言葉を呑む。そんな場面が今日もあった。
  
昨日付けのFinancial Timesに、面白い記事が出ている。欧米諸国では、アメリカのAIG騒動をはじめ、感情的とも言える世論の高まりが見られるのに対し、アジア諸国は、同様に急激な景気後退に見舞われながらも、奇妙にも平静を保っている、という記事。イギリス人かアメリカ人だろうと思われる香港在住のその記者は、この奇妙な「平静さ」の向こうに、アジア諸国の「自信」を感じ取っている。
  
日本からインドまでを、「アジア」の一言の下にひとくくりにするのには多少無理があると思うし、「平静さ」の源泉が本当に「自信」なのかどうかは甚だ怪しい(「過信」或いは「状況認識の甘さ」が源泉では??)とも思うが、欧米人がアジアをどう見ているかが示唆されているという意味では面白い。
  
この記事の中で、日本については、こう書かれている。
Even Taro Aso, Japan’s blisteringly unpopular prime minister, is blamed more for mispronunciation of Japanese than for his handling of the economy. If there is anger in Japan, it is not directed at bankers or fat cats, but at the once wildly popular Junichiro Koizumi, the former prime minister, who sold the country on the rhetoric of market reforms. Japanese are used to riding out difficult times. A boom for them is 2 per cent growth.(日本人は難局を乗り切るのに慣れている。何しろ、日本人にとって好況とは、2%の経済成長なのだ。)
「たかだか2%の成長でも「好況」だと実感できる社会」というのは、(インド人や中国人にとってだけではない)欧米人にとっても、驚きなのだ。
  
日本人と話をしていると、ときどき「スウェーデンのような社会を目指すべき」という意見を聞く。「スウェーデンのような社会」という言葉に込められている意味合いは人それぞれだと思うので、単純な議論はできないが、もしそれが「低成長でもそこそこ安定した社会」を意味するのだとしたら、日本は、(それなりの経済規模を持った国の中では)世界に先駆けて、既にそれを達成してしまっていると言えるのではないだろうか。

そのことの肯定的側面を強調するならば、日本人は、自国の経済システムの良さを、もうちょっと認めてあげてもいいということだと思う。日本から半年以上離れてしまっているので、肌感覚として、今の日本がどのくらい「冷え込んでいる」のかわからないが、最初の話に戻って、たとえば韓国と比べてみたときに、日本の経済の方がはるかに安定しているというのは否定しえない事実だろう。それは別に韓国との比較においてだけでなく、世界中のほとんどの先進国との比較において言えることだと思う。
  
否定的側面を強調するならば、「知らぬ間に目標地点に到達していたけれど、結局、あんまり幸せにはなれなかった」ということなのかもしれない。もしそうだとしたら、多くの人(多いのかな?)が理想として掲げている「低成長社会」のモデルを練り直す(或いは、もっと精緻に作り込む)必要があるということではないか。

いずれにせよ言えることは、諸外国との比較の中で、もっと冷静に自国の経済システムを分析・認識する必要があるということだろうと思う。今の日本人は、他国と比べればそこそこイケている部分の良さには気づかずに、「もっともっと」と欲しがる反面、本当に大切な部分についてはおろそかにしてしまっているような気がする。それは、経済のことに限らないのかもしれないけれど。
Maxwell School, Syracuse, Apr 1, 19:17

Sunday, March 1, 2009

Back to Syracuse

しばらくのご無沙汰でした。先ほど、4日ぶりにSyracuseに戻ってきました。再び、氷点下の世界にcome backです。。。

いつも思うことですが、普段しゃべらない人とおしゃべりすると、いろんな刺激をもらえます。今回の旅行でも、ネットワーキングのイベント中に出会った人に限らず、泊めていただいた先輩や、帰りの車に乗せてくれたクラスメイト(元NOVA講師)など、いろんな人とお話する中で、ここのところ、本とwebの世界に没入しきっていたアタマを、多少なりともリフレッシュすることがでました(英語も多少、上達した気がします)。
  
今回の旅行の中で、一番面白かったのは、CBO(Congress Budgeting Office/議会予算局)での話。CBOは、連邦議会 (主にthe Budget and Appropriations Committees/予算・歳出委員会) をサポートするため1974年に設立された組織で、予算案の作成支援、法案のマクロ経済影響分析などをやっています。日本でこれに対応する機関を無理やり探せば、衆・参の予算委員会調査室になりそうですが、規模も役割も○○も、根本的に違っています(…)。
  
CBOの名前は、Maxwellの授業でもよく聞くのですが、結局、どういう仕事をしてるのか、いまいちピンと来なかったので、今回、CBO訪問企画に参加してみることに。真面目に就活している同級生に交じっての物見遊山(?)訪問には、多少後ろめたいものもありましたが…(!?)
  
CBOの特徴としてよく指摘されるのは“non-partisan”という点。いずれの党派にも与さず、客観的視点から分析を施すことが、その役割であるとされています(←実際、法律にそう規定されている)。この点は、話をしてくれたCBOの分析官の女性(←アタマのキレそうな中堅クラスのお姉さん。Maxwell Alumni)が、何度も強調されていました。単に強調するだけでなく、その点を非常に気に入っているようにも、誇りに思っているようにも見えました。その話を聞いていた同級生たちも一様にCBOの魅力に引き込まれていたご様子。お姉さんの話し方がうまかったというのもありますが、確かに、政治に干渉されず、純粋に経済学の立場から、政治に対して助言できるというCBOの立ち位置は、公共政策を志し経済学を学んだ者にとっては、すごく魅力的ですよね。
   
ただ、組織として、多少too muchな感じがしないでもありません。少なくとも、日本には対応する組織がないのに、アメリカには、比較的小規模とはいえ200人超の組織が存在しているわけですから。ちょっと似てるかなぁと思ったのは、F1の開発チーム。彼らは、コンマ数秒を稼ぐために、ものすごい研究を積み重ねるわけですが、ドライバーが一回ヘマをすれば、数秒、数分のマージンなんて一瞬で吹っ飛んでしまいます。悪くすれば、そのままリタイアなんてこともざら。そんな前提の下でコンマ何秒に心血を注ぐF1のエンジニアという仕事をTVで見ていて、僕は勝手に、ある種の「虚しさ」を感じてしまうのですが、それと同種の虚しさがCBOにもあるんじゃないかと。結局、どれだけ精緻な分析を提出しても、受け取った政治家がその結果をうまく使えなければ(或いは、使わなければ)、分析は水泡に帰してしまうわけですから。
   
でも冷静に考えてみれば、予算や法案の審議をするとき、そもそも、マクロ経済学的分析をほとんど活用しない日本の国会審議のあり方も、怖いと言えば非常に怖いなと。結果的には無駄になることもあるにせよ、とにかく、審議を行うに当たっては、マクロ経済学的分析の実施を定型化しておくというのが、なんというか、プロセスとして「まっとう」なやり方なんじゃないかなぁという気がします。

また、局地戦で観れば、分析結果が「政治」に押し切られることも、ままあるだろうと思いますが、長期的にみれば、純粋に「政策」サイドからものをいえるCBOのような組織が存在していることが、「政策」vs「政治」の綱引きゲームの中で、「政策」サイドの発言権を強める働きは小さくないんじゃないかなと。(「政策」vs「政治」の話は、knj79君も2月2日のエントリーで書いています。)
  
なんて悠長なことを書いていますが、ホントはこんなこと書いてる暇はなくて、明日は、midterm testとassignmentの〆切が…。これから、(たぶん)明日の朝まで頑張ります。
Maxwell School, Syracuse, March 1, 20:13

Wednesday, February 25, 2009

How can we make domestic demand?

相変わらず、課題に追い込まれてはいるんですが、英語で追い込まれれば追い込まれるほど、日本語で何か読んだり書いたりしたくなるという困った癖が。「集中力、足りてないだけでしょ?」That's right...。
 
池田信夫氏のblogに、“日本経済のダメージはなぜアメリカより大きいのか”というエントリーが立っています。直近の日銀経済金融月報を引用する形で説明されていますが、これを、僕なりに噛み砕きつつ端的に書き直してみると
  1. 日本は、鉱工業全体に占める3業種(輸送機械、電気機械類、一般機械)の構成割合がアメリカよりも大きい。(日本:5割、米国:2割)
  2. これら3業種の輸出比率がもともとアメリカよりも高かったところに外需の減退が襲ってきた。
  3. 日本は、部品・素材の国内調達比率が高いので、外需の増減による第一次のショックが波及的・増幅的に国内生産全体にいきわたってしまう。
こんな感じかと。ここまでは完全にagreeなんですが、かねがね、池田氏が述べられている最終的な結論は、内需主導の方向に「製造業の産業構造」を変えないといけないというもの。それもロジックとしてはよくわかるんですが、じゃぁ、その内需主導の産業って具体的に何?って言うのが、僕には昔からずっとナゾのまま…。ましてやこの少子高齢化の時代に何があるんだろ?
  
こっから先は思いつきでしゃべってしまって恐縮なんですが、発想の転換で、外需のポートフォリオを増やすという戦略は描けないものなんでしょうか?まぁ、正直に言うと、今僕の頭の中にあるのは、内需主導への転換は諦めて、省エネ・新エネのインフラ輸出で食っていけないかということなんですが。各国の政策動向に強い影響を受けるという点でリスクはありますが、トレンドとしては、今後、ますます需要が増大していくはずですし、現に、この不況のさなかでも、米中は環境協力で合意をし、インサイトはめちゃめちゃ売れまくってるわけですよね…。あと、問題は、その産業が日本国内でどのくらいの雇用を生み出すか、ですが。

いかんいかん。妄想してしまいました。レポートに戻ります。
Maxwell School, Syracuse, Feb 25, 14:04

Tuesday, February 24, 2009

Departures

いまさら言う話でもないですが、昨日のアカデミー賞、『おくりびと』が外国語映画賞を受賞しました。僕は残念ながら、映画というメディア自体にあまり思い入れがないので、初めこのニュースを見たときは、もちろん嬉しくは思ったものの、それ以上の強い感情はなかったのですが、今日、クラスメイトから送られてきたyoutubeのトレイラーを観て、一瞬で撃沈。思わず3回くらい繰り返し観てしまいました。
 
わずか2分12秒のトレイラーではありますが、作品賞を受賞した"Slumdog Millionare"(→感想はこちら)との質の違いは歴然。ちょっと大げさに言えば、「映画」というジャンルでひとくくりにしてしまっていいのだろうかという気さえします。
  
『おくりびと』はまだトレイラーしか観てないので、あくまで一般論になりますが、映画・小説などのコンテンツものにせよ、料理にせよ、庭やお茶といった伝統文化にせよ、日本人の持つきめ細かな表現力は、この国(アメリカ)の人たちには、まず真似できないだろうと思います。よく言われることではありますが、住んでみて、改めてそのことを実感。それにはきっと理由があって、日本人の表現するモノは、基本的に、日本人の同質性に根ざしているから、つまり、日本人が共有している精神世界を前提として表現されているからではないかと。
  
たとえば映画について言えば、上映時間は、アメリカにせよ日本にせよ、普通2時間に限られているわけで、その中で、出演者に語らせられる言葉の数は、どうしても物理的な制限を受けます。しかし、「一言えば十わかる」という具合に前提を共有しているもの同士であれば、表面的には同じ数の言葉しかしゃべらなくても、実質的にははるかに深いものを表現できる。さらに言えば、言葉なんてなくても、ある景色を映すだけで、多くを伝えることすらできる。

そういう意味では、今回、『おくりびと』が嬉しいことにアカデミーを受賞しましたが、多くのアメリカ人は、この映画を、日本人が感じるのとはまた違った印象で観ているんだろうなと(有体に言えば、彼らは、日本人なら普通に感じられる要素のすべてを感じられているわけではないんだろうなと)思います。
    
一方で、文化にせよ、制度にせよ、世界を席巻するのは、前提なんてものを必要としない単純なタイプのものです。そういう意味では、この国(アメリカ)の持つ単純明快さは、日本人からしてみれば、非常に味気ないですが、同時にそうであるが故に、圧倒的な影響力を持っていることを認めざるを得ません。マクドナルド然り、Windows然り、株主資本主義然り…。

しかし、味気ない。非常に味気ない。そしてガサツ…。翻って日本を見てみれば、その同質性から来るセンチメンタルな守旧主義に、社会としての健全な前進を阻まれている部分が大いにあることは否定できません。しかし、そうであったとしても、その豊かな精神世界を決して失ってはいけないと、アメリカで『おくりびと』のトレイラーを観ながら、一人、思った夜でした。

そういう美しいけれどwetな文化と、社会の改革・前進を両立するのって、言うほど簡単じゃないってことはよくわかってるんですけどね…。
 
ともあれ、早く『おくりびと』の本編を観てみたいところ。1年半我慢するのはあまりに長すぎるので、こっちで観る方策を何か考えないなぁと思っています。

my home, Syracuse, Feb 23, 26:08

Tuesday, February 17, 2009

At the tone...,

最近、「bayaはただの環境オタクなんじゃないか」という疑惑が、SU周辺ではびこっているみたいなので、たまには、環境問題とまったく関係のないお話を書きます。
 
既に日本でも大きく報じられているかと思いますが、日本時間の昨晩、2009年のR1ぐらんぷりが東京・台場で開催されました。優勝は、吉本興業所属・大阪NSC出身の中山功太(28)。2007年冬頃をピークに、全体的なレベルの低下・大衆商品化が憂慮されて久しい我が国のお笑い業界でありますが、安易な「顔芸、物まね芸、インパクト芸etc.」に走らない、言葉の中身で勝負できる芸人が今年のR1を獲ったという事実は、この業界にとっても朗報なのではないかと思います。少なくとも、なだぎ武V2という、わけのわからん状況に終止符が打てて良かったなと。(←単にお前の好みだろと言われてしまえばそれまでですが。笑)
  
昨日のR1決勝での彼のネタは、まだ見れていないのですが、Yahoo! Japan によると、彼の代表作の一つである「時報ネタ」を披露したとのこと。「時報ネタ」も確かに有名ではありますが、中山功太と言えば、おそらく皆さんが最初に思い浮かべるのは「対義語ネタ」(「皆さん」って誰?)。しかし、ここで敢えて、「時報ネタ」を持ってきたのが、彼の勝因ではなかったかと。
  
「対義語ネタ」も、テロップをめくった瞬間にやってくる笑いには非常に心地良い「緊張の緩和」があるんですが、そのあとの彼の一言コメントがいかにも中途半端で、見ていると、えもいわれぬ残尿感に苛まれます…。「あれがいいんだ」とおっしゃる玄人筋のご意見もわからないではないですが、僕はまだその良さのわかる域には達していませんし、それに何より、中山功太本人にとっても、そんな、村上さん(決して春樹ではありません)みたいな位置に納まってしまうには、まだまだ若すぎると思います。
 
そういう意味では、言いっぱなし、コメントなしの「時報ネタ」を使ったのは、彼にとって、正解ではなかったかと。まぁ、単に去年のR1で「対義語ネタ」をやっちゃったので、今年は、他のネタをやらざるを得なかったというのが本音だと思うんですけどね(笑)
   
ちなみに、Yahoo! Japan の同記事によると、
ピン芸人日本一に輝いた中山さんは時報のネタを披露。「R-1のことだけ考えて6年間やってきんで。全然関係ないけどホットヨガに行きだしたんですよ」とギャグ混じりで喜びを語っていた。
とのこと。ほら、やっぱりこの人、コメントさせるとだめでしょ。。(←結局、言葉で勝負できてへんやん!!!)

というわけで、今日は環境問題と全く関係ないお話を書いてみました。これで少しは僕のオタク疑惑も晴れましたでしょうか??
Maxwell School, Syracuse, Feb 17, 17:30

Thursday, January 22, 2009

Speculation without Conclusion

池田信夫氏が、御自身のブログに、こんなことを書かれていました。 (下線は僕が引きました)

ハイエクが見抜いたように、大きな社会を維持するシステムとして唯一それなりに機能しているのが、価格メカニズムである。それは富を増大させるという点では人類の歴史に類をみない成功を収めたが、所得が増える代わりにストレスも増え、生活は不安定になり、そして人々は絶対的に孤独になった。会社という共同体を奪われた老人はコミュニケーションに飢え、派遣の若者はケータイやネットカフェで飢餓を満たす。

マルクスとハイエクがともに見逃したのは、伝統的な部族社会がコミュニケーションの媒体だったという側面だ。正月に郷里に帰ると、東京では出会ったこともない人々の暖かい思いやりにほっとするが、それをになっているのは70代以上の老人だ。やがて日本からこうした親密な共同体は消え、「強い個人」を建て前にした社会になってゆくだろう。それが不可避で不可逆だというマルクスとハイエクの予言は正しいのだが、人々がそれによって幸福になるかどうかはわからない。

僕的にすごくしっくりきたので、転載させさせていただきました。世間的にはリバリタリアンと目されている (と、少なくとも、僕は理解している) 池田氏らしからぬ発言だとは思うんですが。 (見る人が見れば、これはこれで池田氏らしい意見なのかもしれませんが、不勉強な僕にはよくわかりません)

社会が「進歩」していく過程で、昔ながらの「コミュニティ」は弱体化・希薄化を余儀なくされる。両者は基本的にトレードオフであり、僕らはその間でバランスを取っていくしかない (つまり、「どっちも」という選択肢はあり得ない)―― これは普遍的な真理だと思うんですが、このテーゼに対する向き合い方は、日本とアメリカでかなり違っている ―― 一言で言うと、アメリカの方が相当先を行っている ―― 気がします。

日本でも、過去に何度か (特に小泉さんの時代に) このテーゼに絡んだ激しい議論がありました。ユニバーサルサービスか、効率性向上かが争われた郵政民営化の議論もそうですし、日本的経営 (終身雇用&年功序列) から成果主義への変革論争もそう。わかりやすいところでは、プロ野球選手が大リーグに移籍しようとする度に持ちあがる下世話な議論 (賞賛すべき挑戦か、日本球界に対する裏切りか) も、その一例だと思います。

しかし日本の場合、これらの論争は、それぞれ独立した文脈の中で扱われがちで、その根底にあるはずの、「進歩」(←全面的に肯定的な意味では使ってません) vs 「コミュニティ(の維持)」という対立構造に関する認識は、ついぞ今日に至るまで、広く社会に浸透することのないまま来てしまっている気がします。

その点、この国(アメリカ)では、この対立構造がかなり一般的に共有されています。「リバリタリアン vs コミュニタリアン」 という思想界の (ゆえに一般人にはわかりにくい) 議論にとどまらず、その両者の価値観をほぼ体現するかたちで共和党と民主党とという二大政党があり、両党が、誰の目にも見えやすいかたちで(よりわかりやすくするためにPalinなんてマンガキャラまで登場させながら)論争を展開してくれる→ 対立構造に関する認識が社会全体に浸透する。この結果、現われてくる日米の違いはかなり大きい…。

なぜそんな違いが生まれたのかと言うと、何もアメリカ人が日本人より先見性があったからということではなくて、アメリカ人が、抜き差しならぬ議論を避けては通れない環境に置かれてきたから、というだけのことだと思います。それ自体、決してhappyなことではありません。しかし、Obamaが就任演説の中で"because we have tasted the bitter swill of civil war and segregation, and emerged from that dark chapter stronger and more united" と言ったように、禍福はあざなえる縄のごとし。雨降って地固まる。結果としていまここにある現状だけを見れば、この点において、アメリカが日本よりいく段か成熟しているのは否定できない事実だと思います。

自分でもどこに向かいたいのかようわからん議論を展開してしまいましたが、無理やり結論付けるならば、「アメリカの多くの内政問題(特に、国民間の対立)は、(少なくとも今の世代のアメリカ人たちが自ら選んだわけではない)この国の成り立ち・構造によるところが大きい」ということでしょうか。アメリカの内政のイケてなさっぷりを、僕ら日本人はよく笑いのネタにしますが(実際、いろいろイケてないのでしょうがないんですが)、僕ら日本人は、アメリカ人の一歩先をいっているから笑っていられるわけじゃなく、たまたま、アメリカの抱える難しい問題(の一部)を抱えずに済んだから、笑っていられる(或いは、笑っていられた)だけなんだということを、意識しておく方がいいんじゃないかと思った午後でした。

というわけで(←支離滅裂ですが)、今夜はアメリカ人たちと一緒にボーリングに行ってきます。ではでは。
Maxwell School, Syracuse, Jan 22, 20:28

Tuesday, September 9, 2008

「普通の国民」とは誰のことか?

今学期は、英語の授業(週3回)もとっていますが、今日の英語の授業のテーマは "What Part of NO Don't You Understand?" というもの。国によって「No」の言い方もずいぶん違いますよ、というお話でしたが、その中で紹介されていたのがこんな小噺。

ある月曜日、メキシコ在住のアメリカ人の車が故障した。彼が、現地の修理屋さんにもって行って「金曜日までに直してほしいんだけど、できる?」と尋ねたところ、メキシコ人の修理工は、「OK。金曜なら確実に間に合うよ」と答えた。さて金曜日、アメリカ人が、車を引き取りに修理屋さんを訪ねてみると、修理がまだ終わっていない。「出来ないなら出来ないと、なぜ月曜日に言ってくれなかったんだ?」とアメリカ人が尋ねたところ、メキシコ人が答えて曰く、「これは "happiness" の問題だ。月曜日に、僕が『間に合う』と答えたからこそ、あなたは月曜日、火曜日、水曜日、木曜日、そして今日と "happy" に過ごせただろ。来週の月曜日には、あなたはもう一度"happy"になれるよ。」

本当でしょうか?? これが本当なら、メキシコは、アメリカどころじゃなく、手ごわそうですね…。機会があれば、一度、乗りこんでみたい気もしますが。


さて、ここから先は、今日のPublic Budgetingの授業中に、ぼんやり考えていたこと。正直、まだあまりまとまってませんが。

Budgetingの先生は、最近、Indiana州から移り住んできた人で、彼女曰く、数年間彼の地に住んでいてた間に、同州の消費税は二度にわたって増税されたとのこと。また、授業とは関係ないですが、今年の総裁選を見ていても、Obama候補の公約の中には、ある種の増税策が含まれていることに気づきます。

増税万歳、と言いたいわけではもちろんありません。ただ、増税の是非に関する議論(もう少し正確にいえば、「どこからどれだけの税を集めるか」という、税体系にもかかわる議論)が、冷静かつ客観的にできる土壌がまったくない某国の状況は、どう考えても不健全だと思うのです。

―それは確かに正論だが、税の議論は古今東西を問わず、センシティブな議題の代表選手。世論への影響を脇においた客観的な議論なんて、そもそもの性質からしてできるもんじゃない。―

こういった反論がしばしば聞かれるところだとは思いますが、それを認めた上でも、米国と某国(てゆうか日本ですが)を比べたときに、税の議論のしづらさは違いすぎると感じています。(もちろん、日本での方が議論しにくい、という意味です。)

税率が上がるのを嫌うのは、アメリカ人も当然同じです。その点をついて、McCain候補は大々的にObama候補の批判を行ったりもしています。ただ、少なくとも、一定以上の教育水準にある市民(彼らは、その教育水準にともなった経済水準も享受しているわけですが)は、増税を頭ごなしに嫌うのではなく、その増税によって得られる政策効果を勘案した上で賛否を決めようとするrationalな姿勢を少なからず持っているように思うのです(そうでもなければ、野党の大統領候補が、選挙公約に増税を伴うプランを掲げるとは信じられないですし。)。

翻って日本はどうかと考えると、あの国においても、教育・経済の面で、いわゆる「中の上」(あるいは「中の中」)以上に位置する層については、税のことを、ある程度冷静に考えられる視点を持っていると、個人的には信じています(ここでいう「増税」が、間接税についての話であればなおさら。)。また、「中の上」以上の層の割合(人口比)が、アメリカに比べて格段に少ないということもまずないと思います。正確なところはわかりませんが、むしろ、日本の方が多いくらいではないでしょうか。

じゃ、何が問題なのかと考えていたのですが、僕の仮説は、それらいわゆる「中流」と言われる人たちの声を伝えるメディアが存在しないことが問題なのではないか、というもの。最近の(昔から?)日本のメディアは、往々にして、よりpoorな層にフォーカスし過ぎていて、メディアの話を鵜呑みにすると、日本では「格差社会」化が異常なスピードで進行しており(それ自体は、僕も否定しませんが)、いまや、ごく一部の「セレブ」と、その他大勢の「庶民」だけしかいない社会になってしまったかのような印象を受けます。

しかし、よく考えてみれば、その「セレブ」と「庶民」の間には、いわゆる「中流」層が、かなりの人口比率で存在しているはずですし、また、少なくとも経済の面で言えば、その層に位置する人たちの頑張りに、この国の発展が拠っているところは非常に大きいと思うのです。

であるにもかかわらず、なぜその人たちの声を直接代弁するメディアが日本にはないのか。なぜメディアは、よりpoorな層の声を代弁したがるのか(※ それ自体、悪いことではないが、多少偏り過ぎている、というのが僕の考えです。念のため。)。これに対する明確な答えは、今のところまだ持ち合わせていませんので、またちょっと考えてみたいと思います。


明日は(既に今日ですが)、9/11です。学内で、テロ防止に関するシンポジウムが行われるそうなので、行ってみようと思っています。

my home, Syracuse, Sep. 10, 27:00
(なぜか日付が9/9になってしまっていますが、9/10深夜の記事です。)

Friday, August 29, 2008

HSBCでのトラブル

金曜日は英語のクラスだけ。今日で一週間が終わりましたが、夏学期に比べると、いささか楽チンな気がします。こんなもんでいいのかと逆にちょっと不安でもありますが、またじきに忙しくなってくるのでしょうか。

さて、今日は、僕がHSBCで経験した、なんともいい加減な話を紹介します。

HSBCと言えば、その名を世界に轟かせる超一流銀行。なので、まぁ大丈夫だろうと思って普通に口座を作ったのですが、ここの対応が日本では考えられないくらいにいい加減です。こっちに来てからの彼らとのやりとりはこんな感じです。
  • 7月中旬…初めて支店を訪問。口座を開設。当時はまだホテル住まいで、どこに住むかが決まっていなかったので、「決まり次第、連絡するのでそれ以降に発送してほしい」旨、伝える。
  • 7月下旬…担当者に、メールで新住所を連絡するも返事無し。
  • 8月初旬…メールの返事が来ないので支店を訪問。カードはホテルに送られていたことが発覚。ホテルに確認に行くも、届いた痕跡なし。仕方がないので、古いカードは廃止してもらい、新しくカードを作ることに。
  • 8月6日…HSBCから手紙が届く。曰く、「古いカードは既に廃止しました。新しいカードは、間もなく(shortly)届きます。」
  • 先週…待てど暮らせど届かないので、支店を訪問。店員曰く、「あと1週間くらいで届くでしょう」とのこと。
  • 昨日…やっぱり届かないので電話をしてみたら、「あなたのカードは廃止された後、新たには発行されていません」とのこと。文句を言ったら「とりあえずお店に来て」とのこと。
  • 一時間後、支店を訪問。窓口のおばちゃんに聞くと「ここではわからへんから、本部に電話してみて。」とのこと。(あり得ん。。。) 電話をしてみたら「あなたの新カードは、再びホテル宛に送られています。」(どっちやねん。発行されてへんのとちゃうんかい。。。) 「それを廃止して、新しいカードを新住所宛に送るので、あと7~10日待ってください。」
  • この間、まともな謝罪は誰からも一度もなし。。。

てな具合です。まぁいい加減な国だとは聞いていたのでこんなもんなんだろうと思っています。こっちも人間がいい加減にできているので、それほどストレスではありません。もちろんムカつきましたが、10分もすれば、おなかがすいてきて忘れます。

じゃ、なぜわざわざこの一件を書いたかというと、HSBCはなんでこんなにいい加減なのに、世界の一流銀行であり続けていられるんだろうかと素朴に思ったから。逆に言うと、なぜ日本の銀行は、あんなに顧客対応もちゃんとやっているのに、こんないい加減なやつらから、「非近代的」呼ばわりされないといけないのか、と。

でもよく考えてみると、「なぜ日本の銀行は、あんなに顧客対応もちゃんとよっているのに」という発想自体があんまり科学的じゃないんだろうと思います。HSBCが、そのいい加減さにもかかわらず、一流銀行であり続けていられている理由はたぶん簡単で、銀行の儲けの良し悪しは、残念ながら、顧客対応みたいなところでは決まらないから。顧客対応に力を入れようが力を抜こうが、銀行の儲けにはそんなに大きく響かないんじゃないかと思います。少なくとも、この国ではそうですし、日本でも実はそうなんじゃないでしょうか…?

だからと言って、顧客を邪険に扱っていいとは思いません。儲かる・儲からないにかかわらず、お客さんを大事に扱おうとする日本の文化はもちろん大好きです。ただ、「目の前のお客さんを大事にしていれば、きっといつか良いこと起こるはずだよね。」という逆向きのロジックは、非科学的だと言わざるを得ないと思うんです。そういう「コツコツやってればいつか絶対いいこと起こるはずだ」信仰が、日本人は強すぎる気がしてきました。コツコツやるのは大事ですが、その努力が効率的かどうかを科学的・客観的に分析することも同じくらい重要なはずです。日本には、後者の「分析」が足りていない。そのことが、日本の長時間労働社会の一因になっているような気がします。まだ"just an idea"ですが。

さて、今日から3日間、Bostonに遊びに行ってきます。車で行くのはまだ怖いので、片道7時間のバス旅です。またこのブログでも報告します。では。

my home, Syracuse, 14:51