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Friday, June 4, 2010

renewed career goal

純粋だった23歳の頃に比べればいろんなことを知ってしまった一方で、何かを達観するにはまだまだ知らないことが多すぎる31歳の今日この頃、この先のcareer goalをどこに設ければいいんだろうかと、改めて考えてみた。というと、記事の内容に比べてちょっと大仰すぎる気もするが。

留学の二年間も含めれば、「環境」の世界で一応、9年間やってきたことになる。今の僕が、「どうしても生きる世界を変えたい」という欲求を持ち合わせていない以上、この先も「環境」という分野で仕事をしていくことには変わりはないだろう。

問題は、その中で何を追い求めていくかである。それを考える上で、温暖化問題に対する自分の立ち位置を認識することは、この時代に「環境」分野で生きていこうとする人間にとって、避けては通れないステップ。では実際、僕自身、どうかと言えば、温暖化問題を全て「陰謀論」で説明しようとする向きには与せないけれども、温暖化問題を巡る世界の動向に陰謀的な要素――温暖化問題を利用して、自国に有利な状況を作りだそうとする動き――が皆無だと決めてかかるのもナイーブに過ぎると考えている。世の中の凡そ全ての事柄がそうであるのと同様に、温暖化問題も、100%本当でもなければ、100%嘘でもない、リアルとフェイクの入り混じった灰色の世界と考えるのが健全であろうと思う。

一方で、二年の留学期間を経て、僕の中での「日本」或いは「国」というものに対する考え方が、それまでとは、少し違ったものになってきたのも事実。「腐っても鯛」ではないが、いくら20年来の停滞の中にあるとはいえ、日本は未だに歴とした大国だし、その国の国民であるという事実だけで、異国の地にあっても様々なbenefitを利用させてもらえるということを、初めて外国で暮らしてみて、つくづく実感した。と、同時に、この「鯛」ステイタスは、放っておいて維持できるものではないということも強く感じている。「鯛」になるための椅子が限られた数しか用意されていないのであれば、他を押しのけてでも、確保すべきものは確保しにいかなければならない、と。

ありがちな言い方で言えば、「国益」vs「地球益」みたいな話なのかも知れない。そこでどういう立ち位置をとるべきかだが、どちらか一方だけを追求するという答えがあり得ないのは言うに及ばず、単純に、「国益も地球益も両方とも大事」という答えもないなというふうに思う。というより、それはそもそも答えの体を成していないと。

両方ともを十全に追い求められるのであれば、そんな結構なことはないわけだが、それが出来ないからこそ、皆苦労しているのであって、単純に「両方とも」と言うだけでは、実質的に何も言っていないのに等しい。問われるべきは、両方を十全に満たす選択肢などそもそもあり得ないという前提の下、では、どのラインで折り合いをつけるのがもっとも適切かという問であろう。

advocateとしてならともかく、行政の立場で環境問題に携わる以上、なすべき仕事は、闇雲に環境の価値(上の話で言えば「地球益」)を唱えることではなく、もっとも適切な折り合いラインがどこにあるかを見極め、それを実現していくことではないかと思う。それこそが、「プロ」の仕事なのではないかと。

そういうことを、この先、一生かけてやっていけたらいいなと、このところ、考えています。“career goal”と呼べるほど、大したものかどうか、わかりませんが…。
my home, Syracuse, June 4, 22:48

Thursday, April 22, 2010

Half of the Administrator's Skill 

outernationjpさん、いつもながら含蓄溢れるコメントありがとうございます。じっくり咀嚼させていただいた上で、改めて返信させていただきます。

さて、そのouternationjpさんがコメントを付けてくださった、前回エントリの続編を。続編とは言ってみたものの、spin-offと言うべきか、はたまた単に“思考の残滓”とでも言うべきか、その辺は書いてる本人もよくわからない。

昨日のエントリにも書いたとおり、ざっくり言って、行政官の仕事の半分は「弾を作る」(=政策案を考える)ことで、残りの半分は「弾を撃つ」(=考えたことを組織の内外で通す)ことだと思う。これも昨日のエントリに書いたことだが、いわゆる公共政策系の大学院で教えてもらえるのは、基本的に前者(=弾作り)の方。後者(=弾撃ち)っぽい授業も、一応、ないわけではなくて、うちのスクールで言えば、MPA必修の“Public Organization & Management”なんてのは、まさしく、弾の「撃ち方」を教える講座なんだろうが、実際に5年も6年も職場で働いてきた人間からしてみれば、瞠目に値するような「撃ち方」メソッドはそれほど教えてもらえなかったように思う。毎回の授業自体はそれなりに楽しんでいた気がするが、振り返ってみて、「その講座で何を得たのか?」と聞かれれば、やや答えに窮するかなと。まぁ、最初の学期に受講したので、こちらの英語力が拙すぎて聞き取れていなかっただけ、という可能性は否定できない。

留学中、日々、「弾作り」のことばかりを考えて暮らしていると、「弾撃ち」の方もしないといけない日常に戻るのが、正直、億劫にも思えてくる。前者が、理論的に物事を整理し、本来ありうべき方向性を予測・提示する領域だとすれば、後者は、せっかく前者がきれいにまとめた「方向性」を、いじくりまわした挙句に骨抜きにしてしまう、おそろしーぃ魑魅魍魎の世界――そんなイメージが1mmもないかと言われれば嘘になる。

しかし、そんなふうに、「理屈で論じられる世界」と「それ以外」とか、「本筋」と「ノイズ」みたいなかたちで、「弾作り」と「弾撃ち」を捉えてしまうのではなくて、両方とも、「行政官に絶対必要なスキル」として、同列に並べた上で、「たまたまアカデミズムに馴染んだ方」と「たまたま馴染まなかった方」というふうに捉え直せば、見え方が違ってくるのではないか。後者については、大学(院)で学べないとは言え、行政官にとって必要であるという点では、前者となんらかわりはないのだから、“それ以外”という形で消極的に捉えるのをやめ、(ディシプリンとまでは言えないまでも)一つの「スキル群」として捉えたうえで それを有自覚的に、また、体系的かつ科学的に、習得しようと試みれば、職業人としての成長効率を高めることができるのではないか。

そんなことを、Comparative Foreign Policyの授業を(聞くともなく)聞きながら、考えていた次第。我ながら、『あなたを変えるナントカ力』的なビジネス書に出てきそうなメッセージみたいで、若干気持ち悪いんですけど…。
Maxwell School, Syracuse, Apr 22, 27:10

Friday, April 16, 2010

America's Great Outdoors

最近巷で話題(?)のWashington Post紙の報じているところによると、16日、Obamaクンが、“America's Great Outdoors initiative”と称する自然保護政策の再編計画(ただし今回は荒々のビジョンだけ)を発表したとのこと。

この手の政策に、大統領自らが、わざわざ記者会見を開いてまで、コミットメントを表明するというのは、僕ら日本人からすると、些か違和感のある話なのだが、実際には、Obama自身が会見の中でTheodore Rooseveltに触れていた通り、この国の歴史の中では、国立公園政策が、しばしば大統領肝煎りの案件として登場してくる。そうした実績を持つ大統領としては、TRの他にもFDRやアイゼンハワーなどがいる。

それほど詳しく歴史を調べたわけではないが、この国における“国立公園”制度には、日本のそれにはない、独特のテイストが込められているように思う。

米国版国立公園制度(というか、それが“本家”ですが)の、そもそもの目的は、手付かずの自然の残る未開拓の土地を、国(=連邦政府)有化することによって、アメリカ国民全員の「公園」として保護すべしというものである。その根底には、この国特有のfrontier spirit――当然それは、この国一流のpatriotismにも繋がる――が横たわっていて、少し大げさに言えば、YellowstoneやYosemiteは、(どこの州、どこの地域の出身かに関わらず)この国の人たち全員が共有する“自分たち”の歴史の、重要な構成要素になっているんじゃないかという気がする。言うなれば、日本人にとっての京都や奈良のように。   

というわけで、そもそもの出発点からして、国立公園政策に懸ける国民の“気合い”が全然違うと思うのだが、それに加えて――これも、その“気合い”によるところが大きいのであるが――、園内の土地を基本的に全て「国有化」してしまったという点も、非常に大きな違いであるように思う。その結果、国立公園地域を単なる「保護エリア」「規制エリア」として管轄するのではなく、文字通りの「公園」として、政府自らが、観光業も含めた「経営」に乗り出すことができるし、それによって、それなりにたくさんの雇用を生み出すこともできる(cost/benefitが良いかどうかは別問題。この点、確か、Milton Friedmanが、『資本主義と自由』の中で論じていた気がする。未読。)。

実際、DC近郊のShenandoah国立公園は、FDR肝煎りのjob creation programであるCivilian Conservation Corps (CCC) の一環として整備されたものであるし、今回のObamaイニシアチブにもそのような性格が込められていることは言うまでもない。こういった政策は、国立公園内の土地が必ずしも国有化されているわけではない日本のような国では、なかなか難しい(やったとしても、ちょろっとしか効果が出ない)のではないかと思う。

というわけで、アメリカの国立公園が素晴らしいのは言うまでもないし、その分野の仕事に携わる人であれば、誰しもが憧れを抱きたくなるのは非常によく理解できるのだが、同じ「国立公園=national park」を名乗っていても、日本のとアメリカのとでは、そもそもからして、成立ちや性格が大きく違うし、そのように違った性格を持つに至った背景には、両国の発展プロセス(=“歴史”)の違いが大きく関係しているので(→ 要するに、政策レベルでどうこうできる問題ではない)、ここは潔く、「別物」と捉えて、日本は日本なりのやり方を探す方が現実的なのではないかという気がする。実際、それを模索してらっしゃる方も多いと思うんですけど。

そういう意味では、むしろ、ヨーロッパ各国がどうしているかを勉強する方が、プラクティカルなんじゃないかとも思うのだが、寡聞にして、欧州の国立公園政策事情などというものについては、これまでのところ、何の知識も持ち合わせていない。どなたか詳しい方がいらっしゃれば、教えていただければ幸いです。
Maxwell School, Syracuse, Apr 16, 16:58

Tuesday, April 13, 2010

Interview #2

昨日は、NYSERDA(New York State Energy Research and Development Authority)へのインタビューに行ってきた。
  
“Advance innovative energy solutions in ways that improve New York’s economy and environment.”をミッションに掲げるこの組織は、州法に基づき1975年に設立されたNY州政府の一機関。元々は、化石燃料の消費を減らすためのR&Dに特化した研究機関だったのだが、時代が下るにつれ、行政的役割も担うようになってきている。州のRPS Programにおいては、“the central procurement administrator”、つまり、公募を主催し、発電事業者から再生可能エネルギー電力(厳密には、“再生可能エネルギーで○kWhの電力を発電しました”という実績に伴う権利のみ。物理的な電力は、別途、電力市場に売りに出される)を買い取る役割を担っている。

先週、NYISO(こちらは、電力系統の運用・電力市場の運営などに責任を負っている)にインタビューに行った際、“RPS? So what??”的な反応を返されたという話をその日のエントリに書いたが、今回は、期待通り(?)にその真逆で、“Transmission? So what??”的な反応が分かりやすくも返ってきた。

彼らの発想並びにスタンスは、「RPSの目標達成上、transmissionのcongestionが深刻なbarrierとなる可能性は想定していない」というもの。文字通り、「想定していない」といったご様子で、NY州のtransmission事情についてなら、むしろ僕の方が詳しいんじゃないかと思ったくらい。もちろん、応対に出ていただいた方の専門分野ではなかったから、ということもあるのかも知れないが。

実際のところ、transmissionの問題が、今後、どの程度、再生可能エネ普及の足枷になるのかは、よくわからないところがある。直接的に知りたければ、再生可能エネ発電事業者のコスト構造を覗かせてもらうのが一番なのだろうが、何社かにインタビューの依頼を出してみたものの、これまでのところ音沙汰なし。まぁ、元々、ダメもとのつもりで出していたお願いなので、無視されたとしても無理はない。

むしろ、論文の中では、そういった不確実性――この場合で言えば、「transmissionの問題が再生可能エネの普及にどの程度の悪影響をもたらすか」、より具体的には、「transmissionのcongestion chargeの値上がりがどの程度発生し(厳密には、「発生すると予測(expect)され」)、それが、RPSのbid価格をどの程度上昇させるか――を可能な限り絞り込むための努力を行政の側ができているかという点と、それでもなお残る不確実性が、制度上、適切に扱われているか、という点にフォーカスを当てるべきかとも思う。PSC、NYSERDA、NYISOという、関連する三機関の責任分担構造にも絡めつつ。

というような話を昨日の夕方にはアップし、その勢いで、論文の執筆に取り掛かろうと思っていたのだが、昨日の午後は、クリエイティブな方向にアタマを働かせる気力が出ず、だらだらとInt'l Trade Lawのリーディングをして終わる。慣れない長時間運転の疲れのせいもあったとは思うが、論文漬けの生活に、若干、疲れが出ているのも事実。たかだか、1セメスターのことではあるんだけれど。

いろんな意味で(もう一つくらいの意味しかありませんが…)、ちょっと運動した方がいいかもなぁ…。
my home, Syracuse, Apr 13, 11:14

Saturday, March 20, 2010

bureaucratic web designology

いつもblogを拝見させていただいている、某省からの留学派遣の方が、某省webサイトの問題点をいろいろ指摘しておられる。いつもながら非常に御尤もな指摘で、感心しながら読ませていただいた。(勝手にリンク張っていいものかどうかわからないので、とりあえず、リンクはなし。)

問題は、その某省webサイトは、日本の官庁webサイトの中では、(僕の印象では)比較的(あるいは「かなり」)良くできた方に分類されるということだ。といっても、僕が、とある必要に迫られて、各省webサイトを覗いて回っていたのは、今から2年以上も前のこと。その後、各省が、当時のままの(総じてイケてない)webサイトをそのまま墨守しているのかどうかはわからない(というか、知らない)。ただ、少なくとも、その某省さんのサイトだけが、官庁webサイトの中で群を抜いて劣っているなんてことはあり得ないとだけは確実に言える。(民間企業広告の話は、ともかくとして。)

「お役所」という存在には、万国共通のある種の「どんくささ」が付きまとう。去年の夏と秋、日本国外の公的機関でインターンをさせてもらったが、日本との違いも見えた反面、「やっぱり役所は役所だな」という印象も大いに持った。良い意味でも、悪い意味でも。

webサイトにしても、夏のインターン先(某機関のローカルオフィス)のものは、はっきり言ってひどかったし、秋のインターン先のものも、日本のカウンターパートのそれと比べてどっこいどっこい(見せ方という意味で。情報量は、日本のより断然スゴい)。ただ、夏インターン先のヘッドクォーターのサイトは、一応それなりに洗練されているし、秋インターン先のwebサイトも、トップページと、その一つ下くらいまでは、一応、きれいに仕上がっている。その点、トップページを開いた途端に、情け容赦のない文字の洪水が押し寄せてくる日本の官庁webサイトとは、小さいながらも実質的な違いがある。

要は、そこに時間とお金をかけるかどうかという話なので、とどのつまりは、組織(或いはそのトップ)の「哲学」や「価値観」の問題なんだろう。効果のほどを数字でスパッと言い表せるものではないだけに、この組織カルチャーを、ボトムアップで変えていくのは、おそらく容易なことではない。
Maxwell School, Syracuse, Mar 20, 18:51

Monday, March 8, 2010

revolving door

城氏のこのblog記事を読んで、アメリカの官僚機構のことを考えてみた。

アメリカの官僚機構(とりわけ連邦政府)を「成功例」と看做せるかどうかは甚だ疑問だが、城氏のいう“序列ではなく成果に応じてキャッシュを支払う年俸制”に、近いと言えば近い形態をとっていると思うし ― あくまで日本の官僚機構との比較という意味においてであって、米国内の他の民間業種に比べれば、なお“安定的”かも知れない ―、“改革の推進者”とは言わないまでも、少なくとも、改革に対してニュートラルではあり、多くの場合、“抵抗勢力”としての毒牙は抜かれているように思う。CIAとか、DoDとかは、またちょっと話が違うんだろうけれど。

僕は日本とアメリカのケースしか知らないので、これら二か国で見られる以外のスタイルの「官僚機構」が存在しうるのかどうか、知識もアイデアもないのだが、この二か国のケースを対比して見ている限り、「機構自体に色・考え・方向性を持たせない」ことと、「機構に推進力・積極性・自発性を発揮させる」ことの間には、いわゆるトレードオフの関係が存在してるように思う。言うまでもなく、日本は前者が×(機構自体が独自の方向性に固執しがち)で後者が○、アメリカはその逆である。

アメリカの官僚組織というのは、日本のそれに比べて、確かに「抵抗」の度合いは弱いが、その代わり、政治に方針決定の下駄を預けてある分、組織内にはある種の「諦念」が漂っており、推進力・積極性・自発性といった性質に乏しく、いわゆる「お役所」のイメージ通り、粛々と仕事を「こなして」いる印象がある。政権が代わって政策の方向性が変われば、具体的に「やりたい政策」のイメージを持っている人ほど、役所を出て、シンクタンクなどに転身して行きがちなので(いわゆる“リボルビングドア”)、その傾向は、ますます強くなるのかも知れない。

理想的に言えば、日米の官僚機構の良いとこどりのような組織ができればいいのかも知れないが、よくよく見てみると、両者の雇用慣習は、結構根本的なレベルから違っており、単純に、足して二で割ったような形が実現可能なのかどうなのか、何ともよくわからない。

僕自身の留学期間は、残り僅かとなってきてしまったが、まだ時間のある方々、この辺り、調べられてみれば面白いと思うし、日本への貢献の度合いも少なくないのではないかと思います。
my room, Syracuse, Mar 8, 23:06

Tuesday, February 9, 2010

The evolution of DC Metrorail, 1976-2010

久々の鉄オタネタを。DC地下鉄網の変遷(1976~2010) via Chart Porn
折からの財政難を受け、WMATA(ワシントン都市圏交通局)は、今年7月以降、営業路線の縮小を予定しているらしい(参照)。このサイトは、それによって、DC地下鉄網が如何に「後退」するかをビジュアル的に伝えるためのもの。

週末は、Yellow Lineでの“ポトマック川越え”が出来なくなるらしい。ペンタゴン周辺とかアレクサンドリアに住んでいる人たちにとっては、ダメージは確かに大きそうだが、正直、それ以外の人にしてみれば、Yellow Lineなんて滅多に乗らないわけで、この措置が、WMATA(ひいてはWashington市)の財政難状況に鑑みて、「やむを得ない」ものなのか、そうは言ってもやっぱり「やり過ぎ」なのか、そこのところは、正直よくわからない。

実際に毎日Metroに乗っていた身からすると、運行本数の削減の方が、総体的なダメージは大きいような気がする。今でも、週末の運行本数の少なさは相当のもので、そうなると、正味の移動時間が計算できない(そもそも、「運転ダイア」なる概念はない。あるのは「運行間隔」だけ)ので、駅の近くに住んでる人でも「じゃぁ、車で行こうか」というふうになりがち。この状況が更にひどくなるわけだから、まさにジリ貧。運転本数の削減によって$8.5 millionの節約を見込んでいるそうだが、このあたりのdynamicな影響はちゃんと加味されているのだろうか。
   
ちなみに、DC地下鉄の乗り心地は、僕が知っているコミュータートレインの中では、文字通り「最悪」。阪和線が荒いとか、京阪が揺れるとか、そういう次元の問題ではない。しかし、路線を縮小するなんて言ってるくらいだから、あの乗り心地の悪さ――車輛のせいなのか、運転技術のせいなのかは知らないけれど――が改善される日は当分(永遠に?)やって来ないんだろうな。。
Maxwell School, Syracuse, Feb 9, 18:30

Thursday, January 14, 2010

Wrap-up PA&Law

PA&Lawの全日程終了。来週火曜日提出のwriting exerciseが残っているが、とりあえず、ほっと一息。

今週は、話がより具体的になって、アメリカ固有のテーマが増えたせいか、Crane先生のご専門である安全保障関連の話が増えたせいか、はたまた、Craneおじさんのハイテンションな話し方に若干の飽きが来たせいか――単純に僕のモチベーションの問題という説もある――最初の5日間に比べると、授業への入れ込み度合いが幾分下がっていた気がする。とはいえ、全体を通して見れば、2週間という短期間で、アメリカの法制度を一応一通り学ぶことができたわけで、大変効果的かつ効率的なコースだったと言える。

一通り受講し終えてみて思うのは、アメリカの政策というのは、「連邦-州」間、「立法-行政-司法」間で繰り広げられる、本気のpower gameの中で生み出されてきたものだということ。「本気」というのがポイントで、そこには、「予定調和」も「落とし所」もへったくれもない。

各主体は、自らの“power”の確保を第一目標に掲げて行動しているだけで、必ずしも全体の利益を考えて動いているわけではないが、“power”と“power”の相克が絶えざる緊張関係を生み出し、結果的に見れば、特定の方向への政策の「行き過ぎ」を、(中長期的には)回避できるシステムになっている。

逆に言えば、短期的には、ときに極めて非効率にしか機能しえないシステムだとも言える。Hurricane Katrinaへの対応なんかは、その最たる例だろう。言うまでもなく、すべての物事には良い面と悪い面があるわけで、問題は、何を選んで何を捨てるかということだ。瞬発的な効率性を犠牲にしてでも、「一個の人間」、「一個の主体」に、過度の期待を寄せることを避け、相互監視・権力分散を徹底するやり方は、ある意味、すごくアメリカらしいなと思う。繰り返すが、それが「良い」か「悪い」かではなく、単純に、「アメリカらしい」な、と。

同じく良いか悪いかは別にして、日本の権力構造は、アメリカのそれに比べれば圧倒的に、「中央政府の行政府」に寄っかかっている。昨今、「政対官」の話題は絶えないが、その文脈で言われるところの「政」は、普通、行政府に入った「政治家」のことを言っているのであって、所詮は行政府内部の話である。「行政府vs立法府」という話をしているわけではない(と少なくとも僕は理解している)。日本の場合、省庁間の権限争いが、ある意味での「緊張状態」を生みだし、政策の「行き過ぎ」を防ぐ機能を担ってきたのではないかという気さえする。

アメリカほど強力なものではないにしても、権力構造のどこかに、本気の「緊張関係」をbuilt-inしておくことは、政策の「行き過ぎ」を防ぐ上で極めて重要。この先の日本では、どことどことの対立軸が、その役割を果たしていくことになるのだろうか…。
Starbucks, Fayetteville, NY, Jan 14, 17:05

Friday, January 8, 2010

”Federalism”

PA&Law、一週目終了。

今週最後の授業のテーマは、Hurricane Katrina。連邦、ルイジアナ州、ニューオリンズ市、それぞれの政府の対応ぶりを通して、連邦と州・地方政府の権限demarcationを見ていこうという流れ。授業では、PBS(Public Broadcasting System)の看板ドキュメント番組“FRONTLINE”のKatrinaの回を観たのだが(ここからDLできます)、当時の関係者のインタビューを中心に問題点を炙り出していく構成で、なかなか見応えがあった。

月曜日のエントリーにも書いとおり、合衆国憲法修正第10条は、憲法に明文規定のない残余権限は州及び人民に留保されると定めている。このため、連邦軍は元より、連邦政府に属するあらゆる機関の活動は、Katrinaのような緊急事態時であっても、(あらかじめ具体的に法で定められている場合を除き)何をするにも、州又は地方政府からの要請待ちというかたちになってしまう。

一方の州や市はといえば、緊急事態の真っ只中にあって、「とにかくなんでもいいから助けをくれ」という、半ばemotionalな状態。こんな状況の中、demarcationに関する複雑怪奇な法解釈の話をするなんて、ほぼ不可能というもの。結果、後日、両者の話を聞けば、聞こえてくるのは、責任の押し付け合いみたいなコメントばかり…。(子)Bush政権下で冷遇に甘んじていたFEMA(連邦緊急事態管理庁)が十分に機能しなかったということなど、他のいくつかの要因にも言及されてはいたものの、何と言っても、連邦制のもたらす非効率のインパクトは相当大きかったようだ。

阪神大震災のときに兵庫県の自衛隊派遣要請が遅れた件を持ち出すまでもなく、同様のことは、日本でも当然に起こりうる。しかし、憲法以上には自治権の根拠を遡れない日本のような「普通」の国と、もともと主権を有していた「State」が、その主権の一部(あくまで一部)を切り出す形で連邦憲法を制定したアメリカのような連邦国家とでは、中央政府(連邦)と地方政府(州)のdemarcationを巡る複雑さ・面倒臭さのレベルが全然違うんじゃないかという気がする。

そんな状況の中、連邦政府が、国レベルで何か大きなことをしようと考えたならば、結局のところ、その論拠づけを、「国全体の安全」(=National Security)か、「合衆国建国の本旨」(=justice、liberty)(或いはその両方)に落とし込むしかないのかも知れない。そう考えると、この国の人たちが、何かにつけて「自由だ」「正義だ」「安全だ」と叫ぶ理由も、少しだけわかってくるような気がする。つまり、この国の強烈なpatriotismは、ある意味で、州権が強いことの裏返しなのではないかと…。

ともあれ、一週目の授業はこれにて無事終了。今日の午後は少し休憩をば。隣町のDeWittで、洗車して、髪切って、買物して、映画観て、まったり過ごそうと思います。
DeWitt, NY, Jan 8, 14:41

Wednesday, January 6, 2010

The Mandate of Executive Branch

授業3日目のテーマはExecutive Branchの権限について。この分野ではお馴染み(なんだろうと、勝手に推測してみる)の、FDA v. Brown & Williamson Tobacco Corp.事件やGonzales v. Oregon事件が触れられる。

「行政機関はその権限の下でどこまでのregulationを制定できるのか」といった議論の中で、とあるアメリカ人のクラスメイトが「Clean Air Actで温室効果ガス(GHG)を規制する」という例の一件に言及。以前にも書いたが、この動きは、2007年の最高裁判決(Massachusetts v. EPA)に端を発するもの。このコースで、米国法の基本を一応一通り押さえた上で、同判決を見直してみるのも面白いかもしれない。以前のエントリーでリンクを張っておいたBerkley Law Schoolの授業の動画を今週末にでも見てみようかと思う。

更に言えば、「行政の規制権限の不行使」が問われた裁判という意味では、水俣病関西訴訟も、基本的な構造は、Massachusetts v. EPAとよく似ているのかもしれない。Massachusetts v. EPAと併せて、こちらの裁判の最高裁判決も、もう一度読み直してみようと思う。
my room, Syracuse, Jan 6, 21:04

Tuesday, December 29, 2009

Considering previous exploits

San Franciscoに到着。暖かいくらいなのかと思っていたら、案外肌寒い。ただ今の気温、7℃。ちなみにChicagoの今の気温は-9℃らしいので、それに比べればだいぶマシ(笑)

Chicagoからの移動中、昔、自分が参加していた、とある勉強会の資料を読み直していた。一言で言えば、うちの組織の過去の業績を、諸先輩方の「語り」を通して振り返ってみるという趣旨の勉強会。実際に活動していたのは2~3年くらい前なのだが、改めて読み直してみると、当時は気付けなかった新たな発見もあって、非常に面白い。何かを体系的に勉強するなら本を読むのが一番だが、ある事柄について深く知りたいときには、とにかくその道のプロに話を聞きに行くのが一番の近道だなと改めて実感する(ただし、事前の準備はmust)。

当時とは少し違った感じ方をしている自分がいることにも気づく。環境問題というissueを、より相対的に見るようになった気がする。当時から、その気があったことは自覚していたが、当時と比べても、自分の中の「引っ掛かり」のようなものが薄れたのを感じる。迷いなく、「相対的なスタンス」をとれるようになったというか。それって、東京に戻った時にどうなんだろう…という気がしないでもないが、とりあえず今は、より大局的な見方が身に着いたということで素直に喜んでおこう。

先輩方の言葉の中には、今尚まったく色褪せることなく、そのまま実戦に使えるものもたくさんあるが、同時に、環境問題・環境行政が、ここ十年、十五年で、新たなフェイズに入ったんだということを印象づける言葉も見られる。その新しいフェイズの下、うちの組織はどういう仕事をしていけばいいのか。まだ十分なコンセンサスがあるわけではないし、僕自身も定見を持てているわけではない。ただ、少なくとも、組織として、これまでとは違った仕事の仕方も身につけていかなければならない時期に来ていることは強く感じる。そのためには、組織の「中」だけでなく、「外」にある知見からも積極的に学び取る姿勢が必要だということも。

組織の「中」にある知見を掘り起こすという意味では、当時の勉強会はそれなりに成功だったと思っているのだが、組織の「外」にある知見から如何にして上手に学ぶかは、新たな知恵の使いどころ。ad hocな交流の機会だけに止まらない、何か継続的な学びの「システム」を設けられれば理想的なのだが。
(経由地のLas Vegasの夜景。話の筋とは全く関係ないですが…)

San Francisco, Dev 28, 26:00PST

Sunday, November 29, 2009

Car sharing with city office

大阪人的には、箕面山の猿で有名な箕面市が、「市役所公用車のカーシェアリング化」に踏み切るとの由。以下、同市役所の報道発表より。
箕面市では、市役所本庁で使用している公用車の全て(23台)をカーシェアリングによる運用に転換するという全国的にも珍しい取り組みを、平成22年度からの5年間で実現します。

これにより、車両を有効活用した上で年間約130万円の経費が削減できるとともに、ハイブリッド車や電気自動車を配置することによりCO2排出量の削減にも寄与します。また、市民に気軽な外出手段と新たな利便を提供するとともに、福祉車両も配置し、車いす利用の家族とのお出かけ時などに新たな交通手段として利用できます。
なかなか斬新なアイデアだと思う。もともと、休みの日の公用車なんて車庫に停めてあるだけなんだから、単純に考えれば、カーシェアリングの利用率がどれだけ低くても、やらないよりは儲かるはず。運営事業者へのfeeや保険料の上乗せ分などを考えても、カーシェアリング単体で事業を実施するのに比べれば、損益分岐点をかなり引き下げることができるだろう。

カーシェアリング事業そのものについては、CO2排出削減の観点からもぜひ推進すべしといった議論が昔からあるが、同事業が本格的に軌道に乗ったという話はあまり聞いたことがない(アメリカではzipcarをちらほら見かけるようになってはきたが)。気候変動のようなlong-termの問題への対策が本格化するのは、よりshort-termの喫緊の課題(この例で言えば、箕面市の財政難(←たぶん))への対応と相乗りするようなときなのかも知れない。環境屋としては、そういった、ある意味での「チャンス」を逃さずに食いついていかないといけない、ということだろう(ただし、悪ノリは厳禁)。

というか、「お前、どこで暮らしてんの?」と言われそうな話題。いちおう、DCで暮らしています(笑)
my room, Washington DC, Nov 29, 18:45